タイガー・ジェット・シン

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タイガー・ジェット・シン
タイガー・ジェット・シンの画像
タイガー・ジェット・シン
プロフィール
リングネーム タイガー・ジェット・シン
(タイガー・ジート・シン)
本名 ジャグジート・スィン・ハンス
ニックネーム インドの狂える虎
インドの猛虎
サーベルタイガー
身長 190cm
体重 120kg
誕生日 (1944-04-03) 1944年4月3日(80歳)
出身地 インドの旗 インド
パンジャーブ州ルディヤーナー
トレーナー フレッド・アトキンス
デビュー 1964年
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タイガー・ジェット・シンTiger Jeet Singh、本名:Jagjit Singh Hans1948年4月3日 - )は、インドパンジャーブ州ルディヤーナー出身のプロレスラー実業家。スペリングの通り、より原音に近いリングネームの表記はタイガー・ジート・シンシク教徒

ニックネームは「インドの猛虎(狂虎)」「狂える虎」。息子のタイガー・アリ・シンもプロレスラーであり、WWEのリングでも活動した。

フェンシングサーベルを振りかざす姿で一世を風靡した悪役レスラー。しかし、ここぞという場面では正統派レスリングを見せ、アントニオ猪木らトップクラスのレスラーにも勝利している。言動には独自の哲学を徹底して貫いており、多くの関係者から一目置かれる存在となっている。

日本国外や地元トロントではベビーフェイスとして活躍を続ける一方、プロレス以外の様々な事業を経営している。プロレス業界のみならず、財界、政界とも繋がりがあり、北米インド人社会では最も著名な人物の一人である。

来歴

来日前(〜1973年)

1964年シンガポールでデビューし、その後カナダに渡ったという説があるが定かではない。

ジャイアント馬場のアメリカ修行時代の師匠で知られたフレッド・アトキンスに正統派レスリングを徹底的に叩き込まれ、1965年にトロントでデビュー(ここからのプロフィールははっきりしている)。翌1966年には師匠のアトキンスとのタッグで同地区のインターナショナルタッグ王座を奪取する。

日本では全く無名の存在であったが、1967年6月にジョニー・バレンタインを破ってトロント地区のUSヘビー級王座を獲得すると、当時のトロント地区で完全にメインイベンターの地位を確立。同年にはNWA世界王者ジン・キニスキーに1度、WWWF(現WWE)世界王者ブルーノ・サンマルチノに2度挑戦している。1968年の暮れにベビーフェイスに転向するとさらに人気は増し、1971年2月に行われたザ・シークとの一騎打ちでは18000人を超える観衆を集め、当時の年収は約8万ドル(当時の為替レートで約2500万円ほど)にも達していたという[1]。初来日直前はオーストラリアを主戦場とし、スティーブ・リッカードらとツアーを同行する。この出会いがきっかけで、後にシンは日本で大成功を収める(後述する)。

新日本プロレス参戦期(1973 - 1981年)

1973年5月、新日本プロレスに初来日(後述)。アントニオ猪木と因縁の抗争劇を繰り広げ悪役レスラーのトップとなった。1975年3月に猪木を破りNWFヘビー級王座を獲得。タイトルを北米に持ち帰り、ドン・レオ・ジョナサンハンス・シュミットザ・シークらを相手に防衛戦を行った。1976年7月には坂口征二を破り新日本版のアジアヘビー級王座を獲得、初代王者となる。1977年2月には上田馬之助タッグチームを組み、坂口征二&ストロング小林組から北米タッグ王座を奪取するなど、1970年代は新日本プロレスの看板外国人として活躍した。しかし、1980年頃からスタン・ハンセンらの台頭により、人気に陰りが見えはじめてくる。

全日本プロレス参戦期(1981 - 1990年)

1981年7月3日の全日本プロレス「'81サマー・アクション・シリーズ」熊谷大会にマネージャーのボビー・ヒーナンと共に乱入し、翌7月4日の後楽園ホール大会から全日本に正式参戦[2]。再び上田とのタッグでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田組からインタータッグ王座を獲得。1980年代前半はザ・シークやテリー・ファンクら外人選手との対戦で、シンの持ち味が発揮されることがあったが、ほぼ同時期に新日本プロレスから移籍したスタン・ハンセンらの影に隠れ、全日本プロレスでは精彩を欠く存在であった。輪島大士の国内デビュー戦の相手に抜擢されたり、全日本プロレスにUターンしたアブドーラ・ザ・ブッチャーとの凶悪タッグを結成するものの、人気低下に歯止めがかからず、一時的な話題を提供するだけに留まった。特に1980年代後半は以前と比べると流血試合が大幅に減った上に体重が増加し、シンの持ち味であるスピーディーな暴れっぷりは徐々に衰えていった。

新日本プロレス復帰(1990 - 1992年)

1990年9月に行われたアントニオ猪木デビュー30周年記念イベントにおいて、永遠のライバル猪木と一夜限りの特別タッグを組み、興行に花を添えた。これを機に新日本プロレスへ復帰を果たすも体力的な衰えは隠せず、台頭してきた闘魂三銃士との試合もかみ合わずじまいで、メインイベンターからは遠退いていった。また、アントニオ猪木デビュー30周年に合わせ、グレーテスト18クラブなる親睦団体兼新タイトルが設けられ、シンは開設当初からメンバーだったものの後に除名されたり[3]猪木とのシングルマッチの権利を奪われたりと不遇が重なった。ただし全日本プロレス時代に比べて、シンの暴れっぷりはむしろ復活していた。シンより1〜2世代若い長州力ブラック・キャット等のレスラーを次々と血祭りにあげたり、場外では馳浩が所有する自動車をバットでメッタ打ちにしその因縁から馳と巌流島決戦[4]を行うなど、自らの健在ぶりをアピールした。

インディーズ時代(1992年 - )

1992年FMWに参戦。ストリートファイトマッチを始め、過激なデスマッチ路線を邁進していたこの団体においてシンは、水を得た魚の如く蘇り大活躍をした。FMWのリングでは、大仁田と電流爆破デスマッチ関ヶ原でのノーピープル電流爆破デスマッチ等多数の名勝負を繰り広げ、息子のアリ・シン(当時はタイガー・ジェット・シン・ジュニアを名乗った)と組んでタッグリーグ戦に参加した。また、シンをFMWに呼び寄せたともされたザ・シークともコンビを結成したが、後に仲間割れした。

その後NOWに参戦し、上田馬之助とのタッグを復活させたが後に仲間割れし、一転して抗争状態に。さらに参戦したIWA・JAPANではベビーフェイスになってミスター・ポーゴと抗争するなど、インディー団体を中心に転戦し続けた。近年の来日ではハッスル小川直也と戦い、敗れはしたものの小川を流血させた。その後HGクロマティボブ・サップなどと戦い、彼らを血祭りにあげた。還暦を遥かに過ぎたとは思えぬスピードとスタミナ、自分の子供のような世代のレスラー達を狂乱ファイトで痛め続け、狂虎健在ぶりをアピールしている。2009年7月26日にはハッスル・両国国技館大会においてアブドーラ・ザ・ブッチャーと1989年以来20年ぶりのタッグを結成するも、お約束の同士討ちにより、シンがフォール負け。同大会の因縁勃発を受け、同月30日には19年ぶりにブッチャーとの一騎打ちを展開。試合のほぼすべてが場外戦の末、無効試合となった。

2011年8月27日、東日本大震災復興イベント『INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜』に登場。恒例の猪木劇場において、ブッチャーとともにアントニオ猪木を襲撃した。

2011年12月27日、『元気ですか!! 大晦日!! 2011』では、相棒だった上田馬之助の遺影を持ってリングに上がり、故人を称えた。

和製タイガー・ジェット・シン〜作られたヒール

  • 1972年、アントニオ猪木を代表に新日本プロレスが創立されるが、しばらくはNWA日本プロレス(後に全日本プロレス)、AWA国際プロレスとの協定により、当時人気のあった外国人選手のほとんどは、新日本プロレスへの参戦が事実上不可能であった。また、創立間もない新日本プロレスは高額のギャラを外国人レスラーに払える状況では無く、無名の選手を育て上げるという手法に依存せざるを得なかった。
  • タイガー・ジェット・シンを新日本プロレスに売り込んだのは、当時インドと独自のネットワークを築いていた吉田なる貿易商とされる。猪木が無名外国人選手のプロフィールに目を通している時に、口にナイフを咥えているシンの写真に注目した。この時猪木は、「ナイフじゃなくどうせならサーベルでも咥えさせてみろ」と語ったという。
  • このような状況で1973年、シンは初来日した。ただし、本来は同年7月からのシリーズに参戦する予定だったのが、新日本プロレス渉外担当者の手続きに間違いがあり、シンは二か月早く来日してしまった。
  • そこで同年5月4日、会場の川崎市立体育館の客席にシンを招いた。新日本プロレスにしてみれば、「手違いとはいえ、せっかく来日したのだから日本のプロレスを生で見てもらおう」という、シンに対する配慮だった。ところがこの日の山本小鉄対スティーブ・リッカードの試合中、シンは突如乱入し、山本小鉄をメッタ打ちにし失神させた。この時はターバンは巻いていたが、サーベルは持っていなかった。
  • この様子を見た猪木は目玉レスラーになると考え、急遽渉外担当に命じシンを一旦香港へ向かわせ、業務用ビザを受けた後に日本へ戻るよう指示した。その間新日本プロレスは前述の猪木案を実現すべく、日本国内でサーベルを手配し、日本に戻ってきたシンに与えた。ヒールとして日本で活躍することを望んでいたシンは、大いに喜んだという。
  • 既述の通りシンとスティーブ・リッカードは来日前から面識があったため、当初のシンはリッカードのセコンド役という位置づけだったが、その尋常ではない暴れっぷりに人気が集中し、シリーズ終盤にはついに対猪木との初シングル戦が実現した。
  • このような経緯を経て、ターバンを巻きサーベルを振りかざすという、タイガー・ジェット・シン独自のスタイルが確立されたが、当時の新日本プロレスは、「タイガー・ジェット・シンは勝手に日本に来た。決して新日本プロレスが招いたわけでは無い」との旨のギミックでシンを売り込んだ。このギミックについて当時のスポーツ新聞はシンを「謎の怪人」「狂人(後述する)」等と報道し、一応の成功を収めた。後に「インドの猛虎」「狂虎」といった表現に落ち着く。

「襲撃事件」と「腕折り事件」

1973年11月、タイガー・ジェット・シンは2度目の来日中に外国人レスラー数名と組み、倍賞美津子(当時の猪木夫人)と買い物中だったアントニオ猪木を新宿伊勢丹前で白昼堂々と襲撃し警察沙汰となる事件を起こした。猪木は負傷・流血し警察にも通報された。

新日本プロレスに対する四谷警察署の対応は、「本当の喧嘩であれば猪木はシンを傷害罪で告発し、被害届を出せ。やらせであれば、道路交通法違反(道路無許可使用)で新日本プロレスを処分する」という厳しいものだった。これに対し新日本プロレスは、「やらせではない。シンは契約選手なので傷害罪で告発することは出来ないが、騒ぎを起こしたことは申し訳なく、お詫びなら幾らでもする」と始末書を提出し、事件は新日本プロレスに対する厳重注意で収まった。

この事件は各方面で報道され世間でも話題になり、シンは本当に狂っているのではないか(後述する)という印象を強く与えた。以後猪木はリング上で制裁を加えると公言し、猪木対シンの試合は「因縁の闘い」として世間の注目を集めることとなった。事件直後の1973年11月16日、札幌中島スポーツセンターで超満員の中猪木と二度目の一騎打ちが実現。両者大流血の喧嘩ファイトとなった。

それまでの猪木のファイトは正統派スタイルを売りにしていたが、対シン戦で猪木が見せた喧嘩ファイトは猪木の新たな魅力を引き出し、ファンの増加をもたらした。またシンという絶対悪が存在する限り、日本人受けが良いとされる勧善懲悪の世界を築くことができた。これら一連のシン効果により、新日本プロレスはメジャー団体への階段を昇る。

1974年6月、NWF王者猪木(当時)とシンのタイトルマッチ2連戦は、両者の遺恨がピークに達した試合と今でも語り継がれる。同年6月20日、東京蔵前国技館の60分3本勝負において、2本目開始直後にシンは猪木の顔面に火炎攻撃を仕掛け、サーベルで猪木を滅多打ちにし流血させた。猪木はタイトルこそ防衛したものの、左目と頭部を負傷した。その傷が完治しないまま6日後、6月26日の大阪府立体育館での60分3本勝負は、1本目がシンの徹底した反則攻撃により猪木は大流血。2本目に猪木の怒りが頂点に達し、シンの右腕に狙いを定めると鉄柱攻撃などで集中的に攻め続け、最後はショルダー・アームブリーカーを連発しシンの右腕を骨折させ、ドクターストップの末猪木がタイトルを連続防衛し、ここに両者の遺恨に一旦終止符が打たれた。なお、猪木自身は「腕を折った」と明言しているが、実際にはヒジもしくは肩の亜脱臼だという。

双方の攻防は、いずれも一歩間違えればレスラー生命に関わる激しいものであったが、両者には互いが共栄していくためには、超えてはならない一線を超えることも是とする暗黙の了解があったとされる。当時の猪木は日本プロレスを追放されたも同然の身で、ライバル団体の全日本プロレスに追いつき追い越したいという野望があり、シンも新天地日本でトップヒールとして開花したいという、両者の強烈なハングリー精神が共感した上で、前述の遺恨試合2連戦が展開された。特に第二戦の大阪府立体育館においては、猪木対シンの試合開始1、2時間前から会場は超満員(8,900人)の観客で溢れ、入場出来なかった多くの熱心なファンが係員と押し問答となったり、ダフ屋では1,000円のチケットに5,000円の値がついたりと場外でも話題は尽きなかった。また、試合を生で観戦した者は「会場全体が、これから殺し合いでも始まるのではないかという異様な熱気と興奮に包まれていた」と当時の様子を回顧する。

後年、ミスター高橋はその著作の中で、新宿伊勢丹襲撃劇は猪木夫妻が了解済みのアングル作りであったこと、シンに荷担したビル・ホワイトもやらせであったことを暴露している。ただし、「我々はある程度良識の範囲内での襲撃を想定していたのだが、途中からシンが本気になってしまった」とシンの予定外の暴挙が騒動に発展したことを明かしている。

人物

  • ミスター高橋は著書の中で、シンが狂人どころか非常に聡明で紳士的な人間であることを強調しており、ヒールとしてのキャラクターは完全に演技であることを明かしている(インドで募金活動をするなど、善意や篤志が有る)。ちなみに「手が付けられないほど、試合中に本当に狂ってしまったのは猪木」とも証言されている。
  • 山本小鉄が巡業先のスポンサーの社長宅で、バーベキューに呼ばれたことがあった。社長は「どうせなら外人レスラーも連れてきてよ」と言い、当時外人選手係りでもあった山本小鉄は、シンと一緒に赴いた。シンはターバンにスーツという、インド式の正装であった。そのうちバーベキューの火力が強くなり、段々汗ばんできたきたシンは、「社長、上着を脱いでもよろしいでしょうか」と一言断りを入れたという。シンの紳士ぶりを象徴する一例である。
  • カナダのトロント地区はインド・パキスタン系住民の多い地であり(トロントの項にある人口動勢の欄を参照)、この地でのシンは、デビュー直後の数年間を除いて一貫してベビーフェイスである。またアメリカのデトロイトなどでザ・シークと対戦する際もベビーフェイスとして活動している。
  • ヒールとしてのモデルはやはりザ・シークであり、狂人キャラを貫く点、決してプライベートを明かさない点にそれが見える。
  • リングの内外を問わず、大変な倹約家として知られる。トロントでの事業が成功した大きな要因であり、それを物語る一例としてシンと親しいある日本人プロレス記者は、「(シンがメインを取っていた全盛期の頃)週に100万円稼ぐシンが(来日中に)使う金は一日5,000円以下だった」と語る。
  • 普段は物静かで寡黙なシンが、リングに向かう時は急変して大暴れしながら入場する。若き日のスタン・ハンセンはこの様子を見て「シンはプロだ」と痛感。客席を暴れながら入場するスタイルなど、ハンセンがシンから受けた影響はかなり大きいと言われる。
  • かつてメインをとっていた全盛期は、「会場にいる者全てが俺の敵だ、だから俺は観客でもカメラマンでも殴る」と、自身のヒール哲学を徹底的に貫いていたシンだが、体力的な衰えとかつての盟友だった上田馬之助の交通事故が転機となり、ファンに愛されるヒールに転向。リビングレジェンドのイメージが色濃くなった近年は、観客に暴行を加え、それでなおかつファンに敬愛されるという唯一無二のキャラクターを確立している。プロレスの楽しみ方も多様化し、1970-1980年代のように本気でシンを怖がって逃げるファンは減り、逆にシンに襲われることを一種のステータスと認めている新しい世代のファンが増えている。
  • 1990年代後半からはしばしばサイン会等を行い、ファンとの交流に努めている。また、ゴージャス松野らとCDアルバム『愛が地球を救うのだ』を発表し、アニメ『妖怪人間ベム』の主題歌を熱唱したり、バラエティ番組「BANG! BANG! BANG!」にゲスト出演したりと、プロレス以外のメディアでも活躍。
  • 初来日時から関係者でも容易に近付けない雰囲気を放っていたが、実際は電話魔であり大の写真好き。暇さえあればカメラマンを呼び付けては自身の写真撮影を要求していた。
  • 田中秀和リングアナは若い頃、新日本プロレスのリング上でプロレスラーに暴行を受けることがしばしばあった。そのことについて自身のブログで、「シンが僕を襲う場合は悪役としての、プロとしての信念や魂のようなものを感じられた。シンが襲いに来るか否かは雰囲気で分かるようになったし、襲われると分かっていても僕は逃げなかった。シンが悪役のプロなら僕はシンに襲われるプロだ。しかし、アブドーラ・ザ・ブッチャーの場合は単に殴られ損だったので、すぐに逃げた」と語る。
  • 来日間もない頃は英会話が苦手であり、いわゆるブロークン・イングリッシュで発音していたため、日本人には却って聞き取りやすかった。ある日本人プロレス記者は、「陽気にペラペラ喋りたてるアメリカンと違い、シンの英語は不思議と誠意が伝わってくる」とも語る。
  • 2007年ハッスルの青森大会辺りから昔以上に凶悪度が増し始める。青森大会では対戦したKUSHIDA選手が瀕死の大流血に陥り、他の大会(主に後楽園ホール)では女性客にサーベルを突き刺したり、OLを椅子で殴るなどの狂乱ファイトに、観客の子供は泣き叫びカップルは逃げ惑い、果ては客席で観戦していたスポンサーのお偉いさんも襲われるなど阿鼻叫喚の往年のシンの世界を展開させている。また、60を過ぎた肉体にもかかわらず筋骨隆々で100kgを超える選手にいまでもアルゼンチン・バックブリーカーを掛ける。
  • 日本ではシンにブッチャーとザ・シークを加え、「世界三大ヒール」等と称されることが多い。相手選手を反則攻撃で痛めつけ、凶器で流血させるという全盛期の基本的なスタイルは共通しているものの、三者とも独自のキャラクターをしっかりと築いていた。
    • ある日本人プロレス記者は、ザ・シークはレスラー仲間から尊敬されるヒール、ブッチャーはファンに愛されるヒール、そしてシンはファンに恐怖を与えるヒールと大別する。日本における三者の全盛期は多少の差異はあるものの、一般的に1970-1980年代とされる。この頃、悪の限りを尽くしながらもブッチャーは絶大な人気を誇り、同じくシークは年齢的にピークを過ぎていたものの、プロモーターとしてビジネスをしっかりこなしていた。
    • 同じ頃シンは、既述の新宿伊勢丹襲撃事件を筆頭に観客や記者への暴行等を繰り返し、やがてリングの外でもヒールというキャラクターを貫いた。ブッチャーやシークは概ね試合中でのみ凶行に及び、リングを降りるとインタビューや写真撮影等に気さくに応じていたのに対し、シンの場合は控え室や移動中等でもファンや関係者をしばしば襲っていた。その様子がメディアを通じて知られるようになり、唯一無二の恐怖を与えるヒールを確立した。
    • またブッチャーとシークは、小型の鋭利な凶器で相手を静的に流血させることがほとんどであったが、三者の中で最も若く長身なシンは、小型の凶器からテーブル、テレビカメラの三脚、竹箒、三連パイプイス等と大型の凶器までを動的に使いこなし、リング狭しとスピーディーに暴れるスタイルが特徴であった。一時は手錠で相手の自由を奪ったり火を放ったりと演出も豊富であった。この違いについてアントニオ猪木は、「ブッチャーとシークのスタイルは残酷ショーだが、シンはそれと違う」と語る。
  • 息子タイガー・アリ・シンらが幼少期の頃、来日に伴いシンが留守のときは家はジット夫人が守ることとなった。躾に厳しい母が常駐する一方、久方ぶりにシンが帰国したら幼い息子らをつい溺愛してしまう。そのため息子アリ・シンらにとっては、「家では母(ジット夫人)が悪役」であった。ただしケンカに負けて帰ってくると普段は優しい父シンも、「白人のガキどもなんかもっとブッ飛ばせ」と激怒していた。

得意技

コブラクロー
シンの代名詞とも称される技で、フォール勝ちのほとんどをこの技で収めている。建前上は、指を2本折り曲げてVの字を作った状態で頚動脈に押し当てて相手を酸欠状態に陥れる合法的な技とされるが、実際はチョーク攻撃(反則)に過ぎなかった。しかし、前述の通り創立間もない頃の新日本プロレスは、営業面でシンを看板選手として売り込む必要があり、彼の残虐性と実力とをビジュアル的にアピールすべく、コブラクローを反則としない暗黙の了解があったとされる[5]。そのため新日本プロレスが名付け親の感が強く、それを嫌ってか、全日本プロレス移籍後はこの技を「タイガークロー」と呼ぶ解説者もいた。他にこの技の使い手はほとんど見られない。
この技の繰り出し方は主に3通りある。
  • 相手がリング中央にいる時
    相手を蹴る、あるいは殴る等をして相手が一瞬無防備になった隙に仕掛けるが、あまり決定打にはならない。
  • 相手をロープに振ってカウンターで仕掛ける
    このパターンで多くのフォール勝ちを納めている。ただし、技に入る直前のモーションが大きく、それを見抜かれて相手にかわされることもしばしばある。
  • ロープ際 → エプロン → 場外 へと相手を誘う
    ファンが最も興奮するのがこのパターンとされる。まずロープ際の相手にコブラクローを仕掛ける。相手はロープを掴むので、レフェリーはロープブレイクを宣言するがシンはそれに応じない。この時点で反則には違いないので、完全なチョーク攻撃へとシフトする。反則負けとされるカウント5の直前に、一瞬手を緩め、反則カウントをリセットさせ、またチョークを仕掛ける。これを繰り返している間に、自然と両者は徐々にリングの外へと移動し、やがてエプロンへ達する。次に、エプロンからはみ出た相手の頭部を、さらに下方の場外へと向けて締め下ろし、同様に反則カウント5をとられないようにこれを繰り返し、最終的に相手が場外へ落ち、直後に場外乱闘へと発展する。
ブレーンバスター
本来の意味での「脳天砕き」とは異なり、相手を大きく後方に投げる技ではあるが、しばしばこれでフォール勝ちを収めている。ただし受身があまり上手くないシンは、自身の頭部もダメージを受けることを避け、1980年代からはブレーンバスターの姿勢で相手を担ぎ上げ、ボディスラム気味に投げるスタイルが多く見られた。
足4の字固め
相手の足を4の字に固める技。正統派レスリングの時、グランドの攻防で時折使っていた。
レッグシザース
「首4の字固め」ともいう。相手の首から顎にかけ、自身の足を4の字に固める技。自身のスタミナを回復出来るメリットがあり、試合中盤によく使っていた。
凶器攻撃
トレードマークのサーベルターバンを筆頭に客席のパイプ椅子攻撃が特筆される。従来はほとんどのレスラーがパイプ椅子を畳んだ状態で広く平面的に殴っていたのに対し、シンは鋭利な部分で突きピンポイントにダメージを与える新たな方法をとった。サーベルは柄の部分で相手を殴ることがほとんどで、剣先で刺したレスラーは大仁田厚他数えるほどしかいない。また猪木にサーベルを奪われ、自身が剣先で刺されたこともある。
解説者が「何でも凶器にする」と言う通り、使用したアイテムは上記に加えビール瓶、三連パイプイス、テーブル、スパナ、木槌、ゴング、チャンピオンベルト、傘、ヘルメット、空き缶、脚立、ほうき、バケツ、チェーン、縄、ジュラルミンケース、リングロープ、タッチ用ロープ、フォーク、スプーン、靴、泥、石灰、鉄柱、アジャスター金具、場外フェンス、タオル、ポール、折り畳みの腰掛等と多岐に渡る。
反則技(凶器を使わない)
目潰し、噛み付きといったそれまで良く知られていた反則技に加え、急所攻撃が特筆される。試合中、自身が追い込まれ防戦一方と見せかけて、レフェリーの死角をつき、油断した相手の股間に一撃を加え一瞬で攻防を逆転させることがしばしば有った。因みに対猪木との最後の公式試合も、シンの急所攻撃→反則負け、である。
アルゼンチン・バックブリーカー
1975年に猪木からギブアップを奪った、シンの隠れたフィニッシュ・ホールド。

エピソード等

  • 上田馬之助とタッグチームを組んでいた頃、ストリップ劇場でサモアンズ1号・2号に「踊り子に手を出すな」と注意したことでトラブルになり、劇場外の交差点の真ん中で2対2の乱闘を繰り広げた。
  • 新日本プロレスに参戦する前に「ヒンズー・ハリケーン」のリングネームを使用した時もある。
  • 1970年代半ばの新日本プロレスは、シンを中心に回っていると言っても過言では無かった。事実シンが登場する興行は飛ぶように売れ、新日本プロレスはシンが登場しない興行との抱き合わせ販売もした。またNWFがシンを介して様々な手法で新日本プロレスに揺さぶりをかけたかのように見せ、当時はマイナーなタイトルだったNWFのベルトやタイトル戦の付加価値を高めた。
  • 新日本プロレス時代、『ワールドプロレスリング』の放送局であるテレビ朝日には毎週のようにシンの狂乱ファイトに抗議する電話が寄せられ、テレビ朝日に10台ある電話全てがパンクしたという[6]
  • ミスター高橋によると既述の「腕折事件」以後、骨折していることを装うため帰国までシンの右腕に包帯を巻き続けることを提案した。何日も同じ部位を覆っていたため後に腕の皮膚が炎症を起こしたが、シンは帰国までこれを実行したという。
  • 今では当たり前のように見られるリング外の場外フェンスは、1980年から新日本プロレスがシン対策(観客の安全を確保するため)として常設したのが最初である。フェンス設置直後は、オーバー・ザ・フェンスなる新ルールが設けられた(相手選手をフェンスの外に出せば反則負け)。これにより場外乱闘の行動半径が狭められる格好となったが、代わりにシンはフェンス目掛けてパイプ椅子を投げつける、通称「イス投げ」というムーブメントを確立した。
  • 1979年8月26日、東京スポーツ社主催「プロレス夢のオールスター戦」で、ファン投票で1位に選ばれたメインカードが、シン・ブッチャー組対猪木・馬場組であった。対戦前は「俺がブッチャーと組むくらいならむしろ猪木と組んで、ブッチャー・馬場組と対戦してやる」と、ブッチャーとのコンビを露骨に拒否したが、後年「あのオールスター戦のことはよく覚えている。もしメインが、ザ・ファンクス対馬場・猪木であれば、全日本プロレスの色が相当濃かっただろう。それを押さえて俺(シン)を含めたカードが1位で、しかもメインをとったことは今でも誇りに思う」と語っている。ちなみに馬場は引き分けで終わることを望みそれで予定はほぼ決まっていたが、試合直前に猪木から馬場へ電話があり、「俺(猪木)とシンで話がついたから」と語り、結果はシンのピンフォール負けであった。
  • 新日本参戦時の試合中に、サラリーマンとおぼしき観客に傘で殴りかかられたことがある。その際には徹底的な制裁を加え、続行中の試合実況において「先ほどのお客さんは病院に搬送されました」というリポートがあった。ただし実際の負傷の程度、賠償の有無等は不明である。
  • ある会場で試合前に狂人ギミックで暴れていたところ、癇に障った山本小鉄らがシンをロープで縛り上げ、そのまま控え室に放り込まれたことがある。
  • 入場テーマ曲は「サーベルタイガー」で、新日本プロレス時代から現在のハッスル迄、彼の主戦場で流されている。ただし全日本プロレスでは、「吹けよ風、呼べよ嵐」(ピンク・フロイド)が使用された。全日本プロレスにおいてこの曲は、いわゆる「(日本テレビの選曲による)凶悪レスラーの入場曲」という扱いであり、特に誰のテーマ曲とは決まっていなかったためである。ちなみにシン対ザ・シーク、シン対ブッチャーが実現したときは、双方の入場時にこの曲が流された。
  • 1979年、栗栖正伸が家族と共にアメリカへ移住するため飛行機に乗っていた時、栗栖の赤ちゃんがなかなか泣き止まないことがあった。たまたま同じ便に乗り合わせていたシンは、「私(シン)は長距離の移動は慣れているし、うちにも同じ年頃の赤ちゃんがいる。」と言って栗栖の赤ちゃんを抱きかかえ、そのままベビーシッター役を引き受けた。栗栖はシンに深く感謝し、その出来事をずっと忘れなかったため1990年、シンが新日本プロレスに戻って来たとき、栗栖は恩返しとばかり「イス大王」としてシンに加担した。
  • 新日本プロレス時代にはサーベルは新日本側で準備していた。全日本プロレス熊谷大会に乱入した際、凶器はサーベルではなく、モップの柄を所持していた。全日本参戦初日に自費でサーベルを購入している[2]
  • インド人コミュニティーが存在する南アフリカでプロレスのブッカーをしていたこともある。1987年、全日本プロレスにオファーを出し、ジャイアント馬場はそれに応えてハル薗田をブッキングした。ハル薗田とその妻は新婚旅行も兼ねて南アフリカに向かったが、その往路、南アフリカ航空295便墜落事故に遭遇し不帰の客となった。この時ばかりはシンも沈痛な面持ちで、マスコミのインタビューには背広姿で現れ、「ソノダと彼のワイフをこの様な事故で死なせてしまったことは大変申し訳ない」「彼(ソノダ)はとても良い友人でした」と、普段のギミックからは想像も付かない様な真摯な対応を見せた。その姿はヒール姿しか知らぬ日本のプロレスファンに、薗田の事故死とはまた別の意味で大きな衝撃を与えることになった。薗田夫妻の事故死はもちろんシンには何ら責任はないものであるが、その『償い』として犬猿の仲であるアブドーラ・ザ・ブッチャーと地上最凶悪コンビを結成し、全日本プロレスの興行に貢献したとされる。とはいえ、この一件も大きなきっかけとなってシンのヒールキャラクターがあくまでギミックであることが明らかとなり、その後のシンのキャラクター性はヒールの内であっても大きく変化してゆくことになる。
  • テレビ東京開運!なんでも鑑定団』において、シンから譲り受けたサーベルに40万円の鑑定額がついたことがある。
  • 札幌巡業中、ススキノで飲んで上機嫌になったシンと外人レスラー数名が、悪戯に近くに停めてあった車数台をひっくり返し、本当に警察沙汰になったことがある。
  • 函館巡業中、すし屋へ行って「金魚を握ってくれ」と言ったことがある。
  • ヘビが苦手であるにもかかわらず、上田馬之助によって中野駅前の蛇料理店や、まむしラーメンで名高いミスター高橋経営のラーメン店に連行された。
  • リングネームは、日本語では一般的に「タイガー・ジェット・シン」と表記されるが、東京スポーツだけは1990年代中期辺りから「タイガー・ジット・シン」と表記している。本項の冒頭にある通り、ミドルネームの英語表記は“Jet”ではなく“Jeet”であり、後者の発音からすると「ジット」となるのが正しいという。そうした旨の申し入れがシン本人からあったため、以降は「ジット」と表記するようになったという。
  • 1994年7月8日付東京スポーツ1面トップで「シン7万円(1,000カナダドル)詐欺逮捕」と報じられる。同紙、並びに『紙のプロレス』第11号で本人は全面否定。
  • 地元では慈善事業家としての一面もありこちらでの評価も高く、2010年9月に自身の名前を冠した公立高校が、カナダオンタリオ州ミルトンに開校した[7]

獲得タイトル

ワールド・チャンピオンシップ・レスリング
メープル・リーフ・レスリング
NWAオールスター・レスリング
  • NWAカナディアン・タッグ王座(バンクーバー版):1回(w / デニス・スタンプ)[10]
ナショナル・レスリング・フェデレーション
ユニバーサル・レスリング・アソシエーション
新日本プロレス
  • NWF北米ヘビー級王座:1回
  • NWA北米タッグ王座:1回(w / 上田馬之助
  • アジアヘビー級王座(新日本プロレス版):1回
  • アジアタッグ王座(新日本プロレス版):1回(w / 上田馬之助)
全日本プロレス
フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング

来日歴

タイトル戦歴・名勝負等

脚注

  1. ^ 東京スポーツ・2009年3月29日付 「小佐野景浩のプロレススーパースター実伝」第47回
  2. ^ a b 日本プロレス事件史 Vol.8 P13 - P14(ベースボール・マガジン社、2015年)
  3. ^ グレーテスト18クラブが設立された直後は猪木が同タイトルの一切の権限を持っていたが、すでにセミリタイヤの状態であった猪木はこれを長州力に譲った。シンは自分より格下としか認めていない長州の下のメンバーであることが癇に障り、長州やその周辺に対する凶行を重ねたため、後に除名されることとなった。
  4. ^ 1992年正月の東京ドーム興行において、メインはシン対猪木であることが早々に決まったが、これに対して馳浩が「一線を退いた者同士ではなく、俺(馳)と戦ってほしい」と猪木にアピールする。猪木は自分の一存では決められないため、馳にシンと直接交渉することと伝えた。馳はカナダのシンの自宅を訪問したが、シンに暴行を受け池に落とされた。話し合いでは結論が出ないため新日側は、巌流島で戦って勝った方を猪木の対戦相手とすることとした。同決戦においては先にシンが馳を大流血に追い込んだが、馳の凶器で滅多打ちにされたシンが自身最大級の流血に見舞われ、リング内でKO負けした。
  5. ^ 山本小鉄は近年のコラムで、この技の合法性に関し「あれは紛れもなく反則。だから自分がレフェリーに転身後は、あの技に対し厳しく反則をとった」などと語っている。
  6. ^ 日本プロレス事件史 Vol.2 P29 - P30(ベースボール・マガジン社、2014年)
  7. ^ 東京スポーツ2010年3月11日付7面記事
  8. ^ IWA World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月5日閲覧。
  9. ^ NWA International Tag Team Title [Toronto]”. Wrestling-Titles.com. 2013年8月7日閲覧。
  10. ^ NWA Canadian Tag Team Title [Vancouver]”. Wrestling-Titles.com. 2013年8月7日閲覧。

関連項目

外部リンク