スレイヤー

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スレイヤー
Slayer
基本情報
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カリフォルニア州ハンティントン・パーク[1]
ジャンル スラッシュメタル[1][2][3]
スピードメタル[1][3]
ヘヴィメタル[3]
ハードコア・パンク[2]
活動期間 1981年 -
レーベル アメリカン・レコーディングズ
デフ・アメリカン・レコード
デフ・ジャム
メタル・ブレイド・レコーズ
公式サイト Slayer / YeboTV (英語)
メンバー トム・アラヤ (ボーカルベース)
ケリー・キング (ギター)
ポール・ボスタフ (ドラムス)
ゲイリー・ホルト(ギター)
旧メンバー ジェフ・ハンネマン (ギター)
デイヴ・ロンバード (ドラムス)
ジョン・デッティ (ドラムス)

スレイヤーSLAYER)は、1981年に結成されたアメリカ合衆国スラッシュメタルバンド[1]メタリカメガデスアンスラックスらのバンドと共に「BIG 4(スラッシュメタル四天王)」の1つであり、他の三者が音楽性を変えた後もスラッシュメタルの道を突き進んでいる。1986年にリリースされたアルバム『Reign in Blood - レイン・イン・ブラッド -』は英国ケラング!誌に"the heaviest album of all time by Kerrang!"と評された[4]

歌詞やアルバムのジャケットに用いられる、死、自殺、精神異常、死体、サタニズム、連続殺人犯、戦争などといったテーマがしばしば議論を呼び、アルバムの発売禁止及び延期、訴訟に発展し、80年代にはPMRCの標的にもなった。また、後のデスメタルブラックメタルにも影響を与えた。

1983年のデビュー時から2枚のライヴ・アルバム、1つのボックスセット、4つの映像作品、2枚のEP、11枚のアルバムをリリースし、4枚のゴールドディスクを獲得している。グラミー賞には3回ノミネートされ、2007年には『Eyes of the Insane』が、2008年には『Final Six』が最優秀メタル・パフォーマンスに選ばれた。全米でのアルバム総売上は350万枚を超え、『オズフェスト』や『UNHOLY ALLIANCE TOUR』などのロックフェスティバルではヘッドライナーを務めるほどの人気を有している。

来歴

1981年Kerry KingDave Lombardoが意気投合し、Kerryが以前に「Quits」というバンド(その前は「Tradewings」という名前だった)で一緒にプレイしていたチリ出身のTom Arayaと、Jeff Hannemanを勧誘したことで結成された。最初は北カリフォルニアのクラブやパーティでアイアン・メイデンジューダス・プリーストなどのカヴァーを演奏していた。当初バンド名は「Dragonslayer」で、1981年公開の同名映画のタイトルからそのまま取ってつけられたという噂があったが、Kerryはこれを否定している。ロサンゼルスにある「Woodstock Club」にてヘヴィメタルバンド「Bitch」の前座としてライブで演奏(全8曲、その内6曲はカヴァー)した際、アイアン・メイデンの「Phantom of the Opera」をプレイする姿を見たアメリカの名門メタルレーベル「メタル・ブレイド・レコーズ」の創設者「ブライアン・スレイゲル(Brian Slagel)」に見出される。その後バックステージで両者は出会い、BrianはSlayerに作曲を要請しバンドはそれを承諾した。

1983年、そのメタル・ブレイド・レコーズによるコンピレーションアルバムの第三弾『メタル・マサカー3 - METAL MASSACRE 3 - 』(詳細は→メタル・ブレイド・レコーズ)に曲「Aggressive Perfector - アグレッシブ・パーフェクター」を提供、このレーベルと契約した。同年12月にデビュー作となる1stアルバム『ショウ・ノー・マーシー - SHOW NO MERCY - 』を発表。バンドには資金がなかったため、自分達で製作費用を出した(Tomは自分の稼ぎを充て、Kerryは父から金を借りた)。これによりメンバーはこの年の11月にスタジオ入りすることができた。

1984年には、アルバムのプロモーションを兼ねてライブツアーを行った。ツアーと言っても国内のクラブを回るもので、Tomの所有するカマロU-ホールから借りたトレーラーを引きながらの移動であった。このライブのおかげでバンドは知名度を上げ、アルバムはアメリカだけでも2万枚、国外でも2万枚以上の売り上げを記録する。同年10月、3曲入りEPホーンティング・ザ・チャペル - HAUNTING THE CHAPEL - 』を発表。アルバムの幕開けとなる「ケミカル・ウォーフェアー - Chemical Warfare - 」はバンドの定番の曲となった。アルバムリリース後、Slayerはバンド「UFO」の前座として、ライブ「Heavy Sounds Festival」においてヨーロッパデビューを果たす。アメリカに戻ってからは、ツアー「Haunting the West」を開始。ツアー後に、Kerryは「デイヴ・ムステイン(Dave Mustain)」の新しいバンド「メガデス(MEGADETH)」に加入するために一時バンドを離れている。Jeffはこれに関して「新しいギタリストを探そうか考えていた」と語っている。その後バンドはヴェノムエクソダスと共に「Combat Tour」を開始、ライブアルバム『Live Undead』をリリース。

1985年、初のライブ映像となる『Combat Tour:The Ultimate Revenje』をリリース。ヴェノムらと共にニューヨークの「Studio 54」にて出演したライブが取り上げられた。またこの年にはアルバム『SHOW NO MERCY』の売り上げが4万枚を突破、バンドは2枚目のスタジオアルバムを製作することが出来ることになる。メタル・ブレイドは製作費用をバンドに与え、今回の収録にはプロデューサーの「Ron fair」を雇うことができた。同年9月、2ndアルバム『ヘル・アウェイツ - HELL AWAITS - 』を発表。『Hell Awaits』が成功したあと、バンドはリック・ルービンが率いるメジャー・レーベルデフ・ジャムからオファーを受け移籍する。

1986年、3rdアルバム『レイン・イン・ブラッド - REIGN IN BLOOD - 』を発表するが、「歌詞が過激過ぎる」という理由から(ナチスの虐殺者ヨーゼフ・メンゲレについて歌った『エンジェル・オブ・デス』が特に問題視された)、コロムビア・レコードがアメリカ国内の配給を拒否[5]。その後、当時ワーナーグループ傘下だったゲフィン・レコードからの配給が決定、無事発売(しかし議論の結果このレコード会社のリリース表にはこのアルバムの名は記載されていない)され、ラジオでのエアプレイがなかったにも関わらずビルボード誌のアルバム・チャートで最高50位台を記録する。なお、イギリスでは、WEAが発売を拒否したため、ロンドンレコードから発売された。同年10月、Slayerはワールドツアー「Reign in Pain」をオーヴァーキルやMaliceと共に開始。またバンド「W.A.S.P.」のツアーにおいてオープニングを務めることも決定するが、その後1ヵ月も経たないうちにドラマーのDaveが「家庭生活を優先したい」とし脱退。ツアーを続けるために元「ウィップラッシュ」の「Tony Scaglione」が参加するが、翌年には妻の説得によりDaveが復帰。

1987年コロムビア・レコードの創設者、「Rick Rubin(リック・ルービン)」の強い主張によって、映画「Less Than Zero」のサウンドトラックのためにバンド「アイアン・バタフライ」の代表曲『In-A-Gadda-Da-Vida』のカヴァーを収録。バンドはこれを快く思っておらず、Jeffは「可哀相なSlayerの演出」と考えており、Kerryは「の塊」と言っている。ちなみに、この歌はラジオで流されたSlayerの最初の曲の1つである。

1988年、4thアルバム『サウス・オブ・ヘヴン - SOUTH OF HEAVEN - 』を発表。製作する際、前作の『Reign in Blood』から一転、あえて曲のテンポを下げ、メロディアスな歌唱を取り入れることを決める。これに関してJeffは「『Reign in Blood』を越えることができないのは分かっていた。だから曲のスピードを落としたんだ。リリースしたアルバムが皆『Reign〜』と比べられることが分かっていたからね。奇妙なことだった。この前にも後にも、こんなことは無いよ」と語っている。またこのことはファンや評論家から様々な反響を呼んだが、アルバムは当時最も商業的に成功し、ビルボードチャートで初登場57位(200位中)を記録、また彼等の2枚目のゴールドディスク授賞作品となった。アルバムに対する評価は色々で、「Allmusic」は「混沌としており力強い」と評価する一方、Kerryは「最も活気の無いアルバムだ」と評している。同年8月12日ロサンゼルスのハリウッド・パラディウムでの公演と8月31日ニューヨークのフェルト・フォーラムでの公演において、プロモーターがチケットを売り過ぎたことが原因で観客の暴動が発生。同会場での演奏が禁止される。

1990年に5thアルバム『シーズンズ・イン・ジ・アビス - SEASONS IN THE ABYSS - 』を発表。『クラッシュ・オブ・ザ・タイタンズ』ツアー(第一弾はスレイヤー、メガデス、テスタメントスイサイダル・テンデンシーズというラインナップでの1990年のヨーロッパツアー、第二弾はスレイヤー、メガデス、アンスラックス、アリス・イン・チェインズというラインナップでの1991年全米ツアー)を実施。ビルボード誌の総合チャートで40位内にランクイン。

1991年、活動開始10年を記念したライヴ・アルバム『ディケイド・オブ・アグレッション - DECADE OF AGGRESSION - 』を発表。1992年にデイヴ・ロンバードが脱退。新ドラマーとして元フォビドゥンのポール・ボスタフが加入。1994年、『ディヴァイン・インターヴェンション - DIVINE INTERVENTION - 』を発表。1995年、ビデオ『ライブ・イントゥルージョン - LIVE INTRUSION - 』発表

1996年パンク/ハードコアカバーアルバム『アンディスピューテッド・アティテュード - UNDISPUTED ATTITUDE - 』を発表。ポールが脱退し、新ドラマーとして元テスタメントのジョン・デッティが加入するが、すぐにポールが復帰。

1998年、7thアルバム『悪魔の鎮魂歌(レクイエム) - DIABOLUS IN MUSICA - 』を発表。

2001年、8thアルバム『ゴッド・ヘイツ・アス・オール - GOD HATES US ALL - 』を発表。8月には日本のヘヴィロック・フェスティバル「Beast Feast 2001」にパンテラとのダブル・ヘッドライナーとして出演。

2002年、12月に再びヘッドライナーとして「Beast Feast 2002」に出演。2003年、DVD『ウォー・アット・ザ・ウォーフィールド - WAR AT THE WARFIELD - 』 、BOX-SET『サウンドトラック・トゥ・ジ・アポカリプス - SOUNDTRACK TO THE APOCALYPSE - 』発表。2004年、DVD『スティル・レイニング - STILL REIGNING - 』発表。

2006年、オリジナル・ドラマーのデイヴが復帰。8月、約5年ぶりの9thアルバム、『クライスト・イリュージョン - CHRIST ILLUSION - 』をリリース。ビルボード初登場5位を記録した。10月には日本のヘヴィメタル・フェスティバル「LOUD PARK 06」への出演、単独公演を行った。

2007年、『クライスト・イリュージョン - CHRIST ILLUSION - 』のリイシュー盤、DVD『アンホーリー・アライアンス・ツアー:邪悪伝道同盟 - THE UNHOLY ALLIANCE - 』を発表。

2009年、10thアルバム『血塗ラレタ世界 -WORLD PAINTED BLOOD- 』をリリース。10月には日本のヘヴィメタル・フェスティバル「LOUD PARK 09」への出演、単独公演を行った。

2011年、ジェフが右腕を毒蜘蛛に噛まれ、壊死性筋膜炎を発症したため、バンドを離脱。ツアーにはエクソダスで活動するゲイリー・ホルトがサポートで参加することとなった。

2013年2月、デイヴがツアーに参加しないことを表明[6]5月2日、復帰が待ち望まれていたジェフが肝不全により死去[7]。これにより、ゲイリーは事実上の正式メンバー扱いとなる。5月30日、2月に脱退したデイヴの後任としてポールが復帰[8]

2015年9月11日、6年ぶりとなる11thアルバム『リペントレス -Repentless- 』をリリース。10月には、LOUD PARK 15のヘッドライナーとして来日が決定している。

メンバー

  • トム・アラヤベースボーカル
  • ケリー・キングギター
  • ポール・ボスタフPaul Bostaph1964年3月4日 - )
    • ドラムス担当。1992年から1996年まで、および1997年から2001年まで在籍。2013年復帰。
    • フォビドゥンのドラマー。1992年に脱退したデイヴ・ロンバードの後任として加入。
    • 1996年に「スレイヤーとは違う音楽性に挑戦したい」という理由で脱退。「The Theory Of a Seaweed」なるプログレッシブ・ロック色の強いプロジェクトに参加したが、音楽性の違いからすぐにスレイヤーに戻っている。
    • 肘の故障を理由に2001年に正式に脱退。一時スレイヤーのメンバーと確執があったが、後に和解した。スレイヤーを抜けた後はテスタメントエクソダスに参加した。
    • ポールの脱退後にバンドに復帰していたデイヴのツアー離脱からの脱退に伴い、バンドに再び復帰することが発表された。
  • ゲイリー・ホルトGary Holt1964年5月4日 - )
    • ギター担当。エクソダスのギタリストで、ジェフ・ハンネマンの代役として2011年のツアーから参加。ジェフの死去に伴い、事実上正式メンバーの扱いとなる。

元メンバー

  • ジェフ・ハンネマンギター
  • デイヴ・ロンバードドラムス)通称「Godfather of Double Drums」。
    • 二度の脱退を経て2006年に復帰。在籍期間は1984年-1986年、1986年-1992年、2006年-2013年。
  • ジョン・デッティJon Dette
    • ドラムス担当。1996年から1997年まで在籍。
    • テスタメントのメンバー。1996年に脱退したポール・ボスタフの代わりに加入する。1997年にポール・ボスタフが復帰すると再びテスタメントに戻った。
    • 2012年にはアニメタルUSAに参加している。また、デイヴの脱退からポールの再々加入までのライブで代役としてサポート参加している。

サポートメンバー

  • トニー・スカグリオンTony Scaglione
    • ウィップラッシュ。1986年にデイヴ・ロンバードが一時脱退した際にサポート・ドラマーとして参加。

作品

オリジナル・アルバム

  1. ショウ・ノー・マーシー - Show No Mercy (1983年)
  2. ヘル・アウェイツ - Hell Awaits (1985年)
  3. レイン・イン・ブラッド - Reign in Blood (1986年)
  4. サウス・オブ・ヘヴン - South of Heaven (1988年)
  5. シーズンズ・イン・ジ・アビス - Seasons in the Abyss (1990年)
  6. ディヴァイン・インターヴェンション - Divine Intervention (1994年)
  7. 悪魔の鎮魂歌(レクイエム) - Diabolus in Musica (1998年)
  8. ゴッド・ヘイツ・アス・オール - God Hates Us All (2001年)
  9. クライスト・イリュージョン - Christ Illusion (2006年)
  10. 血塗ラレタ世界 - World Painted Blood(2009年)
  11. リペントレス - Repentless(2015年)

脚注

  1. ^ a b c d キューブミュージック
  2. ^ a b Slayer reviews, music, news- sputnikmusic・2015年6月19日閲覧。
  3. ^ a b c Slayer|Biography”. オールミュージック. All Media Guide. 2015年6月19日閲覧。
  4. ^ Kerrang! Awards
  5. ^ 『レイン・イン・ブラッド(日本盤)』におけるライナーノーツ(1995年1月24日 有島博志 記)より。
  6. ^ “スレイヤーのデイヴ・ロンバード、オーストラリア・ツアーの不参加を発表”. amass. (2013年2月21日). http://amass.jp/18107/ 2015年9月13日閲覧。 
  7. ^ Slayer's statement about Hanneman's death”. フェイスブック|slayer. 2013年5月4日閲覧。
  8. ^ SLAYER Welcomes Drummer PAUL BOSTAPH Back To The Fold - May 30, 2013”. Blabbermouth.net. Roadrunner Records. 2013年5月30日閲覧。

外部リンク