ステファン・エドベリ

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ステファン・エドベリ
Stefan Edberg
ステファン・エドベリ
基本情報
フルネーム Stefan Bengt Edberg
国籍  スウェーデン
出身地 同・ベステルビーク
生年月日 (1966-01-19) 1966年1月19日(58歳)
身長 188cm
体重 77kg
利き手
バックハンド 片手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1983年
引退年 1996年
ツアー通算 59勝
シングルス 41勝
ダブルス 18勝
生涯通算成績 1084勝423敗
シングルス 801勝270敗
ダブルス 283勝153敗
生涯獲得賞金 $20,630,941
4大大会最高成績・シングルス
全豪 優勝(1985・87)
全仏 準優勝(1989)
全英 優勝(1988・90)
全米 優勝(1991・92)
優勝回数 6(豪2・英2・米2)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 優勝(1987・96)
全仏 準優勝(1986)
全英 ベスト4(1987)
全米 優勝(1987)
優勝回数 3(豪2・米1)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 1位(1990年8月13日)
ダブルス 1位(1986年6月9日)
獲得メダル
男子 テニス
オリンピック
1988 ソウル シングルス
1988 ソウル ダブルス

ステファン・エドベリStefan Edberg スウェーデン語発音: [ˈsteːfan ˈeːd.ˈbɛrj], 1966年1月19日 - )は、スウェーデン・ベステルビーク出身の元男子プロテニス選手。日本では、新聞・ラジオが現地のスウェーデン語読みに近い「エドベリ」となっているが、テニス専門誌・テレビは英語読みの「エドバーグ」となっている[1]。ハンサムなので「グラスの貴公子」と呼ばれていた。

ビョルン・ボルグマッツ・ビランデルのような、グラウンド・ストロークを武器にトップに躍り出る選手を多く輩出してきたスウェーデンにおいては異例の、サーブ・アンド・ボレーで世界の頂点に立った。ATPツアーでシングルス41勝、ダブルス18勝を挙げ、シングルス・ダブルスとも世界1位になった数少ない選手のひとりに数えられる。特に片手打ちバックハンドを得意とした。身長188cm、体重77kg、右利き。

現在はロジャー・フェデラーのコーチを務めている。

プレースタイル

史上最高のネットプレイヤーのひとり。 サーブは、キックサーブとスライスサーブを使い、次のボレーにつなげている。ただし背中を痛めた晩年にはフラットサーブをつかうこともあった。

ボレーは、マッケンローともに最高レベル。ただし天才的タッチのマッケンローとは異なり、基本を極めたものであり他のテニスプレイヤーの手本となった。「閃光のボレー」と称され、反応、角度、スピードと全てが揃っている。

加えて片手打ちのバックハンドは、強力かつ正確。ストローカーに打ち勝ったり、フォアのボールをあえてバックハンドで打った伝説も残っている。滑るような鋭いバックハンドスライスも最高レベルであり、ネットプレーとあわせて手がつけられないことも多かった。 足の速い選手でもあり、ストローク戦でのフットワーク、前に詰めるスピードは芸術的であり、「天使の足」と称されたこともある。 精神的に安定し勝負強さもあった。ライバルであるベッカーに要所要所で競りかったり、 1992年全米オープン決勝でサンプラスを破るという「サンプラス決勝不敗神話」の例外となった数少ないプレイヤーでもある。

ただライバルであるベッカーレンドルと比べると、パワー不足であることは否めない。 調子がいいときは、ベッカーレンドルサンプラスという最強プレイヤーを破ることも少なくなかったが、 ジム・クーリエ等強打の選手に、フォアハンドの弱さや、サーブのスピードのなさをつかれ、呆気なく敗退することもあった。

選手経歴

キャリア初期

エドベリは1983年度の4大大会男子ジュニアシングルス部門をすべて制し、ジュニア選手として初めて「年間グランドスラム」を達成した。この記録を残したのは2012年現在に至るまで男女ジュニア含めてエドベリただ一人である(キャリアグランドスラムまで対象を広げても達成者は居ない)。同年にプロ転向。18歳の時に、1984年ロサンゼルス五輪の「公開競技」で優勝を果たす。これはテニスがオリンピック種目に復活する前、21歳以下の選手を対象として行われたものである。(同競技の女子では15歳のシュテフィ・グラフが優勝した。)

1985年~1987年 グランドスラム初制覇

1985年全豪オープンで同じスウェーデンのマッツ・ビランデルを決勝で破り、4大大会初優勝を達成。1987年全豪オープン決勝では地元オーストラリアパット・キャッシュを破り、大会2連覇を果たす[2]

1988年~1990年 ライバルベッカーとの戦い、No.1へ

1988年ウィンブルドンにて、決勝でボリス・ベッカーを破って初優勝。

この時のベッカーは、準々決勝で「1987年ウィンブルドンチャンピオンであるパット・キャッシュ」、準決勝で「1980年代最強プレイヤーレンドル」に圧勝して勝ち上がって来ている上、1985年/1986年ウィンブルドンチャンピオンである。このベッカーに、3-1で競り勝ったことは当時衝撃的であった。全豪オープンに優勝していたとはいえ、レンドルベッカーと比較すると一歩劣っていた感があったエドベリが、この時、歴史に残る最強プレイヤーの一人として、ひのき舞台に登場した瞬間である。 なおこの決勝戦は試合途中の降雨のため、大会最終日の日曜日に終わらず、翌日の月曜日までもつれる異例の展開だった。

この1988年は同国のマッツ・ビランデルがウィンブルドン以外の4大大会3冠を獲得したため、事実上スウェーデン勢が男子の4大大会シングルス・タイトルを独占したことになる。

エドベリとベッカーは、1988年 - 1990年の3年連続でウィンブルドン決勝を戦った。1989年はストレートで敗れたが、1990年はフルセットで勝利・優勝している。この1990年の試合は、エドベリが2セット先取するもベッカーに2セット取り返され、最終セットもベッカーに先にサーブブレイクされるという絶体絶命の状況から、ベッカーのサーブ&ネットダッシュに対し見事なバックハンドロブでベッカーの頭を見事に抜き、再度形勢逆転。呆然となったベッカーの隙をついて一気に最終セットを奪取し勝利した名勝負である[3] [4]。 この勝利を受けて、1990年8月は遂にレンドルを抜いて、No.1となり、累計72週1位を維持している。一方ベッカーは、この後全豪オープンに優勝するものの、ウィンブルドン、全米オープン等でどうしても勝ちきれず、ベッカーの時代をつくることはできなかった。1990年のこの勝負にベッカーが勝てば、勢いも含めこの後のベッカーの時代がきた可能性も十分あり、正に歴史的一戦である。

1988年ソウル五輪から、テニスはオリンピック競技として正式に復活する。エドベリはソウル五輪にも出場したが、男子シングルスでは準決勝で“スウェーデン・キラー”と呼ばれたミロスラフ・メチージュチェコスロバキア代表)に敗れ、アンダース・ヤリードと組んだ男子ダブルスでも準決勝で敗退した。このソウル五輪では、準決勝敗退選手2名(ダブルスは2組)による「銅メダル決定戦」は行わず、両方に銅メダルが授与された。

1991年~1992年 全米オープン制覇

1991年 ウィンブルドンではベスト4まで進出したが、ミヒャエル・シュティヒに6-4、6-7、6-7、6-7とサービスゲームを一度も落とすことなく惜敗。ベッカーとの4年連続決勝対決は実現しなかった。

エドベリは全米オープンでも、1991年1992年に大会2連覇を達成している。

なお、エドベリの最後の4大大会優勝となった1992年全米オープン決勝では、後に4大大会優勝の男子歴代1位記録保持者となったピート・サンプラスに快勝した。サンプラスは4大大会決勝で「14勝4敗」と「決勝不敗神話」持っていたが、数少ない例外がエドベリ戦の敗北だった[5]

引退、キャリア総括

1993年になると、エドベリは年齢による衰えに加え、背中のケガもあり、急速に成績が下降していく。以降引退するまでグランドスラムではよい成績は残せなかった。 1996年に30歳で現役を引退し、2004年7月11日に国際テニス殿堂入りを果たした

エドベリは、1985年~1992年にかけて最強プレイヤーの一人として、全豪オープンウィンブルドン全米オープンの男子シングルスに2度ずつ優勝を飾った。しかし全仏オープンのみ優勝できず、1989年の大会で当時17歳のマイケル・チャンに敗れた準優勝が自己最高成績である。

彼はダブルスの分野でも、1987年に同じスウェーデンのアンダース・ヤリードと組んで全豪オープン全米オープンの男子ダブルス年間2冠を獲得した。現役最後の年となった1996年には、全豪オープン男子ダブルスでペトル・コルダチェコ)と組んで9年ぶり2度目の優勝を挙げた。これで彼の4大大会優勝は、男子シングルス6勝・男子ダブルス3勝となった。


エドベリはそのフェアプレーぶりでも有名で、1988年1989年1990年1992年1995年の5回にわたりATPのスポーツマンシップ賞を受賞している。その彼の功績を称え、ATPのスポーツマンシップ賞が、1996年に“Stefan Edberg Sportsmanship Award”と名づけられた。

また2008年からはアウトバック・チャンピオンズ・シリーズブラックロック・マスターズ・テニス等のシニアツアーへの参戦を開始。世界各地で往年の名選手達と試合を行い、ファンを湧かせている。そして2014年からロジャー・フェデラーのコーチに就任した。

4大大会優勝

全仏オープン準優勝1度:1989年)
大会 対戦相手 試合結果
1985年 全豪オープン スウェーデンの旗 マッツ・ビランデル 6-4, 6-3, 6-3
1987年 全豪オープン オーストラリアの旗 パット・キャッシュ 6-3, 6-4, 3-6, 5-7, 6-3
1988年 ウィンブルドン ドイツの旗 ボリス・ベッカー 4-6, 7-6, 6-4, 6-2
1990年 ウィンブルドン ドイツの旗 ボリス・ベッカー 6-2, 6-2, 3-6, 3-6, 6-4
1991年 全米オープン アメリカ合衆国の旗 ジム・クーリエ 6-2, 6-4, 6-0
1992年 全米オープン アメリカ合衆国の旗 ピート・サンプラス 3-6, 6-4, 7-6, 6-2

4大大会成績

略語の説明
 W   F  SF QF #R RR Q# LQ  A  Z# PO  G   S   B  NMS  P  NH

W=優勝, F=準優勝, SF=ベスト4, QF=ベスト8, #R=#回戦敗退, RR=ラウンドロビン敗退, Q#=予選#回戦敗退, LQ=予選敗退, A=大会不参加, Z#=デビスカップ/BJKカップ地域ゾーン, PO=デビスカップ/BJKカッププレーオフ, G=オリンピック金メダル, S=オリンピック銀メダル, B=オリンピック銅メダル, NMS=マスターズシリーズから降格, P=開催延期, NH=開催なし.

シングルス 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 WR W–L Win %
全豪オープン A 2R QF W NH W SF QF F SF F F SF 4R 2R 2 / 13 56–10 84.85
全仏オープン A A 2R QF 2R 2R 4R F 1R QF 3R QF 1R 2R 4R 0 / 13 30–13 69.77
ウィンブルドン A 2R 2R 4R 3R SF W F W SF QF SF 2R 2R 2R 2 / 14 49–12 80.33
全米オープン A 1R 2R 4R SF SF 4R 4R 1R W W 2R 3R 3R QF 2 / 14 43–12 78.18
Win–Loss 0–0 1–3 6–4 16–3 8–3 17–3 18–3 19–3 13–3 21–3 19–3 16–4 8–4 7–4 9–4 6 / 54 178–47 79.11
ダブルス 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 WR W–L
全豪オープン A 1R 2R 1R NH W A QF QF 1R 1R 3R 3R A W 2 / 11 20–8
全仏オープン A A QF SF F A A A A A A SF A A 3R 0 / 5 18–5
ウィンブルドン A 1R 3R 3R 1R SF A A A A A A A A A 0 / 5 8–5
全米オープン A 3R F 2R 2R W A A A A A A A 1R A 1 / 6 15–5
Win–Loss 0–0 2–3 11–4 7–4 6–3 13–1 0–0 2–1 2–1 0–1 0–1 6–1 2–1 0–1 8–1 3 / 27 59–23

出演

CM

脚注

  1. ^ 外国選手の名前は一般的には共同通信社が現地読みで統一することになっているが、彼については専門誌が早い段階で「エドバーグ」と報じていた後に、新聞が「エドベリ」と報じるようになったため、通信社の記者が本人に質問したところ、本人は「エドバーグ」と呼んでほしいと話していたという。(武田薫『サーブ&ボレーはなぜ消えたのか テニスに見る時代の欲望』p33-34、ベースボール・マガジン社新書、2007年)
  2. ^ この大会は会場の移転に伴って、1985年12月 → 1987年1月と開催時期の変更があった。したがって「1986年全豪オープン」は“開催せず”となっているため、エドベリは大会2連覇を成し遂げた。
  3. ^ インターネットテニスメディアHOTSHOT記事抜粋  http://hotshot.jp/enjoy/5253
  4. ^ blog思い出の名勝負 http://blogs.yahoo.co.jp/hasikkoanpairon/15325430.html
  5. ^ 決勝敗退は1992年全米エドベリ戦、1995年全豪アガシ戦、2000年全米サフィン戦、2001年全米ヒューイット戦のみ。年齢の為体力低下した晩年2試合を除けば、決勝敗退はエドベリ戦とアガシ戦のみ
  6. ^ スウェーデンオリンピック委員会公認のスポーツ飲料。日本では3社の共同発売。

外部リンク