ショーン・コネリー
ショーン・コネリー Sean Connery | |||||||||||||||||||
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2008年 | |||||||||||||||||||
本名 | Thomas Sean Connery | ||||||||||||||||||
生年月日 | 1930年8月25日(93歳) | ||||||||||||||||||
出生地 | スコットランド エディンバラ | ||||||||||||||||||
国籍 | イギリス | ||||||||||||||||||
身長 | 188 cm | ||||||||||||||||||
職業 | 俳優・製作 | ||||||||||||||||||
ジャンル | 映画 | ||||||||||||||||||
活動期間 | 1954年 - | ||||||||||||||||||
活動内容 |
1962年:『007 ドクター・ノオ』 1987年:アカデミー賞受賞 1999年:ナイト叙任 2006年:引退宣言 | ||||||||||||||||||
配偶者 |
Diane Cilento (1962 - 1973) ※離婚 Micheline Roquebrune (1975 - ) | ||||||||||||||||||
公式サイト | SeanConnery.com | ||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||
『007』シリーズ 『史上最大の作戦』 『オリエント急行殺人事件』 『遠すぎた橋』『薔薇の名前』 『アンタッチャブル』 『インディ・ジョーンズ』 『レッド・オクトーバーを追え!』 『ザ・ロック』 『リーグ・オブ・レジェンド』 | |||||||||||||||||||
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備考 | |||||||||||||||||||
初代ジェームズ・ボンド |
サー・トマス・ショーン・コネリー(英: Sir Thomas Sean Connery、1930年8月25日 )は、スコットランド出身の映画俳優。『007』シリーズの初代ジェームズ・ボンド役で一躍有名となり、その他のアメリカ映画にも多数出演している。公称身長188cm。
来歴
スコットランド・エディンバラでアイルランド系の家庭に職工、トラック運転手の父ジョセフと、洗濯女の母、ユーフェミアのとの間に生まれる[1][2]。先祖の地はアイルランド東部ウェックスフォード州[3]。
義務教育修了後最初に得た仕事は牛乳配達であった[4][5]。その後イギリス海軍に従軍するも、健康上の理由で除隊し、トラック運転手、労働者、美術モデル[6][7]やライフガードなど種々の仕事をしながらボディビルジムに通う。1953年にはミスター・ユニバース・コンテストの重量上げ部門で3位入賞したが、その時に出場者の一人に演技の道に進むように勧められる。1954年からテレビや劇団に出演するようになる。
スコットランド人としての矜持を強く持ち、その独特のアクセントを矯正したことは一度もなく、ジェームズ・ボンド役を引き受ける際もアクセントを矯正しないことを絶対条件とした。このため、ボンドは原作に於いてスコットランド出身という設定が付け加えられた。ボンド以外の役柄もスコットランド出身という設定に変更したものが多い(『風とライオン』等)。
1961年、ジェームズ・ボンド役としてイオン・プロと5本の作品に出演する契約を交わし、翌1962年の『007 ドクター・ノオ』で知名度は世界的に上昇した。5作出演の契約遂行後も2度の返り咲きで計7本の作品でボンド役を務める。自己紹介の台詞「The name is Bond, James Bond.」を初めて使い、以来2作を除く[8]全作で使われるようにした張本人でもある。ボンド、或いはボンドのパロディ的役どころ(例:『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』、『ザ・ロック』等)を演じることには積極的であるが、プロデューサーであるアルバート・R・ブロッコリやハリー・サルツマンとの仲は芳しくなく、シリーズへの復帰には消極的であった。『ネバーセイ・ネバーアゲイン』は彼らの干渉を受けずに自ら製作した作品である。
彼は来日して撮影された『007は二度死ぬ』での日本のマスコミの過剰な報道合戦に嫌気がさし、それ以来日本嫌いになった。
直接の後任俳優の一人、ロジャー・ムーアとは無名時代からの友人であり、ともに共演を望んだほどの仲良しである
歴代のジェームズボンド俳優では一度引退して2回ジェームズボンド役に復帰している。これは2015年現在ショーン・コネリーのみである。
『007』降板後も様々なジャンルの映画に出演し、1987年には『アンタッチャブル』でアカデミー助演男優賞を受賞。
1998年にブロードウェイで『'Art'』を製作し、トニー賞 演劇作品賞を受賞。
2000年にイギリスのエリザベス女王からナイトの称号を与えられたが、スコットランドの分離独立を主張するスコットランド国民党の熱烈な支持者でもある。授与式には、民族衣装キルトで正装して現れた。なお、彼は「スコットランドが独立するまで私は死んでもスコットランドに帰らない」とまで明言している[5]。
2006年にアメリカ映画協会(AFI:American Film Institute)の生涯功労賞を受賞したのを機に、俳優業引退を宣言した[9]。
2008年、78歳の誕生日にエディンバラ国際ブックフェスティバルで自伝[10]を発表し、発表会見にはスコットランド国民党のアレックス・サモンド党首も出席した[5]。
私生活
1962年に女優のダイアン・シレント(Diane Cilento)[11]と結婚し、息子のジェイソン・コネリー(後に俳優となる)[12]をもうけるが、1973年に離婚。1975年にはフランス人アーティストのMicheline Roquebruneと再婚している。
1965年の『PLAYBOY』のインタビューで、「女性を殴るのは別に悪いとは思わない」と発言し、シレントへの暴力疑惑が起こるが、コネリーはこれを否定した。シレントはこの件に関して沈黙を守ってきたが、2005年になって、翌年出版の自伝[13]の中で、11年間の結婚期間中、肉体的・精神的に虐待されてきたと暴露した[14]。1965年には、アルメニアで撮影中、現地の結婚式に招かれ、酔って帰ったところを先に帰っていた夫に殴られたという[15][16]。2008年、シレントは、コネリーが一人息子のジェイソンに対して、自立して生計を立てるよう、8千5百万ポンドの財産のうち1ペニーたりとも相続させないと言ったと語った[17][18]。しかし、コネリーはこれを否定し、息子との関係は良好であると語り、暴力疑惑についても争う用意があることを明らかにした。また、離婚した際にジェイソンおよびシレントの娘の教育費として8万5千ポンドの信託財産を設けたが、今日では当然もっと増えているはずだと主張した[19]。ジェイソン本人も、父は暴君ではなく、父が稼いだ金をどうしようと父次第だと述べた[20]。しかし、シレントはコネリーが34歳のとき、セラピーで(当時は合法だった)LSDを使い、それが虐待を引き起こしたと主張した[21][22][23]。
主な出演作品
公開年 | 邦題/原題 | 役名 | 備考 |
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1957 | 地獄特急 Hell Drivers |
ジョニー | |
虎の行動 Action of the Tiger |
マイク | ||
1959 | 四つの願い Darby O'Gill and the Little People |
マイケル・マクブライド | |
ターザンの決斗 Tarzan's Greatest Adventure |
オバニオン | ||
1961 | ダイナミック作戦 On the Fiddle |
ペドラー・パスコー | |
殴り込み愚連隊 The Frightend City |
パディ・ダミオン | ||
1962 | 史上最大の作戦 The Longest Day |
フラナガン一等兵 | |
007 ドクター・ノオ Dr. No |
ジェームズ・ボンド | 『007は殺しの番号』改題 | |
1963 | 007 ロシアより愛をこめて From Russia with Love |
ジェームズ・ボンド | 『007 / 危機一発』改題 |
1964 | マーニー Marnie |
マーク・ラトランド | |
わらの女 Woman of Straw |
アンソニー・リッチモンド | ||
007 ゴールドフィンガー Goldfinger |
ジェームズ・ボンド | ||
1965 | 丘 The Hill |
ジョー・ロバーツ | |
007 サンダーボール作戦 Thunderball |
ジェームズ・ボンド | ||
1966 | 素晴らしき男 A Fine Madness |
サムソン・シリトウ | |
1967 | 007は二度死ぬ You Only Live Twice |
ジェームズ・ボンド | |
1968 | シャラコ Shalako |
シャラコ | |
1969 | SOS北極... 赤いテント La tenda rossa |
ロアール・アムンセン | DVDでは『SOS北極 レッドテント』と表記 |
1970 | 男の闘い The Molly Maguires |
ジャック・キーオ | |
1971 | 007 ダイヤモンドは永遠に Diamonds Are Forever |
ジェームズ・ボンド | |
ショーン・コネリー/盗聴作戦 The Anderson Tapes |
ジョン・アンダーソン | ||
1972 | 怒りの刑事 The Offence |
ジョンソン巡査部長 | |
1974 | 未来惑星ザルドス Zardoz |
ゼッド | |
オリエント急行殺人事件 Murder on the Orient Express |
アーバスノット大佐 | ||
1975 | オスロ国際空港/ダブル・ハイジャック Ransom |
ニルス・タルヴィク保安部長 | |
風とライオン Wind and the Lion |
ライズリー | ||
王になろうとした男 The Man Who Would Be King |
ダニエル・ドレヴォット | ||
1976 | ロビンとマリアン Robin and Marian |
ロビン・フッド | |
いとしき暗殺者 The Next Man |
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1977 | 遠すぎた橋 A Bridge Too Far |
ロイ・アーカート少将 | |
1979 | 大列車強盗 The Great Train Robbery |
エドワード・ピアース/ジョン・シムズ/ジェフリー | |
メテオ Meteor |
ポール・ブラッドリー博士 | ||
さらばキューバ Cuba |
ロバート・ダプス少佐 | ||
1981 | アウトランド Outland |
ウィリアム・T・オニール保安官 | |
バンデットQ Time Bandits |
アガメムノン王/消防士 | ||
1982 | 氷壁の女 Five Days One Summer |
ダグラス・メレディス | |
シークレット・レンズ WRONG is RIGHT |
パトリック・ホール | ||
1983 | ネバーセイ・ネバーアゲイン Never Say Never Again |
ジェームズ・ボンド | |
1984 | 勇者の剣 Sword of the Valiant |
緑の騎士 | |
1986 | ハイランダー 悪魔の戦士 Highlander |
フアン・ラミレス | |
薔薇の名前 Der Name der Rose |
バスカヴィルのウィリアム | ||
1987 | アンタッチャブル The Untouchables |
ジム・マローン | アカデミー助演男優賞 受賞 ゴールデングローブ賞 助演男優賞 受賞 |
1988 | プレシディオの男たち The Presidio |
アラン・コルドウェル | |
1989 | インディ・ジョーンズ/最後の聖戦 Indiana Jones and the Last Crusade |
ヘンリー・ジョーンズ教授 | |
ファミリービジネス Family Business |
ジェシー・マクマレン | ||
1990 | レッド・オクトーバーを追え! The Hunt for Red October |
マルコ・ラミウス艦長 | |
ロシア・ハウス The Russia House |
バーソロミュー・スコット・ブレア | ||
ハイランダー2 甦る戦士 Highlander II: The Quickening |
ラミレス | ||
1991 | ロビン・フッド Robin Hood: Prince of Thieves |
リチャード1世 | |
ザ・スタンド Medicine Man |
ロバート・キャンベル博士 | 兼製作総指揮 | |
1993 | ライジング・サン Rising Sun |
ジョン・コナー | 兼製作総指揮 |
1994 | グッドマン・イン・アフリカ A Goodman in Africa |
アレックス・マーレイ | |
1995 | 理由 Just Cause |
ポール・アームストロング | |
トゥルーナイト First Knight |
アーサー王 | ||
1996 | ドラゴンハート Dragonheart |
ドレイコ | 声の出演 |
ザ・ロック The Rock |
ジョン・パトリック・メイソン | 兼製作総指揮 | |
1998 | アベンジャーズ The Avengers |
オーガスト・デ・ウィンター卿 | |
マイ・ハート、マイ・ラブ Playing by Heart |
ポール | ||
1999 | エントラップメント Entrapment |
ロバート・“マック”・マクドゥガル | 兼製作 |
2000 | 小説家を見つけたら Finding Forrester |
ウィリアム・フォレスター | 兼製作 |
2003 | リーグ・オブ・レジェンド/時空を超えた戦い The League of Extraordinary Gentlemen |
アラン・クォーターメイン | 兼製作総指揮 |
2005 | ビリー・ザ・ヴェット Sir Billi The Vet |
声の出演 |
テレビCMなど
- ブリヂストンのタイヤ「レグノ」 - 初代イメージキャラクター
- マツダ・センティア - 2代目・HE型イメージキャラクター
- 伊藤ハム
- サントリーのウイスキー「クレスト12年」
- フィリップモリスのたばこ「ラーク」
- クレディ・アグリコル
吹替声優
- 日高晤郎..007 ゴールドフィンガーの初回放送で吹替を担当。事実上、日本初のボンド声優である。その後、007 ロシアより愛をこめてでもコネリーの声を担当するも、後にコネリーの声を吹替ることになった若山弦蔵によれば、放送局が期待するほどの視聴率が取れなかったこと、評判も芳しくなかったことなどから降板、日高コネリーはこの2作と史上最大の作戦のみとなった。
- 若山弦蔵..マーニーで初めてコネリーを担当、その後、007 ロシアより愛をこめての再放送からコネリーをほぼ専任で担当し、最も認知度の高い吹替声優である。TV放送時のコネリーも大半は務めているものの、若山の仕事に対する姿勢[24]から、それを良しとしない洋画枠やビデオメーカーから敬遠され、(主に日曜洋画劇場)一時期はコネリーを担当する機会が減ったものの、90年代以降は担当する機会が増え、媒体は違えどコネリー出演作品はほぼ全て担当している。(これは、洋画枠のスタッフが若山コネリーに思い入れがある世代に世代交代したことや、ソフト版ではハリウッドのシステムが導入され、若山が望む環境が受け入れられるようになったことも関係している。)
- 瑳川哲朗..初担当は遠すぎた橋の初回放送。その後、プレシディオの男たちのソフト版を機にソフト版のコネリーを多く担当しているが、ソフト版にも先述の若山の起用が増えたことなどからエントラップメントを最後にコネリーの吹替は担当していない。
- 坂口芳貞..主に日曜洋画劇場での吹替を担当、だが、他局の洋画枠では先述の若山による新録、或いは過去に放送されたものを使い回すことが多いため一時期、坂口の吹替が放送されることはほぼ皆無であったが。近年ではHD用の放送マスターに坂口版の音源が採用されることが多くなっている。(先述の若山の音源がCATVなどの有料放送で使用されるようになったため。)
脚注
- ^ “Sean Connery Biography”. filmreference.com. 2007年9月29日閲覧。
- ^ “Case Study 1-Sean Connery-James Bond”. familyrelatives.com. 2012年8月6日閲覧。
- ^ 英語版より
- ^ “From the Co-op with love.. the days Sir Sean earned £1 a week”. The Scotsman (2005年11月21日). 2007年9月29日閲覧。
- ^ a b c “英俳優ショーン・コネリー、78歳の誕生日に自伝を発表”. AFPBB News. (2008年8月27日) 2009年7月16日閲覧。
- ^ “Even as an unknown, Sean was still a draw”. The Scotsman (2003年8月22日). 2007年9月29日閲覧。
- ^ “青年ショーン・コネリーの油彩画発見、美術モデル時代の半裸像”. AFPBB News. (2007年10月26日) 2009年7月16日閲覧。
- ^ 『007は二度死ぬ』『慰めの報酬』のみ出て来ていない
- ^ シネマトゥデイ (2006年4月18日). “ショーン・コネリー、俳優を引退”. 2009年1月11日閲覧。
- ^ Connery, Sean (2008-8-21) (英語). Being a Scot. Weidenfeld & Nicolson. ISBN 9780297855408
- ^ Dianne Cilento - IMDb(英語)
- ^ Jason Connery - IMDb(英語)
- ^ Cilento, Dianne (2006-5-4) (英語). My Nine Lives. Michael Joseph Ltd. ISBN 9780718149253
- ^ “Diane Cilento says Sean Connery abused her” (英語). UPI.com. (2005年9月4日) 2009年8月1日閲覧。
- ^ “The pain of Mrs Bond” (英語). Times Online. (2006年4月30日) 2009年8月1日閲覧。
- ^ Clark, Joan (2006年8月14日). “Yes, Connery did beat me unconscious” (英語). Mail Online 2009年8月1日閲覧。
- ^ “Sean Connery: you’re on your own, 003½” (英語). Times Online. (2008年7月20日) 2009年8月1日閲覧。
- ^ Hull, Liz (2008年7月21日). “Tight Bond: You won't get a penny of my millions, Sean Connery told son” (英語). Mail Online 2009年8月1日閲覧。
- ^ Cable, Simon (2008年7月20日). “Sean Connery brands ex-wife 'insane woman' after claims he snubbed son in will” (英語). Mail Online 2009年8月1日閲覧。
- ^ Borland, Sophie (2008年7月27日). “'My father is NOT a tyrant,' says Sean Connery's son” (英語). Mail Online 2009年8月1日閲覧。
- ^ Scott, Paul (2008年8月8日). “Sean Connery: The story of a brilliant but deeply flawed man” (英語). Mail Online 2009年8月1日閲覧。
- ^ “Connery ex-wife alleges LSD use, violence” (英語). UPI.com. (2008年8月9日) 2009年8月1日閲覧。
- ^ “女は殴ってもいい!と妻をボコボコ?…封印されたショーン・コネリーの過去”. シネマトゥデイ. (2008年8月13日) 2009年8月5日閲覧。
- ^ 新スパイ大作戦終了後、「下手な芝居が聞こえてくるのが気に入らないという考えから、若手との共演を拒み、別録りを出演条件に加えること
関連項目
外部リンク
- Sean Connery - IMDb(英語)
- Sean Connery - インターネット・ブロードウェイ・データベース(英語)
- 公式ウェブサイト(英語)
- Sean Connery Online (英語)