サラトガ (CV-3)

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USS Saratoga (CV-3)
艦歴
発注 1917年
起工 1920年9月25日
進水 1925年4月7日
就役 1927年11月16日
その後 原爆実験で1946年7月25日沈没
除籍 1946年8月15日
性能諸元(1945年)[1][2]
排水量 満載(1945年):49,552 t
長さ 全長:888 ft(270.66 m)
水線長:850 ft
全幅:106 ft(32.30 m)
水線幅:111 ft-9 in(34.1 m)
飛行甲板 全長:909.45 ft(277.2 m)
全幅:105 ft-11.25 in(32.28 m)
機関 ターボ・エレクトリック方式 4軸推進
蒸気タービン 4基
設計:180,000 shp
公試:218,000 shp
ボイラー 16基
速力 設計:33.25ノット
公試:35.60ノット[3]
航続距離 10ノット/10,000海里(設計)
11ノット/10,950海里
15ノット/9,490海里
乗員 2,791名(1942年:艦船1,940名、航空851名)
搭載機 常用79機、補用30機
兵装 5インチ砲 16門
40 mm 機関砲 100門
20 mm 機関砲 16門
航空兵装 エレベーター 2基
カタパルト 2基(1944年)

サラトガUSS Saratoga, CV-3)は、アメリカ海軍航空母艦レキシントン級航空母艦の2番艦。アメリカ海軍においてサラトガの名を受け継いだ艦としては5隻目にあたる。 「サラ」、「シスター・サラ」、「スーパーサラ」、「すまんなサラ("Sorry Sara")」、「縦縞煙突のサラ("Stripe-Stack Sara")」、「サラ丸("Sara Maru")」などの愛称で呼ばれていた[4]

太平洋戦争の開戦時から参加して生き残った航空母艦3隻のうちの1隻(他の2隻はエンタープライズレンジャー )で、サラトガは8個の従軍星章を授与され、1946年に海軍籍から除籍された。それまでの17年間で98,549機の航空機がサラトガに降り、最大の空母着艦記録を保持している。

艦歴

サラトガは1920年9月25日ニュージャージー州カムデンニューヨーク造船所レキシントン級巡洋戦艦の三番艦(CC-3)として起工された。しかし、ワシントン海軍軍縮条約による戦艦の保有制限で1922年7月1日に航空母艦に設計変更され、1925年4月7日カーティス・D・ウィルバー海軍省長官の夫人により進水し、1927年11月16日に初代艦長ハリー・E・ヤーネル大佐の指揮下に就役した。

就役後、1928年1月6日フィラデルフィアで艦載機を搭載した。1月27日、実験を兼ねて飛行船からの燃料補給を受け、パナマ運河を通って太平洋に向かい、2月14日にニカラグアに海兵隊の輸送を行った。2月21日にはロサンゼルスサンディエゴサンペドロ湾を拠点にする戦闘艦隊に加わって、演習に従事する。

ワシントン州ブレマートンピュージェット・サウンド海軍造船所やサンディエゴで整備を行い、演習や訓練に従事していたが、1932年満州事変勃発の翌年にハワイへ移動し、再び演習や訓練に従事した。1941年1月6日、近代化改装のためブレマートンに戻り、それが終わると関係が悪化していた日本に対する威嚇のため、ハワイに何度か足を運んだ。

ミッドウェー海戦

1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃時はサンディエゴで整備中だったが、太平洋に空母はレキシントンエンタープライズしかいなかったため、急遽、ウェーク島救援のために出動し、12月15日、真珠湾を経由してウェーク島に向かった。しかし、ウェーク島が日本軍の制空権下にあり日本軍が上陸したことが判明し、12月22日にウェーク島救援は中止された。翌日、ウェーク島の守備隊は降伏した。

1942年1月12日、空母エンタープライズと合流するためハワイを出港したが、日本海軍伊号第六潜水艦稲葉通宗艦長)に雷撃され、魚雷1本が左舷中央10番ボイラー室付近に命中[5]。魚雷は舷側に命中直後に爆発し舷側壁を内側に押し込んだが[5]、押し込まれた防水隔壁が内側のフレームや配管を損傷して浸水が拡大した[5]。フレームの変形がボイラー室の床や隔壁にも及んだために第8-10-12の3つのボイラー室が満水となった[5]。また浸水した海水は煙路を伝って反対側の第9ボイラー室にも浸水を生じた[5]。浸水量は1100tとされ傾斜の修正のために320tが反対側に注水された[5]。被害の大きさより日本海軍の魚雷はアメリカ海軍の魚雷と比較して1.5から2倍の炸薬を搭載しているのでは推測された[5]。真珠湾で破孔を塞ぐ応急修理が実施され、その後サラトガは本格的修理のためにブレマートンに戻り[5]、この修理に合わせて8インチ砲が撤去され、5インチ高角砲が搭載された。5月22日、ブレマートンを発ってサンディエゴに向かい、5月25日に到着した。サラトガは航空隊を降ろしていたため搭載機がなくて作戦行動できず、新設された航空隊の訓練を行った。しかし、サラトガの航空隊は空母ヨークタウンに搭載されて、1942年6月、ミッドウェー海戦で活躍した。この時、サラトガの航空隊がハワイになければ、空母ヨークタウンも有効な戦力になり得なかった可能性も否定できない。

6月6日、サラトガは真珠湾に到着したが航空隊の補充は終了しておらず、ミッドウェー海戦の後もミッドウェー近海で警戒任務を続行していた第16任務部隊に航空機の補充を行い、アリーシャン列島方面に侵攻してきた日本軍に対して反撃も計画されたが中止され、6月13日に真珠湾に帰港した。サラトガは6月22日と6月29日にミッドウェー島へ航空機の輸送も行うなど支援に徹した。

反攻

アメリカ海軍は日本軍との戦いで失った航空隊の補充が追いつかず、空母ホーネットが航空隊の訓練のため離脱したものの、サラトガと空母ワスプが戦列に加わった。1942年7月7日、アメリカ軍はソロモン諸島方面で反撃の準備のため、サラトガは真珠湾を出港してフィジーに展開し、8月にガダルカナル島攻防戦が始まった。サラトガの搭載機は東部ソロモン海戦(第二次ソロモン海戦)で日本海軍の空母龍驤を撃沈するが、哨戒中またも潜水艦の雷撃を受けた。31日に伊号第二六潜水艦横田稔艦長)が放った魚雷で行動不能に陥り、重巡洋艦ミネアポリスに曳航され、トンガトンガタプ島へ退避した。9月2日から6日間行われた応急修理の結果、速度10ノットまで復帰に成功し、9月21日に真珠湾に帰港した。

1942年11月10日、サラトガは修理を完了し、再び南太平洋に出撃した。12月5日、フィジーを経由してニューカレドニアヌーメアに到着し、サラトガは約1ヶ月間、小規模な作戦の防空に従事した。アメリカ軍はギルバート諸島占領を企図して作戦準備中であった上に、多くの空母が日本軍の攻撃により撃沈、または破損しため、エセックス級とインディペンデンス級の配置、1943年7月から10月までアメリカ本国でオーバーホールしたエンタープライズの復帰までソロモン諸島方面で稼働している正規空母はサラトガ1隻となっていた。

F6F戦闘機を収容するサラトガ
1944年、ピュージェット・サウンドのサラトガ
1945年に特攻機の突入を受けて大破した

1943年10月20日ブーゲンビル島攻略支援のためサラトガはシャーマン少将の指揮下で軽空母プリンストンと第38任務部隊を形成、11月1日ブナを空襲して飛行場を叩き、11月5日にはラバウルを空襲して日本海軍の巡洋艦に打撃を与えた(ラバウル攻撃)。太平洋戦争中この一連の連続空襲がサラトガ最大の活躍であったが、ラバウルの日本軍を牽制だけで追い出すことはできなかった。

11月19日、サラトガとプリンストンはナウルを攻撃した後、輸送群としてマキン島タラワ島へ陸上部隊の輸送を行い、11月23日にギルバート諸島攻略の完了に伴いサラトガとプリンストンは集結し、タラワの防空に従事した(ギルバート・マーシャル諸島の戦い)。その後、11月30日にサラトガは戦列を離れ、1943年12月9日から1944年1月3日にかけてサンフランシスコオーバーホールを実施した。その際、40mm機関砲など対空火器の増設が行われた。

1944年1月7日、サラトガは真珠湾に到着し、簡単な訓練を行った後、軽空母ラングレー、プリンストンと共に1月19日に真珠湾を出撃してマーシャル諸島攻略支援に投入された。1月29日から3日間、艦載機がウオッゼ、タロア、エニウェトクの日本軍を空襲し、2月28日まで防空に従事した。

3月4日、サラトガは3隻の駆逐艦に護衛されてマジュロ環礁を出発し、エスピリトゥ・サント島、オーストラリアのホバートタスマニアフリーマントルを経由して太平洋からインド洋に転戦した。3月27日、洋上で空母イラストリアス、戦艦4隻などからなるイギリス海軍艦隊と合流、31日にセイロン島に到着した。

調整の後、4月16日、トリンコマリーを出撃して19日に2隻の空母はスマトラ島北西端の沖にあるサバン島を空襲、主に日本軍の港湾施設と石油備蓄に攻撃を行った(コックピット作戦)。同様の手法で5月17日にジャワ島スラバヤを空襲した(トランサム作戦)。その後、本国に帰還した。

終戦直前

1944年6月10日、サラトガはブレマートンに到着し、夏を通して整備を行った。8月、第11輸送航空群が編成され、サラトガは9月24日に真珠湾に戻り、夜間戦闘機隊の訓練に従事した。しかし、1945年1月29日、同様の訓練を行っていた軽空母インディペンデンスが夜間発着の困難と比べてあまりにも小さいことから、サラトガが硫黄島攻略に参加することになって急遽、真珠湾から出港した。サラトガは2月7日、ウルシーに到着して機動部隊に加わった。

機動部隊は硫黄島上陸に先立って2月16日と17日の夜に日本本土を空襲した。1945年2月21日、サラトガは硫黄島の夜間防空と父島への夜間攻撃のため、駆逐艦3隻を伴って機動部隊を離れた際、日本海軍第二御盾隊による特攻を衝突4機と爆弾2発に受けて大破した。死者・行方不明者あわせて123人、負傷者192人に達した。

サラトガ、ダメージレポート

サラトガはエニウェトクを経由してブレマートンに到着し、修理を行った。5月22日に修理は完了し、ピュージェット・サウンド工廠を発って6月3日に真珠湾へ戻り、再び航空隊の訓練に従事した。日本が降伏したため、9月6日に訓練を中止して、アメリカ本土に戻る復員兵の輸送を行った。

戦後

1946年7月25日の「BAKER実験」において発生した核爆弾の水中炸裂の写真 中央の艦がサラトガ

サラトガは幾多の損傷を受けつつも第2次世界大戦を生き延び、終戦時にはアメリカ海軍において最も古参の空母のうちの1隻であった。戦後は練習空母として引き続き運用される計画があったが、大戦中にエセックス級空母が多数就任したため、旧式であったサラトガは予備艦としての保管もされないまま退役する方向となり、記念艦として残存させる要望もあったが予算面と引受先の自治体の都合がつかないことから、廃艦が決定した。

サラトガはスクラップとしての払い下げは行われず、1946年に行われたビキニ環礁での核実験クロスロード作戦)の標的艦に使用された。7月1日の「ABLE」実験では軽度の損傷で済んだものの、続く7月25日の「BAKER」実験で艦体に致命的な損傷を負い、サラトガは7時間後に沈没した。全体としては原形を充分に留めていた為、引き揚げて核爆発による損害を詳しく研究する計画が立てられたが、放射線障害の危険性によってサルベージは中止され、1946年8月15日、正式に除籍された。

以後、サラトガはビキニ環礁の海底にあり、現在では放射線障害の危険性も低下したため民間人でもダイビングによってその姿を眺めることができる。浅海におけるスキューバダイビングで容易に到達できる航空母艦として、サラトガはダイビングスポットとして人気を集めている。民間人が通常のダイビングで到達できる沈船航空母艦は、現在のところサラトガとフロリダ沖メキシコ湾内のオリスカニーの2隻のみとなっている。

叙勲

Silver star
Bronze star
Bronze star
Bronze star
米国防衛従軍メダルおよび艦隊章
(American Defense Service Medal with "Fleet" clasp)
米国従軍メダル
(American Campaign Medal)
アジア太平洋従軍メダル
およびバトルスター8個
(Asiatic-Pacific Campaign Medal
with 8 stars)
第二次世界大戦戦勝メダル
(World War II Victory Medal)


サラトガ (CV-3)が登場する作品

  • THE世界遺産 「ビキニ環礁核実験場」(2011年8月21日放映) - 取材時点での海底に沈む実際のサラトガの映像あり。

関連項目

脚注

  1. ^ U.S. Aircraft Carriers: An Illustrated Design History、p. 390
  2. ^ U.S. Aircraft Carriers: An Illustrated Design History、2 Beginnings: The Langley, Lexington, and Saratoga
  3. ^ DEVLOPMENT OF THE WORLD’S FASTEST BATTLESHIPS http://web.mst.edu/~rogersda/american&military_history/World%27s%20Fastest%20Battleships.pdf
  4. ^ [1] 2016年2月26日閲覧
  5. ^ a b c d e f g h U.S.S. Saratoga (CV3) Final Report Torpedo Damage 11 January 1942 2016年1月28日閲覧

参考文献

  • Friedman, Norman (1983). U.S. Aircraft Carriers: An Illustrated Design History. Annapolis, MD: Naval Institute Press. ISBN 0-87021-739-9 

外部リンク