曺薫鉉

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 曺薰鉉 九段
名前 曺薰鉉
生年月日 (1953-03-10) 1953年3月10日(71歳)
プロ入り年 1962[1]
出身地 全羅南道木浦市
所属 韓国棋院
師匠 瀬越憲作
段位 九段
概要
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チョ・フンヒョン
各種表記
ハングル 조훈현
漢字 曺薰鉉
発音: チョ・フンヒョン
日本語読み: そうくんげん
ローマ字 Jo Hunhyeon
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薫鉉(チョ・フンヒョン、조훈현、1953年3月10日 - )は、韓国囲碁棋士全羅南道木浦市出身、瀬越憲作名誉九段門下、韓国棋院所属、九段。日本では、チョ・フニョン、日本語読みでそうくんげんと読むこともある。韓国囲碁界のタイトル王であるとともに、世界選手権でも多数優勝した、1990年代から2000年代前半の世界最強棋士の一人で、囲碁帝王と呼ばれ、軽くスピードの速い棋風は、ツバメ流と言われる。李昌鎬の師匠としても知られる。

名前の漢字表記について

韓国の漢字では、「曺薰」と書く。手記には「鉉」とも。

」字は「曹」の異体字である。現在の韓国では韓国人の姓としては「」、他の用法(一般名詞や中国人の姓など)では「曹」と区分して書いている。韓国以外の国では「」字の代わりに「曹」と表記する場合もある。

」は「薫」の康熙字典体で、日本では旧字体とみなす(黒部#字体差を参考)。しかし、「黑」と「黒」は伝統的に同一な文字と見做し、韓国でも手字には「」ではなく、「鉉」と書く場合も少なくない。

経歴

4歳の時に父が打っているのを見て碁を覚える。囲碁の修行のために1958年にソウルに引っ越し、趙南哲の碁会所に通い始め、7歳で韓国棋院の院生となり、1962年9歳で韓国棋院初段、翌年二段昇段。1963年来日し瀬越憲作に入門、日本棋院の院生4級となり、1966年に初段。1970年、33勝5敗1ジゴの成績で棋道賞新人賞受賞。1971年五段。1972年に兵役のために帰国し空軍に入隊(1976年除隊)、1973年に韓国棋院に五段として所属する。

1973年に金寅を破り初タイトルである最高位、1976年から国手戦10連覇など、韓国で多数のタイトルを取り、1980年には韓国の全公式タイトル制覇(名人、王位、国手、国棋、覇王、最高位、最強者、棋王、KBS杯)を成し遂げる。1979年に韓国では趙南哲に次ぐ2人目の八段、1982年には韓国初の九段となる。国内総タイトル数は約150。1979年の棋王戦挑戦手合で、観戦記者による「短槍の名人」との評は名高い。

1989年、第1回応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦で、決勝5番勝負において中国聶衛平に3勝2敗で勝って優勝。これを機に韓国では、趙治勲の名人位獲得以来の第二の囲碁ブームとなる。1990年には日本棋院の機関誌「棋道」誌の800号記念企画として、前年の富士通杯に優勝した武宮正樹との「荏原製作所・暁星グループ杯世界頂上対決三番勝負」が行われ、曺は0-2で敗れはしたものの、この棋戦に韓国の囲碁ファンは熱狂し、実況放送の視聴率は75%となった。1994年には富士通杯、東洋証券杯にも優勝して、当時の3つの世界選手権を制するグランドスラムを達成。その後も数々の世界選手権に優勝。1992年からの日中韓三国の対抗戦である真露杯戦では韓国チームの主将として活躍し、韓国優勝4回の立て役者となった。

1980年に結婚。1984年から李昌鎬を内弟子として育てたが、1990年の最高位戦で李に初めてタイトルを奪われ、その後も多くのタイトルを争い、特に1993年末から94年初めにかけては5つのタイトル戦を戦って27番勝負と言われた。1995年には一時遂に無冠となるが、同年に覇王、棋王、BCカード杯を李から取り返すなど、タイトル戦で活躍を続ける。1999年第1回春蘭杯では初めて世界選手権決勝で李昌鎬と当たり、世界選手権決勝で10連勝中の李を2-1で破って優勝。2000年には富士通杯優勝の他、4つのタイトル戦に登場し、1995年からの韓国賞金ランキング公表以来で初の1位となった。2008年には世界初の公式戦2500局を達成(通算1770勝721敗9ジゴ)。中国囲棋甲級リーグ戦では2005年に四川、乙級で2003年香港新世界チームに参加。韓国囲碁リーグでは、第一火災チームなどで出場。2009年のBCカード杯世界囲碁選手権ではベスト4進出。

在日時から藤沢秀行の研究会に参加するなど深い薫陶を受け、瀬越を精神的な師、秀行を盤上の師と呼ぶ。1988年に応昌期杯の準決勝がソウルで行われた時には、闘病中の秀行の対局に毎朝夫人の手作りのお粥を届けた。1999年の秀行の引退碁では第2局の相手を務めた。2009年には訪韓した日本の政治家小沢一郎と指導対局を行う。

タイトル歴

国際棋戦

棋戦 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010
応昌期杯 優勝 - 16強 - 8強 - 16強 - × - × -
富士通杯 16強 3位 4強 16強 8強 準優勝 優勝 16強 16強 24強 8強 16強 優勝 優勝 16強 16強 16強 × × × × × ×
三星杯 - 16強 32強 16強 16強 8強 優勝 優勝 8強 16強 8強 32強 16強 32強 × ×
LG杯 - 8強 8強 16強 4強 8強 準優勝 8強 16強 24強 × 32強 16強 × × ×
春蘭杯 - 優勝 8強 3位 - 8強 - 16強 - × - × - ×
BC杯 - 4強 32強
トヨタ杯 - 16強 - 32強 - × - × 終了
東洋杯 - 4強 - 4強 優勝 4強 4強 - 優勝 16強 終了
中環杯 - × × - × 終了
アジア杯 - × × 1R 準優勝 × 1R 準優勝 × 1R 4強 × 優勝 優勝 準優勝 × × × × × × × ×
農心杯 - 1:1 2:1 1:1 0:1 × × × 0:1 × × × ×


囲碁世界タイトル優勝記録
順位 優勝回数 棋士名
1位 21 大韓民国の旗李昌鎬*
2位 18 大韓民国の旗李世乭
3位 11 大韓民国の旗曺薫鉉*
4位タイ 8 中華人民共和国の旗古力* | 大韓民国の旗朴廷桓* | 中華人民共和国の旗柯潔*
7位タイ 6 日本の旗武宮正樹* | 大韓民国の旗劉昌赫* | 中華人民共和国の旗孔傑*
10位タイ 4 日本の旗依田紀基* | 中華人民共和国の旗陳耀燁* |
12位タイ 3 中華人民共和国の旗兪斌* | 大韓民国の旗朴永訓* | 中華人民共和国の旗常昊*  
*は現役棋士

主な国内タイトル

他の棋歴

日本・中国での棋歴

受賞等

代表局

「生涯の大勝負」1989年第1回応昌期杯世界プロ囲碁選手権戦 決勝五番勝負第1局 曺薫鉉-聶衛平戦

黒番聶が黒1(113手目)と出たところ、右辺一体が薄い白だったが、白2〜黒7までを利かしたのが機敏な手。この折衝で白一間トビの切断が消え、白8が打てて白地がまとまり優勢を確立した。曺は中国杭州で行われたこの第1局に勝った後、杭州、寧波での2、3局目を落としてカド番となるが、シンガポールでの4、5局を連勝して優勝、賞金40万ドルを手にした。

1989年9月5日 曺薫鉉−(先番)聶衛平

著作

  • 『曺薫鉉囲碁名局集』三一書房 1995年
  • 『曺薫鉉名局選集(上)(下)』 棋苑図書 2003、08年
  • 『ノゾキにツグ馬鹿、ツガぬ馬鹿』東京創元社2015、04年

その他

  • かつてはヘビースモーカーであったが、禁煙補助食品「禁煙草」で禁煙し、その広告にも登場している。

関連書籍

  • 李光九『曹フンヒョンとの対話』1999年

外部リンク

  1. ^ 日本棋院入段は1966年