スタンダール

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スタンダール
Marie-Henri Beyle
誕生 (1783-01-23) 1783年1月23日
フランス王国 グルノーブル
死没 (1842-03-23) 1842年3月23日(59歳没)
フランスの旗 フランス王国 パリ
職業 小説家
文学活動 ロマン主義
写実主義
代表作恋愛論』(1822年)
赤と黒』(1830年)
『リュシアン・ルーヴェン』(1835年)
パルムの僧院』(1839年)
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スタンダールの墓(モンマルトル墓地)

スタンダール(Stendhal、1783年1月23日 - 1842年3月23日)は、グルノーブル出身のフランス小説家。本名はマリ=アンリ・ベール(Marie Henri Beyle)という。ペンネームのスタンダールはドイツの小都市シュテンダルに由来すると言われている。

経歴

グルノーブル高等法院弁護士の子として生まれる。母方の実家も地元の名士であり、スタンダールは幼少期を地方の名士の子として何不自由なく暮らした。7歳の時に亡くなった母を終生、異常なまでに偏愛し続け、その反動で、実務家で王党派の父を激しく憎み続けた。そのため、スタンダールは父とは正反対のロマンチストの共和主義者として、その後の生涯を送る事になる。

父の期待を受けて勉学にいそしんだスタンダールは、1799年、優秀な成績で理工科学校の入学試験に合格する。しかし、慣れないパリの生活でノイローゼになり、母方の祖父のアンリ・ガニョンの従兄弟のノエル・ダリュの家に引き取られる。ダリュの息子が当時、陸軍省事務次官をつとめていた関係から、スタンダールはダリュの口利きで陸軍少尉に任官し、イタリア遠征に参加した。母方のガニョン家がイタリア系だったこともあり、元来、イタリアに憧れを持っていたスタンダールは遠征先のイタリアを気に入り、以後、イタリアを第二の故郷とみなすようになる。なお、祖国・フランスは父のイメージと重なるためか、生涯好きになる事は出来なかった。

軍人となったスタンダールだったが、実際にはに乗る事もを振るう事も出来ず、もっぱら女遊びと観劇にうつつをぬかしていたと言われる。1802年、軍を辞め、輸入問屋に勤めたりしたが、大陸封鎖令によって海外貿易が途絶してしまったため、1806年、ダリュを頼って、陸軍主計官補の仕事を得、その後は官僚として順調に出世し、1810年には帝室財務監査官にまで昇進する。その後も経理畑を歩んでいくが、ナポレオン・ボナパルトの没落によって、スタンダール自身も没落する。

その後はフリーのジャーナリストとして、活躍する。ナポレオン没落後、イタリアに渡り、現地の自由主義者と親交を結ぶが、やがて「スタンダールはフランスのスパイだ」という噂が広まり、失意のうちにフランスに帰国している。

不遇の時代に、スタンダールは1822年、39歳の時に『恋愛論』、1830年に『赤と黒』を発表している。特に、元神学生による殺人未遂事件を素材に、野心に燃える青年の成功と挫折を描いた代表作『赤と黒』は、当時は評判にはならなかったが、王政復古下のフランス社会を鋭く批判したものであり、彼の政治思想の真骨頂がよく表現されている。

1830年七月革命が勃発すると、自由主義者として知られていたスタンダールに再び政治の世界から声がかかるようになり、トリエステ駐在フランス領事に任命された。しかし、オーストリアの宰相・メッテルニヒの承認が得られなかったため、ローマ教皇領チヴィタヴェッキア駐在フランス領事に転じた。1836年から39年まで休暇をとってパリに戻り、『パルムの僧院』を書いた。

1842年、パリの街頭で脳出血で倒れ、死去。墓所はパリのモンマルトル墓地。墓碑銘は「ミラノ人アッリゴ・ベイレ 書いた 愛した 生きた」である。

主な作品

  • 赤と黒"Le Rouge et le Noir", 1830年)
  • パルムの僧院"La Chartreuse de Parme", 1839年)
  • 恋愛論"De l'amour", 1822年) それぞれ作家大岡昇平も訳している。
  • リュシアン・ルーヴェン ("Lucien Leuwen", 1835年)
  • アルマンス、初期長編 ("Armance", 1827年)
  • アンリ・ブリュラールの生涯 ("Vie de Henry Brulard")、自伝著作 未完
  • カストロの尼 ("L’Abbesse de Castro", 1839年)、以下5作品は「イタリア年代記 ("Chroniques italiennes", 1837-1839年)」
  • ミーナ・ド・ヴァンゲル ("Mina de Vanghel", 1830年)
  • ラミエル ("Lamiel ", 1839–1842年)
  • ヴァニナ・ヴァニニ ("Vanina Vanini", 1829年)
  • チェンチ一族 ("Les Cenci", 1837年)ほか4作品
「スタンダール全集6」にある(人文書院全12巻、実質は作品集) 
  • イタリア紀行 ローマ、ナポリ、フィレンツェ ("Rome, Naples et Florence", 1817年)
  • イタリア旅日記 ローマ、ナポリ、フィレンツェ (1826年)
  • ある旅行者の手記 ("Mémoires d'un touriste", 1838年)
  • 南仏旅日記 ("Voyage dans le Midi de la France", 1930年)
  • ローマ散歩 ("Promenades dans Rome", 1829年) 以上5点は新評論
  • ロッシーニ伝 ("Vie de Rossini", 1823年) 山辺雅彦訳 みすず書房 大著
  • モーツァルト"Vies de Haydn, Mozart et Métastase", 1815年) 高橋英郎富永明夫訳 東京創元社 小品
  • ナポレオン伝 ("Vie de Napoléon", 1817-1818年)佐藤正彰訳と西川長夫訳(全集)がある。

関連項目

外部リンク