ジム・ライアン

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ジム・ライアン
Jim Ryun
2006年11月
生年月日 (1947-04-29) 1947年4月29日(76歳)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カンザス州ウィチタ
出身校 カンザス大学
前職 陸上選手
所属政党 共和党
配偶者 アン・ライアン
子女 4人

アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
下院議員
選挙区 カンザス州の旗 カンザス州第2区
在任期間 1996年11月27日 - 2007年1月3日
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獲得メダル
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
陸上競技
オリンピック
1968 メキシコ 男子 1500m

ジェームズ・ロナルド「ジム」ライアン英語: James Ronald ("Jim") Ryun1947年4月29日 - )は、アメリカ合衆国の元陸上競技選手、政治家。同州選出の共和党下院議員(1996年-2007年)である。

人物[編集]

1947年4月29日に中部のカンザス州ウィチタに誕生した。カンザス大学を卒業しており、宗教長老派である。アン夫人との間に4人の子供がいる。

陸上選手として[編集]

1966年に1マイルで世界新記録。翌1967年には1マイルで再び世界記録を樹立するだけでなく、1500mでも3分33秒1の世界記録を樹立している。

キプチョゲ・ケイノ一騎討ちになった1967年の1500m世界記録樹立レースは全米に生中継され、逃げるケイノをあっさり抜き去ったスピードは視聴者を熱狂させた。この時の3分33秒1は1974年英連邦大会でフィルバート・バイに更新されるまで7年間世界記録として君臨した。

オリンピックには高校生であった1964年東京オリンピックに出場を果たしてから3大会連続出場。金メダルを獲得することを期待されたが、1968年メキシコシティーオリンピック男子1500mで銀メダルを獲得するに留まった。

メキシコオリンピックでは金メダル確実と思われたがベン・ジプチョ、キプチョゲ・ケイノのケニヤ勢作戦レースにしてやられ、それまで再三対戦し一度も負けた事のないケイノの逃げ切りを許し、高地五輪番狂わせの象徴となった。そして『自分に失望した』のコメントを残し21歳だったがあっさり引退してしまった。

しかし、故郷を中心に復帰を望む署名運動が起こり、ライアンもそれに応えて1970年にカムバックを表明ミュンヘンを目指す事になった。 『失った物のすべてではないが多くは取り戻したと思う。』として臨んだミュンヘン五輪全米最終予選ではM・リクオリに続いて2着だったが僅差で両者で年度1位2位の好タイムを叩き出した。元々勝負強くラストの切れは他の追随を許さないスピードを持っているだけに再び優勝候補としてミュンヘンに乗り込むことになった。

そして迎えた準決勝、1000mを過ぎた4コーナーで一瞬集団の密集に入ったところでエチオピアのコリチャと接触、転倒して側頭部を強打、国際映像はレースを追わずこの不運なチャンピオンの苦痛と失望に歪む表情をアップで捉え続けた、なんとか立ち上がってレースに復帰した時集団はすでに200m先に行っていた。

政治経歴[編集]

外部リンク[編集]

アメリカ合衆国下院
先代
サム・ブラウンバック
カンザス州選出下院議員
カンザス州第2選挙区

1996年 - 2007年1月3日
次代
ナンシー・ボイダ
記録
先代
オーストラリアの旗 ハーブ・エリオット
男子1,500m世界記録保持者
1967年7月8日 - 1974年2月2日
次代
タンザニアの旗 フィルバート・バイ
先代
フランスの旗 ミシェル・ジャジ
男子1マイル世界記録保持者
1966年7月17日 - 1975年5月17日
次代
タンザニアの旗 フィルバート・バイ
受賞や功績
先代
オーストラリアの旗 ロン・クラーク
トラック・アンド・フィールド・アスリート・オブ・ザ・イヤー
1966 - 1967
次代
アメリカ合衆国の旗 ボブ・ビーモン
先代
ディック・アンダーソン, ボブ・ジョンソン, ドンナ・ロピアノ, ドン・ショランダー, スタン・スミス, ワイオミア・タイアス
NCAA シルバー・アニバーサリー賞
Class of 1994
カリーム・アブドゥル=ジャバー, リー・エバンス, カルヴィン・ヒル, ウィリアム・C・ハード, リロイ・キーズと共に
次代
レスリー・ブッシュ, ラリー・マコーホーク, クワク・オーネ=フレムポン, ボブ・レイニア, マイク・フィップス, マイク・リード