センサク・ムアンスリン

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センサク・ムアンスリン
基本情報
本名 ブンソン・マンシリ
บุญส่ง มั่นศรี
通称 セープ แสบ、桃色の左 ซ้ายสีชมพู
階級 スーパーライト級
国籍 タイ王国の旗 タイ
誕生日 (1950-08-13) 1950年8月13日
出身地 タイ王国ペッチャブーン県
死没日 (2009-04-16) 2009年4月16日(57歳没)
死没地 タイ王国バンコク
スタイル サウスポー
プロボクシング戦績
総試合数 20
勝ち 14
KO勝ち 11
敗け 6
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センサク・ムアンスリン: แสนศักดิ์ เมืองสุรินทร์: Saensak Muangsurin1950年8月13日 - 2009年4月16日)は、タイの元プロボクサー。前歴は元ムエタイ選手。本名はブンソン・マンシリ (Boonsong Mansri)。ボクシング史上最短となる3戦目で世界王座奪取という記録を持つ[1]。元WBC世界スーパーライト級王者。

来歴[編集]

ムエタイ選手としてキャリアを歩み始め、ルンピニー・スタジアムのスーパーライト級チャンピオンとなる。アマチュアボクシングでは1973年東南アジア競技大会で金メダルを獲得。プロボクシングデビューは1974年、当時のマネージャーが3戦で世界を獲ることを宣言し、いきなり世界6位のルディ・バロを1回KOに破る。2戦目で日本の強豪ライオン古山を7回KO。そしてペリコ・フェルナンデスを8回KOで下し、公言どおりプロ転向からわずか3試合で世界タイトルを獲得した。その後、来日しライオン古山を相手に王座防衛。スペインでミゲル・ベラスケスを挑戦者に2度目の防衛戦を行うが、ダウンを奪うなど一方的にリードしながらも4回終了間際のラッシュ中にゴングが鳴り、その直後ダウンしたベラスケスが立ち上がらず反則負けで防衛失敗。しかしWBCがリマッチを承認、4か月後スペインでベラスケスとの再戦を制して王座に返り咲いた。同タイトルは7度防衛したが、1978年12月30日、金相賢に13回KOされ陥落。1981年4月5日の試合を最後に引退。

2009年4月13日、バンコクの病院で肝炎の手術を受けたが病状は回復せず、3日後の4月16日死去。

戦績[編集]

  • プロボクシング:20戦14勝 (11KO) 6敗
日付 勝敗 時間 内容 対戦相手 国籍 備考
1 1974年11月16日 勝利 1R KO ルディ・バロ フィリピンの旗 フィリピン プロデビュー戦
2 1975年2月16日 勝利 7R TKO ライオン古山 日本の旗 日本
3 1975年7月15日 勝利 8R KO ペリコ・フェルナンデス スペインの旗 スペイン WBC世界スーパーライト級タイトルマッチ
4 1975年12月13日 勝利 6R KO エリー・ヤレス フィリピンの旗 フィリピン ノンタイトル戦
5 1976年1月25日 勝利 15R 判定 ライオン古山 日本の旗 日本 WBC防衛1
6 1976年6月30日 敗北 4R 反則 ミゲール・ベラスケス スペインの旗 スペイン WBC王座陥落
7 1976年10月29日 勝利 2R TKO ミゲール・ベラスケス スペインの旗 スペイン WBC世界スーパーライト級タイトルマッチ
8 1977年1月15日 勝利 15R TKO モンロー・ブルックス アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 WBC防衛1
9 1977年4月2日 勝利 6R KO ガッツ石松 日本の旗 日本 WBC防衛2
10 1977年6月17日 勝利 15R 判定 ペリコ・フェルナンデス スペインの旗 スペイン WBC防衛3
11 1977年8月20日 勝利 6R TKO マイク・エベレット アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 WBC防衛4
12 1977年10月23日 勝利 15R 判定 ソウル・マンビー アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 WBC防衛5
13 1977年12月30日 勝利 14R TKO ジョー・キンプアニ フランスの旗 フランス WBC防衛6
14 1978年4月8日 勝利 13R TKO フランシスコ・モレノ ベネズエラの旗 ベネズエラ WBC防衛7
15 1978年12月30日 敗北 13R KO 金相賢 大韓民国の旗 韓国 WBC王座陥落
16 1979年7月20日 敗北 10R 判定 ダン・デグスマン フィリピンの旗 フィリピン
17 1979年10月18日 敗北 3R TKO トーマス・ハーンズ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
18 1980年9月30日 勝利 5R TKO マイク・デグスマン フィリピンの旗 フィリピン
19 1980年11月13日 敗北 10R 判定 アンドニ・アマナ スペインの旗 スペイン
20 1981年4月5日 敗北 12R 判定 黄忠載 大韓民国の旗 韓国 OPBFウェルター級タイトルマッチ
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エピソード[編集]

ムエタイ選手だった兄の影響を受けてセンサクもムエタイを始めたが、初めの10試合で7敗している。初期のリングネームはセンセープ・ペットチャルン (แสนแสบ เพชรเจริญ) と、セープスアン・ペットチャルン (แสบทรวง เพชรเจริญ) を気分で使い分けていた。

センサクはムエタイ王者としても無類の強さを発揮している。ボクシングで古山や石松を相手に防衛戦をする以前にムエタイ王者として来日、後の全日本ライト級王者玉城良光に3回KO勝ち。このときはパンチの得意な玉城に対し、膝蹴りで一蹴。試合後、病院に直行した玉城は内臓破裂しており、すぐに緊急手術された。玉城はダウンしなかったが、レフェリーは即座に試合を止めた。玉城は「まだやれる!と怒ったが、経験豊富なレフェリーの判断は正しかった。もう一発もらっていたら、命はなかった」と語っている。

プロボクシングでの戦歴のKO率が示すように驚異的なハードパンチャーであった。ムエタイの試合においてもKOは多く、アマチュアボクシングでも第7回東南アジア競技大会(開催地:シンガポール)で、決勝を含む全試合をKOで勝ち金メダルを獲得した。

日本での2度目の防衛戦は蔵前国技館でガッツ石松の挑戦を6回KOで退けた。その試合後「精力が余って眠れない」と言いながらソープランド(当時は「トルコ風呂」)を3店もハシゴしたといわれている。また、試合のインターバルで口の中に含んだ水(通常は吐き出す)をそのままがぶ飲みするなど型破りなボクサーとして知られる。

現役選手時代に当時のタイの有名女優と結婚し男児をもうけたが後に離婚し、互いに再婚している。現役引退後は周囲に担ぎ上げられ選挙に出馬するも落選。晩年は健康状態に恵まれず経済的にも不遇のまま死去した。

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

前王者
ペリコ・フェルナンデス
WBC世界スーパーライト級王者

1975年7月15日 - 1976年6月30日

次王者
ミゲール・ベラスケス
前王者
ミゲール・ベラスケス
WBC世界スーパーライト級王者

1976年10月29日 - 1978年12月30日

次王者
金相賢