ジョン・レノンの殺害

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Yamato-i (会話 | 投稿記録) による 2016年3月7日 (月) 09:11個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (カテゴリの追加)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

座標: 北緯40度46分35.74秒 西経73度58分35.44秒 / 北緯40.7765944度 西経73.9765111度 / 40.7765944; -73.9765111

ジョン・レノンの暗殺
暗殺現場のダコタ・ハウス
場所 ニューヨーク州ニューヨーク市ダコタ・ハウス
日付 1980年12月8日10:50 pm (1980-12-08T10:50 pm) (米国東部標準時)
標的 ジョン・レノン
武器 チャーター・アームズ社製.38スペシャル弾回転式拳銃[1]
死亡者 1
犯人 マーク・チャップマン
テンプレートを表示

ジョン・レノンの殺害(ジョン・レノンのさつがい)では、 ビートルズの創設メンバーの1人として、またその後のソロ音楽活動、政治活動、平和主義運動により世界的な名声を得ていた英国のミュージシャン、ジョン・レノン (John Lennon)が、1980年12月8日アメリカニューヨーク市で射殺された事件について述べる。

概要

ジョンはこの日、当時住んでいたニューヨークの高級集合住宅ダコタ・ハウスの入口でマーク・チャップマン (Mark David Chapman)に射殺された。ジョンは妻ヨーコ・オノと共にちょうど、レコード・プラント・スタジオ から帰宅したところだった。

ジョンは市内のルーズヴェルト病院英語版に搬送されたが、到着してすぐに死亡が宣告された。40歳であった。病院で発表された声明では、このような重傷を負った後で数分以上生存することは、誰にとっても不可能であると述べられた。地元のニュース局がジョンの死を報道するとすぐに、病院とダコタ・ハウスの前に群衆が集まり始めた。ジョンは1980年12月10日、ニューヨーク州ウエストチェスター郡ファーンクリフ墓地火葬され、遺灰 はヨーコに渡されたが、彼女はジョンの葬儀は執り行わないことを決めた。全米にジョンの死を伝えた最初のメディアによる報道は、 ABCNFL中継番組『マンデーナイトフットボール』での、コメンテーターのハワード・コーセル英語版によるアナウンスだった。

暗殺までの事件当日の出来事

1980年12月8日

写真家のアニー・リーボヴィッツが、雑誌『ローリング・ストーン』のための写真撮影を行うため、ジョンの自宅を訪れた[2]。リーボヴィッツは当初、ジョンのみを撮影しようとしていた。リーボヴィッツは、「ヨーコの写真が表紙に載ることを誰も望んでいなかった」と述べている[3]。しかし、ジョンが自分と妻が共に表紙に載ることを強く主張した[3]ため、リーボヴィッツはヨーコと一緒の写真が雑誌の表紙を飾ることを約束した[4]。撮影が終わった午後3:30にリーボヴィッツはダコタ・ハウスを出た[2]。この写真撮影の後、ジョンはRKOラジオ・ネットワーク英語版の音楽番組で放送される予定の、サンフランシスコDJ、デーヴ・ショリン (Dave Sholin) によるインタビューに応じたが、これが彼の最後のインタビューとなった[5]。午後5:40、迎えのリムジンが遅れて到着し、ジョンとヨーコは『Walking on Thin Ice英語版』(ジョンがリード・ギターを担当したヨーコの曲)のミキシング作業を行うため レコード・プラント・スタジオに向かった[6]

マーク・デイヴィッド・チャップマン

ジョンとヨーコがRKOラジオ・ネットワークのスタッフと共にリムジンに向かう途中、サインを求める人が数名近づいてきた。その中の1人にマーク・デイヴィッド・チャップマンがいた[7]。この頃、ダコタ・ハウスの外でファンがジョンを待ち構えてサインをねだるのはよくあることだった[8]ハワイのホノルルから来た25歳の警備員チャップマンは、その年の10月(アルバム『ダブル・ファンタジー』のリリースよりも前)にもジョンを殺害するためニューヨークを訪れていたが、その時は心変わりして帰郷していた[9]。チャップマンがジョンに『ダブル・ファンタジー』を無言で手渡し、ジョンがサインした[7]。アルバムにサインし終えたジョンが「君がほしいのはこれだけかい?」(Is this all you want?)と尋ねると、チャップマンは笑顔で頷いた。写真家でジョンのファンであるポール・ゴレシュ(Paul Goresh)は、この遭遇の瞬間を写真に収めている[10]。 チャップマンは、その日の午前中からダコタ・ハウスの外でジョンを待ち構えており、午後にはベビーシッターのヘレン・シーマン(Helen Seaman)と共に帰宅したところのジョンの息子ショーン(当時5歳)にも遭遇している。チャップマンによれば、彼はショーンの手を、ちょっとの間触ったという[11]

レノン夫妻は午後10:50頃ダコタ・ハウスに戻るまで、数時間をレコード・プラント・スタジオで過ごした[12]。ジョンは夕食を外で取るのを取りやめ、息子におやすみの挨拶をするために一旦ダコタ・ハウスに戻ってから、ヨーコと共に近くのレストランステージ・デリ英語版向かうことにした[12]。ジョンは自分に会うために長い時間待つファンに対しては、誰にでもサインや写真撮影に応じていた。ジョンは、1980年12月6日 BBCラジオ1でのインタビューで、DJのアンディー・ピーブルズ英語版[13]に対し、「みんなやって来てはサインをねだったり、'ハイ'と挨拶するだけで、困るようなことをする訳じゃない」("People come and ask for autographs, or say 'Hi', but they don't bug you.")と話している[2]。そのため、レノン夫妻はダコタ・ハウスのより安全な中庭でリムジンを停車させる代わりに、手前の72丁目英語版で車を降りた[14]

殺害

ダコタ・ハウスのドアマンで元CIAのエージェントであったホセ・サンヘニス・ペルドモ英語版と付近にいたタクシー運転手は、チャップマンが歩道上で、玄関アーチの陰にひそんで立っているのを目撃している[15]。ジョンはチャップマンの前を通り過ぎる際、チャップマンを一瞥し、先に会ったこと思い出していたようであったという[16]。その数秒後、チャップマンはチャーター・アームズ社英語版製の.38スペシャル弾回転式拳銃でジョンの背中の中央に狙いを定め、 ホローポイント弾を5発、およそ3m(9~10フィート) 離れたところから立て続けに発射した[1]。その夜にニューヨーク市警察が出した声明や、様々なメディアの報道によれば、チャップマンは発砲する前に大声で「レノンさん」("Mr. Lennon")と呼びかけてから、銃をコンバット・スタイルで構えた[17]。後に開かれた公判での聴取や目撃者へのインタビューには、「レノンさん」という呼びかけや、コンバット・スタイルについての言及はない。チャップマン自身は、発砲前にジョンの名前を呼んだか覚えていないと述べているが[18][19][20]1992年バーバラ・ウォルターズから受けたインタビューでは、コンバット・スタイルを取ったことは認めている[21]。1発目の銃弾は命中せずにジョンの頭部のそばをかすめてダコタ・ハウスの窓に当たった。続く2発の銃弾はジョンの背中左側に命中し、その後の2発がジョンの左肩を貫通した。ジョンは銃傷と口からおびただしく出血し、「撃たれた、撃たれた」("I'm shot, I'm shot")と言いながらダコタ・ハウスの受付への階段をふらふらと5段登った[22]。そこでジョンは床の上に崩れ落ち、持ち歩いていたカセット・テープが散乱した。ダコタ・ハウスのコンシエルジュ、ジェイ・ヘーステングス(Jay Hastings)は、まず止血帯を作りはじめたが、複数の銃傷による苦痛をやわらげるためジョンの血染めのシャツを取り、すぐに自分の制服のジャケットをジョンの胸部に被せ、血の付いた眼鏡を外してから警察を呼んだ[12]

外ではドアマンのペルドモが、チャップマンの手を揺さぶって銃を離させると、その銃を歩道の端へ蹴り飛ばした[15]。するとチャップマンはコートと帽子を取って警察の到着に備えた上で(武器を隠し持っていないこと警察に示すため)、歩道に腰かけた。ペルドモが「自分が何をしたのか分かっているのか?」("Do you know what you've just done?")と大声で問いかけると、チャップマンは静かに「ええ、ジョン・レノンを撃ったんです」("Yes, I just shot John Lennon")と静かに答えた。現場に最初に到着した警官はスティーヴ・スパイロ(Steve Spiro)とピーター・カレン(Peter Cullen)で、ダコタ・ハウスでの発砲事件の通報を受けた時には、72丁目とブロードウェイ の辺りにいた。それからおよそ2分後に警官達が現場に到着すると、「とても静かに」歩道上に座っているチャップマンを見つけた。その時チャップマンは、銃を路上に放り出してJ・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』のペーパーバックを持っていた、と警官達は報告している。チャップマンは即座に手錠をかけられてパトカーの後部座席に押し込まれた。チャップマンは逃げようとしたり、逮捕に抵抗する様子が全く無かった[23]

ダコタ・ハウスの玄関 ジョンがロビーに倒れこむ前に上った階段が見える

その数分後に現場に到着したのは、ビル・ギャンブル巡査(Bill Gamble)とジェームズ・モラン巡査(James Moran)のチームであった。彼らはジョンの負傷がひどいことを知り、救急車を待たずにジョンをパトカーの後部座席へ乗せてルーズヴェルト病院へ搬送することにした[24]。モラン巡査が「あなたはジョン・レノンですか?」("Are you John Lennon?")と問いかけると、ジョンは頷いて「"Yes"」と答えたという[25]。しかしこれとは別の報告によると、ジョンは僅かに頷きしゃべろうとしたが、喉からゴロゴロ音を出すことしかできず、その後すぐに意識を失ったという[26]

午後11:00の数分前にギャンブル巡査とモラン巡査がルーズヴェルト病院に到着した時、救急救命室でジョンを迎えたのはステファン・リン博士(Dr. Stephan Lynn)であった。パトカーの後部座席からモラン巡査がジョンを背負って患者搬送用の台車付き担架の上に載せると、救急救命室へ搬送する途中、医師に複数の銃傷を受けた患者の処置を依頼した。ジョンは到着時には既に脈拍がなく呼吸も止まっていた。リン博士と他の2人の医師、そして看護師1人が、15~20分かけてジョンを蘇生させるための処置を行った。リン博士は心拍を復活させるため、最終手段としてジョンの胸部を切開して、直接手で心臓をマッサージしようとしたが、心臓周辺の血管の損傷が大きすぎることを発見した[27] 。リン博士によれば、ジョンの死亡宣告時刻は23時15分頃であったとされるが[28]、時刻は23時7分であったとする報告もある[29]。ジョンの遺体は 1番街520にある市の遺体安置所に運ばれ、そこで検視が行われた。死因は、胸部と大動脈弓を貫通している複数の銃傷のため、循環血液量の80%以上を失ったことにより引き起こされた「出血性ショック」と報告された。ジョンの検視を担当した病理学医はその報告書において、どんなに迅速に医療処置を施したとしても、このように多くの銃傷を負って数分以上生存することは、誰にとっても不可能であると述べた[30]

病院の外科医は、他の目撃者と同様、ジョンの死亡が宣告された時に院内放送でビートルズの楽曲『オール・マイ・ラヴィング』が流れていたと述べている[28]

ジョンの背中に当たった4発の銃弾の内、3発は胸部から外に出てジョンの体を貫通しており、もう1発は心臓のそばの大動脈に当たって止まっていたため、合計で銃傷は7つとなり、そのほぼ全てが致命傷であった。ジョンは4発のホローポイント弾(標的に当たると膨張し、標的の体内の通る際に組織をより大きく損傷させる)で撃たれていた[31]。そして弾丸の作用が及んだジョンの器官、特に左の肺と心臓周辺の主な血管が、衝撃によりほとんど破壊されていた。リン博士は「もし(ジョンが)、処置の準備が整った外科医のチームが待機している処置室の中で同じように撃たれたとしても、損傷から生還することはできなかっただろう」と述べている[32]。リン博士に夫の死を告げられたヨーコはすすり泣きながら、「Oh no, no, no, no ...」「うそだと言って」("tell me it's not true")と言った。博士は、ヨーコが倒れこんで床に頭を打ち付け始めたが、看護師が彼女にジョンの結婚指輪を渡すと落ち着きを取り戻したと記憶している[28]。ヨーコはショック状態の中、ゲフィン・レコード の社長デヴィッド・ゲフィン(David Geffen)に付き添われてルーズヴェルト病院を後にした[33]

『マンデーナイトフットボール』

ヨーコは病院に対し、自宅にいる5歳の息子ショーンに自分で伝えるまで夫の死をメディアに伝えないよう依頼していた。ヨーコは、ショーンはおそらくテレビを視ており、父の死をテレビのアナウンスから知ってほしくないと言ったのである[34][出典無効]

一方、その日の夕方ルーズヴェルト病院の救急室で、バイク運転中に事故に巻き込まれたWABC-TVの報道プロデューサー、アラン・J・ワイス(Alan J. Weiss)が、治療を待っていた。ワイスは2013年のCNNのシリーズ番組『Crimes of the Century』で[35]、複数の警官が取り囲むようにする中、ジョンが台車付きの担架で救急救命室に運び込まれところを見たと述べている。ワイスは何が起こったのかを知ると、放送局に電話で情報を伝えた。情報はやがて、ABCニュースの社長ルーン・アーリッジ英語版の命令系統にも伝わった。

ABCスポーツの社長でもあったアーリッジは、その晩、『マンデーナイトフットボール』の総合プロデューサーを務めていた。アーリッジがジョンの死亡という情報を伝えられた時は、ニューイングランド・ペイトリオッツマイアミ・ドルフィンズの試合が13点の同点で第4クォーター の後半を迎えたところで、ボールを得たペイトリオッツが決勝点を得ようと試みているところであった。アーリッジは、同番組の放送チームであるハワード・コーセル英語版フランク・ギフォード英語版にジョン死亡の情報を伝え、テレビの視聴者に伝えることを提案した。

コーセルは1974年にジョンにインタビューしたことがあり、殺害のニュースを視聴者に伝えることに不安を感じたが、結局彼がニュースを伝えることになった。試合終了まで残すところ30秒からの2人のやりとりは以下のとおりである[36]

コーセル: ... しかし、(試合は)突然、我々にも展開が見えてきました。ここでやめましょう。彼らは攻撃を急いでいます。
ギフォード: サードダウン、フォースか。フォアマン (Chuck Foreman) です... やはりフォースダウンのようです。キャヴァノー (Matt Cavanaugh) が最後のトライのために走ります。彼はこれ以上マイアミに機会を与えないよう時間をやり過ごすのでしょう。(ホイッスルが鳴る)残り3秒でタイムアウトです。ジョン・スミス (John Smith) がライン上にいます。でも、何がライン上にいるかなんて気にしていられません。ハワード、放送席で我々が知ったことをあなたは伝えなければ。
コーセル: ええ、お伝えしなければなりません。誰が勝とうが誰が負けようが、これはただのフットボールの試合だということを忘れないでください。口にするのもはばかられるような悲劇がニューヨークのABCニュースから伝えられました。ビートルズのメンバーの中でも、おそらく最も有名なジョン・レノンが、ニューヨークウェストサイド・マンハッタンの集合住宅の外で背後から2発の銃撃を受け、ルーズヴェルト病院に急送されましたが、到着と同時に死亡が確認されたとのことです。こんなニュース速報の後に試合に戻るなんてことはとてもできません。たとえそれが我々の仕事だとしても、そうでしょうフランク?
ギフォード: (しばらくの間の後)まったく、そのとおりです[37]

その他の報道

銃撃を全国に伝えた最初のテレビ放送は、CNNの通常のニュース番組の中で、ジャーナリストのキャスリーン・サリヴァン英語版が伝えたものだった。サリヴァンは、ジョンは銃撃されたが彼の状態はその速報の時点では不明である、と伝えた。NBC は、東海岸で放送されている『ジョニー・カーソンのトゥナイト・ショー英語版』で、臨時速報としてジョンの死を伝えた[38]

ニューヨークのロック専門局WNEW-FM 102.7英語版は、全ての番組を直ちに中断し、専用ダイヤルを開設して取聴者からの電話を受け付けた。やがて全米の放送局は、番組内容をジョンやビートルズの音楽の特集に変更した[39]

翌日、ヨーコは声明を発表した。「ジョンの葬儀は行われません。ジョンは人類を愛し、人類のために祈りました。彼のために同じことをしてください。愛をこめてヨーコ、ショーン」("There is no funeral for John. John loved and prayed for the human race. Please do the same for him. Love, Yoko and Sean.")と述べた[40]

余波

"僕ら(ヨーコと自分)はどちらも、ガンディーマーティン・ルーサー・キング が陥った、殺したり殺されたりといった過ちを繰り返したくない。なぜなら、みんなが好きなのは死んだ聖人だから、僕は聖人や殉教者になるのはごめんだ"
- ジョン・レノン、 MBEをなぜ返上するのかと質問されて 1969年[41]
"ジョンの死に続いた悲しみの噴出、疑念、人々に共有された精神的荒廃には、ジョンロバート・ケネディや、精神的指導者のマーティン・ルーサー・キング・ジュニアといった、勇敢で人気のある政治家のような世界的著名人の殺害に対する反応と同じような広がり、密度があった。しかし、ジョンは政治的な比喩を詩的に用いる人物であり、彼の社会への精神的な関心は、自分の創造性を養い、広げるための一つの手段であり、内向きなものであった。それが人々にそれまでと違う衝撃を与えた点であった— 彼の想像力がもたらした衝撃、彼の天才性が多くの人々に深く残した影響 — そうしたもの全てが、あまりにも急で恐ろしい形で失われてしまったことであり、それが先週、全世界で嘆き悲しまれたところである。"
- ジェイ・コックス(Jay Cocks) 『 TIME 』、1980年12月22日[8]

ジョンの殺害に対しては世界中で、それまでにない程の規模で深い悲しみが噴出した[42]。ジョンの遺体は1980年12月10日、ニューヨーク州ウエストチェスター郡のハーツデール英語版にあるファーンクリフ墓地で火葬され、葬儀は行われなかった[43]。ヨーコは、ダコタ・ハウスの外で祈りを捧げる群衆に、歌声により眠ることができないと訴え、彼らに翌日曜日にセントラル・パークに再び集まり、10分間黙とうするように依頼した[44]。1980 年12月14日、ヨーコの呼びかけに応えた数百万の人々が世界中でジョンを追悼し、10分間の黙とうを捧げた[45]リヴァプールには3,000人が集まり、殺害現場のすぐ近くのニューヨークのセントラル・パークには、最大規模の225,000人以上が集まった[45]。その10分間、ニューヨークの全てのラジオ局は放送を中断した[46]。また、少なくとも3人のビートルズ・ファンが後を追って自殺したため[47]、ヨーコは、ジョンの死を悼む人々に対して、絶望に負けないよう広告を出して呼びかけた[48]。またヨーコは1981年になって、ソロ・アルバム『シーズン・オブ・グラス』を発表した。アルバムのカヴァーにはジョンの血まみれの眼鏡の写真が使われた。同じ年には、シングル『 Walking on Thin Ice』を発表した(ジョンは殺害の数時間前まで、レコード・プラント・スタジオでヨーコとこの楽曲のセッションを行っていた[49])。チャップマンは、精神疾患の申し立てを行おうとした弁護士の助言に反し、ジョンの殺害について1981年に有罪の申し立てを行った[50][51][52][23]。チャップマンは第2級謀殺(Second-degree murder)の罪で有罪となり、ニューヨーク州法において20年から終身までの無期刑を宣告され、20年後の2000年には、仮釈放の申請が可能になった[53]。しかし、チャップマンは2014年現在、仮釈放申請が8回却下され、現在もウェンデ刑務所英語版に服役中である[54][55][56]

記念と追悼

Memorial behind the 「 鉄のカーテン 」の向う側の記念物: プラハレノンの壁 1981年8月

アニー・リーボヴィッツが殺害当日に撮影した、全裸のジョンが妻を抱擁している写真は、『ローリング・ストーン』の1981年1月22日号の表紙となり、その号の大半はジョンの追悼記事、関係書簡、写真により占められた[57]2005年アメリカ雑誌編集者協会(ASME)英語版は、この表紙をこの40年間における最優秀の表紙に選んだ[58]

ジョージ・ハリスンは1981年、リンゴ・スターポール・マッカートニーも参加している追悼曲『過ぎ去りし日々』を発表した。ポール自身も、1982年のアルバム『タッグ・オブ・ウォー』の中で、追悼曲『ヒア・トゥデイ』を発表した。ジョンと全米1位となったヒット曲『真夜中を突っ走れ』を録音したエルトン・ジョンは、作詞家のバーニー・トーピンと共同でジョンの追悼曲『エンプティ・ガーデン英語版』を録音した。この曲は、彼の1982年のアルバム『ジャンプ・アップ』に収録されて発表され、その年の全米シングルチャートで13位を記録した[59]。エルトン・ジョンが1982年8月に、マディソン・スクエア・ガーデンで完売となったコンサートでこの曲を歌った時には、ヨーコとショーンも参加した[60]クイーンは、アルバム『ザ・ゲーム』発表に合わせて行ったコンサート・ツアー「ザ・ゲーム・ツアー英語版」中、ジョンの死後から彼の代表曲『イマジン』をカヴァーした。クイーンは、1982年のアルバム『ホット・スペース』でジョンに敬意を表し、フレディ・マーキュリーによる楽曲『ライフ・イズ・リアル(レノンに捧ぐ)』も発表している。

ロキシー・ミュージック は、ドイツ公演での演奏曲目にジョンの『ジェラス・ガイ』を追加したが、この公演は録音されて1981年3月に発売された。これはロキシー・ミュージックの楽曲で唯一、全英シングルチャート1位を記録して2週間その座を保持した。一部、完全収録されていないものもあるが、様々なロキシー・ミュージックやブライアン・フェリーの作品に、収録されている。

ポール・サイモンは、ジョンへのオマージュとして『ザ・レイト・グレイト・ジョニー・エース英語版』を発表した。曲中では最初に、1954年に銃で自殺したリズム・アンド・ブルースの歌手、ジョニー・エース英語版について歌われ、続けてジョンとビートルマニア現象が始まった1963年に暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領にも言及している。サイモンはこの曲を、1981年にセントラル・パーク行われたサイモン&ガーファンクルの再結成コンサートで既に演奏していた。このコンサートでは1人のファンが、この曲の演奏の最後の方で、おそらくはジョンへの言及に反応して、ステージに駆け上がるという事件が発生した。このファンはサイモンに「君に話がある」("I have to talk to you")と話しかけたが、サイモンのスタッフにより引きずりおろされた。この一部始終はコンサートのDVDで今も見ることができる。またこの曲はサイモンの1983年のアルバム『ハーツ・アンド・ボーンズ』にも収録されている。

1970年代中頃からジョンと親交のあったデヴィッド・ボウイは(1975年にボウイの全米1位のヒットとなった『フェイム』はジョンとの共作、ジョンは演奏にも参加している)、「シリアス・ムーンライト・ツアー」において、ジョンの3回忌にあたる1983年12月8日の香港コロシアムでの最終公演で、追悼曲を演奏した。ボウイは、ジョンに最後に会ったのは香港でのことだったと述べ、続けて「1980年のこの日、12月8日に、ジョン・レノンはニューヨークのアパートの外で銃撃を受け、殺された」と述べた後、ジョンの『イマジン』をカヴァーした[61]ピンク・フロイドデヴィッド・ギルモア は、ジョンの死への反応として『Murder』を作曲、録音し、1984年にギルモアのソロ・アルバム『アバウト・フェイス英語版』で発表した。

セントラル・パーク内の「ストロベリー・フィールズ」区画にあるイマジンの記念モザイク
ストロベリー・フィールズ」とダコタ・ハウス

1985年ニューヨーク市は、セントラル・パーク内のダコタ・ハウスのすぐ近く、ジョンがよく散策していた区域の一部をストロベリー・フィールズとして開所した。人々の団結の象徴として、世界中の国々がここに樹木を献呈したほか、イタリアナポリ市は、この区画の目玉としてイマジンの記念モザイクを献呈した[62]プラハマラー・ストラナにも、1986年に記念碑的なジョンの墓が建立され、そこはチェコスロバキアの共産主義政権打倒のデモの開催地ともなった[63]

ジョンは1991年グラミー賞特別功労賞生涯業績賞を贈られた[64]1994年には、グルジアの自治共和国で、事実上分離独立した アブハジア共和国が、過去の共産主義体制をちゃかすかのように、ウラジーミル・レーニンの代わりにジョン、カール・マルクスの代わりにグルーチョ・マルクスの肖像が印刷された記念切手を発行した(しかし、ヨーコや他のビートルズのメンバーはこの切手を快く思っておらず、ライセンス違反を理由に発行、販売の差止めを求めている)[65]2000年には、キューバの国家元首フィデル・カストロが、ハバナ市内の公園に建てられたジョンの銅像の除幕式を行っている[66]。同年には、日本さいたま市さいたまスーパーアリーナ内に、ジョン・レノン・ミュージアムが設立された(2010年9月30日閉鎖)[67]。リヴァプール市は2002年、市内の空港をリバプール・ジョン・レノン空港と改称し、ジョンの『イマジン』の歌詞の一節「"Above us only sky"」をモットーとした[68]。1983年1月12日ローウェル天文台のブライアン・スキッフ(B. A. Skiff)により発見された4147 Lennonは、ジョンを記念して命名された[69]2006年12月9日メキシコプエブラでは、ジョンの音楽、文化、平和に対する貢献を讃える銘鈑が設置、公開された[70]2007年12月9日、 アイスランドの首都レイキャヴィーク沖のヴィーズエイ島に、ヨーコはイマジン・ピース・タワーという記念物を設立した。毎年10月9日から12月8日の間、ジョンを記念して空に光による垂直の塔が投影されている[71]。1990年、ワルシャワのある通りの名を、ジョンを記念して再命名しようという市民グループが現れた。嘆願には支持者約5000名の署名が集まり、議会ではすんなり可決された[72]

ハリウッドキャピトル・レコード本社ビルの前では、毎年12月8日に記念式典が催されている。この時には、キャピトル・レコード本社ビルの近くのハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにあるジョンの星型プレートに点火された蝋燭が供えられる[73]。2007年9月28日から9月30日までの間、スコットランドダーネス英語版でジョン・レノンノーザンライツフェスティバル(the John Lennon Northern Lights Festival)が開催され、ジュリア・ベアード英語版(ジョンの異父姉)が出席し、ジョンの詩や自身の著作を朗読したほか、ジョンのスコットランド人のいとこ、スタンレー・パークス(Stanley Parkes)も出席した[74] 。また、全英から音楽家、画家、詩人が集まり、フェスティバルで芸を披露した[74][75]

2009年には、ロックの殿堂のニューヨークの別館で、ジョンの遺品や個人的な所持品等の展示会が開催され、展示物の中には、殺害時にジョンが来ていた服も含まれており、ルーズヴェルト病院から返却された際の茶色の紙袋に入ったまま展示されていた[76] 。ヨーコはいまでも、12月8日になるとダコタのジョンの部屋の窓に明かりを灯したキャンドルを供える[77]2012年にはボブ・ディランが、アルバム『テンペスト』の中で、ジョンの追悼曲『Roll on John』を発表した[78]

映画

ジョンの殺害を描いた映画は2本あり、どちらも事件のおよそ25年後に公開されている。1本目の『ジョン・レノンを撃った男英語版』は2007年12月7日に公開された。監督はアンドリュー・ピディントン(Andrew Piddington)で、チャップマンをジョナス・ボール(Jonas Ball)が演じた[79]。もう1つの『チャプター27』は2008年3月28日に公開された。監督はジャレット・シェファー英語版で、チャップマンをジャレッド・レトが演じた。ジョン役は、偶然にも殺人犯とファーストネーム、ラストネームが同一の俳優、マーク・リンゼイ・チャップマンが演じた[80]

出典と脚注

脚注

  1. ^ a b Police Trace Tangled Path Leading To Lennon's Slaying at the Dakota”. elvispelvis.com. 2007年12月20日閲覧。
  2. ^ a b c Badman 2001, p. 271.
  3. ^ a b Lucas, Dean (2007年). “Naked Lennon”. Famous Pictures Magazine. 2013年5月23日閲覧。
  4. ^ Hours After This Picture Was Taken John Lennon Was Dead”. Guardian Unlimited (2005年8月12日). 2007年7月26日閲覧。[リンク切れ]
  5. ^ Smith, Harry (2005年12月8日). “John Lennon Remembered”. CBS News. http://www.cbsnews.com/stories/2005/12/08/earlyshow/leisure/celebspot/main1107803.shtml 2008年11月8日閲覧。 
  6. ^ The Last Days of Dead Celebrities”. ABC, Inc.. 2007年12月26日閲覧。
  7. ^ a b Is That All You Want?”. Courtroom Television Network. 2008年5月4日閲覧。
  8. ^ a b Cocks, Jay (22 December 1980), “The Last Day In The Life: John Lennon is shot to death at 40, and a bright dream fades.”, TIME: 18–24, http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,924600,00.html 2010年10月23日閲覧。 
  9. ^ “Descent Into Madness”. People. (1981年6月22日). http://www.people.com/people/archive/article/0,,20079581,00.html 
  10. ^ Buskin, Richard (2007年7月3日). “John Lennon Encounters Mark David Chapman”. Howstuffworks.com. 2008年5月6日閲覧。
  11. ^ Maeder, Jay (1999). Big Town Big Time. Sports Publishing LLC. p. 173. ISBN 978-1-58261-028-3 
  12. ^ a b c Badman 2001, p. 272.
  13. ^ Badman 2001, p. 270.
  14. ^ Ledbetter, Les (9 December 1980). “John Lennon of Beatles Is Killed”. ニューヨーク・タイムズ. 
  15. ^ a b Do It, Do It, Do It!”. Courtroom Television Network. 2008年5月4日閲覧。
  16. ^ A Look Back at Mark David Chapman in His Own Words”. CNN (2000年9月30日). 2013年8月31日閲覧。
  17. ^ "Police Trace Tangled Path Leading To Lennon's Slaying at the Dakota" by Paul L. Montgomery, The New York Times, 10 December 1980, pp. A1,B6 (unverified quotes attributed to NYPD Chief of Detectives James T. Sullivan and in turn to an unnamed witness)
  18. ^ “I don't recall saying, 'Mr Lennon'”. デイリー・テレグラフ (London). (2008年8月21日). http://www.telegraph.co.uk/news/newstopics/celebritynews/2593371/John-Lennon-murder-Killer-Mark-David-Chapman-gives-new-details-of-shooting.html 
  19. ^ Transcript of 2008 parole hearing in which Chapman denies calling out "Mr Lennon"”. News.google.com (1980年12月12日). 2010年10月23日閲覧。
  20. ^ Transcript of 1981 competency hearing in which Chapman says he did not say anything to Lennon”. Jfkmontreal.com (1981年6月22日). 2010年10月23日閲覧。[リンク切れ]
  21. ^ 「私は.38スペシャル弾用回転式拳銃をポケットから取り出すと、いわゆるコンバット・スタイルの体勢を取った ("I pulled the .38 revolver out of my pocket and I went into what's called a combat stance") ABC News 20/20 interview, 4 December 1992.
  22. ^ Was John Lennon's murderer Mark Chapman a CIA hitman? Thirty years on, there's an extraordinary new theory”. Daily Mail (2010年12月4日). 2011年12月4日閲覧。
  23. ^ a b Montgomery, Paul L. (1981年2月9日). “Lennon Murder Suspect Preparing Insanity Defense”. The New York Times. http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?sec=health&res=9E00E1D8133BF93AA35751C0A967948260 2008年5月6日閲覧。 
  24. ^ John Lennon's last day.. as told by the people who were with him”. Mirror.co.uk (2010年11月27日). 2015年2月8日閲覧。
  25. ^ "The John Lennon Assassination" - American Justice. A&E Home Video. 1997.
  26. ^ “Lennon shot on way to see son”. Thestar.com (Toronto). (2007年6月10日). http://www.thestar.com/entertainment/article/223747 2007年12月20日閲覧。 
  27. ^ "Recalling the Night He Held Lennon's Still Heart", Corey Kilgannon, New York Times, 8 Dec 2005
  28. ^ a b c Summers, Sue (2010年12月5日). “John Lennon’s last day: A gripping NEW eyewitness account on the 30th anniversary of Beatle’s murder”. Daily Mail Online. 2015年2月8日閲覧。
  29. ^ Ingham, Chris (2003). The Rough Guide to the Beatles. London: Rough Guides. p. 82. ISBN 978-1843531401. http://books.google.co.jp/books?id=htl2U1fPq8QC&printsec=frontcover&hl=ja#v=onepage&q&f=false 
  30. ^ http://www.findadeath.com/Deceased/l/John%20Lennon/John%20Lennon%20DC.JJP [リンク切れ]
  31. ^ Dolmetsch, Christian (2014年12月23日). “John Lennon Killer Chapman Denied Parole for Eighth Time”. 2015年2月3日閲覧。
  32. ^ O'Donovan, Gerard (7 December 2010). "The Day John Lennon Died, ITV1, review". The Daily Telegraph.
  33. ^ Yoko Ono and David Geffen”. 2015年2月8日閲覧。
  34. ^ The Day John Lennon Died | Week 49 - ITV Press Centre”. Itv.com. 2015年1月18日閲覧。
  35. ^ Crimes of the Century. CNN Original Productions製作で2013年に放送。
  36. ^ Ausiello, Jeff (2010年12月5日). “Ex-Pats kicker forever linked to Lennon”. ESPN.com. 2010年12月6日閲覧。
  37. ^ Monkovic, Toni (2010年12月6日). “Behind Cosell's Announcement of Lennon's Death”. The New York Times. http://fifthdown.blogs.nytimes.com/2010/12/06/behind-cosells-announcement-of-lennons-death/ 2010年12月6日閲覧。 
  38. ^ Bridgeman, Troy (2014年12月9日). “John Lennon’s death still stings 34 years later”. 2015年2月8日閲覧。
  39. ^ http://www.radiotapes.com/Lennon/John_Lennon_1.mp3
  40. ^ “Retro: Lennon shot dead”. ヨークシャー・イヴニング・ポスト英語版. (2010年12月9日). http://www.yorkshireeveningpost.co.uk/news/latest-news/retro_lennon_shot_dead_1_3016017 2011年4月29日閲覧。 
  41. ^ The Beatles Anthology. San Francisco, California: Chronicle Books. (2000). p. 184. ISBN 0-8118-2684-8 
  42. ^ Buskin, Richard (1 December 1997). The Complete Idiot's Guide to Beatles. Alpha. p. 185. ISBN 0-02-862130-1 
  43. ^ Lennon slaying linked to quote”. Milwaukee Sentinel (1980年12月11日). 2015年1月18日閲覧。
  44. ^ Gentile, Fiorella Dorotea. “The Central Park Vigil, New York, 14 December 1980”. Thou Art. 2008年5月3日閲覧。
  45. ^ a b Clyde Haberman, "Silent Tribute to Lennon's Memory is Observed Throughout the World," ニューヨーク・タイムズ, 15 December 1980 pA1
  46. ^ [1]
  47. ^ Hampson, Rick; McShane, Larry (25 November 1990). "10 years after death, Lennon legend still lives". Lawrence Journal-World. pg. 2D. Google News. Retrieved 9 December 2013.
  48. ^ "Suicides push Lennon's wife to caution his fans", The Bulletin (Bend, Deschuets County, Oregon)”. News.google.com (1980年12月12日). 2010年10月23日閲覧。
  49. ^ Nash, Jackie (2013年12月6日). “John Lennon's Death, 33 Years Later: A Timeline of Events”. 2015年2月8日閲覧。
  50. ^ “Divine Justice”. Time. (1981年7月6日). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,922589,00.html 
  51. ^ “A Matched Pair of Gunmen”. Time. (1981年9月7日). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,924795,00.html 
  52. ^ "John Lennon's Killer: The Nowhere Man", New York Magazine, 22 June 1981. Books.google.com. (22 June 1981). http://books.google.com/?id=BeYCAAAAMBAJ&pg=PA30&lpg=PA30&dq=mark+david+chapman+jonathan+marks# 2010年10月23日閲覧。 
  53. ^ John Lennon killer Chapman denied parole - Entertainment - Celebrities - TODAY.com
  54. ^ Associated Press (2012年5月16日). “John Lennon's killer Mark David Chapman transferred to another NY prison”. NYPOST.com. 2015年1月18日閲覧。
  55. ^ Transcript of 2008 Chapman parole hearing”. Scribd.com (2008年8月12日). 2010年10月23日閲覧。
  56. ^ Transcript of 2010 Chapman parole hearing”. Scribd.com (2010年9月7日). 2010年12月8日閲覧。
  57. ^ John Lennon & Yoko Ono-RS 335 (22 January 1981)
  58. ^ Lennon Leads List of Top Magazine Covers”. MSNBC (2005年10月17日). 2010年10月23日閲覧。
  59. ^ “Fogetry's No.1 album puts him in some very heavy company”. Billboard: 6. (23 March 1985). https://books.google.co.jp/books?id=tSQEAAAAMBAJ&pg=PT5&dq=Empty+Garden+13++charts&hl=ja&sa=X&ei=9j7XVLXfCse2mQWur4CYCA&ved=0CBwQ6AEwAA#v=onepage&q=Empty%20Garden%2013%20%20charts&f=false. 
  60. ^ John Lennon”. songfacts.com. 2009年5月12日閲覧。
  61. ^ David Currie, ed (1985). David Bowie: The Starzone Interviews. England: Omnibus Press. ISBN 978-0-7119-0685-3 
  62. ^ Imagine Mosaic: W72 At Strawberry Fields”. Central Park Touring And Sightseeing. 2015年2月8日閲覧。
  63. ^ The Democratic Revolution in Czechslovakia” (Briefing Book). The National Security Archive. p. 3 (1999年10月). 2013年8月31日閲覧。
  64. ^ Open Site - Arts: Music: Awards: GRAMMY: Lifetime Achievement Award
  65. ^ Carlozo, Lou (1996年11月19日). “`You Can't Do That”. 2015年2月8日閲覧。
  66. ^ Morton, Ella (2014年1月10日). “The Story of the John Lennon Statue in Havana, Cuba”. http://www.slate.com/blogs/atlas_obscura/2014/01/10/the_story_of_the_john_lennon_statue_in_havana_cuba.html 2015年2月8日閲覧。 
  67. ^ Winter, Michael (2010年9月30日). “First John Lennon museum closes after 10 years”. USA Today. http://content.usatoday.com/communities/ondeadline/post/2010/09/first-john-lennon-museum-closes-in-japan-after-10-years/1 
  68. ^ Background Information”. Liverpool John Lennon Airport. 2006年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年5月3日閲覧。
  69. ^ Lennon's planet”. cfa.harvard.edu. 2007年12月20日閲覧。
  70. ^ La Jornada de Oriente en Internet”. Puebla. 2010年10月23日閲覧。
  71. ^ The Imagine Peace Tower”. Imagine Peace. 2007年10月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年5月3日閲覧。
  72. ^ http://jaymartinwrites.wordpress.com/posts/finnish-houses/
  73. ^ Wayne, Gary. “Capitol Records Building”. 2008年5月8日閲覧。
  74. ^ a b John Lennon Northern Lights Festival in Durness”. Scotland homepage. 2007年12月25日閲覧。
  75. ^ Ross, John (2007年5月19日). “Village strikes a chord with Lennon festival”. The Scotsman. 2007年12月25日閲覧。
  76. ^ Carucci, John (2009年5月12日). “Yoko Ono displays John Lennon's bloodied clothes”. Huffington Post. http://www.huffingtonpost.com/2009/05/12/yoko-ono-displays-john-le_n_202702.html 
  77. ^ Lennon Fans Remember From the New York Daily News and reprinted in the Palm Beach Sun-Sentinel, 12 December 2005, page found 3 March 2010.
  78. ^ Greene, Andy (2012年7月17日). “First Details of Bob Dylan's Upcoming Album 'Tempest'”. Rolling Stone. 2012年7月18日閲覧。
  79. ^ Smith, Kyle (2008年1月4日). “The Killing of John Lennon”. Rotten Tomatoes. 2011年8月7日閲覧。
  80. ^ Emerson, Jim (2008年4月25日). “Chapter 27”. Rotten Tomatoes. 2011年8月7日閲覧。

出典

  • Badman, Keith (2001). The Beatles After the Breakup 1970–2000: A Day-by-Day Diary. Omnibus Press. ISBN 978-0-7119-8307-6 
  • Bresler, Fenton (1990). Who Killed John Lennon. St Martin's Press. ISBN 978-0-312-92367-9 
  • Jones, Jack (1992). Let Me Take You Down: Inside the Mind of Mark David Chapman, the Man Who Killed John. Villard Books. ISBN 978-0-8129-9170-3 
  • Houwer, Greg (2010). Into the White: Kafka and His Metamorphoses. Acco. ISBN 978-90-334-8069-0 
  • Tom Mathews et al., "Death of a Beatle." Newsweek, 22 December 1980.
  • David Rosenthal et al., "The Death and Life of John Lennon". New York, 22 December 1980.
  • Seaman, Fred (1991). The Last Days of John Lennon. Birch Lane Press. ISBN 978-1-55972-084-7 

外部リンク