ジョージ・W・ブッシュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。FairGamer (会話 | 投稿記録) による 2016年3月24日 (木) 18:15個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ジョージ・W・ブッシュ
George W. Bush


任期 2001年1月20日2009年1月20日
副大統領 ディック・チェイニー

任期 1995年1月17日2000年12月21日

出生 (1946-07-06) 1946年7月6日(77歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国コネチカット州ニューヘイブン
政党 共和党
出身校 イェール大学
ハーバード大学大学院
現職 企業家 (石油会社球団)
配偶者 ローラ・ブッシュ
子女 バーバラ・ブッシュ
ジェンナ・ブッシュ
宗教 米国聖公会 (1977年以前)[1]
米国メソジスト派教会 (1977年–現在)[2][3]
署名

ジョージ・ウォーカー・ブッシュEn-us-George Walker Bush.ogg George Walker Bush[ヘルプ/ファイル], 1946年7月6日 - )は、アメリカ合衆国政治家。第46代テキサス州知事、第43代アメリカ合衆国大統領を歴任。

第41代アメリカ合衆国大統領のジョージ・H・W・ブッシュは父。またフロリダ州知事を務めたジェブ・ブッシュは次弟。ジョージ・P・ブッシュは甥(ジェブ・ブッシュの長男)。

概要

ブッシュは、最初に2000年の大統領選挙で当選し、2004年の大統領選挙で再選した。1995年から2000年まで第46代テキサス州知事を務めた。また、第41代アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュの長男である。父親が22歳の時に生まれたために、父親が生きている間に大統領になった珍しい世襲政治家である。身長は182cm[4]体重93kg。右利き

イェール大学歴史学部卒業後、彼の家族の石油会社で勤務した後、下院議員選挙に出馬したが落選した。その後、テキサス・レンジャーズを共同所有するなど実業家として活躍した後、テキサス知事選挙のために政治運動に戻った。1994年にはアン・リチャーズを破ってテキサス知事に当選した。

ブッシュは2000年の大統領選挙において、一般投票では敗北したが選挙人投票で勝利し、共和党の候補として当選した。大統領としてブッシュは、2001年に1兆3500億ドルの減税プログラムを[5]、2002年には全国一斉学力テストを義務化して成績次第で助成金とペナルティを学校に課す「落ちこぼれを作らないための初等中等教育法」(通称:落ちこぼれゼロ法(No Child Left Behind Act[6]」に署名した。

2001年9月に発生した同時多発テロ事件の後の同年10月に、ブッシュは世界的な「テロとの戦い」を発表して米国愛国者法を成立させた。そしてアフガン侵攻に臨み、ターリバーン政権を倒しアルカーイダを壊滅させて、オサマ・ビン・ラディンデッド・オア・アライブ[7]として逮捕あるいは殺害することを命じた。2003年3月にブッシュはイラク侵攻を命じ、「イラクが国際連合安全保障理事会決議1441に違反しており、戦争がアメリカ合衆国の保護のために必要だった」と主張した[8][9]

イラク戦争の中、ブッシュは「戦時大統領」と自称して[10]再選を狙い出馬し、イラク戦争と国内問題の遂行をめぐる論争にもかかわらず、ジョン・ケリー上院議員に大きな差をつけて2004年11月2日に再選された[11][12][13]

しかし再選後にブッシュはますます激しい批判を受けた。ブッシュの国内の支持率は、2001年同時多発テロ直後の[14]90%(The Gallup Organizationによってこれまでに記録される最高のもの)[15]から、記録に残る中で最も低いアメリカの現職大統領の支持率である[16]2008年2月20日に19%にまで低下した。ブッシュの不支持率は76%まで上昇し、国内ではブッシュ批判が激しさを増した[17]。それは、2009年1月20日に後継のバラク・オバマに政権をバトンタッチするその日まで続いた[18]

父との呼称による区別

アメリカ合衆国では、父のH・W・ブッシュと区別するため、第43代アメリカ合衆国大統領であることから「43(フォーティスリー)」や、ミドルネームを表す「W」、またはテキサス州周辺地域での W の発音から「Dubbya(ダビャ)」と呼ばれることもある。

また、歴史的には同姓同名で血縁関係のある人物を区別する際、年長者を「大(major)○○」、年少者を「小(minor)○○」と呼ぶので、父を「大ブッシュ」と呼ぶのに対して、息子の方を「小ブッシュ」と呼ぶこともある。父を「ブッシュ・シニア」と呼び、息子の方を「ブッシュ・ジュニア」と呼ぶ例もある。

上述のように、次弟・ジェブ・ブッシュの長男でもある、W・ブッシュの甥もジョージ・ブッシュだが、ミドルネームがPとなっている(ジョージ・P・ブッシュ)。

来歴

若年期と軍歴

小ブッシュが1歳の頃。父と母と。
ジョージ・W・ブッシュ(後列、左から2番目)と家族。
空軍州兵時代のブッシュ

小ブッシュは1946年7月6日に、コネチカット州ニューヘイブンでジョージ・H・W・ブッシュとバーバラ・ブッシュの長男として生まれた。ブッシュは四人の兄弟、ジェブニールマーヴィンドロシーと、テキサス州のミッドランドヒューストンで育てられた。もう一人の妹・ロビンは、1953年白血病によって3歳で死亡した[19]。ブッシュの祖父・プレスコット・ブッシュはコネチカット州選出の上院議員で、ブッシュの父・ジョージ・H・W・ブッシュは1989年から1993年まで米国大統領を務めた。

ブッシュはマサチューセッツ州アンドーバーフィリップス・アカデミーに通った。そこで彼は野球をして、最終学年まで男子校のヘッド・チアリーダーだった[20][21]。 父の先例にならって、ブッシュはイェール大学に通い、1968年に歴史学士号を取得した[22]。大学の専門課程に、ブッシュは秘密結社スカル・アンド・ボーンズのメンバーになった[23][24]。大学時代は当初野球部で投手だったが、才能に限界を感じて3年からラグビー部へ移り、4年でレギュラーになった[25]

1968年5月に進行していたベトナム戦争のまっただ中に、ブッシュは適性検査の筆記試験で、下から25番目の成績だったにもかかわらず[26][27]、合格の最低点だったが[28]テキサス空軍州兵に認められた[29]。これは、一度に一万人以上の空軍州兵人員(多くの戦闘機パイロット)がベトナムの作戦を支援するために招集されていた時期だった[30]。訓練の後、彼はヒューストンで任務を任せられ、エリントン空軍基地からコンベアF-102を飛ばした[31]。批評家はブッシュが彼の父親の政治的な地位のために、軍務で有利に扱われ、正常な兵役ではなかったと主張した。合衆国国防総省は公式アーカイブに残っていたという、ブッシュのテキサス空軍州兵勤務記録の全てを公開した[32]。1970年に、ブッシュはテキサス法科大学に出願したが、不合格にされた[33]。ブッシュは共和党の議会選挙活動に取り組むために、1972年アラバマ空軍州兵へ転任し、1973年10月にハーバード・ビジネス・スクールに通うために、約8か月早くテキサス空軍州兵を退役して、不十分に6年間の兵役義務を終了した[34]

ブッシュはその時期に「あまりにも多く」飲んでいたことを認め、彼の人生のこの期間を「無責任な青春期」の「放浪」の期間だったと言った[35]1976年9月4日、ブッシュは30歳で、家族の夏の別荘付近で、飲酒運転容疑で逮捕された。彼は罪を認めて150$の罰金を科され、運転免許証1978年までメイン州で停止された[36][37]

1990年、妻ローラと娘のジェンナ、バーバラと。

ハーバード大学MBAを取得した後[38]、ブッシュはテキサスの石油工業会社に入社した。1977年に、彼は友人に学校教師・司書のローラ・ウェルチを紹介された。彼らは結婚して、テキサス州ミッドランドに居住した。ブッシュは妻の合同メソジスト教会に入会するために、米国聖公会を脱会し宗旨替えを行った[2]

1978年にブッシュはテキサス州の19下院議員選挙区から立候補した。ブッシュは、ブッシュが地元と接触していなかったと描写した相手ケント・ハンスに、6000票の差で負けた[39]。 ブッシュは石油企業に戻り、アーバスト・エネルギー[40]スペクタン・7ハーケン・エネルギーなどの会社の社長、最高責任者となった[41]。これらの事業は、1980年代に産業と地域経済に影響を及ぼした、石油価格の広範囲な低下により損害を受けた。さらに、ハーケンが関係したかもしれないインサイダー取引の疑惑が起こったが、証券取引委員会(SEC)の調査は、ブッシュの株式販売より前に容疑を正当化するインサイダー情報はないと結論付けた[42]

1981年にブッシュは、妻ローラとの間に双子の娘、ジェンナバーバラを儲ける。

1988年にブッシュは、ワシントンD.C.で家族と父の大統領選挙活動に取り組んだ[43][44]。選挙運動の後、1989年4月にブッシュは、テキサス・レンジャーズの株を購入し、5年間無限責任組合員を務めた[45]。ブッシュは活発にチームの企画を指導して、定期的に試合に出席し、しばしばファンと売店に座ることを選んだ[46]1998年、ブッシュは最初に80万ドル投資したレンジャーズの株式を売却し、1500万ドルの利益を得た[47]

テキサス州知事

テキサス州知事時代、父ジョージ・H・W・ブッシュ、妻ローラ・ブッシュと

ブッシュは1994年のテキサス州知事選挙に出馬を表明したが、これは弟のジェブ・ブッシュのフロリダ州知事選出馬と同時である。共和党の予備選挙で大勝し、人気のあった現職のアン・リチャーズ(民主党)との一騎打ちとなる。

ブッシュにはKaren Hughes、John Allbaugh、カール・ローヴといった選挙参謀がついた。ブッシュの選挙運動に対して、リチャーズへのアンフェアな中傷であるとする批判も上がった。しかし公開討論での効果的な弁舌により、ブッシュの人気は上昇した。結果、11月8日の選挙において、52%対47%の得票率で当選した[48]

知事としてブッシュは、首尾良く不法行為改革のための法律を支援し、教育資金の支出を増やして学校の教育水準を上げ、刑事制度改革を行った。ブッシュは152人の死刑を執行させたが、これはアメリカにおいて一人の州知事が執行させた死刑数としては最高記録である[49]。ブッシュは20億ドルの歳入超過を減税に回したが、これはテキサス州における減税額の最高記録である。この減税により、ブッシュは企業活動を擁護する経済右派としての評価を確立した[48]。また、教育改革ではアファーマティブ・アクションを違憲とするホップウッド判決を受けて上位10%法に署名し、フロリダで上位20%法を進めていた弟のジェブ・ブッシュと軌を一にした。

ブッシュはまた教会などの宗教組織による教育、アルコール・薬物依存症対策、家庭内暴力対策活動への政府支出を行った。ブッシュは6月10日をテキサス州の「イエス(・キリスト)の日」と定め、この日には「支援を必要とする人々への奉仕をテキサス州民に要請する」とした[50]

1998年11月3日には69%の得票で再選を果たす[51]。同年、共和党大統領候補予備選挙への出馬を表明する。大統領選挙当選に伴い、知事職は2期目途中で辞任(知事就任期間:1995年1月17日-2000年12月21日)。

大統領職

1期目

左からコンドリーザ・ライスコリン・パウエル、ブッシュ、ドナルド・ラムズフェルド
同時多発テロ発生から三日後、グラウンド・ゼロで演説を行うブッシュ

[52]

「愛国者法」にサインするブッシュ
「大規模戦闘の終結宣言」を行うため空母に降り立ったブッシュ

大統領の第1期目は、ほとんどを対外戦争に費やした。アメリカ史上最も接戦となった選挙戦を勝利し、2001年1月20日に大統領に就任。民主党候補アルバート・ゴアが、一般投票でブッシュの得票を50万票ほど上回っていたが、選挙人投票でブッシュが5票多く得票した。実弟ジェブ・ブッシュが知事を務めるフロリダ州の、一般得票でゴアをわずかに上回り、25人の選挙人を獲得したためである。しかし、選挙終盤のフロリダ州における選挙の運営方法への問題点も指摘され(ブッシュ陣営がジェフ・ブッシュを通じて不正選挙を行ったと主張する意見もある)ゴア陣営が抗議したため、発足当初の国民支持率は低迷していた。

任期9か月目の9月11日ニューヨークとワシントンD.C.で同時多発テロが発生。三日後の9月14日世界貿易センタービル跡地(いわゆるグラウンド・ゼロ)を見舞い[52]、救助作業に当たる消防隊員や警察官らを拡声器で激励してリーダーシップを発揮し、一時は歴代トップだった湾岸戦争開戦時のジョージ・H・W・ブッシュの89%をも上回る驚異的な支持率91%を獲得した。18日にはテロを計画、承認、実行、支援したと大統領が判断した国家、組織、個人に対してあらゆる必要かつ適切な力を行使する権限を与えるとする合同決議が上院98対0、下院420対1で通る(これはグアンタナモ湾収容キャンプでの無期限の拘留の根拠となる)。12日に開かれた国際連合安全保障理事会と第56回国際連合総会では米国に連帯・哀悼を表してテロへの対応を求める決議が満場一致で採択され、28日には安保理決議でテロ対策が全世界に義務化され[53]11月10日にニューヨーク市長ルドルフ・ジュリアーニとともに国連総会の演説で国際社会の支持に感謝してテロとの戦いを宣言した[54]

ブッシュ自身は第三次世界大戦[55]とも呼んだこの戦争は、10月7日アフガニスタン侵攻によって開始され、世界各地で不朽の自由作戦が実行された。また国内では、テロ対策に不可欠だとして「パトリオット法」愛国者法)を制定する。しかし、炭疽菌小包による無差別殺人が一時横行し、同時テロとともに国内はパニック状態になった。一方、アフガニスタン作戦は順調に進み、12月7日にはタリバーン政権は転覆、同月に新政権を樹立させた。

2002年1月、一般教書演説において悪の枢軸発言。これはイラクイラン北朝鮮大量破壊兵器を開発保有するならず者国家と名指しで非難したものである。特にイラクに対しては武装解除問題を抱えていたので厳しい態度で臨み、国連の全面査察を4年ぶりに受け入れさせた。しかし武装解除が進まず、未だに大量破壊兵器を持ち続け、世界の脅威になっていると報告を受けたとし、それを世界に発信した。翌2003年に入ると、いよいよイラクに対し強硬姿勢を採るようになる。しかし、フランスドイツロシア中国などは根拠が足りないとして、イラクへの制裁攻撃に反対した。

3月17日にブッシュはサッダーム・フセインと側近に対して、48時間以内の国外退去を求める事実上の最後通牒を発表。3月19日、最後通牒を無視したイラクに対し侵攻(イラク戦争)した。作戦は順調に進み、5月1日には「大規模戦闘の終結宣言」を行ったが、これについて特にイラク側との協定はなく、実際にはまだ戦時中であった。イラクはアメリカ・イギリス・ポーランドによる分割占領と、連合国暫定当局による統一した国家運営を行い、徐々に民主化することとした。

7月11日には、アメリカ国民のブッシュへの支持率が同時多発テロ事件以来の最低水準である59%に急落したことが判明(ABCテレビとワシントン・ポスト紙の共同世論調査による)したが、これは後に回復し、その後再度低下している。12月にはフセインの逮捕に成功し、裁判の準備も行われ、占領政策も順調に行われているように見えたが、実際はアメリカ軍を狙った攻撃や自爆テロが絶えず、死者は湾岸戦争の1000名を上回ることとなった。また、イラクが隠し持っていると主張していた大量破壊兵器が見つからず、イラク戦争に対し国民は懐疑的になっていった。

2期目

第二期目における一般教書演説を行うブッシュ
ロンドン同時爆破事件に関する声明を発表するブッシュ。第31回主要国首脳会議の会場であるイギリスグレンイーグルズホテルにて
ハリケーンの被災地を訪れニューオーリンズ市長と握手をするブッシュ
2008年アメリカ合衆国大統領選挙共和党候補のジョン・マケイン(右)と
次期大統領のバラク・オバマ(左)と
ホワイトハウス内で歴代大統領とともに立つブッシュ(左からジョージ・H・W・ブッシュ、バラク・オバマ、ブッシュ、ビル・クリントン、ジミー・カーター
大統領として最後の演説を行うブッシュ

2004年、ブッシュは再び大統領選挙に立候補したが、都市部のリベラル層がブッシュ支持から離反し、同時多発テロ発生後やイラク戦争開戦時の高支持率は維持できず、特に選挙戦の終盤は、対立候補の民主党上院議員のジョン・ケリーと支持率は拮抗しているとたびたび伝えられた。しかし、最終的にはブッシュが1988年の大統領選挙以来となる、過半数の51%を得票、選挙人もケリーを34人上回る286人を獲得し、2回目の当選を果たした。

2005年2月2日、第2期目における一般教書演説を行った。外政に関しては各国との協調路線を取ると述べた。イラクの国民議会選挙を評価し、イランの核開発問題に対して強硬な姿勢を打ち出し、さらに、中東各国の和平・民主化、核開発を進めていることを明言している北朝鮮の核廃棄問題などを取りあげ、世界を自由にするという決意を述べた。

8月29日ハリケーン・カトリーナによって過去最大級の犠牲者を出す災害となったが、政府の予防の不十分さと対応の遅れが非難された。本来、攻撃や災害から住民を守るべき州兵までイラクへ派兵されていることも大いに疑問視された。テロや戦争など有事には強いとされていたブッシュ政権が同様の危機管理であるはずの天災への対応には脆弱さを見せたこと、FEMA国土安全保障省への編入による指揮系統の複雑化、過去に堤防の改築など被害を最小限に抑える対策が進言されていたにもかかわらず十分な災害予算を計上していなかったことが議会の民主党などから批判の対象となった。また、彼の母親であるバーバラ・ピアスが被災地を訪れた時のインタビューで「被災地に住む人は貧困層ばかりで、避難所に入れた方が恵まれている」と発言し、批判はさらに高まった。実際、被災者への支援は白人系の富裕層に偏っており、逃げ遅れて被害に遭った貧困層の救援は後回しで、衛生状態が悪い中、放置された[56][57]

さらに10月には、イラク戦争開始前にイラクの大量破壊兵器購入に懐疑的な見解を述べた、元駐ガボン大使ジョゼフ・ウィルソンの妻ヴァレリー・プレイムCIAの工作員であると意図的に情報漏洩し、元大使の信頼性を落とそうと画策した事件に関し、チェイニー副大統領の首席補佐官ルイス・リビーが、事件の主導人物の隠蔽目的の偽証罪に問われ米連邦大陪審に起訴される(プレイム事件)。その後リビーは一審有罪判決を受け、さらに副大統領も情報漏洩の主導的関与を行った疑いが持たれた。

この影響で、11月にニューズウィーク誌が実施した世論調査によれば、支持率は36%にまで低下。他の世論調査でも支持率が低下しており、ブッシュ政権は2期目の最初の1年目から試練に直面した。年末、ブッシュはイラク開戦の重要な根拠となった大量破壊兵器の報告に誤りがあったと発表した。開戦以前からイラクの武装解除は順調に行われていたことがすでに明らかになっていたが、これを追認する形となった。しかしながら、フセインの圧政からイラク人を解放したことを強調し、戦争の正当性を改めて訴えた。

2006年11月8日に行われた中間選挙ではイラク戦争に対する有権者の批判や同性愛のスキャンダルに加えて宗教保守派が大幅に離反したことなどから、与党共和党は民主党に大敗し連邦議会上下両院の多数派の座を奪われた。このため、ブッシュはイラク政策の責任者であったラムズフェルドが国防長官を辞任(事実上の更迭)させ、後任にロバート・ゲーツ(元CIA長官)を指名した。

その後も、相次ぐ閣僚の不祥事や原油高による経済への不満などもあり支持率は低迷。2007年5月には支持率が最低の28%となったこともあって、報道官などのスタッフを入れ替えて人事の刷新を図った。

2007年3月には“老朽化した核弾頭の更新”を名目に、冷戦終結後初めての新型核弾頭設計に着手する事を表明。2012年を目途にSLBMへの配備を目指すとした。

2007年6月28日、事実上政権の“遺産”となると思われた共和党提出の『不法移民の在留資格獲得に道を開く移民制度改革法案』が米上院における採決で否決された。法案は、アメリカ・メキシコ国境の警備を強化する一方で、すでに入国した不法移民に罰金支払いや身元審査を条件に就労の合法化や永住権取得に道を開く包括的な改革であったが、共和党反対派が大々的なキャンペーンを行い、推進派からも内容の一部をめぐり反対の意見が出た。ブッシュは賛成を求めて電話で最後の説得にあたったが、「支持率が記録的に落ち込んだ彼の懇願は実を結ばなかった」(米紙ワシントン・ポスト)という。

2008年2月18日には共和党の次期大統領候補に選出されたジョン・マケインの支持を公式に打ち出し、大統領選挙の事前投票でマケインに投票した。しかしブッシュの人気が余りにも低いために、ブッシュの正統な後継者を自任し多くの政策に賛同してきたマケインに「私はブッシュ大統領ではない」と言われ、応援演説の依頼も殆ど無かった。結果的に、ブッシュ政権との相違が見出せなかったマケインは民主党候補のバラク・オバマに6.3%差で敗れた。

サブプライムローンに端を発した世界同時不況への対応策である「金融安定化法案」の採決では9月29日下院における共和党右派の反対もあって法案は否決されたが、修正法案が上院で可決された後10月3日に下院で可決され成立した。

2008年11月のCNNによる世論調査ではブッシュの不支持率が76%に上り、ウォーターゲート事件で辞任したリチャード・ニクソンをも上回る戦後最悪の不支持率を記録した。

2008年12月14日、退任末期のブッシュはイラク首相ヌーリー・マーリキーとの共同会見中、取材していたイラク人記者ムンタゼル・ザイディーMuntadhar al Zaidi)から履いていた左右の靴を投げつけられた。ブッシュは身をすくめてかわし、直後にザイディは取り押さえられた。同日の夜、イラクのニュース番組でこの映像が流れると、エジプトの民間衛星テレビ局の女性アナウンサーがこの記者を「英雄」と呼び、また数千人の市民が犯人の釈放を求めデモを起こした。当のブッシュは靴を投げつけられた直後「今の靴のサイズは10だったよ」とジョークを飛ばす余裕を見せ、「私に靴が投げつけられたからといって、何だ?」「(イラクが)自由な社会になった証だよ」と締めくくった。

2009年1月14日、ブッシュは「米国の真の友人であり、歴史的な挑戦に対して不屈の精神で対処した」としてトニー・ブレア(イギリス元首相)、ジョン・ハワード(オーストラリア元首相)、アルバロ・ウリベ(コロンビア大統領)の3人に大統領自由勲章を授与した。なお、小泉純一郎ら日本の政治家は選から漏れた[58][59]

大統領退任直前のインタビューや演説では8年に渡る政権期間を述懐。「私は常に、米国にとって最良の道を考えて行動してきた。自分の良心に従い、正しいと考えることをやってきた」と強調する一方、「私の政権の期間中、最も遺憾だったのが、イラクの大量破壊兵器に関する情報活動の失敗だった」「私の物言いには一部、誤りもあった。それは明らかだ」「歴代大統領と同じように失敗も経験した。やり直すチャンスがあれば違うやり方をしていたと思われることもある」と述べ自身の政策に対する後悔の念を事実上認める発言を行った。[要出典]

2009年1月20日正午(ワシントンD.C.時間)、任期満了で大統領を退任。 退任時の財政赤字は1兆2000億ドルであった。

大統領退任後

大統領退任後は、テキサス州ダラスの自宅やクロフォードの牧場に居住し、大統領図書館シンクタンクの活動に従事している[60]。ブッシュは1994年までダラスに居住していた縁があり、地元ではブッシュを歓迎するムードが広がっている[61]。ダラスのホームセンターでは「ブッシュ前大統領殿 ようこそお戻りになりました!」[62]との書き出しで始まる「お客様係募集」求人広告をジョークで掲載し、「時間に融通の利く、非常勤。ご自宅からも近距離で、一日体験も可能です」[62]とメリットを列挙したうえで「何年にも亘る外国要人との会談を通して、社交術を磨き上げてきたあなたが、このポジションの優れた候補者だと確信しています」[62]と呼びかけた。なお、広告掲載後、当該の店にはブッシュ本人が「仕事を探しているんだ」[62]と突然来店し、店長に対して入社を丁重に辞退したうえで買い物をするというジョークで応じたため、居合わせた客らから喝采を浴びた[62]

また、「歴代支持率ワースト1の大統領」である彼の伝記映画『ブッシュ』が公開された。(米国ではブッシュが退任直前の2008年に公開された)。監督のオリバー・ストーンは、映画を作る目的は「あくまでブッシュの品格を落としたり、傷つけようとしているのではない」としており、「彼の言葉を喋らせること、イラク戦争に対する彼の判断は、彼という人物やその個人史と相関関係にある。それを示そうとした。」とコメントしている[63]

2009年11月上旬に大統領辞任後の初来日を行い、かつての盟友・小泉純一郎元首相と再会したほか東京ドームで行われた日本シリーズの始球式に参加した。

2010年11月9日に大統領在任中に下した様々な決断を振り返った回顧録(タイトル:“Decision Points”、邦題:『決断のとき』[64])が出版された[65]。回顧録は自身の飲酒運転トラブルやイラク戦争の決断も詳しく語られた内容となっている。しかし、本書に関して他の著作本からの剽窃・盗作の疑惑が報じられている[66]

2011年4月より、日本経済新聞で連載されている自身の半生を綴った『私の履歴書』の執筆を担当し、原稿料は全額東日本大震災による震災孤児を支援するため、あしなが育英会に寄付した[67]

2013年4月、テキサス州ユニバーシティーパークのサザン・メソジスト大学に、大統領図書館「ジョージ・W・ブッシュ大統領センター」の開館式が行われ、ジョージ・W・ブッシュ本人と父のジョージ・H・W・ブッシュ、ビル・クリントンジミー・カーターバラク・オバマと、大統領及び存命の大統領経験者が揃った。同月に行われたジョージ・W・ブッシュの評価についての世論調査では、大統領就任時の教育や医療制度改革が見直され、退任時よりも評価は上昇の傾向にある[68][69]

2016年2月15日、大統領選挙で苦戦する弟ジェブ・ブッシュフロリダ州知事の集会に現れ、「米国民が怒り、不満を抱えているのは分かる。しかし、我々の怒りや不満をそのまま映し、あおる人物はオーバルオフィス(米大統領執務室)には要らない」と共和党指名争いでトップを独走する実業家のドナルド・トランプを批判した[70]

政権

政権スタッフ

職名 氏名 任期
大統領 ジョージ・W・ブッシュ 2001 - 2009
副大統領 ディック・チェイニー 2001 - 2009
大統領顧問団
国務長官 コリン・パウエル 2001 - 2005
コンドリーザ・ライス 2005 - 2009
国防長官 ドナルド・ラムズフェルド 2001 - 2006
ロバート・ゲーツ 2006 -(次政権に留任)
財務長官 ポール・オニール 2001 - 2003
ジョン・スノー 2003 - 2006
ヘンリー・ポールソン 2006 - 2009
司法長官 ジョン・アシュクロフト 2001 - 2005
アルバート・ゴンザレス 2005 - 2007
マイケル・ミュケイジー 2007 - 2009
内務長官 ゲイル・A・ノートン 2001 - 2006
ダーク・A・ケンプスロン 2006 - 2009
農務長官 アン・ヴェネマン 2001 - 2005
マイク・ジョハンズ 2005 - 2007
チャールズ・F・コナー 2007 - 2008(代理)
エドワード・トマス・シェーファー 2008 - 2009
商務長官 ドナルド・L・エヴァンズ 2001 - 2005
カルロス・M・グティエレス 2005 - 2009
労働長官 イレーン・チャオ 2001 - 2009
保健福祉長官 トミー・ジョージ・トンプソン 2001 - 2005
マイケル・オーカーランド・レヴィット 2005 - 2009
住宅都市開発長官 メル・R・マルチネス 2001 - 2003
アルフォンソ・R・ジャクソン 2004 - 2008
スティーヴン・クライド・プレストン 2008 - 2009
運輸長官 ノーマン・ミネタ 2001 - 2006
マリア・シノ 2006 (代理)
メアリー・ピーターズ 2006 - 2009
エネルギー長官 E・スペンサー・エイブラハム 2001 - 2005
サミュエル・W・ボドマン 2005 - 2009
教育長官 ロデリック・レイナー・ペイジ 2001 - 2005
マーガレット・スペリングス 2005 - 2009
退役軍人長官 アンソニー・J・プリンシピ 2001 - 2005
R・ジェームズ・ニコルソン 2005 - 2007
ゴードン・H・マンスフィールド 2007 (代理)
ジェームズ・B・ピーク 2007 - 2009
国土安全保障長官 トム・J・リッジ 2003 - 2005
ジェームズ・M・ロイ 2005 (代理)
マイケル・チャートフ 2005 - 2009

ブッシュ政権の外交政策は、ネオコンと称される閣僚が要職を多く占め、さらにキリスト教右派を支持母体にしているため、中東の原油をめぐる利権の追求、それに伴うアフガニスタンやイラク侵攻などに関して、対外的な武力行使も辞さないアメリカの覇権の追求(単独行動主義、覇権主義)が顕著であり、第十次十字軍と諷刺されることもあった。

このようなタカ派ともとれる姿勢は、アフガニスタン侵攻、イラク戦争など戦時のたびに、ブッシュ大統領本人のみならず、閣僚・政権関係者が所有・関係する企業などに莫大な経済的利益をもたらす構造が疑問視された(軍産複合体も参照)。

政策

経済政策はあらゆるものに自由な所有権を拡大させる所有者社会を目標に掲げ、サプライサイド経済学に基づいた所謂ブッシュ減税(小切手送付などによる)、ベン・バーナンキアラン・グリーンスパンの後任に起用したマネタリズム的な金融政策、自由貿易グローバリゼーション)推進など新保守主義・新自由主義的政策、「小さな政府」の方針と重なるところも多い。しかし、クリントン政権が大きな財政黒字だったのに対し、ブッシュ政権は2つの大きな戦争への参加や警察力を強化するテロ対策などで膨大な支出を治安面や軍事面で生じさせたため(夜警国家)、2004年には史上最大の4130億ドルもの財政赤字に苦しんでいる[71]。ブッシュ自身は、かかる自らの政策を「思いやりのある保守主義」(Compassionate Conservatism)と称している。

外交面では政権内のネオコンと呼ばれる人々によって特徴付けられ、「世界の警察」「世界最強の軍事力」たる唯一の超大国アメリカを積極的に他国に介入させ、自由民主主義で世界の一極化を目指すタカ派戦略を採り、イラク戦争・アフガニスタン侵攻を引き起こした。

ブッシュを支持する共和党支持者の中にはキリスト教福音派の原理主義者が多く含まれ、ブッシュは彼らの倫理観やインテリジェント・デザインなどの理論に理解を示してきた。旧知のハリエット・マイヤーズアメリカ最高裁判所の判事に指名した際、マイヤーズが弁護士時代に中絶に関する質問に対して曖昧な答えを残していたことなどから反発を受け、断念せざるを得なくなるという事例もあった。

他に話題を呼んだ政策として、次のようなものが挙げられる。

なお、ブッシュの下で副大統領を務めているディック・チェイニーは、父の大ブッシュの下で副大統領を務めたダン・クエールより年長である。

地球温暖化

ブッシュ政権は地球温暖化問題への取り組み(温室効果ガスの排出削減対策)に消極的だと言われる。科学誌ネイチャーによると、ハリケーン被害が増大している一因は温暖化であるとする内容の報告書を米国海洋大気局が発表しようとした際、ブッシュ政権からの圧力によって阻止されてしまったという[73]。 また2005年には、京都議定書を離脱している。

外交政策

イラク駐留が長期化するにしたがい、低下に歯止めがかからなくなった支持率(ギャラップ/『USAトゥディ』による世論調査、青:支持する、赤:支持しない、緑:どちらでもない)
「盟友」のブレア首相と
2006年6月29日、ホワイトハウスにて「友人」の小泉純一郎と
イラク戦争
ブッシュ政権は、イラクが国際原子力機関 (IAEA) の査察に全面的に協力しないこと、生物兵器化学兵器も含め大量破壊兵器を隠し持っていることなどを強く主張し続けた(イラク武装解除問題)。先制攻撃も辞さないこと、軍事行動を肯定する国際連合安全保障理事会による決議は「望ましいけれども必要ではない」ことなどを主張し、2003年3月17日(アメリカ現地時間)国際法に則り「48時間以内にサッダーム・フセインとその息子がイラクを去らなければ軍事行動を行う」という最後通告を行ったが、フセインは黙殺した。
しかし、開戦の根拠とされた大量破壊兵器はその後発見されずイラク戦争の正当性が根底から揺らぐ事態になった。後に、まったくの事実無根であることが判明し「私の政権の期間中、最も遺憾だったのが、イラクの大量破壊兵器に関する情報活動の失敗だった」と釈明することとなった。ブッシュ政権はその後、開戦の理由を「イラクのフセイン政権がアルカイダを始めテロリストを支援している」と説明し、「同時多発テロの実行犯モハメド・アタとイラクの諜報部員が接触していた」と主張したが、独立調査委員会は「会合の存在自体が無かった」とする見解を示している。
英歴史家のポール・ケネディは読売新聞紙上に載せたコラムで、第二次世界大戦の二人の指導者、フランクリン・ルーズベルトが小児マヒでありながら国外の戦略会議に3回出席したことやポツダム宣言で果たした役割、さらにウィンストン・チャーチルが主要な戦場に何回も足を運んだことを指摘し、一方のブッシュが開戦から5年の間にイラクに訪問したのはいずれも数時間足らずで合計するとイラクに居たのは一日にも満たないと両者を対比しながら述べている。またブッシュは石油の利権を手に入れた事でそのあがり[74]となる、ブッシュ大統領の要請から17億ドル減額したものの186億ドル(約2兆460億円)のイラク復興支援の予算案を議会は可決した[75]
ブッシュは「イラク撤退はベトナムの二の舞いになる、米軍撤退は米国の信頼性を傷つけ、テロリストを勢いづかせる」と主張した[76][77]
しかし復興支援を出しても絶えない宗派対立で、毎日60人近くの死者が出るような自爆テロと、それを米軍とイラク国防軍が発砲し、イラク戦争の死者は10万人まで増加してしまい、結局イラク国民の間に根深い反米感情を残し靴投げ事件のさいには、犯人の男に対する同情や駐留米軍に対する抗議の声が民衆から聞かれた。
ブッシュがフセインを打倒した事により、これまでフセイン政権に怯えていたシーア派とスンニ派とクルド人が石油の利権また政権争いのために対立が激化してしまい、皮肉にもフセインの恐怖政治が宗派・民族対立を押さえ込んでいたことが明白になった。トルコのギュル首相はイラク戦争は泥沼化すると予想しており、イラクを『パンドラの箱』と揶揄していた。ブッシュ退任後は都市部から撤退した米軍の復帰を求める声すら聞かれている[78]。イラク侵攻でブッシュの支持率は低下したと言われているものの、クリントン政権時代でもイラクを敵視し空爆をしており、結局、フセインはブッシュだけでなくクリントンからも敵視されていた。
ブッシュは石油の利権を狙うためにイラクへ侵略したと酷評されているが、伝記映画『ブッシュ』でも、ブッシュが石油の利権を狙う様子が描かれており、父ブッシュが打倒出来なかったフセインに石油の利権を持たれている事が痛恨であるように描かれている。
日本
北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国拉致された横田めぐみの家族と脱北者の少女と会見するブッシュ
小泉純一郎の首相在任中には個人的な繋がりをアピールし、「ジョージ」、「純一郎」と呼び合うほどの仲であった。2006年6月に小泉が訪米した際には、ワシントンD.C.から、小泉がファンであるエルヴィス・プレスリーの自宅兼博物館のあるメンフィスまでエアフォースワンで同乗し、プレスリーの自宅を自分の妻とプレスリーの元妻とその娘との4人で案内するなどした。
その一方で、在日米軍基地再編米国産牛肉の輸入問題などで日米両政府の見解が一致しない政策もある。また、政権末期には北朝鮮に対して宥和政策に転じるなど、拉致問題で対北朝鮮強硬姿勢を取る日本との歩調のズレが目立った。
アメリカの歴代政権は同盟国である日本の常任理事国入り自体には積極的な支援を表明してきたものの、2005年7月に入って日本が常任理事国入りの手段とするG4案への「ノー」を断固として表明した。日本だけでなくドイツやブラジル、インドが常任理事国になるというG4案は安保理全体の大幅拡大が前提であり、ドイツのシュレーダー政権がイラク問題その他で一貫してアメリカの方針に反対してきたためかアメリカはG4案には正面から反対した[79]
2007年8月、アメリカ中西部ミズーリ州カンザスシティで行った演説において、「敵は自由を嫌い、アメリカや西欧諸国が自分たちをさげすんでいることに怒りを抱き、大虐殺を産み出した自殺的な攻撃を繰り広げました。どこかで聞いた話のようですが、私が述べる敵とは、アルカイダではなく、9.11テロでもなく、オサマ・ビンラディンでもなく、パールハーバー(真珠湾)を攻撃した1940年代の大日本帝国の軍隊のことです」。第二次世界大戦前の日本について「民主主義は日本では決して機能せず、日本人もそう思っているといわれてきたし、実際に多くの日本人も同じことを信じていました。民主主義は機能しないと」、「日本の国教である『神道』があまりに狂信的で、天皇に根ざしていることから、民主主義は日本では成功し得ないという批判もあった」と述べている[80]
2009年1月14日、退任直前にブッシュは盟友としてトニー・ブレアらに大統領自由勲章を授与したが、日本の政治家には贈られていない。大統領退任後の、2009年11月3日、日本シリーズ第3戦(巨人-日本ハム)で巨人の黒のジャンパーを着て、笑顔で1球を投じた。小泉純一郎元首相、ジョン・ルース駐日米大使、前駐米大使の加藤良三コミッショナー、王貞治コミッショナー特別顧問らと観戦した。
中華人民共和国主席胡錦濤(左)と
東トルキスタン独立運動を指導するラビア・カーディル世界ウイグル会議代表と肩を組むブッシュ
中華人民共和国
政権初期は、「中華人民共和国の経済成長はアメリカの国益に対する戦略的脅威」とみなし、2001年4月に南シナ海でおきたアメリカ海軍偵察機と中国人民解放軍機との接触事故では、「アメリカ側に責任は無い」とするなど対立姿勢を強めたが、911テロ直後に江沢民がブッシュに電話したことを契機に協調に向かう。しかし、イラク戦争ではフセイン政権と友好関係にあった中国との利害対立が目立った。なお同国への公式訪問を全任期中4回行ったことから、「対中関係を憂慮、重視していた」という意見がある(なお両国の首脳会談は相互の公式訪問時以外は行われていない)。
ブッシュ政権下で米国の対中貿易赤字は増え続けた。また、中華人民共和国は日本に次いで多くの米国債を購入し、2008年8月には日本を超えて世界最大の米国債保有国となった。
米中関係は経済では密接なのに対して人権問題では火花を散らしており、ブッシュ政権ではそのような関係が顕著となるような事例が見られた。例えばブッシュは中華人民共和国からの独立を求めて拘留されたラビア・カーディルの釈放に圧力をかけて後に会談して、ダライ・ラマ14世また中華人民共和国の民主活動家をホワイトハウスに招待している。また、中国共産党政府と対立を続ける法輪功弾圧に対しても厳しく、人権を侵害する外国人を追跡する権限を司法部に与え「酷刑犯罪者の米国入国禁止法案」を署名しており、任期末期に訪問先の韓国とタイで中華人民共和国との人権侵害を批判し、中華人民共和国の外交部スポークスマンの秦剛は「人権と宗教などの問題で他国の内政を干渉する言葉や行動に強く反対する」と反論した。しかし関係の悪化を恐れて北京オリンピックの開会式には父のジョージ・H・W・ブッシュとともに親子揃って参加した[81][82]
韓国
2006年APEC首脳会議時の日米韓3か国会議にて、ジョージ・W・ブッシュ内閣総理大臣安倍晋三(右)、韓国大統領盧武鉉(左)と(役職はいずれも当時)
2001年の米韓首脳会談では当時の金大中大統領を「この人」と呼び、韓国人の間で話題となった。2002年の在韓米軍による議政府米軍装甲車女子中学生轢死事件では、電話を通じて韓国政府に謝罪するが反米感情の高まりを抑えることはできなかった。後継の盧武鉉政権とは、反米色が強かったため次第に関係は悪化した(ただし、イラク戦争に際して韓国は軍を派遣している)。2008年の李明博政権以降は親米・反北路線となり、関係は修復した。大統領退任後には韓国に訪問した[83]
北朝鮮
大統領就任前のブッシュは北朝鮮問題に関心も知識も乏しかった。2000年6月の大統領候補時代に、友人であるサウジアラビアバンダル・ビン・スルターン王子と会談した際、「なぜ自分が北朝鮮のことを心配しなければならないのか?」とこぼして、王子に「北朝鮮の国境付近には3万8,000人のアメリカ兵が駐留しているため、北朝鮮が国境を越えて侵攻すればおそらく1万5000人が戦死して、合衆国は途端に戦争へ突入するからです」と諭されている[84]。就任後はクリントン政権の宥和策に反対してきた共和党の姿勢に沿って、「悪の枢軸」として批判を行うなど強硬姿勢を取っている。日本人拉致問題についても、2006年に渡米した横田夫妻ら被害者家族との面会時に断固たる姿勢で望む事を表明していた。
しかし、北朝鮮の核実験実施や他の外交政策の不振から、「核施設の無能力化を進めれば、拉致問題の進展とは関係なく、テロ支援国家指定を解除する」との立場を北朝鮮に伝えていたことが明らかになっている[85]。2008年6月には北朝鮮の寧辺核施設の爆破パフォーマンスや核開発計画申告などを受けて指定解除の手続きを開始、拉致問題については引き続き解決への協力姿勢を表明しているものの、被害者家族からは先の面会時からの豹変振りに「裏切られた」と失望の声が挙がっていた。
だが、土壇場の8月11日、「しっかりとした(核施設の)検証体制を示さない」ことを理由に北朝鮮のテロ支援国家指定解除の発令に対する署名を拒否した。そもそも6月26日の指定解除手続きに関する発表[86]では、同時に北朝鮮および北朝鮮の国民に関する確定的な(移動)制限を継続することについての大統領令(Executive Order:Continuing Certain Restrictions with Respect to North Korea and North Korean Nationals)[87]も発表しており、この時点で北朝鮮による手続きが履行されても不履行であっても、対北朝鮮制裁を解除する意志がなかったことが、この大統領令の存在から明らかになっている。
2005年脱北者姜哲煥をホワイトハウスに招待している。
チベット
ダライ・ラマ14世をホワイトハウスに招待するほど親密であり、ダライ・ラマ14世が米国議会から議会名誉黄金勲章を授与された時に子ブッシュ大統領も授章式に同席した。米国議会からのダライ・ラマ14世への黄金勲章授与に対して、米中関係に悪影響を及ぼすとして中国共産党は強く反発した。ダライラマは、いくつかの政策は「大失敗」だったが、一個人としては好きだと語った。子ブッシュを強く批判するベネズエラウゴ・チャベス大統領が親中共派で、他国干渉とダライ・ラマへの弾圧を進める中華人民共和国を全く批判しないのに対し、子ブッシュは中華人民共和国から反発を受けながらもダライ・ラマと友好を深めていた。
ベトナム
グエン・ミン・チェット国家主席と子ブッシュの握手
イラク戦争が末期に入った2006年11月17日ベトナムグエン・ミン・チェット国家主席と米国の子ブッシュ大統領がハノイで会談し、ベトナムとアメリカの友好関係を誇示した。これは、冷戦後の「米越同盟」の強化と、後に「VISTA」の一角と呼ばれるようになったベトナムの経済成長を布告するものになった。
フィリピン
2008年にフィリピンに対し食料価格高騰や台風6号の被害に苦しむ同国民を助けるため、米海軍の原子力空母ロナルド・レーガンを被災地に派遣し、食料支援を行った。子ブッシュ大統領は会談後、台風の犠牲者らに弔意を表明。グロリア・アロヨ大統領がモロ・イスラム解放戦線(MILF)やイスラム原理主義過激派アブサヤフなどの反政府勢力に対し、対話と圧力による硬軟両様のテロ対策を進め、効果を上げていると評価した[88]。またフィリピンはイラク戦争に仏独中露が反対する中で数少なく支持した国である。
メキシコ
隣国で強い経済的関係を持つメキシコに対しては強い親近感を示し、これまでの歴代大統領は就任後初の訪問国としてカナダを訪れていたが、子ブッシュは就任後初の訪問国としてメキシコを訪れている。なお、この様なメキシコに対する親近感には、テキサス州知事選挙をはじめとする過去の選挙戦において、テキサス州で多くの票を持つメキシコ系アメリカ人からの支持を受けていたことが強く影響していると言われている
中南米
アフガン侵攻やイラク戦争以来、ベネズエラ大統領のウゴ・チャベスとの険悪な関係で知られており、2002年にはアメリカ政府の関与が指摘されるクーデターがおきている。国連総会でチャベスはブッシュを『悪魔』と呼び、『ブッシュは大量殺人犯 残る一生を牢獄で過ごすべきだ』などと激しく非難されている。ブッシュはボリビアエボ・モラレスの麻薬の利用を非難したが、逆に「私の知る唯一のテロリストはブッシュだ」と反論されモラレスも一歩も退かない[89]キューバではアフガン侵攻やイラク戦争以来、『ブッシュはヒトラーに並ぶ殺人犯』という皮肉ったプロパガンダが掲げられていた時期があった。
ロシア
ロシアのプーチン政権とはチェチェン問題もあり、当初は距離を取っていたが、911テロを契機にして協調関係に移行。2005年のロシアの戦勝記念日の軍事パレードに出席するなど、積極的に「テロとの戦い」を進めていくことを確認した。しかし、イラク戦争ではフセイン政権と親交があったロシアとの利害対立が目立った。また、南オセチア紛争ではメドヴェージェフ政権から「紛争の発端はアメリカ大統領選挙で共和党を有利にするためのネオコンの陰謀である」と批判された(これはブッシュが北京オリンピックの式典に参加するため国内を空席にしたため、政権内部のネオコンをコントロールできていたかその能力を疑われたからでもある)。
ウクライナ
オレンジ革命で親欧米派が勝利したユシチェンコ大統領とティモシェンコ首相はウクライナの親欧米路線をしている。ブッシュはウクライナとグルジアのNATO加盟を支持していたが、両国の加盟はフランスやドイツが難色を示しており、またロシアからも強い反発があった。その結果、ウクライナとグルジアのNATO加盟はブッシュ政権下では見送りとなった。ウクライナは西部が親欧米、東部は親ロシアであるために東部からの親ロシア派からはソ連国旗を掲げブッシュの人形を燃やす場面が見られた。
アルバニア
セルビア共和国自治州コソボ独立促進のため、アルバニアを訪問した。アルバニアへの初の米大統領訪問となったため、ブッシュは熱烈な歓迎を受けるという珍しい事例である。アルバニアのNATO加盟については、ブッシュは支持はするが、「アルバニアはより政治的、軍事的な改革を行い、組織化された犯罪を根絶せねばならない」とまだまだ加盟までに準備が必要であることを言及した。アルバニアに対し、平和を維持し、コソボ自治州の独立交渉を進展させていくように促進した。当時のアルバニアはアルバニア暴動の発生など混乱も生じていたが、ブッシュは粘り強く支援を続け、2009年のNATO加盟実現に漕ぎ着けた。
これらの経緯から、アルバニア国民がブッシュに寄せる愛着は強い[90]。2011年、同国のフシャクルヤ町に、アルバニア訪問時の姿を模したブッシュの銅像が建立された[90]。また、フシャクルヤ町には、ブッシュの名を冠した広場も設けられている[90]
アフガニスタン
アフガニスタンではタリバン政権が崩壊し、親米政権が樹立した。さらに各国からの200億ドルの支援が施されている。アフガン人はソ連のアフガニスタン侵攻で未だにロシアを激しく嫌っており、アメリカに対してはタリバンからの解放軍のように歓迎して親米政権も樹立していると宣伝されてきたが、実際には、2008年段階でアフガニスタンは事実上タリバンに奪回され、親米カルザイ政権は首都近付近に勢力を持つのみの存在となっている。
アフリカ
アフリカ諸国に対する支援に極めて熱心であり、教育医療活動への支援とともに、紛争内戦の終結を目指し積極的な仲介工作を展開した[62]。ブッシュ政権はアフリカ諸国への二国間支援を特に重視しており、その年間支出はクリントン政権時の4倍に達した[91]。ブッシュの積極的な支援活動に対しては、アフリカ諸国からも評価する声が強い。大統領退任前後には、ブッシュの功績を称える市民らが新生児に「ジョージ・ブッシュ」と命名する社会現象が発生し、アフリカ大陸北部地域を中心に流行した[62]
オセアニア
オーストラリアは対テロ戦争とイラク戦争を支持して派兵したが、ニュージーランドは派兵をしていない。またニュージーランドのオークランドとウェリントンで、人気ピザチェーンの『地獄ピザ(Hell)』が看板広告のブッシュ大統領の写真に『地獄(ピザ):悪魔野郎には贅沢すぎる』『地獄(ピザ)にだって規範はある』のキャッチコピーが添えられており、ブッシュ政権に対する皮肉とも言える。
その他の国
ブッシュはアフガニスタン侵攻からイラク戦争までイスラム社会から憎悪の対象となっており、その度にイスラム社会のマクドナルドケンタッキーフライドチキンの店舗などに破壊や放火があり、南米訪問や大統領退任後のカナダ訪問でも現地民から抗議行動を受けており、大統領退任後もパキスタンでは反戦抗議があった。しかしアメリカはイラクでも莫大な復興支援を提供し、イスラエル・パレスチナの和平プロセスを進めており、パレスチナに多額の復興支援をしているが、結局2009年のガザ侵攻でブッシュは拒否権を出したために関係は再び悪化してしまった[92]。また核兵器を廃棄した事を宣言してかつてのテロの和解金を出したリビアカダフィ大佐との関係は良好化している。イスラム社会からは恐怖の存在で憎悪の対象となったブッシュが、かつてのテロリストのカダフィの命と政権を保障した寛容性がある。

人物

人物像

名門イエール大学を卒業し、ハーバード・ビジネススクールで経営学修士を取得しており、双璧とされるイェールとハーバードを出るという歴代大統領の中でも「高学歴」だが、後に本人が母校での演説で「成績がCでも大統領になれる」とジョークのネタにしたように学生時代の成績は芳しくなかった。

ニューヨーク市立大学教授で、ハーバード時代のブッシュが受講する授業を担当した霍見芳浩は、大統領就任が決まった直後の日本のマスコミの取材で当時のブッシュの印象を聞かれて「普通、授業を教えた生徒の事はいちいち覚えていないものだが、彼は非常に出来の悪い生徒だったのでよく覚えている」「もう箸にも棒にもかからない」「典型的な金持ちのお坊ちゃま。怠惰で授業態度も悪く、大統領はおろかどんな組織のリーダーも務まる人物ではないと思った」と答えている[93]

大統領候補時代に、記者から「パキスタンの大統領の名前は?」と質問され答えられない[94]など、就任前から大統領としてふさわしい知性の持ち主か否か、危ぶむ声があった(ブッシュが同じような質問を記者にすると「私は記者だが、あなたは大統領候補だ」と返された)。大統領就任後も、2001年11月のブラジル大統領フェルナンド・エンリケ・カルドーゾとの首脳会談上の席上、「あなたの国にも黒人はいるのか?」と尋ねて、その場でライス安全保障問題担当補佐官に訂正されるエピソードがある[95]など、知性を疑われるような発言を何度も繰り返した。これらの迷言癖は俗に「ブッシズム[96]と呼ばれる。

他の歴代大統領と比較して著しくボキャブラリーが貧困であるとされた。耳慣れない人名や地名をよく間違って発音することでも有名で、アブグレイブ刑務所の囚人虐待事件に関する演説では「アブグレイブ」の発音を一度もまともに言えなかった。2007年9月オーストラリアシドニーで行われたAPECの演説では、OPECと言い間違えた上にこの演説で三回もの言い間違いをし、参加者から失笑をかった。言い間違いを防ぐため、演説原稿に出てくる各国首脳の名前や国名、首都名に“読みがな”がふられていたことも発覚している[97]

第1回目の大統領選挙の公開討論の席で、アル・ゴアがブッシュを小馬鹿にするような態度を示したが、それに対し誠実な対応を行ったことが有権者の好意的評価に結びついたとされる。

戦争中に、ラムズフェルドが戦死した兵士の家族への手紙の署名にオート・ライターを使用したのとは対照的に、ブッシュは直筆の手紙を出し続けている。また、人権問題に関心が深いこともあり、北朝鮮による日本人拉致問題に深い興味と理解を示し、拉致被害者の家族が訪米した際には、ホワイトハウスで面会した。

ブッシュ自身は側近の意見に耳を傾けていると言われ、特に外交に関しては穏健派のパウエル国務長官と強硬派のライス補佐官に議論をさせ、ライスの意見を支持しイラク戦争に向かったとされる。ライス補佐官は第2期政権において国務長官に起用された。ブッシュの意を受けたライスは国防総省を牽制しつつ、外交に重きを置きながらイラクの武力支配を正当化しようという戦略をとっている。

AP通信社がアメリカ国民を対象に行った世論調査では、2006年の「憎まれ役」「英雄」でそれぞれ1位に選ばれた。ちなみに「憎まれ役」は2位以下、オサマ・ビンラディン、サッダーム・フセイン、マフムード・アフマディーネジャード金正日。「英雄」は2位以下、イラク駐留アメリカ軍、バラク・オバマ。また、ジョン・F・ケネディ以降の歴代大統領を、ホワイトハウスで取材してきたジャーナリスト、ヘレン・トーマスは、彼を「今までで最悪の大統領。アメリカ史上最悪の大統領 (This is the worst President ever. He is the worst President in all of American history. )」[98]と酷評している。また2004年ブッシュが再選されたとき、ブッシュに批判的なアメリカ人はカナダに移住したそうである。

一方でライス国務長官は政権末期の米CBSテレビとのインタビューで、ブッシュが直面してきた状況について「第二次世界大戦後で最も厳しい時期だったのではないか」との見方を示し、そのなかでブッシュが下してきた決断は「時を経て記憶にとどまるだろう」とし、イラクのフセイン政権打倒や中華人民共和国、インド、ブラジルなどとの良好な関係を例に挙げ、「歴史がブッシュ政権に良い評価を下すだろう」と述べた。

2002年1月テレビでフットボール観戦中、菓子のプレッツェルをのどに詰まらせて気絶し倒れて目尻の横を怪我をして、マスコミに大きく報じられたことがある。本人は苦笑しながらこの一件について釈明した。

AIDSの撲滅運動にも熱心で、2004年、エルトン・ジョンはコンサートにやって来たブッシュ夫妻と直接面会した際に、彼の政策への強い不満の一方で、彼の魅力と「優しさ」を覚えたとし、教訓になったと述べた[99]

宗教

学生時代には大量の飲酒を行う時代もあったものの、1985年ビリー・グラハム牧師と出会って以降、その当時患っていたアルコール依存症ローラ夫人の支えもあって克服し、現在では敬虔なクリスチャンとして知られており、宗派は妻と同じメソジストである[100]。約40歳からという一般的に見れば遅い宗教への目覚めではあるが、信仰心は篤く毎朝5時には起床し祈りをささげることが日課になっている。そのため、生活リズムは早寝早起きである[101]

愛読書

読書家としての側面も知られており、専用機での時間や週末の多くを読書に費やすという[102]。ジャーナリストのエリザベス・ビュミラーの取材によると、愛読書として聖書のほか、建国者ワシントンハミルトンの評伝があげられた。この他トム・ウルフの小説の熱烈なファンで、イスラエルの作家ナタン・シャランスキーの本を盛んに周囲に勧めていたことが伝えられている[103][104]

ペット

ブッシュの愛犬バーニー。写真は大統領執務室において

動物愛好家として知られており、愛のバーニーをはじめ、トカゲなど複数のペットを飼育している。また、昆虫収集に熱心である。特にホワイトハウス内で同居していた愛犬のバーニーは、テレビで一緒の姿を映されることも多いためアメリカ国内ではつとに有名である。

スポーツ

大の野球ファンとして有名で、1989年からはテキサス・レンジャーズの共同オーナーも務めていた。当時のテキサス・レンジャーズ監督は2005年11月15日に大阪国際空港でジョージ・W・ブッシュを出迎えたボビー・バレンタイン。大統領時代も度々メジャーリーグベースボールの始球式を行っている。2009年11月3日、東京ドームで行われたプロ野球日本シリーズ第3戦(日本ハム-読売ジャイアンツ)の始球式にも登場した。2002年にメジャーリーグベースボール選手会ストライキが濃厚になった時にはストライキの中止を求めるコメントを出した。その結果、ストライキは直前で中止された。

語録

  • 「これは戦争だ」(アメリカ同時多発テロ事件に際して)
  • 「アメリカにつくのか、それともテロリストにつくのか、いずれか決めよ」(同上、世界各国に対して)
  • 「“限りなき正義”作戦」(これはイスラム圏ではアラーを意味し、無分別だと批判されたため以後は「不朽の自由作戦」に改められた)
  • 「来るなら、来い!」(My answer is bring them on.) テロリズムに対峙して毅然とした態度を表明して。


脚注

  1. ^ Seelye, Katharine Q. (2009年7月6日). “Bush Celebrates Easter at an Outdoor Service”. New York Times. http://www.nytimes.com/2001/04/16/us/bush-celebrates-easter-at-an-outdoor-service.html 2001年4月16日閲覧。 
  2. ^ a b The Jesus Factor”. WGBH. PBS. 2004年5月6日閲覧。
  3. ^ Cooperman, Alan (2004年9月16日). “Openly Religious, to a Point”. The Washington Postdate=September 15, 2004. http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A24634-2004Sep15? 2008年9月1日閲覧。 
  4. ^ DoctorZebra.com. “President George W. Bush :Health & Medical History”. 2009年3月12日閲覧。
  5. ^ $1.35 trillion tax cut becomes law”. 2007年10月21日閲覧。
  6. ^ 海外情勢報告(特集 諸外国における若年雇用・能力開発対策)
  7. ^ Bush: Bin Laden Wanted Dead or Alive - ABC News
  8. ^ March 18, 2003 Presidential Letter”. Whitehouse.gov. 2006年5月25日閲覧。
  9. ^ Powell, Colin (2003年2月5日). “U.S. Secretary of State Colin Powell Addresses the U.N. Security Council”. Whitehouse.gov. 2006年5月25日閲覧。
  10. ^ Transcript for Feb. 8th”. MSNBC (2004年2月8日). 2006年9月9日閲覧。
  11. ^ 2004 Presidential Election Results
  12. ^ 13 October 2004 "The Third Bush-Kerry Presidential Debate" transcript
  13. ^ CNN's exit poll showed Terrorism (19%) and Iraq (15%) as the third and fourth most important issues behind Moral Values (22%) and the Economy (20%) "CNN — U.S. President / National / Exit Poll / Election 2004"
  14. ^ Voters Unhappy with Bush and Congress”. Reuters (2007年10月17日). 2007年10月17日閲覧。
  15. ^ “USAT/Gallup Poll:Bush approval at new low;Republican support eroding”. USA Today. (2007年7月10日). http://blogs.usatoday.com/onpolitics/2007/07/usatgallup-po-1.html 2007年11月28日閲覧。 
  16. ^ “Disfavor for Bush Hits Rare Heights;In Modern Era, Only Nixon and Truman Scored Worse, Just Barely”. Washington Post. (2007年7月25日). http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/07/24/AR2007072402263.html?hpid=moreheadlines 2007年7月25日閲覧。 
  17. ^ American Research Group:The National Economy”. American Research Group (2008年2月20日). 2008年2月20日閲覧。
  18. ^ ブッシュの「成功」に勝てるか 麻生首相の実績とはJ-CASTモバイル テレビウォッチ
  19. ^ George Walker Bush”. Famous Texans. famoustexans.com (2005年2月3日). 2006年6月27日閲覧。
  20. ^ George W. Bush:Living the Bush Legacy”. CNN. cnn.com (2000年10月29日). 2007年3月18日閲覧。
  21. ^ See also Nicholas D. Kristof (2000年6月10日). “George W. Bush's Journey The Cheerleader:Earning A's in People Skills at Andover”. The New York Times. 2007年6月23日閲覧。
  22. ^ Biography of President George W. Bush”. The White House. 2007年7月10日閲覧。
  23. ^ Associated Press (2001年5月21日). “Self-Deprecating Bush Talks to Yale Grads”. FOXNews.com. http://www.foxnews.com/story/0,2933,25229,00.html 2006年6月27日閲覧。 
  24. ^ Inside Politics (2005年6月17日). “Bush/Gore Grades and SAT Scores”. insidepolitics.org. http://www.insidepolitics.org/heard/heard32300.html 2007年7月5日閲覧。 
  25. ^ Embassy of the United States Tokyo, Japan - 米国政府
  26. ^ United States Department of Defense (2005年6月17日). “Official DoD service records of Texas Air National Guard member George Walker Bush”. http://www.defenselink.mil/. http://www.dod.mil/pubs/foi/bush_records/index.html 2007年7月5日閲覧。 
  27. ^ The Innovation Center for Occupational Data, Applications and Practices:Interpretation and Utilization of Scores on the Air Force Officer Qualifying Test
  28. ^ Romano, Lois (2004年2月3日). “Bush's Guard Service In Question”. The Washington Post. pp. p. A08. 2007年7月3日閲覧。
  29. ^ Romano, Lois (2004年2月3日). “Bush's Guard Service In Question”. The Washington Post. pp. p. A08. 2007年7月3日閲覧。
  30. ^ United States Air Force, National Guard Bureau Historical Services Division. “[[1] Vietnam War]”. 2007年8月8日閲覧。
  31. ^ York, Byron (2004年8月26日). “The Facts about Bush and the National Guard”. National Review Online. http://www.nationalreview.com/flashback/york200408261025.asp 2007年10月19日閲覧。 
  32. ^ United States Department of Defense (2005年6月17日). “Official DoD service records of Texas Air National Guard member George Walker Bush”. http://www.defenselink.mil/. http://www.dod.mil/pubs/foi/bush_records/index.html 2007年7月5日閲覧。 
  33. ^ Bush Chronology”. PBS - Frontline. 2007年10月28日閲覧。
  34. ^ Brit Hume, Mara Liasson, Jeff Birnbaum, Charles Krauthammer (09-07-2004). “The All-Star Panel Discusses John Kerry's Shifting Positions on Iraq War Spending” (English). Fox News Network (transcript) 
  35. ^ Romano, Lois; George Lardner Jr (1999年7月25日). “Bush's Life-Changing Year”. The Washington Post. http://www.washingtonpost.com/wp-srv/politics/campaigns/wh2000/stories/bush072599.htm 2006年6月27日閲覧。 
  36. ^ 2000 Driving Record”. Department of the Secretary of State of Maine (2000年11月2日). 2006年8月9日閲覧。
  37. ^ Fallout From A Midnight Ride”. Time Magazine (2000年11月13日). 2006年9月8日閲覧。
  38. ^ GWB:HBS MBA”. The American Thinker. www.americanthinker.com. 2006年10月16日閲覧。
  39. ^ “Bush Wasn't Always a Front-Runner”. Washington Post. (1999年10月17日). http://www.washingtonpost.com/wp-srv/aponline/19991017/aponline114059_000.htm 2007年4月7日閲覧。 
  40. ^ Stone, Peter H. (04-07-2001). “Big oil's White House pipelines” (English). National Journal (33): 1042. ISSN:03604217. 
  41. ^ Carlisle, John K (03-01-2004). “George Soros's Plan to Defeat George Bush” (English). Human Events 
  42. ^ “Files:Bush Knew Firm's Plight Before Stock Sale”. Washington Post. (2002年7月21日). http://www.commondreams.org/headlines02/0721-02.htm 2007年1月2日閲覧。 
  43. ^ Bush, George W.; Bill Adler (2004). The Quotable George W. Bush:A Portrait in His Own Words. Andrews McMeel Publishing. ISBN 978-0-7407-4154-8 
  44. ^ Public Broadcasting System (2005年6月17日). “George W. Bush and the religious right in the 1988 campaign of George H.W. Bush”. www.pbs.org. http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/choice2000/bush/wead.html 2007年7月5日閲覧。 
  45. ^ Farrey, Tom (1999年11月1日). “A series of beneficial moves”. ESPN. 2007年1月21日閲覧。
  46. ^ George W. Bush in Little League uniform”. Texas State Library and Archives Commission. 2007年1月21日閲覧。
  47. ^ Sale of baseball team”. Make Them Accountable (2002年8月19日). 2007年1月21日閲覧。
  48. ^ a b Wayne Slater, James Moore (2003). Bush's Brain:How Karl Rove Made George W. Bush Presidential. Wiley. pp. p.210. ISBN 978-0-471-42327-0 
  49. ^ The New York Review of Books:Death in Texas”. 2008年6月10日閲覧。
  50. ^ Texas State (2005年3月11日). “Jesus Day” (JPEG). Texas State Archives. PBS. 2006年6月30日閲覧。
  51. ^ Associated Press (1998年11月3日). “Texas Gov. George W. Bush wins in landslide”. CNN. http://www.cnn.com/ALLPOLITICS/stories/1998/11/03/election/governors/texas 2006年6月30日閲覧。 
  52. ^ a b CNN.com: "Bush tours ground zero in lower Manhattan"
  53. ^ U.S. Report to the UN Counterterrorism Committee
  54. ^ "U.S. President Bush's speech to United Nations". CNN.com. November 10, 2001
  55. ^ "Bush likens 'war on terror' to WWIII". ABC News Online – Abc.net.au. 06/05/2006.
  56. ^ CBS 60ミニッツ「沈みゆく町」
  57. ^ マイケル・エリック・ダイソン著 カトリーナが洗い流せなかった貧困のアメリカ
  58. ^ ブレア、ハワード、ウリベの3氏に自由勲章[リンク切れ]時事通信、2009年1月14日
  59. ^ ブレア氏ら3人に最高勲章 ブッシュ米大統領産経新聞、2009年1月14日
  60. ^ Ed Stoddard・Chris Baltimore、植竹知子訳「政治の表舞台去るブッシュ米大統領の今後」『政治の表舞台去るブッシュ米大統領の今後|ワールド|Reutersトムソン・ロイター、2009年1月15日
  61. ^ Darrell Preston「さすがダラス――ブッシュ氏大歓迎」『Bloomberg/さすがダラス ブッシュ氏大歓迎 - FujiSankei Business i./Bloomberg GLOBAL FINANCE[リンク切れ]産経デジタル、2009年2月4日
  62. ^ a b c d e f g 「世界恐慌の元凶『ブッシュさん』が店にやってきた!」『週刊新潮』54巻11号、新潮社、2009年3月19日。
  63. ^ 映画の公式サイトのメッセージ
  64. ^ 日本では、2011年4月23日に日本経済新聞出版社より刊行。
  65. ^ “ブッシュ前大統領が回顧録、11月に出版”. YOMIURI ONLINE (読売新聞). (2010年4月28日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100428-OYT1T00895.htm 2010年4月28日閲覧。 
  66. ^ [http://www.huffingtonpost.com/2010/11/12/george-bush-book-decision-points_n_782731.html#s180908 George Bush Book 'Decision Points' Lifted From Advisers' Books ]THE HUFFINGTON POST 11-12-10 01:48 PM
  67. ^ 第43代アメリカ合衆国大統領 ジョージ・W・ブッシュ氏があしなが育英会に寄付―前駐日大使シーファー氏の勧めで―(2011年11月21日、あしなが育英会プレスリリース)
  68. ^ “ブッシュ前米大統領の記念図書館が開館”. ウォール・ストリート・ジャーナル (ウォール・ストリート・ジャーナル). (2013年4月26日). http://jp.wsj.com/article/SB10001424127887324289404578445661016824692.html 2013年9月24日閲覧。 
  69. ^ “ブッシュ前米大統領の記念館が完成”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ). (2013年4月25日). http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp1-20130425-1117540.html 2013年9月24日閲覧。 
  70. ^ “ブッシュ前大統領、弟ジェブ氏の集会に初めて登場 米大統領選”. AFP. (2016年2月16日). http://www.afpbb.com/articles/-/3077115?device=default 2016年3月18日閲覧。 
  71. ^ http://jp.reuters.com/article/economicNews/idJPnTK321360320070711
  72. ^ ブッシュ大統領は、2001年の同時多発テロ直後からの電子メールなどの傍受を令状なしで行っていたことを認めている。これに対し、令状なしの盗聴は違憲であると市民団体が訴訟を起こし、デトロイトの連邦地裁は2006年8月17日、令状なしの盗聴の即時停止を命令。しかし、ブッシュは「盗聴はあくまで大統領の権限だ」と主張している。
    ワールド・リサーチ・ネット 『意外なツボがひと目でわかる世界地図』 青春出版社 2007年 p.59.
  73. ^ ブッシュ政権、科学者に圧力? 温暖化報告書めぐり 『朝日新聞』 2006年9月28日
  74. ^ [2]
  75. ^ [3]
  76. ^ ベトナム戦争では米軍撤退後に隙を狙った北ベトナムがサイゴンを陥落させ、ベトナムでもアメリカ軍に協力した南ベトナムの市民は北ベトナム政府によって強制収容所に送られ虐殺拷問とひどい扱いを受けた。
  77. ^ [4]
  78. ^ イラク:テロ犠牲者100人超える 治安体制に批判の声
  79. ^ [5]
  80. ^ http://www.j-cast.com/2007/08/27010694.html
  81. ^ [6]
  82. ^ ブッシュ親子の見た中国三大変化
  83. ^ その時期は2009年の7月にクリントン前大統領が北朝鮮に侵入して拘束された女性記者を釈放するために訪朝した時期であった
  84. ^ ボブ・ウッドワード『State of Denial:Bush at War, Part III』
  85. ^ http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe7000/news/20070811i101.htm
  86. ^ http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2008/06/20080626-9.html
  87. ^ http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2008/06/20080626-4.html
  88. ^ [7]
  89. ^ 緊急!ビートたけしの独裁国家で何が悪い!ではモラレスのアメリカに対して一歩も引かない姿勢でゲストが拍手して笑みを浮かべていた。
  90. ^ a b c 石田博士「ブッシュ前大統領感謝の銅像建立――アルバニア」『朝日新聞』44989号、13版、朝日新聞東京本社2011年7月29日、12面。
  91. ^ David Blair, "Analysis:How George W Bush became an African hero", Analysis:How George W Bush became an African hero - Telegraph, Daily Telegraph, July 7, 2008.
  92. ^ [8]
  93. ^ 2000年11月27日付けの日刊ゲンダイ,CNN.COM 2004年9月13日配信記事  http://edition.cnn.com/2004/ALLPOLITICS/09/13/bush.professor/
  94. ^ http://www.cnn.com/ALLPOLITICS/stories/1999/11/05/bush.popquiz/
  95. ^ http://www.snopes.com/quotes/brazil.asp
  96. ^ is george bush an idiot? - YouTube
  97. ^ 「読みがな」をふったブッシュ大統領の演説草稿 誤って国連ウェブサイトに掲載されるフランス通信社、2007年9月26日。2009年1月4日閲覧。
  98. ^ http://en.wikiquote.org/wiki/Helen_Thomas
  99. ^ http://news.yahoo.com/blogs/power-players-abc-news/elton-john-george-w-bush-taught-lesson-040430553.html?_esi=1
  100. ^ “Files:Openly Religious, to a Point”. Washington Post. (2004年9月15日). http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A24634-2004Sep15?language=printer 2008年12月13日閲覧。 
  101. ^ マイケル・ユー「ホワイトハウスの職人たち」新潮社 2006 p.120より
  102. ^ 中岡望「ホワイトハウスの必読書」、中央公論2005年7月号
  103. ^ Bush's Official Reading List, and a Racy Omission
  104. ^ What the president reads

関連項目

外部リンク


公職
先代
ビル・クリントン
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国大統領
第43代:2001年 - 2009年
次代
バラク・オバマ
先代
アン・リチャーズ (英語)
テキサス州知事
第46代:1995年 - 2000年
次代
リック・ペリー
党職
先代
ボブ・ドール
共和党大統領候補者
2000年2004年
次代
ジョン・マケイン
外交職
先代
ジャック・シラク
フランス
先進国首脳会議議長
2004年
次代
トニー・ブレア
イギリス