ディスコ

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ディスコの店内(スペイン

ディスコdisco[注 1])、または、ディスコテークdiscothèque[注 2])とは、音楽を流し、飲料を提供し、客にダンスをさせるダンスホールである。

概要

音楽は、ほとんどの場合はレコードを流す。単にレコードを順番に掛けるだけの場合や、DJ(ディスクジョッキー)が現場に合わせた選曲を行ったり、曲紹介やミックス、スクラッチ(再生中のレコードの音程やタイミングを意図的に崩す演出)を行う場合も有る。生バンドが演奏する場合もある。

ディスコ音楽の場合、クラブでは、かつてニューヨークに存在した伝説的なゲイ・ディスコパラダイス・ガレージ[1]、ギャラリーなどでプレイされていた複数のジャンルの音楽を指し、ディスコはハウスガラージュ等と呼ばれる音楽の元となった音楽である。

電気楽器を主体として作られてきたディスコ音楽は、電子楽器を主体として作られる実験的なディスコ音楽であるポスト・ディスコの時代を経て、Hi-NRG、ハウス、テクノ等の電子楽器を前提とする新たなダンス・ミュージックを生み出して行った。2000年代にはデスクトップミュージック(DTM)が前提となり、世界でヒット曲を生み出しているエレクトロニック・ダンス・ミュージック(EDM)[2]でも同様である。なお、大阪のダンスクラブ風営法違反事件は最高裁で無罪が確定した[3]

90年代以降ディスコはクラブという名称に変わった。

歴史

起源・語源

ディスコの語源となったのはフランス語のdiscothèque[4]であり、マルセイユの方言で「レコード置き場」の意味であった。形態としては第二次世界大戦中に生バンドの演奏が困難となったナイトクラブでレコードを代わりに掛けるようになったのが始まりであり、第二次大戦後にパリにラ・ディスコテークと呼ばれるクラブが出現したことにより定着した。

本格的な発展

この生バンドの代わりにレコードを掛ける「ディスコ」(もしくはクラブという形式)が本格的な発展を遂げたのは1960年代以降のアメリカのニューヨークゲイ・シーンである。客層はゲイの黒人・ヒスパニック系などのマイノリティが主流であり、掛けられる音楽はファンクソウルミュージックや特にフィラデルフィア・ソウルと呼ばれる滑らかなリズム・アンド・ブルースや、それらをベースにした音楽であった。70年代半ばから世界的なディスコ・ブームとなり、ニューヨークの「スタジオ54」や「ニューヨークニューヨーク」などの巨大ディスコが人気となった。一方、ディスコはゲイ男性のための発展場としての役割とアンダーグランドな黒人音楽の発展の場としての二つの面を持っていた。こうしたディスコとして有名なものにパラダイス・ガレージ、セイント、フラミンゴ、ギャラリーなどが挙げられる。いずれもゲイの男性を対象としたメンバーズ・オンリー(女性や非メンバーはメンバーのゲストとして入場する事ができた)のディスコであり、ニューヨークでも特に進んだファッショナブルで流行に敏感なゲイの男性たちが集まっていて、流行の発信地でもあった。この中でもっとも有名であり、後世に影響を与えたのパラダイス・ガレージとそのメインDJラリー・レヴァンである。因みに1984年、パラダイス・ガレージと人気を二分したセイントでは、DJ・中村直が日本人として初めてレジデントとして迎えられた[5]

クラブ音楽の確立

現在のクラブ音楽の基本的パターンである、DJがヒット曲ではなく自らの個性を発揮した選曲で独特の世界を作り上げて客を躍らせるというスタイル、二枚のレコードをミックスして継ぎ目なくレコードを演奏するスタイル、既にある曲をリミックスしてダンス向きにする手法、クラブで掛けるためだけに製造される12インチのシングル盤といった形式などは、この時期にラリー・レヴァンやエンジニアのウォルター・ギボンズ達によって確立された。やがてラリー・レヴァンフランソワ・ケヴォーキアンなどの有名ディスコDJ達はレコードを発掘するにとどまらず、自らプロデューサーとして、ダンスのためだけに特化したレコードを多数リリースしたり、リミックスを手がけるようになる。ダンスフロアとダンサーの心理やツボを知り尽くした彼らは、それまでの音楽プロデューサーが思いもよらなかったような様々なテクニックやスタイルを導入した。こうしたダンス・レコードをリリースしてディスコ文化を支えたレコードレーベルとしてはサルソウル[注 3]カサブランカ[注 4]ウエスト・エンドなどが挙げられる。

日本へ輸入されたディスコは、このディスコ・ブームの時の白人大衆向けにサウンドを変更したものであり、黒人音楽の要素は非常に薄いものも多かった。

日本における歴史

黎明期:1960年代-1970年代前半

日本では1960年代にオープンした渋谷の「クレイジースポット」や新宿の「ジ・アザー」が最初とする説もある。中川三郎ディスコティークは複数の店舗を持ち、1965年にオープンし、GSのテンプターズらがライブ演奏をおこなった。中川は、給料の安い若年層が来やすいように、値段が安くラフな服装でも訪れやすいようにしてダンスの普及をした。しかし、一般的には1968年昭和43年)に赤坂歌舞伎町に出来た「ムゲン」[6](1968-1987)と赤坂の「ビブロス」がディスコの走りといわれている。ムゲンでは70年代半ばから、コンファンク・シャンがハウスバンドとして2年ほど演奏していた。エレキバンドが出す大音響の演奏にあわせて踊るゴーゴークラブゴーゴー喫茶が流行しており、ゴーゴーガール目当てに通う者もいたが、それらの店とは一線を画して主に芸能人やモデル、富裕層や外人客(米兵を含め)を主な客層としたことで、一気に時代を先んじた存在になった。当時の「ムゲン」は、渋沢龍彦三島由紀夫三宅一生加賀まりこ沢田研二安井かずみ前野曜子グッチ裕三などの時代の先端を行くそうそうたるメンバーで賑わっていたという。この頃は生バンドとレコードの両立であった。60年代のディスコはジェームス・ブラウンやテンプテーションズなど、本物のソウルをかけていた。1971年昭和46年)六本木にオープンした「メビウス」が、日本で最初にレコード演奏のみで営業した。これは生バンドの人件費を抑えるための方策であったが、結果的に現在のディスコやクラブと同じくレコード演奏のみのスタイルとなった。

地方でも、1967年(昭和42年)6月23日広島市中区鉄砲町に「JAZZ FIVE」が開店し、アメリカの最新の曲を流して、若者や米兵などから人気を集めた[7]

1975年-1979年(第一次・第二次ディスコブーム)

第一次のディスコブームは、1975年昭和50年)から1976年昭和51年)ごろにかけての時期であり、DDサウンドの「1234ギミー・サム・モア」などのディスコ・ヒットが誕生し、日本で商業的なヒットを出した。短い時期の空白があった後、1977年昭和52年)から1979年昭和54年)にかけて第二次のディスコブームが巻き起こった。それが1978年昭和53年)、ジョン・トラボルタ主演の映画 「サタデー・ナイト・フィーバー[8]」が日本公開されて大ヒットしたことで新宿渋谷、六本木、池袋などの繁華街に多数のディスコが開業した現象である。この映画のヒットで、世間の偏見による不良のたまり場というディスコのイメージがやや変化し、ディスコは大衆化した[9]。同名のサウンドトラックには、タバレス、イボンヌ・エリマン、クール&ギャング、KC&サンシャイン・バンド、トランプスらの楽曲が収録されていた。

また、1970年代終わりから1980年代初めにかけては、ディスコの定番となる曲が数多く生まれた時代でもある。Chicのような、本物のブラック・ミュージックも存在したが、多くはドナ・サマー[10]Bee Geesアラベスクジンギスカンなどは、本物の黒人音楽とは似ても似つかない、踊らせることだけが目的のサウンドだった。ヴィレッジ・ピープルのヒット曲「Y.M.C.A.」は、西城秀樹が若者向けポップス歌謡「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」としてカバーした。

テクノ・ポップのYMOは暴走族の邦楽アイドルにもなった。彼らの髪型はテクノカットと呼ばれる、もみ上げを鋭角にカットした刈り上げカットだった。また、ニューウェイブ・ディスコではマッドネススペシャルズなどのツートンスカも小流行した。原宿歩行者天国(ホコ天)でラジカセを囲み奇抜な衣装で踊る竹の子族が流行ったのもこの頃である。

この頃の東京を代表するディスコは、新宿の「ツバキハウス」、「ワンプラスワン」、上野の「ブラックシープ」などであった。しかしながら1982年(昭和57年)に刑事事件が発生したことも1つの原因となり、深夜営業の禁止・未成年者の入店規制など取締りが強化され、新宿のディスコは衰退した。

1980年代:シンセ・ディスコ時代

1980年-1984年(サーファーディスコ・ブーム)

この頃のディスコブームを象徴するのが六本木スクエアビルである。地下2階から10階までの12階中、1Fと4Fを除く全てのフロアがディスコになった。中でもNASAグループの「ネペンタ」「ギゼ」が人気店となる。六本木スクエアビル以外では、六本木「エリア」の前身である日拓系列の「マジック」、伝説的な存在となった六本木「キサナドゥ」「ナバーナ」、外人顧客が中心の老舗「レキシントンクイーン」などが、JJ誌やFine誌などの雑誌メディアに紹介された。新宿ディスコでは「ゼノン」でお馴染みのジョイパックグループの渋谷「ラ・スカーラ」が人気店となった。これらディスコに共通するのがサーファーブームに乗った「サーファーディスコ」である。そしてこの頃のディスコの主役は女子大生であった。田中康夫の「なんとなく、クリスタル」や深夜番組「オールナイトフジ」が大きな影響力を及ぼした時期であった。ファッションはスポーツ系のブランド服を基本として、レイヤードのヘアースタイルの女子高生、女子大生を中心にしたものだった。六本木を震源地に広がったサーファーディスコブームであったが、当時の流行発信性の高かった六本木地域から、徐々に渋谷、新宿へと文化が移転するにあたり、大衆化が進み、そのパワーは次第に廃れていった。新宿の「PUKA PUKA」はそんなサーファーディスコの最後の砦であった。

サーファーディスコはカフェバーやプールバーの人気と共に終焉を迎えた。

1985年-1989年(ユーロ・Hi-NRGブーム)

1980年代中期からハイエナジー(ユーロビート)ブームが起こり、全国的に人気となり第2次ディスコブームが発生する。

当時のディスコの曲は、よりポップス色を強める一方で、デッド・オア・アライヴリック・アストリーカイリー・ミノーグバナナラマに代表されるストック・エイトキン・ウォーターマン(PWLサウンド)によるプロデュース作品や、マイケル・フォーチュナティなどのイタリアからのユーロビートに代表されるような、コンピュータを用いた打ち込み系の音楽が多く使用され始めるようになる。日本の歌謡曲に似たメロディーに、無機質で単調なリズムを強調したアップテンポな曲が日本人にマッチして流行し、ユーロビート・ブームとなった。邦楽では荻野目洋子Winkなどがユーロビートの曲をカバーしヒットした。

このブームは全国的に波及し、「大阪マハラジャ」「福岡マリアクラブ」「金沢サムライ」など、都内では、比較的大規模な店や豪華な内装を売り物にしたディスコも展開され、絨毯バーやカラオケパブを展開していたNOVA21グループによる麻布十番マハラジャ青山「キング&クイーン」、パチンコ店展開の日拓系列による六本木「エリア」「シパンゴ」、会員制エスカイヤクラブの大和実業グループによる日比谷「ラジオシティ」などが人気店になった。また後に有名になったグッドウィルの折口氏は「ジュリアナ東京」「ヴェルファーレ」経営陣に参画していた。

しかし1988年昭和63年)、鳴り物入りで登場したばかりの六本木「トゥーリア」で、電動で上下する巨大照明装置(バリライト)が吹き抜けの天井から落下し、「死者3名、負傷者14名」を出すという「六本木ディスコ照明落下事故」が発生し、都内のディスコブームは衰退し始めた。

この第2次ディスコブーム・第一次ユーロブームに乗って濫立された六本木界隈のディスコは1989年平成元年)から減少に転じる。次にディスコが息を吹き返すのは、ジュリアナ東京ブームが始まってからである。

バブル期においては、東京では、それまで倉庫街流通関連施設が立地しているに過ぎなかった湾岸地区が「ウォーターフロント」と呼ばれ、六本木周辺の地価高騰から新たな再開発地区として、またプレー・スポットとして注目を集めるようになっていた。

同地区では、比較的大規模な施設の建設が可能だったこともあり、1988年(昭和63年)に開業した総合施設、MZA有明(江東区有明)に始まり、「オーバー2218」「サイカ」「ゴールド(1989年)」「横浜ベイサイドクラブ(1987年)」などのナイトクラブやディスコが次々誕生した。

当時のウォーターフロント地区には、レストランバーなども多く立地し、「ウォーターフロント・ブーム」とも呼ばれる盛り上がりをみせた。これら飲食店の多くは、一見普通の倉庫にしか見えない外見を持ちながら、中に入ると非現実世界を思わせるお洒落な空間であるというミスマッチを特徴としていた。また、自家用車タクシーでしか訪れることの出来ない不便な立地が、翻ってステータスに繋がっていた。

音楽的には、ディスコ=ユーロビートだったが、ハウスニュージャックスウィングR&Bなど、店のコンセプトに合わせてジャンルが枝分かれ始めたのがこの頃であった。

1990年代以降:クラブ時代

1990年-1994年(ハウス、ユーロビート)

バブル経済期の1991年平成3年)5月、巨大ディスコ「ジュリアナ東京」が、東京・芝浦に開業した。アイルランドDJ・ジョン・ロビンソンが本格的なMCを行い、ユーロビートに代わって人気となったテクノサウンド(レイヴテクノ)が流された。

同ディスコが開業して程なく、ボディコンの女性たちが、羽根付き扇子を振り回し、高さ約130cmの巨大お立ち台で踊るといった現象がみられるようになった。「ボディコン」とは、体のラインを意識したボディ・コンシャス (body-conscious) の略称。主にノースリーブの丈の短いワンピースで体にフィットするものを指す。女性客のなかには、水着や下着、手作りしたボディコンを着用してセクシーさを争う者も現れた。また、女性たちが振り回していた扇子は「ジュリ扇(じゅりせん)」と呼ばれた。

水着・Tバック下着等過度の露出はジュリアナ東京は禁止していたものの、他店のお立ち台でTバック着用で狂喜乱舞する女性客らの姿は注目を集め、マスメディアでも盛んに報じられた光景がジュリアナ東京と思われた[11]。人気が衰えていた他のディスコもこのジュリアナ東京ブームに便乗、「マハラジャ祇園」(京都市)では、「スーパーお立ち台」が設置されたほか、東京の赤坂「ロンドクラブ」や、六本木「エリア」では「Tバックナイト」、「Oバックナイト」、「水着ナイト」、「日拓舞踊宴」などと称して、露出度の高い服装で来店する女性客を優待する企画を打ち出した。このようなブームのなか、荒木久美子(荒木師匠)、飯島愛といった、これらの流れを汲む女性タレントも登場した。

使われていた音楽は、「ジュリテク」や「ハイパーテクノ」と呼ばれたもので、ハードコアテクノをユーロビート風にアレンジしたサウンドであった。初めはT99「Anasthasia」、LAスタイル「James Brown is Dead」、2アンリミテッド「Twilight Zone」などに代表されるインスト的な楽曲が中心であったが、後にはエイベックスによる「Explosion」、「Can't Undo This!!」などの和製ジュリテクが生まれ、さらに、DJ・ジョン・ロビンソンは自ら、「Tokyo Go!」を歌った。また、エイベックスから発売されたCD、「Juliana's Tokyo」シリーズは驚異的なセールスを記録した。おまけにそれらの楽曲を収めたコンピレーション・アルバムスーパー・クラブ・グルーヴィンシリーズも改名、改称を重ねて長期に渡って発売された。

このブームは東京から地方都市にも飛び火し、女性客による肌の露出競争が露骨になった名古屋や京都などでは、ついにニップレスや下着のみだけで踊る女性まで現れた。またジュリアナ東京でも、それまでダンスや雰囲気を楽しんでいた常連客らの足が遠のいていく一方、他店と混同された世論の批判や警察の指導などを受けて、名物だったお立ち台が撤去された。代わってクリスタルサイドステージが設置されたものの、以前のような集客と盛り上がりは得られず、1994年(平成6年)、遂に閉店となった。閉店日は感謝と称し入場料が無料となったこともあって全国から客が詰めかけた。数千人入る巨大ディスコにも入りきらない訪問客らによって田町駅から行列ができ、アンコールの声は閉店翌日の昼過ぎまで続いたという。

1995年-2000年(クラブ、ジャングル、テクノ)

レイヴテクノが大流行していたことにより冬の時代を迎えていたユーロビートが、ジュリアナ東京の閉店に伴い復活した。1994年平成6年)-1998年(平成10年)までユーロブームが神楽坂「ツインスター」や上野「ARX(アルクス)」そして六本木「エリア」中心に起こった。この頃のユーロビートを湾岸系ユーロと呼ぶこともある。これはNOVA21グループの舞浜「エデンロック」と新浦安「ロイヤルトン」がジュリアナ東京ブームの最中でも独自にユーロビートを押し続け、両店の店名に「TOKYO BAY(湾岸)」が冠していたことから湾岸系ユーロと呼ばれるようになった。(ただし、この2店舗の集客状況は千葉県であったためかなりシビアであった)このユーロブームの特徴は何と言っても「パラパラ」である。店ごとに振り付けが違ったり、サビの部分しかパラパラがなかった第一次ユーロブーム時とは違いパラパラビデオの普及により振り付けが統一され、曲の最初から最後まで複雑な振り付けが付いたのが特徴である。さらにエイベックスからリリースされたCD『スーパーユーロビート』シリーズが順調なセールスを出し、極めつきはエイベックス主催の東京ドームイベントで全国から集結したパラパラ愛好者でドームが満杯に成る程であった。この頃のファッションはルナマティーノや「ヴェルサーチ」が人気だった。また、安室奈美恵MAXなどが同時期にユーロビートのカバー曲を多々リリースしたこともブームに拍車をかけていた。

しかしジュリアナ東京が閉店した1994年(平成6年)、六本木に最後の大型ディスコと呼ばれた「ヴェルファーレ」がオープンするも、この頃から自分に合った音を求めるコアな常連客だけで営業が成り立つクラブが主流を占めるようになり、またドレスコードの高級スーツやボディコンから、カジュアルなファッションが人気となり、いわゆる「ディスコ」から「クラブ」への変化が始まった時でもある。集客スタイルも豪華な店や黒服からDJオーガナイザーに変わり、1999年頃に全国的に大型店の閉店が相次ぎディスコ時代の終焉となる。

2000年-現在(クラブ、ドラムンベース、2ステップ)

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1990年頃から、ディスコはクラブ に移行したが、ジャニーズ系タレントがバックダンサーにパラパラダンサーを起用し、TVで露出が増えた事をきっかけに、パラパラが人気になった。そして1999年(平成11年)から2003年(平成15年)にかけてパラパラブームが起こった。 しかし、現在のトランスシーンと同様、低年齢層・大衆層でのブームは両刃の剣であった。特に2000年以降、エイベックス社と「TwinStar」の極端な商業主義によりミッキーマウスマーチにまでパラパラが付く有様になると、客層の反発を招いた。更にスーパーフリー事件も起きて、ギャル層がパラパラからトランスに移動すると商業的にも壊滅的状況に陥り、最後に残った大型クラブ「TwinStar」は2003年(平成15年)に閉店した。

なお、この時期に、台湾及び香港でも、日本のアニメ等と並んで日本のディスコ文化・ダンスとしてパラパラが注目され流行するに至った。東京が、大都市のニューヨークやロンドンのダンス文化を、一方的に受信して真似ていたのに対して、パラパラを海外に輸出できたのはいいが、アニメ等と異なり日本本国のブームは腰砕けになってしまった。

また、2000年(平成12年)以降、24時(東京都では条例により商業地の場合午前1時)閉店が義務づけられる「ディスコ」に代わって、風営法の網をくぐった飲食店でのDJイベント「クラブ」が流行した。

現在、ディスコは風営法により24時(東京は条例により午前1時)までの営業しか認められていない。このため、開店当時はアルコールだけでなく、食事も提供し、表向きは飲食店として届け出をする店舗も多い。4月に閉店するディスコやクラブが多いのは、人事の月でもあり新任の警察本部保安部長や署長の方針(ノルマ)で、違法営業を摘発される店舗が増えるからである。

一般的に、店舗面積が広く、オール・ジャンルの音楽をかけ、スーツにネクタイ着用を義務付ける(女性客は贔屓して甘くする)ドレス・コードのディスコに対して、カジュアルな服装でも入場可、音楽ジャンルが明確にされている箱をクラブと呼ぶ場合が多い。法的な相違点は、風適法3号営業のいわゆるディスコ登録店は原則24時(東京は条例により午前1時)の閉店が義務付けられているのに対し、クラブは飲食店登録(深夜酒類提供飲食店営業)のため終夜営業が可能な点である。本来24時閉店を義務づけられているディスコが、営業時間を延ばすために、飲食店で行われていたDJイベントを模したことがクラブの始まりである。日本の風営法によるものなので、海外ではディスコと特に区別していない。90年代からクラブという呼び方が主流となり、やがて「ディスコ」という呼称は消滅[注 5] し、店舗形態に関わらず「クラブ」と呼ばれるのが一般的になっている。

2005年(平成17年)以降、一部のディスコは、団塊の世代の憩いの場としてその方向性を模索してきたオールディーズライブハウスと融合し、懐古的な社会、文化潮流を興隆しつつある。それまで1950年代から1970年代のオールディーズを中心に生バンド演奏を行ってきた店が、主要な顧客層の老齢化から、新たなターゲット層を模索してきた中で、ダンスフロアのスペースを広げ、1980年代のファンクを生バンドで聴かせ、躍らせる店が出現してきている。チークタイムの伝統さえも守っている店舗もある。これらの主流は六本木、銀座、新宿、横浜等にあるKENTO'S(ケントス)である。

また2005年(平成17年)、東京六本木で最大級のディスコ「ヴェルファーレ」を経営するエイベックスは、「六本木のディスコ営業を明け方まで許可してほしい」と要望。「ロンドンやニューヨークのディスコは明け方まで営業している。近年、六本木地区のディスコは半減しているが、明け方まで営業すれば衰退に歯止めがかかる」と説明。いわゆる「ディスコ特区」を都に要望したが2006年(平成18年)2月、警察庁が「犯罪の温床になる可能性がある」として見送りになった。エイベックスは「ディスコは文化的なレジャー施設」とし、同年6月に再申請したが認められなかった。

その後「ヴェルファーレ」は12年の定期借地権満了で2007年(平成19年)1月1日を持って閉店された[12]

クラブとして現存するスペースとして、店舗面積が広い東京都新木場にあるSTUDIO COASTのクラブイベント、ageHaなどが有名。

一方、ディスコ文化の中心でもあった六本木では2006年(平成18年)-2008年(平成20年)に、Vanilla、Core、Yellowなど老舗の大型店舗が相次いで閉店し、ディスコ時代の完全終焉となった。

チークタイム

ディスコ、特に1970年代-1980年代初期の特徴の1つに、チークタイム(「チーク」はの意味)がある。店のボルテージが最高潮を迎え、全力を出し切って踊った後に設けられる、チークダンスの時間である。様々な色をきらめき放ち、空間を鮮やかな光線でみたしていたミラーボールが一転、メローな曲とともに、穏やかな光を投げ始めると、男女が頬を寄せ合って抱き合わんばかりに密着して体を前後に揺らし始める。粋で、素敵な計らいの文化だが、ディスコの衰退とともに、今では昔話になりつつある。

当時としては、つのだ☆ひろの「メリージェーン」が非常に有名であった。この曲は当初の発売枚数6000枚と、ヒットはしていないものの、ディスコのチークタイムで流されることで有名となった、珍しい楽曲である。

日本のディスコにおけるドレスコード

1980年代後半の日本のディスコでは、ファッションを基準にしたドレスコードを設定し、店舗が客を選別するものがある。標準的なドレスコードは、ジャケットネクタイの着用である。しかし、それらを着用していても、入店拒否されることも少なくない。一方で、芸能人であれば、Tシャツジーンズ姿でも入店できる例も見受けられる[13]

このようなドレスコードを導入し、いわば「差別の文化」を作り上げた先駆けは、「マハラジャ」であったと言われる。日本のディスコ産業は、1980年1984年に「サーファーディスコブーム」と呼ばれるムーブメントを迎えた。どこかやさぐれたアウトローをよしとするディスコのイメージは、1984年〜1988年の「ディスコブーム」を迎えると一変する。流される曲調はソウルミュージックからユーロビートが主流となった。そして、マハラジャを始めとする1980年代中期の高級ディスコでは、店舗が客を選別するドレスコードを採り入れた。ドレスコードによる選別は、それをクリアすることがステイタスであるという感覚を醸成することによって客同士の競争心を煽り、またそれを取り仕切る「黒服」(ディスコの従業員のうち、マネージャーなどの役職ある男性従業員のこと。黒い服装をしていたことから、このように呼ばれる。)を権威化させた。これは高級ディスコの標準的スタイルとなった。

1990年代に登場するクラブの時代になると、このようなドレスコードは緩和され、スーツシャツであれば、ノーネクタイであっても、大抵の店舗のドレスコードはクリアできるようになった。禁止されている例として、男性のビーチサンダルタンクトップカーゴパンツ、男女問わずジャージ姿などがある。

このようなドレスコードは、店側が顧客を審査する建前である場合もある。表立ってドレスコードの存在を謳っていない店舗でも、年齢確認のための身分証明書の提示がない者、泥酔している者、暴力行為を起こしそうな者、薬物使用が疑われる者、態度が高圧的な者などは、服装に関係なく、ドレスコードを理由に入店を拒否される場合がある。これは、ディスコが風俗店であることに加え、違法な薬物の取引や使用によく使われるとして、警察が厳しく取り締まっており、頻繁に問題を起こした店舗は閉店になるためである。

日本のゲイディスコ

アメリカではディスコは黒人とゲイのための音楽と見られる傾向にあった。ディスコ音楽がラジオでさかんにオンエアされるようになると、このダンス音楽は一般のリスナーにも聞かれるようになる。1970年代にはアメリカのテレビ番組であるソウル・トレイン(Soul Train)が人気となった。また77年の映画「サタデイ・ナイト・フィーバー」の影響で、ディスコ・ブームが先進国を中心に世界的に発生し、ディスコティックが増加した。ディスコには黒人やゲイをはじめとして、一般人が押し寄せるようになり、75年から79年ごろにはヒットチャートの上位に進出するようになる。当時人気のあったゲイ・ディスコ・ミュージシャンには、シルヴェスターやヴィレッジ・ピープル[注 6]がいた。また、ドナ・サマー、ダイアナ・ロス、グロリア・ゲイナーらは、ゲイを中心とした聴衆からディスコ・クイーンの地位にまつりあげられた。しかし、粗製濫造された質の低いレコードや、飽きられたことによる流行の終焉、またゲイ音楽シーンがエイズの流行による被害を受けたことなど多くの、ディスコという形態は次第に姿を消す。ディスコブームの終焉の後には、ハウスを中心としたクラブ音楽へと変わっていった。

諸問題・事件

風営法による「クラブ」の問題

ディスコ営業は、2016年平成28年)6月22日まで「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」(通称:風俗営業法)において「風俗営業」であった。旧法では「『ナイトクラブその他設備を設けて客にダンスをさせ、かつ、客に飲食をさせる営業(第一号に該当する営業を除く。)』とする第二条第一項第三号・ナイトクラブ」に分類された。飲食店は深夜営業を認められているが、ダンスをさせると、日の出から深夜12時までの営業(商業地は午前1時まで)しか認められていなかった。

これに対しエイベックスは、六本木の「ディスコ特区」を2005年(平成17年)に日本国政府に要望したが、前述のとおり認められなかった。

その後2016年(平成28年)6月23日施行の改正風俗営業法(以下「風営法」)で、ディスコ営業は店内の照明が10ルクス以上であれば風俗営業から除外された。

1984年(昭和59年)の風営法改正により「ディスコ」は深夜営業ができなくなる。その際に風営法を申請せずに、小規模で営業する店が現れた。80年代末から90年代には「クラブ」と呼称されるようになる。

2010年(平成22年)より、警察による「クラブ」の風営法違反での営業方法自体の摘発が頻繁になった。発端は、大阪市中央区心斎橋のクラブ「AZURE」で刑事事件が発生したことだった。店舗は、その後摘発され閉店した。やがて風営法の許可を得ずに深夜まで客を踊らせ利益を得る業態自体を摘発するに至り、大阪を中心に東京そして全国に一斉摘発の動きは広まった。

ディスコ、クラブの取り締まり

橋下徹松井一郎らが統治する大阪府を中心に、クラブの取り締まりが強行された。さらに2012年5月、東京都港区西麻布のクラブ「alife(エーライフ) 」の経営者と責任者を風営法違反で逮捕。同年9月2日、東京都港区六本木のクラブ「フラワー」で刑事事件が起きる。事件後、風営法違反で同店は摘発され閉店した。

2013年(平成25年)、5月27日までに東京都港区六本木のクラブ「VANITY RESTAURANT TOKYO(ヴァニティ)」を風営法違反で摘発、経営者ら3人を現行犯逮捕。同年7月20日、東京都港区六本木のクラブ「GPbar」「GASPANIC」を風営法違反で摘発、経営者とDJらを現行犯逮捕。

大阪クラブ風営法違反事件

2012年(平成24年)4月5日大阪市北区梅田のクラブ「NOON」が22時以前に客を踊らせたとして、21時50分に経営者など8人が大阪府警察逮捕された。大阪府公安委員会から、風営法における「風俗営業」の3号営業許可を受けずにNOONを経営し、夜間に客にダンスや飲酒をさせたのが、逮捕理由である。この頃同業他社の他店が摘発され閉店するということが続発していた。

2012年(平成24年)5月29日、「NOON」の摘発後坂本龍一らの呼びかけで、風営法の規制から「ダンス」を削除するように求める署名を集め始める。主張では「風営法ができた当時は、ダンスホールで売買春が行われていたとされたため『ダンス』が規制対象になった。ダンス規制法で現状にはそぐわない」としている。この頃、大阪市下の風営法違反「クラブ」は閉店、ライブハウスに移行、風営法申請後再開、バーに移行など、ほぼ一掃される。

大阪クラブ側が最高裁で勝訴

風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律違反で逮捕されたNOON経営者が、刑事裁判では「風営法の規制対象となるのか」が争点になり、大阪地方裁判所は「実質的に性風俗を乱す営業とは認められない」「被告人が風営法2条1項3号にいう3号営業を無許可で営んでいたとは認められない」と認定し、大阪府警察大阪地方検察庁の懲役6ヶ月・罰金100万円の主張を棄却、2012年平成24年)4月25日、被告人に対して無罪判決を下した[14]

大阪地方検察庁は判決を不服として控訴したもの、大阪高等裁判所において、大阪地裁判決を支持して、大阪高等検察庁の主張を棄却、被告人に対して無罪判決を下した。検察は判決を不服として、最高裁判所へ上告した。

最高裁判所第3小法廷木内道祥裁判長)は、2016年平成28年)6月7日付で、最高検察庁の上告を棄却する決定を出した。クラブは「風俗営業に当たらず、風営法の対象外」として、被告人を「無罪」とした大阪地裁判決が確定判決となった[15]

脚注

注釈
  1. ^ フランス語発音: [disko] (ディスコ)。アメリカ英語発音: [ˈdɪskoʊ]ディスコウ)、イギリス英語発音: [ˈdɪskəʊ]ディスコウ)。
  2. ^ フランス語発音: [diskɔtɛk] (ディスコテック)。英語発音: [ˈdɪskətek]ディスカテック)。
  3. ^ サルソウル・オーケストラ、ファースト・チョイスなどが在籍した
  4. ^ ドナ・サマーが在籍
  5. ^ ただしラジオ番組などでは、音楽ジャンルを指す「ディスコ」という言葉は使用され続けている。
  6. ^ ジャケットと、歌っている歌手、演奏者が異なっていた。歌手はスタジオ・ミュージシャン
出典
  1. ^ http://www.nyclgbtsites.org/site/paradise-garage/
  2. ^ http://www.allmusic.com/style/edm-ma0000013412
  3. ^ http://mainichi.jp/articles/20160609/k00/00e/040/174000c
  4. ^ http://eow.alc.co.jp/search?q=discotheque
  5. ^ 2014年1月20日gladxx「【訃報】DJの中村直さんが急逝」。
  6. ^ http://discotimemachine.com/discoetc.html
  7. ^ 広島ディスコ先駆け 50年で幕 中国新聞(2017年6月24日)27面. 2017年6月29日閲覧。
  8. ^ http://wmg.jp/artist/snfever/WPCR000028565.html
  9. ^ 『昭和55年 写真生活』(2017年、ダイアプレス)p60
  10. ^ http://www.allmusic.com/artist/donna-summer-mn0000661524
  11. ^ https://archive.is/20130915032910/http://www.avexnet.or.jp/disco/taidan.htm
  12. ^ 六本木ヴェルファーレが閉店-12年の歴史に幕”. 六本木経済新聞 (2006年11月14日). 2013年11月25日閲覧。
  13. ^ マイケル富岡, 山田ゴメス & 石原壮一郎 2017, pp. 20–21.
  14. ^ 大阪地方裁判所 第5刑事部判決 平成24年4月25日 、平成24(わ)1923、『風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律違反被告事件』「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律の「風俗営業3号営業」による規制対象となるのか」、“  風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(以下「風営法」という。)2条1項3号にいう「ナイトクラブその他設備を設けて客にダンスをさせ、かつ、客に飲食をさせる営業」の意義
    風営法49条1号、3条1項及び2条1項3号の各規定は、日本国憲法第21条1項、第22条1項、第31条に違反しない
    被告人が風営法2条1項3号にいう営業を、無許可で営んでいたとは認められないとされた事例
    ”。
  15. ^ 島田信幸 (2016年6月9日). “大阪ダンスクラブ事件「風俗営業に当たらず」無罪確定へ”. 毎日新聞 (毎日新聞社). http://mainichi.jp/articles/20160609/k00/00e/040/174000c 2016年8月1日閲覧。 

参考文献

  • マイケル富岡山田ゴメス石原壮一郎「俺たちの80年代って何だったのか会議」『80's青春男大百科〜なんとなく、あの熱狂をもう一度〜』、扶桑社、2017年、16-25頁、ISBN 978-4594611866 
  • 山田ゴメス「80'sのモテとデート論」『80's青春男大百科〜なんとなく、あの熱狂をもう一度〜』、扶桑社、2017年、54-55頁、ISBN 978-4594611866 

関連項目