デューク・エリントン

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デューク・エリントン
デューク・エリントン(1965年
基本情報
出生名 Edward Kennedy Ellington
別名 Duke Ellington
生誕 1899年4月29日
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ワシントンD.C.
死没 (1974-05-24) 1974年5月24日(75歳没)
ジャンル スウィング・ジャズ
職業 作曲家
ピアニスト
バンドリーダー
担当楽器 ピアノ
活動期間 1917年 - 1974年
デューク・エリントンを描いた記念硬貨

エドワード・ケネディ・デューク・エリントンEdward Kennedy "Duke" Ellington1899年4月29日 - 1974年5月24日)は、アメリカジャズの作曲家、編曲家、ピアノ奏者、オーケストラ・リーダー。

「デューク(公爵)」というニックネームは、子供の頃から自然な優雅さ、身嗜みを身に付けきちんとした服装をしていたことから、友人によって付けられた。

略歴

1899年、ワシントンD.C.で生まれる。父親は、著名な白人医師ミドルトン・カスバートの執事であり、時々ホワイトハウスへの仕出し業も行っていた。小学生の頃からピアノを習い始め、ハイスクールでは校内のパーティでピアニストとして活躍していた。同時期に音楽教師から高度な作曲理論を学び(私の音楽に対する勉強は、GフラットとFシャープの違いを学んだことからはじまったと回想している)、1916年ピアニストとしてデビューした。

その後ニューヨークに進出し、1927年にニューヨーク市マンハッタンハーレムにて高級ナイトクラブ「コットン・クラブ」を経営していたオウニー・マドゥン[1]がデューク・エリントンとバンド契約に至る[2]。マドゥンの考え方は、コットン・クラブのお客は全員裕福な白人、演奏するのは黒人ジャズメンというものだった。

エリントンの楽団は、カウント・ベイシー、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、フレッチャー・ヘンダーソン、スタン・ケントンらの楽団とともに、一大スウィング・ブームを巻き起こした。彼は1930年代から第二次世界大戦後にかけて、『A列車で行こう』(作曲はビリー・ストレイホーン)など、ジャズ史に残る様々な作品を世に送り出した。

1964年新潟市新潟地震が発生した際に日本公演を行っていた。地震の被害を知ったエリントンは次に予定されていたハワイ公演の予定をとり消して東京厚生年金会館にて震災に対する募金を募ったコンサートを開催した。その後コンサートの純益である96万円が新潟市に贈られ、再来日した1966年には新潟市より国際親善名誉市民の称号が贈られた[3]

エリントンが亡くなったのちも、彼が立ち上げたオーケストラは存続しており、2008年にも日本公演をしている。2009年コロンビア特別区から、エリントンとピアノをあしらった25セント記念硬貨が発行される。アフリカ系アメリカ人が硬貨に描かれるのはこれがはじめて。

受賞歴としては、映画『或る殺人』の音楽でグラミー賞3部門を獲得したほか、合計9回グラミー賞を獲得している。また、1969年にはその貢献が認められ、大統領よりアメリカ自由勲章が授けられた他、1973年にはフランス政府からレジオンドヌール勲章が授けられた。

代表曲

ディスコグラフィ(一部)

出典/脚注

  1. ^ アイルランド系のギャングだった
  2. ^ Duke Ellington Biography”. DukeEllington.com (Official site). 2021年2月1日閲覧。
  3. ^ デューク・エリントン ニイガタカラ.Net
  4. ^ 深い憂鬱な気分の意味

関連項目

書籍

外部リンク