スクーデリア・フェラーリ

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イタリアの旗 フェラーリ
エントリー名 スクーデリア・フェラーリ・ミッション・ウィノウ
Scuderia Ferrari Mission Winnow
チーム国籍 イタリアの旗 イタリア
チーム本拠地 イタリアの旗 イタリア
マラネロ
チーム代表者 マッティア・ビノット
(チーム代表)
エンツォ・フェラーリ
(創設者)
ドライバー {{{2024ドライバー}}}
テストドライバー {{{2024テストドライバー}}}
シャーシ {{{2024シャーシ}}}
エンジン {{{2024エンジン}}}
タイヤ {{{2024タイヤ}}}
F1世界選手権におけるチーム履歴
参戦年度 1950-
出走回数 993[※ 1] (990スタート)[※ 2]
コンストラクターズ
タイトル
16 (1961, 1964, 1975, 1976, 1977, 1979, 1982, 1983, 1999, 2000, 2001, 2002, 2003, 2004, 2007, 2008)
ドライバーズ
タイトル
15 (1952, 1953, 1956, 1958, 1961, 1964, 1975, 1977, 1979, 2000, 2001, 2002, 2003, 2004, 2007)
優勝回数 237[※ 3]
通算獲得ポイント 8,257.5
表彰台(3位以内)回数 765[※ 4]
ポールポジション 228
ファステストラップ 253[※ 5]
F1デビュー戦 1950年モナコGP
初勝利 1951年イギリスGP
2020年順位 6位 (131ポイント)
(記録は2020年最終戦アブダビGP終了時)
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スクーデリア・フェラーリ S.p.A.: Scuderia Ferrari S.p.A.[※ 6])は、イタリアの自動車メーカー、フェラーリが運営するワークス・レーシングチームである。現在はF1のコンストラクターとして活動しているが、かつてはスポーツカー世界選手権にも参戦していた。

スクーデリア: scuderia)」はイタリア語厩舎から転じた、「チーム」に当たる言葉で、英語のsquadに相当する。

概要

ムゼオ・フェラーリに展示されるF1の歴代チャンピオンマシン

エンツォ・フェラーリによってアルファロメオのセミワークスレーシングチームとして発足し、独立後は一貫してシャーシとエンジンを内製するフルコンストラクターとして活動を続けている。

F1世界選手権創設時から参戦し続けている唯一のチームで、2009年までに最多の16回のコンストラクターズタイトルを獲得し、9人のドライバーズチャンピオンを輩出。通算最多勝・最多出走など、数多くのタイトルと記録を保持する。

フィアット傘下に入り経営効率化が進められた1970年代以降は、F1活動に専念しているが、それ以前はF2ヒルクライムレースGT/スポーツプロトタイプによる耐久レースなど、各種カテゴリーでも成功を収めている。ル・マン24時間レースでは歴代3位となる9勝を記録した。

現在は、開発及び人的資源の分散により効率化向上を目的に、F1は「ゲスティオーネ・スポルティーバ(Gestione Sportiva/ GES)」部門[1]、GTによるレースと「フェラーリ・チャレンジ」、「F1クリエンティ」と「XXクリエンティ」プログラムなどは「コルセ・クリエンティ」部門と分割されている。

チームのファクトリーはマラネッロのフェラーリ本社内の市販車の工場に隣接し、敷地内には社有のテストコースである「ピスタ・ディ・フィオラノ」(フィオラノサーキット)がある。

歴史

創成期

ベニート・ムッソリーニ(車内)やヌヴォラーリ(右から3番目)らとフェラーリ(左から2番目)

1929年に、アルファロメオのレーシングドライバーで、その後アルファロメオのディーラー「カロッツェリア・エミリア・エンツォ・フェラーリ」の経営をしていたエンツォ・フェラーリがレース仲間と共に「ソシエタ・アノニーマ・スクーデリア・フェラーリ」を創設した。当初はレース愛好家をサポートするディーラーチームであり、4輪の他にオートバイ部門もあった[2]

1932年に息子のアルフレードが生まれたことで、エンツォは現役を引退してチーム運営に専念し、アルファ・ロメオがワークス活動を休止するとマシンを借り受け、セミワークスチームとして活躍した。ベニート・ムッソリーニ率いるファシスト政権のサポートも受けて参戦した1935年ドイツGPでは、タツィオ・ヌヴォラーリが強力なドイツ勢を破り、歴史的な勝利を記した。

1938年にアルファ・コルセへ吸収合併されるが、翌年エンツォが経営陣と対立し、「フェラーリの名では4年間レース活動を行わない」という誓約を残して退社した。1940年にはエンツォにより「アウト・アヴィオ・コルトルツィオーニ」の社名でモータースポーツに参戦するが、同年にイタリアが第二次世界大戦に参戦したため活動は中止となった。

エンツォが第二次世界大戦後の1947年にフェラーリを興し、レーシングカーと市販車の製造を始めると、再び「スクーデリア・フェラーリ」の名でレース界に参入。F1やミッレ・ミリアル・マン24時間レースなどのメジャーイベントに勝利し、強力な新興勢力となった。

1950年代

1952年 - 1953年に活躍した500F2

1950年から始まったF1世界選手権は、「本家」アルファロメオと「分家」スクーデリア・フェラーリの対決で幕が切って落とされた。1951年イギリスグランプリで、フロイラン・ゴンザレスが、それまで出走した全てのGPで勝利を獲得してきたアルファロメオを初めて破り、初勝利を獲得した。この際、エンツォは歓喜とともに「私は母親を殺してしまった」と複雑な心中を洩らした。

アルファロメオが撤退し、F2規定下で行われた1952年はスクーデリア・フェラーリの独擅場となり、アルベルト・アスカリがチーム初のチャンピオンに輝き、翌1953年も連覇を達成した。アスカリの個人9連勝[※ 7]、チームの14連勝は最多連勝記録として今なお破られていない(当時選手権対象だったインディ500に不参加のため、出走レースという条件付き記録)。

1954年1955年メルセデス・ベンツの後塵を拝した後、1956年にはファン・マヌエル・ファンジオが加わり、ランチアから譲り受けたマシン(ランチア・フェラーリ D50)で自身4度目の王座を得た。ライバルのマセラティが撤退した後は、F1界の盟主として英国系新興コンストラクターの挑戦を受ける立場となる。1958年はエンツォの死児の名を冠した「ディーノV6エンジン搭載車でマイク・ホーソーンがチャンピオンを獲得したものの、初代コンストラクターズタイトルをヴァンウォールに奪われた。さらに旧態な設計思想が災いし、クーパーの軽量ミッドシップマシンの台頭を許した。

1960年代

フィル・ヒルと"シャークノーズ"
156F1(1962年 ニュルブルクリンク

1961年、再び規定変更が幸いして、初のコンストラクターズとドライバーズ(フィル・ヒル)の2冠を制したが、地元イタリアGPヴォルフガング・フォン・トリップスが観客席に突っ込み死亡、14名の犠牲者を出す悲劇に見舞われた。1964年は、しぶとく戦ったジョン・サーティースが、最終戦の最終周回での逆転劇で2冠をもたらした。

しかし1960年代は押し並べてロータスなどの英国勢に先行され、チーム運営も内紛や経営不安などで混乱した。1962年には主要幹部が脱退し、翌年新チームATSを結成(フィル・ヒルも移籍する)。さらに買収交渉の決裂に端を発し、フォードがF1界へフォード・コスワース・DFVエンジンを送りこみ、フェラーリ包囲網が敷かれることになる。1969年、フェラーリ社は経営安定のためフィアット傘下に入り、市販車部門の管理を委ねたが、スクーデリア・フェラーリはエンツォが手綱を離さず、建て直しを図った。

1970年代

1976年ドイツグランプリ予選中のニキ・ラウダ312T2
明くる決勝日、クラッシュによる猛火に包まれ、重いやけどを負うことになる。

312Bの、新たに開発された水平対向12気筒 "ボクサー[※ 8]" エンジンが、名門復活の力となった。1973年に25歳のルカ・モンテゼーモロがチームマネージャーとなり、1974年から加入したニキ・ラウダと共にチーム改革を行った。この年のスペインGPでF1通算50勝に到達した後、1970年代後半にチームは黄金期を迎える。引続き開発した、トランスミッションを横置きとした312Tシリーズで1975年からコンストラクターズ・タイトルを3連覇。ラウダも瀕死の大事故に遭いながら、1975年と1977年のチャンピオンに輝いた。

1979年ジョディー・シェクタージル・ヴィルヌーヴのコンビが活躍し、ダブルタイトルでボクサー黄金期を締めくくった。ヴィルヌーブは往年の名手タツィオ・ヌヴォラーリの再来と呼ばれ、ティフォシのアイドルとなった。

1980年代

ドイツグランプリで優勝を飾った
ミケーレ・アルボレート156/85
1985年8月2日

ルノーの台頭を受け、チームは1981年からターボエンジンを採用し、弱点のシャーシ設計でも、ハーベイ・ポスルスウェイトをチームに招き、英国系技術の導入を進めた。1982年1983年のコンストラクターズを連覇したが、ドライバー間の対立がチームに暗い影を落とした。1982年のサンマリノGPディディエ・ピローニの背信行為に怒ったヴィルヌーヴは、次戦ベルギーGPの予選中、冷静さを欠いた走りが事故を招いてしまい死亡。その後ピローニもドイツGPのフリー走行中に両足を粉砕骨折する重傷を負い、F1キャリアを断たれた。

それ以降は久々のイタリア人エース、ミケーレ・アルボレートが奮闘したが、ターボ開発競争でポルシェホンダのエンジンに苦杯を舐めさせられた。1988年8月には創始者エンツォ・フェラーリが90歳で死去。1か月後の地元イタリアGPでは、ゲルハルト・ベルガーマクラーレン・ホンダの連勝を止める奇跡的な1勝を挙げ、亡き総帥へ捧げた。この後、エンツォの死によりスクーデリア・フェラーリの運営権もフィアットが握ることになる。

1989年ナイジェル・マンセルが加入し、V12自然吸気エンジンを搭載し、斬新なセミオートマチックトランスミッションを採用したマシン640を実戦投入するも、信頼性に課題を残した。チームメイトのベルガーはこのシーズンを最後にマクラーレンへ移籍した。

1990年代

カナダグランプリでジャン・アレジがドライブする412T21995年6月)
カナダグランプリでエディー・アーバインがドライブするF399(1999年6月)

1990年にはマクラーレンでチャンピオンを獲得したアラン・プロストが加入し、10年ぶりに“カーナンバー1”をつけた。プロストはアイルトン・セナと熾烈な王者争いを繰り広げ、惜しくもタイトルを逃したが、同年フランスGPではチームの記念すべきF1通算100勝を達成した。

1991年も引き続きプロストが残留。引退宣言を撤回してウィリアムズへ戻ったマンセルの後任にジャン・アレジを起用し、タイトル奪還を目論んだ。しかしエンジンパワー不足やエアロダイナミクスの失敗、さらにはシーズン終盤にチーム批判を繰り返したプロストを解雇するなどチーム内が混乱。1986年以来の0勝に終わり、タイトル争いには全く絡めなかった。この年はフィアットからルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロが送り込まれ、社長に就任した[3]

1992年F92Aの斬新なダブルフロアデッキ構造が仇となった上に信頼性がなく、表彰台獲得もわずか2回のみでさらに成績が下降した。前年のプロストに続きシーズン途中でイヴァン・カペリを解雇することになるなどチーム内の混乱も続いた。

1993年、マクラーレンから戻ってきたゲルハルト・ベルガーとアレジを据える一方、勝利の糸口が見えない危機的状況にモンテゼーモロは、チームマネージャー(監督)に、WRCル・マン24時間レースに参戦していたプジョーで実績を残してきたジャン・トッドを招聘。トッドは同年フランスGPから指揮を取り、人材確保と抜本的な体制改革に取り組んだ。

1994年ドイツGPでは4シーズンぶりにベルガーが勝利し、復活の第一歩を踏み出す。

1995年、アレジもカナダGPで自身F1初勝利を挙げ、徐々に成果も出始めた。その一方でベルガーとアレジの契約を同年で終了する。

1996年、当時2年連続ドライバーズチャンピオンミハエル・シューマッハベネトン)とエディ・アーバインジョーダン)のラインナップに一新。同年スペインGPでシューマッハが移籍後初勝利し、シーズンで計3勝を上げた。技術陣もジョン・バーナードグスタフ・ブルナーらに代わり、ベネトンのロス・ブラウンロリー・バーンらを据え、フェラーリはシューマッハを中心とする一枚岩の体制“チーム・シューマッハ”を構築する。

1997年、シューマッハはウィリアムズジャック・ヴィルヌーヴ1998年はマクラーレンのミカ・ハッキネンと僅差のタイトル争いを繰り広げたが、ともに最終戦でタイトルを逃した。

1999年イギリスGPにてシューマッハのクラッシュによる両足骨折による長期戦線離脱で体制存続が危ぶまれたり、第15戦マレーシアGPで決勝後、競技審査委員会からレギュレーション違反で一旦失格になる騒動(結果的にフェラーリはFIAの国際控訴裁判所で逆転無罪を得る)もあった。それでもシューマッハの代役エースとなったアーバインが最後までハッキネンと競り合いドライバーズタイトル獲得こそは逃したが、シューマッハの代役、ミカ・サロの活躍もあって最終戦で16年ぶりにコンストラクターズタイトルを獲得した。

2000年代

ミハエル・シューマッハがドライブするF20042004年アメリカGP

2000年代に入り、マシン開発はエアログリップを重視する傾向が強くなる。1998年の自社風洞設備(豊富な資金をバックにした、当時最先端のもの)の完成、空力に明るいデザイナー陣の存在、ブリヂストンのフェラーリ向けスペシャルスペックタイヤ(ミシュラン参戦時)の影響など、要因は複数ある[4]が、結果として裏返しに、メカニカルグリップが求められる低中速、もしくは縁石の高いサーキットでは苦戦している。特に、ダウンフォースがほとんど期待できないモナコでは2001年以降、2017年まで16年間勝利から遠ざかっていた。皮肉にも、(モナコほどではなくとも)ホームサーキットたるモンツァもマシンコンセプトと相性が悪い。

2000年は、アーバインに代わりルーベンス・バリチェロが加入。前年第8戦イギリスGPミハエル・シューマッハが事故により欠場後、同シーズンのF399の風洞開発を止めてマシンの熟成をそれ以上行なわない代わりに、2000年シーズン用F1-2000の開発に注力する決断をしたことが功を奏し[5]、コンストラクターズと合わせ、シューマッハが21年ぶりのドライバーズタイトルをももたらした。その後、コンストラクターズ・チャンピオンシップは1999年から2004年まで6連覇し、シューマッハも2000年から2004年までドライバーズ・チャンピオンシップ5連覇(2000年から2004年にかけて5年連続ダブルタイトル)を成し遂げた。この期間のフェラーリはブリヂストンタイヤと密接な関係を築き、他チームを圧倒した。2002年カナダGPでF1通算150勝に到達し、そのシーズンは17戦中15勝、2004年も18戦中15勝と、「最強チーム」の名をほしいままにした。

しかし、2005年は新型マシンである「F2005」が新レギュレーションへの対応に失敗、21世紀になって初めてタイトルをルノーフェルナンド・アロンソに明け渡してしまう。

2006年にバリチェロの後任として同郷のフェリペ・マッサが加入する。シューマッハが再びチャンピオン争いに加わったが信頼性不足などのために序盤で落としたレースが多く、シーズン全体的に安定感を見せていたルノー+アロンソに再び敗れた。2006年末には11年間在籍したシューマッハが現役を引退(2010年にメルセデスから現役復帰)。他のロス・ブラウンなどの主要メンバーの人事異動を含め、ひとつの節目を迎えた。

2007年はシューマッハの後釜としてマクラーレンからキミ・ライコネンが加入し、マッサとコンビを組んだ。シューマッハもスーパーアドバイザーとしてチームと新たな関係を結び、ヨーロッパラウンドの数戦はレースに帯同した。シーズン序盤は信頼性に苦んでライバルのマクラーレンに後れを取ったが、一連のスパイ疑惑事件でマクラーレンがコンストラクターズ部門から除外されたため、同チャンピオンを早々と確定させる。中国GPでF1通算200勝を達成、そして最終戦ブラジルGPにおいてライコネンが逆転でワールド・チャンピオンに輝き、コンストラクター&ドライバーの二つの栄冠を奪還することに成功した。なお、ブラジルGPではマッサも2位に入って1-2フィニッシュを遂げ、最終的なシーズンポイントを204とし、マクラーレンが除外されなかった場合の203ポイントを1ポイント上回り[※ 9]、トラック上の争いでもコンストラクターズチャンピオンにふさわしいチームであったことを証明して見せた。また、この年の年末にはチーム代表がジャン・トッドからステファノ・ドメニカリに交代した。

2008年フランスGPではF1通算200回目のポールポジションを獲得した。この年もチャンピオン争いは混沌とし、2年連続でコンストラクターズタイトルこそ獲得したものの、ドライバーズタイトルは最終戦までマッサがランキングトップのルイス・ハミルトンを追っていたが、1ポイント差で敗れた。なお2018年現在、フェラーリのタイトル獲得はこの年のコンストラクターズタイトルが最後である。

2009年シーズンは苦戦を強いられた。この年から搭載が認められたKERSF60に搭載するも、当初は入賞圏内フィニッシュさえままらないほど成績が低迷し、1993年以来16年ぶりにポールポジションを記録せず、かつコンストラクターズでも4位に転落した。また、ハンガリーGPにおいて、バリチェロのマシンから外れた部品がマッサのヘルメットを直撃し、長期離脱を余儀なくされた。その苦しい状況の中で、ライコネンがベルギーGPで勝利をあげた。

なお、マッサの代役は当初はミハエル・シューマッハが起用される予定であったが、バイクレースでの事故の首の痛みがとれず、断念。テストドライバーのルカ・バドエルを起用した。しかし成績不振のため、ヨーロッパGP・ハンガリーGPの2戦のみにとどまり、イタリアGP以降はフォース・インディアより移籍したジャンカルロ・フィジケラが担当することとなった。

2010年代

2010年、最終戦でタイトルを逃したフェルナンド・アロンソ
2011年東日本大震災追悼の日の丸をつけて走るフェリペ・マッサ

2010年は、ライコネンの後釜としてルノーからフェルナンド・アロンソが加入し、マッサとコンビを組んだ。2005・2006年の王者であるアロンソが5勝を挙げ、ランキングトップで最終戦を迎えたが、ピット作戦などのミスが重なり、それまでランキング3位だったセバスチャン・ベッテルに年間王者をさらわれた。

2011年の序盤戦はマシンのパフォーマンスに苦しみ、5月にはテクニカルディレクターのアルド・コスタが解任されて別の部署に回され、コスタはその後フェラーリを退社した[6]。フェラーリの風洞には不備があり、風洞での結果と実際のコース上でのパフォーマンスが一致しないという問題を抱えていた[7]。中盤になるとレッドブルやマクラーレンとほぼ互角に戦えるようになり、イギリスGPではフェラーリのF1初勝利から60周年の節目でアロンソが勝利を飾った。アロンソが最終戦までバトン、ウェバーとランキング2位を争ったが、最終的にはアロンソがランキング4位、マッサがランキング6位、コンストラクターズランキングでは3位となった。

2012年、マシンの競争力が低かったが、アロンソが第2戦で優勝し、マシンの大幅なアップデートが行われた第5戦以降、着実にポイントを積み重ね、第8戦と第10戦で優勝し、ランキングトップとなった。しかし、第12戦、第15戦でスタート直後に他車に接触されてリタイアし、ベッテルに逆転を許し、最終戦までチャンピオンを争ったものの、3ポイント差のランキング2位でシーズンを終えた。

風洞の不備はこの年も解決されず、フェラーリはドイツ・ケルンのトヨタの風洞設備を使用してマシンを改良した[8]。そして、自社の風洞を2013年8月まで閉鎖し、問題の解決にあたることを決めた。2013年型マシンの開発は全てトヨタの風洞設備で行われた[9]

2013年、アロンソが第3戦と第5戦で優勝したが、レッドブルとのマシンの性能差が大きく、コンストラクターズランキング2位をメルセデスAMGと争うのが精いっぱいだった。

2014年、長年在籍したマッサがウィリアムズに移籍し、後任としてロータスよりライコネンが復帰した。4月にチーム代表のドメニカリが成績不振の責任を取る形で辞任。後任にはフェラーリ北米部門のCEOを務めるマルコ・マティアッチが就任した[10]。パワーユニットの導入によるレギュレーションの大変革もあって、シーズンを通して苦戦し、このシーズンは結局1993年以来の未勝利シーズンとなってしまった。シーズン終了後、マティアッチが成績不振の責任を取る形で辞任。後任にはフェラーリのスポンサーでもあるフィリップモリスの前副社長マウリツィオ・アリバベーネがジェスティオーネ・スポルティーバのディレクターに即時就任すると発表した。これに伴い、チーフデザイナーのニコラス・トンバジスをはじめ、パット・フライや浜島裕英らがチーム離脱となるなど人事も大幅に刷新されることになった。また、レッドブル・レーシングのマシンデザイナーであるエイドリアン・ニューウェイの引き抜きを巨額のサラリーを提示した上で狙ったが、最終的にニューウェイが辞退したことで実現には至らなかった[11]

2015年マレーシアGPでフェラーリ移籍後初勝利を挙げたセバスチャン・ベッテル

2015年、アロンソがマクラーレンへ去り、レッドブルよりセバスチャン・ベッテルを迎える。マレーシアGPで、ベッテルが約2年ぶりの勝利を果たすとハンガリーGPではスタートで2台ともロケットスタートを決めフロントローにいた2台のメルセデスを抜き去り、ライコネンがトラブルでリタイアするまでワンツー体制でレースを進めベッテルが優勝。また、シンガポールGPにおいて、ベッテルが自身約2年ぶり、フェラーリとして約3年ぶりのポールポジションを記録した。ライコネンも第4戦バーレーングランプリでフェラーリ復帰後初表彰台となる2位表彰台を獲得。トラブルなどの不運に見舞われることが多くベッテルに差はつけられているものの前年と比較するとパフォーマンスは大きく向上している。最終的にベッテルはランキング3位、ライコネンはランキング4位。コンストラクターズランキングは2位でシーズンを終えた。メルセデスに敗れはしたものの時折、メルセデスを脅かすレースも何度かあり来シーズン以降に期待がかかるシーズンとなった。

2016年、ドライバーはベッテルとライコネンが残留。前年の活躍からシーズン当初はメルセデスにもっとも対抗できると期待された。開幕戦オーストラリアGPでは、2人が前年のハンガリーGPの再現のようなスタートを見せ1-2体制でレースを進めていたが、クラッシュによるレッドフラッグにより、レース再開後の戦略でメルセデス勢に逆転を許した。第2戦,第3戦ではライコネン、ベッテルがそれぞれ2位に入るなど出だしはまずまずであった。しかしメルセデス勢がオープニングラップで同士討ちでリタイアしたスペインGPではレッドブルのマックス・フェルスタッペンに優勝をさらわれ、さらにレッドブルが翌戦のモナコGPからアップグレードされたルノーエンジンを手に入れた後は、レッドブルの後塵を拝するレースが続く。この不振の最中の7月27日、テクニカルディレクターのジェイムズ・アリソンがチームから離脱することを発表した[12]。その直後のドイツGPでコンストラクターズポイントでもレッドブルに抜かれ3位に後退した。地元イタリアGPを前にセルジオ・マルキオンネ会長は2016年のマシン開発に「失敗」したと認めた[13]。このイタリアGPでベッテルが6戦ぶりに表彰台に立ちティフォシからの歓声を浴びたが、以後は4位,5位が定位置で、表彰台は基本的にメルセデスの両者とレッドブルの片方のドライバーという構図が固まってしまい、コンスタントラクターズランキングも最終戦を待たずして3位が確定した。最終戦アブダビGPでベッテルがファステストラップを記録し3位表彰台に立ったが、最終的に未勝利のままシーズンを終えた。

地元イタリアGPでモータースポーツ参戦70周年を記念した特別カラーリングを施したSF70H

2017年もベッテルとライコネンの両名が残留。2017年型マシンのSF70Hは冬季テストから好タイムを出し、期待が持たれるシーズンとなった。開幕戦オーストラリアGPでベッテルが優勝し、チームとして7年ぶりの開幕戦優勝を果たした。バーレーンGPでもベッテルが優勝、ロシアGPではベッテルがポールポジション、ライコネンが2番グリッドを獲得し、2008年フランスGP以来、実に9年ぶりのフロントロー独占を果たした。モナコGPでもライコネンがこれまた2008年フランスGP以来となるポールポジションを獲得、フェラーリのモナコグランプリでのポールポジションも2008年以来のフェリペ・マッサ以来、9年ぶりである。さらにベッテルも予選2位に入りフロントローを独占した。決勝でもベッテルが優勝、ライコネン2位となりフェラーリにとっても2001年以来、16年ぶりにモナコGPを制した。その後の4戦はパワーに勝るメルセデスの後塵を拝したが、ハンガリーGPではモナコGPに続いてフロントロー独占とワン・ツー・フィニッシュを達成し、ベッテルがポール・トゥ・ウィンを飾った。しかし、後半戦に入るとそれまでの躍進が嘘のように失速傾向となり、特にアジアラウンドの3連戦でアクシデントやマシントラブルが頻発する事態に陥ってしまい、メルセデス及びハミルトンの独走を許したどころか、レッドブル勢にも迫られることにまでなってしまった。最終的にブラジルGPでベッテルが8戦ぶりに優勝、またライコネンが終盤5戦で着実にポイントを獲得しレッドブル勢がトラブル続きで失速するなどしてコンストラクターズランキング2位の座は守ったが、終盤のトラブルが惜しい1年となった。

2018年も引き続き、ベッテルとライコネンの両名が残留。2014年のパワーユニット導入以来パワーユニットの馬力・耐久性能に優位を持っていたメルセデス勢のパワーユニットの馬力を超え、当時のV10NAエンジンレギュレーションの馬力を超える1000馬力クラスのパワーユニットを見せつけた。メルセデス勢のスタートダッシュの失敗に付け入ったベッテルが開幕連勝を果たしたほか、第7戦カナダGP、第10戦イギリスGPでも優勝し、ドライバーズランキングではベッテルがハミルトンと、コンストラクターズランキングでもメルセデスと、それぞれ接戦に持ち込んでいた。しかしフェラーリ自身のパワーユニット内部のバッテリー放出量4MJを超えるエネルギーやマシンにレギュレーション違反に疑われたり、シーズン後半戦に入ると2017年と同じような失速傾向となる。モナコGPではFIAがERSシステムの不正使用が疑われていたフェラーリのマシンに追加のセンサーを搭載して監視していた。ドイツGPではベッテルが首位を快走してる中でドライビングミスによりクラッシュしリタイア。ベルギーGPではベッテルが優勝するが、イタリアGPではフロントローを独占しながらスタート直後にベッテルがハミルトンに接触し大幅に順位を落とすなどのミス、ライコネンも終盤にハミルトンに抜かれ2位に終わる。シンガポールGPではタイヤ戦略に失敗しメルセデスに完敗を喫するなどの戦略面でのミスも目立ち、シーズンで最速のマシンを持っていると前置きをしながらベッテルのミスを非難する関係者も多いが[14]、一方でイタリアGP後に元F1CEOバーニー・エクレストンはチームの運営方法がシューマッハ時代と比べて劣っていることを苦戦の要因として指摘している[15]。 FIAの監視用センサー追加導入された後にFIAによる監視を強化されつつも、日本GPでもQ3でドライコンディションの状況に対してインターミディエイトを履いて出走するなどして予選でつまずき、決勝ではベッテルがまたしてもレース中に接触して順位を落とすなど、最終的にはメルセデス勢どころかレッドブル勢にも完敗。アメリカGPでシーズン中に改良したはずの空力パーツを以前に戻すとライバルとの相対的な速さが元に戻るものの、ベッテルがリカルドと接触して順位を落とす一方、ライコネンがフェラーリ復帰後初勝利を挙げた。メキシコGPは両者ともメルセデス勢を上回ったものの優勝できず、僅かに残っていたベッテルのタイトルの可能性は完全に消滅、ハミルトンの5冠を許してしまった。続くブラジルGPでハミルトンにポール・トゥ・ウィンを許し、コンストラクターズタイトルの可能性も消滅したものの、アブダビGPでフェラーリとしてラストレースとなったライコネンはマシントラブルでリタイアしたが、ベッテルが2位でフィニッシュし、全参戦チームで唯一全戦入賞を達成した。 シーズン終了後に、2016年王者のニコ・ロズベルグが戦略ミスの多発やチームの団結に問題があったと指摘[16]。チーム代表のアリバベーネもドライバーのミスの以外にもマルキオンネの死を含むチームが混乱する事態の対応に失敗したことも失速した原因であるとコメントした[17]。 同年日本GPから、フィリップモリスのプロジェクトロゴである「Mission Winnow」が追加された新カラーリングとなっている[18]

バルセロナテストを走るSF90

2019年はライコネンと結果的に入れ替わる形でザウバーからシャルル・ルクレールが加入。ロズベルグはベッテルが立ち直らんとする時期に才能を高く評価されている若手であるルクレールの加入が影響を及ぼす可能性を指摘している[16]。そんな中、年明け早々にアマウリツィオ・アリバベーネがチーム代表の座を更迭され[19]マッティア・ビノットが新たに就任した[20]。プレシーズンテストでの好結果を踏まえ、開幕前はチャンピオンの大本命とされていたが[21]、開幕戦からマシンの戦闘力という点ではメルセデスに太刀打ちできなかったうえ、レース戦略も迷走[22]し、F1史上初となる開幕から5戦連続の1-2フィニッシュを許すことになった[23]。第6戦モナコGPでベッテルが結果的[24]にメルセデスの開幕6戦連続ワンツーを阻止する2位表彰台を獲得したが、この2位は元々2位でフィニッシュしたレッドブルのマックス・フェルスタッペンがペナルティを受けての2位であり、ここでも予選で戦略ミスによりルクレールがQ1で脱落するなど、戦闘力不足及びレース戦略の迷走が続いていた。第5戦で前倒しでアップデートを投入しても戦闘力の改善にはつながらず、マシン開発自体が迷走している状況であり、第12戦ハンガリーGPではメルセデスとレッドブルが繰り広げる首位争いについていくことができず、優勝したハミルトンに1分近い差をつけられる屈辱を味わうなど、ドライバーらが時折気を吐いたが失点を抑えるので精いっぱいであった。 シーズン前半でメルセデスより先行できたのは第2戦バーレーンGP、第7戦カナダGP、第9戦オーストリアGPのみ。そのレースも第2戦はルクレールの快走により、彼自身かつ今季初優勝目前であったが、PUトラブルで逃し[25]、第7戦はベッテルが奮闘し、トップでチェッカーを受けたが、評価が分かれたペナルティによって優勝を逃した。結果的に前半戦最大のチャンスでもあった第9戦はポールポジションからスタートしたルクレールがレース終盤まで首位を走っていたが、猛烈な追い上げを見せたフェルスタッペンに抜かれて2位に終わり、前半戦は未勝利に終わった。 後半戦に入ると、ベルギーGPでルクレールがポールトゥウィンで自身初優勝を成し遂げると、続くイタリアGPでもルクレールが2戦連続のポールトゥウィンを果たし、2010年のフェルナンド・アロンソ以来のフェラーリのイタリアGP優勝、およびフェラーリ移籍初年度でのイタリアGP優勝を果たしティフォシ達を喜ばせた。さらにシンガポールGPではベッテルが今季初優勝、およびワンツーフィニッシュ、2008年以来となるチーム3連勝を達成し一気にメルセデス勢への追い上げを始めるかに思われた。 しかしその後は2017年以降の後半戦を再現するかのように、チーム戦略の迷走が深刻化[26]。そのうえ、今季はルクレール加入のリスクは指摘[16]されていたのだが、それが的中する形となり、後半戦はドライバー管理も迷走。日本GPのようにフロントローを独占するなど、後半戦に合わせ、マシンの速さを改善することに成功しながらも戦略によって台無しにするレースが多々見受けられるようになる[27]。1年を通じて、ルクレールがシーズン個人最多ポールポジション回数の7度を含む9度のポールポジションを獲得しコンストラクターズランキングは2位を確保した。また、ブラジルGPでの同士討ちが響きフェルスタッペンにドライバーズランキング3位の座を奪われることとなってしまい、ルクレールがランキング4位、ベッテルがランキング5位でシーズンを終えることとなった。またPUの問題に関しては、シーズン終了後にFIAと「秘密の和解合意」をしたことにより、フェラーリ製PUを使うチーム以外から合同声明による抗議が行われるなど[28]、翌年以降にも尾を引く問題となった。

2020年代

1,000戦目を記念した特別カラーリングが施されたSF1000を駆るルクレール(2020年トスカーナGP

2020年もベッテルとルクレールが残留するが、前述したPUの問題に加えこの年投入されたSF1000の空力面に欠陥があり[29][30]、未勝利に終わったばかりかコンストラクターズ6位と屈辱を味わった。フェラーリがコンストラクターズで5位以下に終わったのは1980年以来。シーズン中にベッテルがアストンマーティンへの移籍を発表した。

2021年マクラーレンからカルロス・サインツJr.を迎え、ルクレールとコンビを組む。マシンはSF1000を改良したSF21を投入する[31]

ドライバーズ・チャンピオンを獲得したドライバー

シャシー・エンジン供給

フェラーリ・ティーポ056エンジン(2.4リッターV8)
A1グランプリカー

1960年代まではイタリア、イギリス、ベルギーのプライベーターチームにもマシンを供給しており、1951年にはブリティッシュ・グリーンに塗られたマシン(シンウォール・スペシャル)がF1に出走した。1961年フランスGPではFISA(Federazione Italiana Scuderie Automobilistiche)チームのジャンカルロ・バゲッティが優勝した。フェラーリのF1コンストラクターとしての通算勝利数には、非ワークスチームが獲得したこの1勝が含まれる。

1990年代以降は再びプライベーターチームにエンジンを供給している。2008年イタリアGPではトロ・ロッソセバスチャン・ベッテルが、フェラーリのカスタマーエンジンユーザーとして初優勝した。2011年からKERSやギアボックスもセットで供給され、2014年以降はパワーユニット一式とギアボックスをセットで供給している。

フェラーリエンジン(パワーユニット)使用チーム(1991年以降)
太字2020年に使用するチーム。

また、A1グランプリではF2004をベースにしたワンメイクマシンが2008 - 2009シーズンに使用された。

F1クリエンティ

個人所有のF1マシン

正規販売代理店で販売されたフェラーリの市販車のオーナーで、かつフェラーリに承認された一部の顧客に限り、フェラーリまたは各国の拠点や正規輸入元を通じて数年落ちのF1マシンを購入することが可能である。

これらのマシンは「コルセ・クリエンティ」部門率いる「F1クリエンティ」プログラムにより管理され、マルク・ジェネなどのテストドライバーやリザーブドライバーの指導の下、走行プログラムが開催される「フェラーリ・レーシングデイズ」や「フィナーリ・モンディアーリ」などの世界各国で開催されるサーキットイベントや、年間数回ヨーロッパのサーキットで開催されるテストドライブセッションで走行させることができる。

さらに、オーナーが指定したサーキットに「F1クリエンティ」のメカニックを呼んで走行させることも可能である。なお、2014年シーズン以降のマシンについては、ERSの管理上の問題により販売を中止することが決定された。

この様な、組織化された中古F1マシンの販売及び管理システムを主催し、営業及びマーケティングに活用しているコンストラクターは、2017年現在フェラーリのみである。

特色

マシン

他チームに比べると、マシンの命名法に一貫性がない。ロードカーと同様のエンジン型式(総排気量・気筒数・1気筒あたりの排気量)にちなんだネーミングや、開発年度(西暦)にちなんだネーミングを基本としているが、639 - 643系(1988年 - 1991年、社内開発コード)、F602009年、F1参戦60周年)、150°イタリア2011年、イタリア建国150周年)、SF70H - SF71H2017年 - 2018年モータースポーツ参戦70周年[32])、SF902019年、チーム創設90周年[33])、SF10002020年、F1参戦1,000戦目[34])など、時折イレギュラーな名前が出現する。

フェラーリ製エンジンといえば、甲高いエキゾーストノートを放つV型12気筒 (V12) が有名であるが、スポーツカーレースで華々しい成績を残す一方、F1ではタイトルを獲得したことがない[※ 10]。2000年のF1レギュレーションにおいてエンジン形式が指定されるようになったものの、その前までは自由に設計できたため、1995年までF1チームの中では最後までV12エンジンを使用していたが、翌1996年からは主流派のV10へとスイッチしている。

カラーリングとスポンサー

SF90のカラーリング(2019年)

フェラーリのコーポーレートカラーは黄色 (giallo modena) だが、ワークスのカラーリングはイタリアのナショナルレーシングカラーである赤色 (rosso corsa) が定番である。創設期はアルファ・ロメオに似た暗色(海老茶)系の赤色だったが、年代とともに紅色の混じった濃い赤色へと変化していった[35]。1970年代以降、F1にスポンサーカラーが普及しても、フェラーリは伝統を守り、マシンにサプライヤー以外のスポンサーロゴを付けないという姿勢を貫いた。

しかし、1984年、マールボロがドライバーの報酬を支払う形 (Marlboro World Championship Team) で、マシンにマールボロのロゴが描かれるようになった。1997年にはチーム初のメインスポンサーに就任し、チーム名は「スクーデリア・フェラーリ・マールボロ」、マシンカラーも蛍光色系の明るい赤色になった(映像メディアのデジタル化に対応したという説もある[35])。2007年後半から2008年にかけては、マシンがメタリックレッドにペイントされた[35]

タバコ広告への規制が厳格化されたことにより、2006年には他のタバコスポンサーがF1から撤退、2010年にはエンジンカバーのバーコード模様がサブリミナル効果があると批判されて廃止[36]、2011年にはチーム名からも「マールボロ」が外された[37]が、依然としてフェラーリへの支援を継続(2012年の年間スポンサー料は推定63億円[38])、タバコ離れの動きを踏まえて禁煙技術の開発にも着手するなど、2021年までの広告契約継続を明らかにしているほか、2018年日本GPにて新プロジェクト「Mission Winnow」のロゴを新たに掲出している[18]。またすべての広告スペースをマールボロが買い取り、他のスポンサーに転売している。(ロイヤル・ダッチ・シェルを除く)

カヴァッリーノ・ランパンテ

「スクデット」の紋章をつけたウェアを着用するアロンソとマッサ

フェラーリの社章は、イタリア語で「カヴァッリーノ・ランパンテ」(Cavallino Rampante )と呼ばれる。紋章の形状は長方形と盾形の2種類があり、盾型(スクデット)の紋章は本来はF1マシンをはじめとする、フェラーリの公認の元でモータースポーツに参戦、およびF1クリエンティとXXプログラムに参加しているマシンと、モータースポーツに携わるゲスティオーネ・スポルティーバ部門とコルセ・クリエンティ部門、そして両部門に関連した業務に携わるフェラーリ社員とスタッフ、そしてドライバーのみが使用できるものである。

しかし、現在は普通のロードユースの車輌のフェンダー部に盾形の紋章がオプションとして用意されている他、一般向けに販売されているウェアや各種グッズにも盾形の紋章が使われている。

人事

イタリアを代表するチームであるが、ドライバー選考に関してはイタリア人を優遇していない。1950年代から1960年代にかけて、チームに在籍したイタリア人ドライバーが死亡した際、国内のマスコミから糾弾されたことが原因とも言われる[39]。スポット参戦は数名いる(2009年のルカ・バドエル,ジャンカルロ・フィジケラなど)ものの、1992年のイヴァン・カペリを最後にイタリア人のレギュラードライバーは存在しない(ただし、ニコラ・ラリーニやルカ・バドエルといったイタリア人がテストドライバーとして長期間在籍していたことはある)。2005年以降、2輪MotoGP王者のバレンティーノ・ロッシを招いて何度かテスト走行を行ったが、フェラーリ加入は実現しなかった。


基本的に実績のあるドライバーを採用する方針だが、2010年より若手育成プログラムとしてフェラーリ・ドライバー・アカデミー (FDA) を運営し、セルジオ・ペレスジュール・ビアンキシャルル・ルクレールを輩出した。ペレスは2011年にフェラーリエンジンを搭載したザウバーよりF1にデビュー。2012年には2度の2位を獲得するなど活躍し2014年のフェラーリドライバーとしての契約も提示されるなど[40]、次期フェラーリドライバー候補と目されたが、ライバルチームのマクラーレン入りを選択した。2014年以降はメルセデス製エンジンを使用するレーシング・ポイント(2018年シーズン途中までのフォース・インディア)に在籍している。ビアンキは2013年よりマルシャよりF1にデビュー。2014年のモナコGPで初ポイントを獲得。たびたびフェラーリ移籍説が流れるなど、将来のフェラーリドライバーの候補として期待されていたが、同年の日本GPの大事故により帰らぬ人となってしまった。そのビアンキと幼馴染でもあったルクレールは、2017年にF2で圧倒的な成績でチャンピオンを獲得すると、翌2018年からフェラーリエンジンを供給したアルファロメオ・ザウバーからF1デビュー、下位チーム在籍のルーキーにして結果を残し続け、早くも翌年のフェラーリドライバー候補としてその名が挙がっていた。そして2019年からフェラーリで参戦することとなり、FDA出身のドライバーとしてはじめてのフェラーリドライバーが誕生することとなった[41][42]

政治

レースの興行的価値という点でフェラーリの参戦は重要であり、フェラーリ側もその立場を認めて、運営団体に対して政治的駆け引きを行ってきた。

1964年には、スポーツカー世界選手権250LMがGTカーとして公認されなかったことに抗議してイタリア自動車協会を一時脱退し、同年のF1シリーズ終盤戦にはノース・アメリカン・レーシング・チーム (NART) からエントリーした。

637インディカー

1985年には、F1のレギュレーション改定案に抗議して、北米のCARTシリーズへの転向を示唆し、実際にプロトタイプのインディカー (開発コード637) を製作した。

2001年には、F1に参戦する他の自動車メーカーと共にGPWCを設立し、独立シリーズ構想の旗振り役となったが、コンコルド協定の更改に同意して2005年1月にGPWCを離脱した[43]。この裏切り行為は他メーカーの反感を買い、フェラーリ以外のチームが団結してGPMAを結成した[44]

2008年には、F1チームの連合体であるFOTAの設立を主導し、フェラーリのモンテゼーモロが初代会長に就任した[45]。2008年にFOTA会長のモンテゼーモロがバーニー・エクレストンによるF1の運営方法を厳しく批判した際には、エクレストンが反撃としてフェラーリのGPWC離脱の背景に(フェラーリが受け取る)分配金を増額する「特別契約」が存在したことを暴露したが[46]、FOTA副会長(当時)のジョン・ハウェットは「フェラーリの歴史的立場は誰もが知っており、たいした意味はない」と受け流した[47][信頼性要検証]

2009年5月にはフェラーリを含む数チームが予算制限規定(バジェットキャップ)に反対してF1撤退を示唆し[45]、その後もモンテゼモロ会長はF1撤退というカードをちらつかせて改革を要求した[48][49]。F1チームの中で唯一、FIAや統括団体の提案に対する拒否権を有しており[50]、2015年にはパワーユニットの最高価格を設定するというFIAの提案に拒否権を発動した[51]

イベントや広告への露出

ジュネーブモーターショーに展示されたF1マシン

オフィシャルスポンサーやサプライヤーの広告やイベント、モーターショーの展示にF1マシン(もしくはレプリカ)が露出、または貸し出されることが多い。なおF1マシンは、エンジンや補機類などが搭載されない展示用のレプリカも毎年数台製作され、世界各国の正規販売店やフェラーリ・ストアの店頭へのディスプレイに使用される。なおこれらのレプリカは、「F1クリエンティ」の顧客や正規販売店に販売されることもある。

1981年には、ジル・ヴィルヌーヴが運転する126CKとジェット戦闘機F-104スターファイターが滑走路で競走するというイベントを開催した。静止状態から並んで同時にスタートし1,000m走るというこのレースは、126CKが勝利している。2003年12月11日にもイタリアのバッカリーニ空港にて、ミハエル・シューマッハが乗るF2003-GAとジェット戦闘機ユーロファイター・タイフーンの競争を開催した。600mではF2003-GAが勝利したが、900mと1,200mではユーロファイターが勝利。雨天もありユーロファイターの2勝1敗という結果になった。

1998年には、オフィシャルスポンサーであるロイヤル・ダッチ・シェルグループのCMとして、「走行中のF1マシンが空中給油機から給油を受ける」という実写CMを世界各国で放送し話題になる。

2006年トリノオリンピック開会式では、リアウィングに五輪マークが描かれたF2005をリザーブ兼テストドライバーのルカ・バドエルがステージ上でドライブし、ドーナツターンを披露した。

例年、10月の末から11月の初めにムジェロ・サーキットなどのサーキットにおいて「ファン感謝デー」ともいうべき「フィナーリ・モンディアーリ」、1月にはフィリップモリス主催により、ドゥカティと合同でマスコミ向けのスキーイベント「Wrooom」を開催している。1月のイベントは新シーズンの体制発表も兼ねている。また、シーズン前の新車の発表会は必ず、マラネッロのプレスルームで行い、全ての進行をイタリア語のみで行うのも伝統である。(かつて、イタリア語を話せなかったミハエル・シューマッハにカンニング・ペーパーを渡して読ませたこともある)。

また、2019年より新たにチーム名にフィリップモリスの「Mission Winnow」ブランドをつけると発表したが、その後撤回した。たばこ会社によるキャンペーンに対する外部からの調査が増加している中で、フィリップモリスは当初予想されていたよりも長い期間、そして可能性としてはシーズンの残りの全戦においてロゴを削除することを現在検討しているという。

ティフォシ

ティフォシ(1995年イタリアGP)

熱狂的なフェラーリファンのことをティフォシ (tifosi) と呼ぶ。これはイタリア語で「熱狂的スポーツファン」「チフス患者」の意味を持つ「ティフォーゾ(tifoso)」の複数形であるが、元々はフェラーリファンを特定するものではなく、その熱狂振りに対する侮蔑表現を含んでいるため、彼らは自らのことを通常フェラリスタと呼ぶ。

なお、イタリア各地にフェラーリ公認の「スクーデリア・フェラーリ」のファンクラブがあり、イタリアグランプリや「フィナーリ・モンディアーリ」では会員のファンが集結する姿を見ることができる。

地元開催に当たるイタリアGPでは、来場したティフォシによってモンツァ・サーキットの観客席が赤く染められる。レース後の表彰式ではコースに乱入し、ホームストレート上で応援旗を広げるのが名物になっている。彼らの唯一最大の願いはフェラーリの勝利のみであるため、フェラーリがリタイアするとレース途中でもさっさと帰ってしまう(テレビ視聴者はテレビを消してしまう)。逆にフェラーリと優勝を争っているチームやドライバーのマシンにトラブルが発生したりリタイアすると大歓声をあげる。また1989年イタリアグランプリでは、このレース直前に翌年のフェラーリ加入が決定したアラン・プロストが乗るマクラーレンに大歓声が送られた事もある。

フェラーリF1クラブ

イタリアグランプリや日本グランプリモナコグランプリをはじめとするF1各戦における「Formula One Paddock Club」のフェラーリ・シャレーや各スポンサーのシャレーでの観戦パスをフェラーリオーナーとその家族、招待者限定で販売している。通常フェラーリ・シャレーにはドライバーやチーム首脳陣が訪れ、挨拶や記念撮影などを行う。

関連人物・企業

人物

現在のF1ドライバー

現在の主要関係者

フェラーリ・ドライバー・アカデミー(FDA)

2009年に設立されたフェラーリの若手ドライバー育成プログラムであり、F4からF3F2までのジュニアカテゴリに参戦している。2020年現在は9名が在籍している[54]

主な元在籍者

パートナー

スポンサー

  • フィリップ・モリスマールボロ) - 1980年代よりドライバーを支援し、1997年以降はメインスポンサーだが、F1におけるたばこ広告の禁止を受けて商品ロゴの掲出は行わない。2018年、科学研究をする子会社を通じてスポンサー再参入を果たし、同年10月に開催された日本グランプリでは「ミッション・ウィノウ」のロゴの御披露目が行われ、以降、終盤のマシンには新プロジェクト「ミッション・ウィノウ」(Misson Winnow)のロゴが入れられた。2019年もプロジェクトは継続され、チーム名も一旦は「スクーデリア・フェラーリ・ミッション・ウィノウ」となることが発表されていたが、開幕戦のオーストラリア当局やFIMが広告に関する規定違反などについて調査を開始。2019年3月5日、フェラーリはチーム名から「ミッション・ウィノウ」を外すことを発表した[58]
  • フィアット - アルファロメオブランド
  • シェル - ガソリンおよび各種オイルを供給(1950年 - 1973年,1996年 - )
  • レノボ(2018年 - )
  • カスペルスキー・ラボ(2010年 - )
  • ウブロ(2012年 - )
  • TNT(2012年 - )
  • ウェイチャイ・パワー(2013年 - )
  • ユナイテッド・パーセル・サービス(2013年 - )
  • レイバン(2016年 - )[59][信頼性要検証]
  • シンハー(2018年 - )
  • レディオブック株式会社(2020年 - )
過去の主要スポンサー

サプライヤー

公式サプライヤー
サプライヤー
過去のサプライヤー

ギャラリー

  • 葉巻型(1950年 - 1972年)
  • ノーマルノーズ型(1973年 - 1978年, 1983年 - 1996年)
  • グラウンド・エフェクト型(1979年 - 1982年)
  • ハイノーズ型(1994年, 1996年 - 2013年)
  • パワーユニット型(2014年 - )

脚注

注釈

  1. ^ ノースアメリカン・レーシングチーム(NART)名義で出場したレースを含む。
  2. ^ ワークスのスクーデリア・フェラーリがプラクティスを撤退し、プライベーターのピーター・ホワイトヘッド英語版のみ出場した1950年フランスグランプリは除く。
  3. ^ プライベートチームの1勝(1961年フランスグランプリジャンカルロ・バゲッティ)を除く。
  4. ^ プライベートチームの5回を除く。
  5. ^ 1954年イギリスグランプリ1970年オーストリアグランプリはスクーデリア・フェラーリ所属ドライバー2人が記録。プライベートチームの1回(1961年フランスグランプリジャンカルロ・バゲッティ)を除く。
  6. ^ イタリア語発音: [skudeˈria ferˈrari] スクデーア・フェ(ッ)ーリ
  7. ^ その後2013年セバスチャン・ベッテルが個人9連勝を記録している
  8. ^ 312BのBの由来でもあるボクサーという通称だが、そのエンジンは実際にはいわゆる「180度V型」であり、スバルやポルシェのボクサー水平対向とは異なる。
  9. ^ ただし、ハンガリーGP分の剥奪ポイントも含めた両ドライバーの単純合計では、マクラーレンは218ポイントとなる
  10. ^ 1970年代のボクサーエンジンは、厳密には「180度V12」であるが。

出典

  1. ^ Ges Racing Depertment” (英語). Ferrari.com. 2012年2月15日閲覧。
  2. ^ "The Scuderia Ferrari". Museo Casa Enzo Ferrari. 2013年2月13日閲覧。
  3. ^ フェラーリの社長が交代 - フィアット社は91年11月15日にピエロ・フサロ社長を解任し、後任に元フェラーリF1チーム監督のルカ・モンテツェモロを任命したと発表した。GPX 1992カレンダー号 5頁 山海堂 1991年12月21日発行
  4. ^ ソニー・マガジンズF1グランプリ特集 2005年6月号、他
  5. ^ Sports Graphic Number』 688号、文藝春秋、45頁。
  6. ^ “Former technical boss Aldo Costa parts company with Ferrari”. Autosport. (2011年7月11日). https://www.autosport.com/f1/news/93198/costa-parts-company-with-ferrari 2018年11月26日閲覧。 
  7. ^ “フェラーリ、風洞データに問題。トルコも間に合わず”. オートスポーツweb. (2011年4月19日). http://www.as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=33105 2014年6月6日閲覧。 
  8. ^ “「F2012では根本的な間違いを犯した」とフライ”. オートスポーツweb. (2013年1月21日). http://www.as-web.jp/news/info.php?c_id=7&no=46009 2014年6月6日閲覧。 
  9. ^ “フェラーリ、新車の風洞作業はすべてトヨタで”. オートスポーツweb. (2012年12月27日). http://www.as-web.jp/news/info.php?c_id=1&no=45716 2014年6月6日閲覧。 
  10. ^ F1=不振のフェラーリ、ドメニカリ代表が辞任 - ロイター・2014年4月15日
  11. ^ ニューウェイ、“あり得ないほど巨額のオファー”を提示したフェラーリF1よりレッドブルを選ぶ auto sport web 2018年1月12日、同6月15日閲覧。
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関連項目

外部リンク