スペンサー・トレイシー

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スペンサー・トレイシー
Spencer Tracy
Spencer Tracy
1948年
生年月日 (1900-04-05) 1900年4月5日
没年月日 (1967-06-10) 1967年6月10日(67歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ウィスコンシン州ミルウォーキー
職業 俳優
ジャンル 映画舞台
活動期間 1923年 - 1967年
配偶者 Louise Treadwell (1923-1967)
主な作品
アダム氏とマダム
老人と海
ニュールンベルグ裁判
招かれざる客
 
受賞
アカデミー賞
主演男優賞
1937年我は海の子
1938年少年の町
カンヌ国際映画祭
男優賞
1955年日本人の勲章
AFI賞
アメリカ映画100年のヒーローと悪役ベスト100(ヒーロー部門第42位)
2003年『少年の町』
英国アカデミー賞
主演男優賞
1968年『招かれざる客
ゴールデングローブ賞
主演男優賞(ドラマ部門)
1953年『The Actress
その他の賞
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スペンサー・トレイシー(Spencer Tracy, 1900年4月5日 - 1967年6月10日)は、アメリカ合衆国ウィスコンシン州ミルウォーキー出身の俳優。愛称はスペンス。

生涯[編集]

父は自動車工場の重役。喧嘩っ早さや気の強さはアイリッシュの父親譲りで、喧嘩に明け暮れた少年時代を過ごす。その結果、何度も放校処分になり、高校を卒業するまでは15回も学校が変わったという。

俳優のパット・オブライエンとは幼馴染で、1917年アメリカ海軍に入ったときも年齢を偽って一緒だった。その後は実際に戦場に行くことはなく、除隊後は医者をめざしてウィスコンシン州のリポン大学で学ぶ[1]も、大学の弁論部で熱弁をふるううちに演劇に興味を持ち、学生演劇に参加[2]。さらに卒業後はオブライエンと共同生活をしながらニューヨークアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツで学ぶ。セールスマンや掃除人で生活費を稼ぎながら、1923年ブロードウェイの舞台『R.U.R.』のロボット役で舞台デビュー、その後は舞台『A Royal Fandango』でエセル・バリモアと共演して一躍注目を集めたのを初め、主にブロードウェイで活躍した。また、1923年には女優のルイーズ・トレッドウェルと結婚し[3]、息子ジョン(後にディズニーでアニメ制作にかかわる)と娘ルイーズ[4]をもうけるが、親しい友人としてつきあいもしつつ晩年は別居していた。

1929年、死刑囚に扮したブロードウェイのヒット作『The Last Mile』で評判をとる。この年にはニューヨークで製作された3本の短編映画に出演、映画俳優になるため各スタジオのスクリーンテストを受けるが、当時のハリウッドとしてはお世辞にも美男子とは言えなかったスペンサーはお呼びではなかった。映画界入りの夢を果たせないままに見えたが、『The Last Mile』の舞台に出演していたところを監督のジョン・フォードに見出され、同年に映画『河上の別荘』に主役として抜擢。同時にフォックス社と契約するが、やはりその顔立ちから悪役ばかりやらされ、順調な滑り出しとは言えなかった。しかし、1933年の『春なき二万年』に出演した頃から演技が認められるようになり、『力と栄光』ではたたき上げの鉄道王役を評じる。特にロレッタ・ヤングと共演した『青空天国』では彼女との仲が話題にもなった。その後の5年間で25本もの映画に出演し、1935年メトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約、1936年フリッツ・ラング監督による『激怒』や、1937年アカデミー主演男優賞に初ノミネートされたパニック映画『桑港(サンフランシスコ)』などに出演。そして1937年のポルトガル人漁師を演じた『我は海の子』と1938年の実在するフラナガン神父を演じた『少年の町』で2年続けてアカデミー主演男優賞を受賞。この2年連続受賞の快挙はこの57年後に『フィラデルフィア』と『フォレスト・ガンプ/一期一会』でトム・ハンクスが受賞するまで唯一の事だった。これを機に一躍人気スターとなり、マネー・メイキング・スターに仲間入りも果たす。またこの頃、ロス五輪の馬術金メダリストだった西竹一とも親交があった。

1941年にはキャサリン・ヘプバーンとの絶妙なコンビネーションで話題を呼び『女性No.1』がヒット。キャサリンとはこの共演がきっかけで交際するようになり、二人はスペンサーの遺作となった『招かれざる客』まで9本の映画で共演するが、トレイシーはカトリックであり、最初の妻と離婚しなかったため(ルイーズが障害のある息子を育て上げたことに、トレイシーは生涯申し訳なさを感じていた)二人は結婚しなかった。1940年代は映画会社の上層部と何度かトラブルを起こし、あまり作品に恵まれなかったが、1950年の『花嫁の父』がヒット、アカデミー主演男優賞にもノミネートされ、また翌1951年に続編『可愛い配当』が製作された。その後の主な作品に、1954年の異色ウェスタン『折れた槍』、翌1955年カンヌ国際映画祭最優秀演技賞を受賞した『日本人の勲章』、1958年にはほとんど一人芝居で演じたアーネスト・ヘミングウェイ原作の『老人と海』と、全米批評家協会賞を受賞した『最後の歓呼』、1961年のナチ戦犯を裁く裁判長を演じた大作『ニュールンベルグ裁判』などが挙げられる。1963年の『おかしなおかしなおかしな世界』への出演以降、晩年は心臓を悪くし、ルイーズとキャサリンで交代に看病していたが、1967年に『招かれざる客』の撮影が終了した17日後に心臓発作で死去。スペンサーの死を看取ったのは晩年をパートナーとして過ごしたキャサリンだったが、「ルイーズに申し訳ない」との理由から葬儀へは出席しなかった。その緻密な演技は現在に至るまで多くの俳優の目標になっており、アカデミー賞は受賞を含めてノミネート回数9回という輝かしい記録を持つ(2010年現在、男優ではジャック・ニコルソンの主演・助演含めて12回が最高記録)。

人物[編集]

アダム氏とマダム』にてキャサリン・ヘプバーンと共に

誠実で温厚な人格者の役柄を数多く演じたのとは対照的に、スペンサー本人は大変な自信家で、気も強く、荒々しい気性の持ち主だったことから映画会社の首脳部と衝突することも多かった。実際に、フォックス社を退社した時もその気性の荒い性格から「こんな愚作に出られるか!」と新人であったにもかかわらず、『舗道の殺人』の企画に平気で文句をつけて、監督のティム・ウィーランと殴り合いの喧嘩をするわ、暴れてセットを壊すわ、酔っ払って喧嘩しては逮捕される事も珍しくなかったため、手を持て余したFOXに助演格に落とされたのにスペンサーが怒り、結局は出演拒否したのが原因で解雇されたからであった。

またその一面を象徴するエピソードとして、キャサリンが『女性No.1』の撮影中にスペンサーと初めて会った際、「私ちょっと背が高すぎるわね、って言いましたら、心配するな、じきに僕に合うように小さくしてやるよ、と言うんですよ」とキャサリンはのちに語っている[要出典]。また仲が良かったものの、同じMGMのトップスターの座を巡っては、敵愾心を見せる仲だったライバルでもあるクラーク・ゲーブルも、スペンサーに対し「あいつはいいやつだ。この世界で彼にかなう奴はいないよ。彼と競争しようという奴はバカだ。あいつはそのことを自分でも知っているんだ。だから彼の謙遜した口ぶりにだまされちゃいけないよ」と語っている。

自信家の一方、演技者としての実力も誰もが認めるところで、その自然体の演技は内外を問わず多くの俳優に影響を与えた。親友のハンフリー・ボガートも「スペンスの演技は最高だった。彼がどう演じているのか、その仕掛けはまるで見えなかったからね」とコメントを残している[要出典]

晩年に『風の遺産』、『ニュールンベルグ裁判』、『おかしなおかしなおかしな世界』、そしてスペンサーの遺作となった『招かれざる客』などでコンビを組んだスタンリー・クレイマーは、荒々しいスペンサーを『レイジング・ブル(怒れる雄牛)』とまで呼んだ。

スペンサーの死後、キャサリンは彼との思い出を次のように語っている。「スペンサーはいつでも、男が生活費を稼ぐための仕事としては、俳優というのはちょっと馬鹿げた仕事だって考えてたと思うわ。彼は古い樫の木のような人、あるいは夏の風のような人。いずれにしろ男が男だった時代の人だった」[要出典]。また、お互いの関係について、「アメリカで理想の男性といえばスペンサーよ。私は意地悪いことを言ったり、彼をじらしたり、一杯食わせてみたり、女そのものを演じていたわ。でも、彼がホンキで怒ればすぐ降参。男と女のロマンチックで理想的な関係というのはこういうものなのよ」と語っていた[要出典]

出演作品[編集]

公開年 邦題
原題
役名 備考
1930 河上の別荘
Up The River
セント・ルイス
1931 速成成金
Quick Millions
ダニエル・J・レイモンド(バグス)
1932 彼女は金満家がお好き
She Wanted a Millionaire
ウィリアム
ヤング・アメリカ
Young America
ジャック
金髪乱れて
Me and My Gal
ダニー
春なき二万年
20,000 Years in Sing Sing
トミー
1933 狂乱の上海
Shanghai Madness
パット・ジャクソン
力と栄光
The Power And The Glory
トム・ガーナー
1934 電話新撰組
Looking for Trouble
ジョー・グラハム
1935 舗道の殺人
The Murder Man
スティーヴ・グレイ
ダンテの地獄篇
Dante's Inferno
ジム・カーター
1936 港に異常なし
Riffraff
ダッチ
激怒
Fury
ジョー・ウィルソン
桑港
San Francisco
マリン神父
結婚クーデター
Libeled Lady
ハガーティ
1937 戦友
They Gave Him a Gun
フレッド
我は海の子
Captains Courageous
マヌエル・フィデロ アカデミー主演男優賞 受賞
1938 テスト・パイロット
Test Pilot
ガンナー・モリス
少年の町
Boys Town
フラナガン神父 アカデミー主演男優賞 受賞
1939 スタンレー探検記
Stanley and Livingstone
ヘンリー・M・スタンレー
1940 北西への道
Northwest Passage
ロバート・ロジャース
人間エヂソン
Edison, the Man
トーマス・エジソン
ブーム・タウン
Boom Town
スクエア・ジョン・サンド
1941 ジキル博士とハイド氏
Dr. Jekyll and Mr. Hyde
ジキル博士/ハイド氏
1942 女性No.1
Woman of the Year
サム・クレイグ
火の女
Keeper of the Flame
スティーヴィー
1944 第七の十字架
The Seventh Cross
ジョージ
東京上空三十秒
Thirty Seconds Over Tokyo
ジェームズ・H・ドーリットル
1947 大草原
The Sea of Grass
1948 愛の立候補宣言
State of the Union
グラント・マシューズ
1949 アダム氏とマダム
Adam's Rib
アダム・ボナー
1950 花嫁の父
Father of the Bride
スタンリー・T・バンクス
1951 可愛い配当
Father's Little Dividend
スタンリー・T・バンクス
1952 パットとマイク
Pat and Mike
マイク
1953 The Actress クリントン・ジョーンズ ゴールデングローブ賞 主演男優賞 (ドラマ部門) 受賞
1954 折れた槍
Broken Lance
マット
1955 日本人の勲章
Bad Day at Black Rock
ジョン・マクリーディ
1956
The Mountain
ザカリー・テラー
1957 おー!ウーマンリブ
Desk Set
リチャード
1958 老人と海
The Old Man and the Sea
老人
最後の歓呼
The Last Hurrah
フランク・スケフィントン
1960 風の遺産
Inherit the Wind
ヘンリー・ドラモンド
1961 ニュールンベルグ裁判
Judgment at Nuremberg
ダン・ヘイウッド裁判長
四時の悪魔
The Devil at 4 O'Clock
マシュー・ドゥナン神父
1962 西部開拓史
How the West Was Won
ナレーター 声の出演
1963 おかしなおかしなおかしな世界
It's a Mad Mad Mad Mad World
カルペッパー警部
1967 招かれざる客
Guess Who's Coming to Dinner
マット・ドレイトン 英国アカデミー賞 主演男優賞 受賞

受賞歴[編集]

部門 作品名 結果
アカデミー賞 1936年 主演男優賞 桑港 ノミネート
1937年 我は海の子 受賞
1938年 少年の町 受賞
1950年 花嫁の父 ノミネート
1955年 日本人の勲章 ノミネート
1958年 老人と海 ノミネート
1960年 『風の遺産』 ノミネート
1961年 ニュールンベルグ裁判 ノミネート
1967年 招かれざる客 ノミネート
ゴールデングローブ賞 1953年 主演男優賞 (ドラマ部門) The Actress 受賞
1958年 『老人と海』 ノミネート
1960年 『風の遺産』 ノミネート
1967年 『招かれざる客』 ノミネート
英国アカデミー賞 1953年 外国男優賞 The Actress ノミネート
1956年 『山』 ノミネート
1958年 『最後の歓呼』 ノミネート
1960年 『風の遺産』 ノミネート
1967年 主演男優賞 『招かれざる客』 受賞
カンヌ国際映画祭 1955年 男優賞 『日本人の勲章』 受賞
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 1958年 男優賞 『最後の歓呼』
『老人と海』
受賞
ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 1962年 外国俳優賞イタリア語版 『ニュールンベルグ裁判』 受賞

参照[編集]

  1. ^ Curtis (2011) p. 49; Deschner (1972) p. 34.
  2. ^ Cutis (2011) p. 55. "Tracy was obsessive about acting to the degree that he talked about little else."
  3. ^ Curtis (2011) pp.14–15.
  4. ^ Curtis (2011) p. 177.

参考文献[編集]

  • Bacall, Lauren (2005). By Myself and Then Some. It Books. ISBN 0-06-075535-0 
  • Berg, Scott A. (2004 edition). Kate Remembered: Katharine Hepburn, a Personal Biography. Pocket. ISBN 0-7434-1563-9 
  • Curtis, James (2011). Spencer Tracy: A Biography. London: Hutchinson. ISBN 0-09-178524-3 
  • Deschner, Donald (1972 edition). The Films of Spencer Tracy. Secaucus, New Jersey: The Citadel Press. ISBN 0-8065-0272-X 
  • Hepburn, Katharine (1991). Me: Stories of My Life. Alfred A. Knopf. ISBN 0-679-40051-6 
  • Higham, Charles (2004 edition [First published 1975]). Kate: The Life of Katharine Hepburn. New York City, NY: W. W. Norton. ISBN 0-393-32598-9 
  • Kanin, Garson (1971). Tracy and Hepburn: An Intimate Memoir. New York: Viking. ISBN 0-670-72293-6 

外部リンク[編集]