ゴーモン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゴーモン
Gaumont
種類 公開会社
本社所在地 フランスの旗 フランス ヌイイ=シュル=セーヌ
設立 1895年
業種 情報通信業
事業内容 映画製作
映画配給
テレビ番組制作
関係する人物 レオン・ゴーモン(創業者)
外部リンク https://www.gaumont.fr
テンプレートを表示

ゴーモンまたはゴモンフランス語: Gaumont 発音例)はフランスの大手映画制作会社。1895年に技師・発明家のレオン・ゴーモン(ゴモン)(Léon Gaumont )が創業した、現存する最古の映画会社である[1][注釈 1]

歴史[編集]

アリス・ギイ

創業当時、ゴーモン(Société L. Gaumont et compagnie )は双眼鏡映写機・カメラなど写真関係の機材を扱う会社であった。1896年撮影にも映写にも使える連続写真撮影機「Demeny-Gaumont」(クロノフォトグラフィーの原理を用いたもの)を発売し、その販売促進用に短編映画も製作した。このときゴーモンの秘書であるアリス・ギイが撮影に当たった。ゴーモンは映写機の販売の際に上映用の映画フィルムも同梱するため、1897年から本格的に映画製作に乗り出した。最初は記録映像が多かったが、次第に劇映画も作るようになった。ギイは映画部門の重役となり多数の映画の監督・製作を行ったが、彼女は女性初の映画監督であるとともに史上初めて劇映画を作った人物とみなされている[注釈 2]

1900年パリ万博では映写機や撮影用機材などを出品した。1903年にはマーガレットのロゴを採用している。これはレオン・ゴーモンの母マルグリット(Marguerite )にちなんだもので[2]、その後100年間に何度もデザインの手直しは行われているが[3]、マーガレットの花びらが「Gaumont」という社名の周囲を取り巻くデザインは今日まで基本的に変わっていない。

ゴーモン・パラス(1910年代)

ゴーモンはフランス有数の映画会社となり、1905年にはパリ郊外のラ・ヴィレット(19区)のビュット・ショーモン公園付近に大きな映画スタジオ「シテ・エルジェ」(Cité Elgé 、エルジェの街、エルジェとはレオン・ゴーモンのイニシャル「L.G」に由来する)を建てた。これは当時世界最大級のスタジオであった。1906年には有限会社となり、映画製作はシテ・エルジェに集約し、1907年には撮影機材やフィルムの生産からも手を引いて事業を映画製作に集中した。映画館へのフィルム販売もやめレンタル方式へと移行し、自前の映画館網の開設も始めた。1911年にはサーカスや競馬の会場であったモンマルトルのヒッポドロームを改装し、席数6,000の巨大映画館ゴーモン・パラス(Gaumont Palace )を開業している。ゴーモンは、フランスにおけるライバル会社のパテ兄弟社(Pathé Frères 、現在のパテ)とともに、第一次世界大戦勃発前はヨーロッパの映画産業を支配していた。

連続活劇ファントマ』(Fantômas)のポスター

1907年ごろからルイ・フイヤードLouis Feuillade )がゴーモンの芸術監督の地位にあった。レオンス・ペレLéonce Perret )も1917年アメリカ合衆国へ渡るまでゴーモンで映画監督を行っている。当時のゴーモンの作品の主なものには、フイヤードによる連続活劇レ・ヴァンピール』『ジュデックス』『ファントマ』、連続喜劇の『Onésime』や『Bébé』などがあり、その他多数のニュース映画も製作している。映画監督のアベル・ガンスアルフレッド・ヒッチコックジャン・ヴィゴ、初期のアニメーション作家エミール・コールらもゴーモンで作品を作っている。

ゴーモンは1915年にはイギリスロンドン西部にライム・グローブ・スタジオを設立している。また事務所を開いて映画館網を買収し、「ゴーモン・ブリティッシュ」を設立した。この会社は1922年にフランスの親会社から独立し、後にヒッチコックの映画『三十九夜』(1935年)、『バルカン超特急』(1938年)も手がけている。

しかし第一次世界大戦の後はゴーモンの急成長に歯止めがかかり、アメリカの映画会社に市場シェアを奪われる。ゴーモンの名監督だったルイ・フイヤードは1925年に没し、さらにトーキーなどの技術の進歩もゴーモンには負担となった。ゴーモンはアメリカのメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と配給の合意を交わしている。また世界恐慌後の不況が襲った1930年代初期、ゴーモンはFranco-Film Aubertとの合併を行い「Gaumont Franco-Film Aubert(GFFA)」となった。1930年代は喜劇映画などで何とか生き延びたゴーモンは、1938年に大手のアヴァス通信社Havas 、現在の広告代理店アヴァスの前身)のもとで「Société nouvelle des établissements Gaumont」へと再編された。

第二次世界大戦を生き延びて、フランスを代表する大手映画製作会社として君臨し、1975年には社名を単に「Gaumont」と変え、産業界の名門セドゥ家出身のニコラ・セドゥ(Nicolas Seydoux) の経営で映画製作などを行ってきた。ニコラ・セドゥの兄ジェローム・セドゥも、1990年よりパテの社長となっている。

21世紀のゴーモン[編集]

現在もハリウッド・メジャーの傘下に属しないインディペンデント系の映画会社で、リュック・ベッソンらの娯楽大作映画やジャン=リュック・ゴダールらの作品も手がける世界有数の規模の映画製作会社である。またフランスにおいて映画配給も行っている。

テレビ向けの番組制作も行う。例えば『Highlander: The Animated Series』、『Dragon Flyz』、『Sky Dancers』、『Oggy and the Cockroaches』(オギー&コックローチ)などのアニメーション番組もゴーモン製作である。

2004年から2007年にはソニーと映画製作・劇場配給・DVD販売などのパートナーシップを結んでいた。また、パテとともにフランス国内の映画館網を所有している。

映画作品[編集]

1940年代、1970年代[編集]

1980年代[編集]

1990年代[編集]

2000年代[編集]

2010年代[編集]

カメラ製品の一覧[編集]

スピード・ルポルタージュ(Spido reportage)
  • ブロックノートBlock-Notes 、1902年発売[4]) - 4本腕金具のクラップカメラ[4]。ボディーは金属製で黒エナメル仕上げ、手になじむ形状になっていた[4]。アトム(4.5×6cm)判と大名刺(6.5×9cm)判があり、アトム判のモデルはアトム判の名称の由来となったアトムより前に発売されている[4]。シャッターはギロチン式で、1/4-1/64秒、B[4]。作動部と制御部が別々になっている[4]。ファインダーを引き出すことによりシャッターがチャージされる。レンズは前玉回転式[4]エ・クラウス[4]のクラウス・プロター7.5cmF9[4]またはクラウス・テッサー7.5cmF6.3[4]またはクラウス・テッサー72mmF6.3。日本にも相当数が輸入され、また「三越カメラ」というコピー商品があった。
  • ブロックノートMP - アトム判[4]。ピント合わせはバックフォーカシング式[4]。。シャッターはギロチン式で、1/4-1/64秒、B[4]。レンズはエ・クラウス製72mm4.5[4]
  • スピードSpido
  • スピード・ジュメユ
  • スピード・ルポルタージュ
  • ステレオ・スピードStéréospido

注釈[編集]

  1. ^ シャルル・パテ(Charles Pathé )より1歳年下だったが、パテ (映画会社)よりも早く、写真機の開発と販売を扱う会社を発足させ、リュミエール兄弟による世界最初の映画上映に接して、映画製作に方針を変える(中条省平『フランス映画史の誘惑』集英社文庫 2003年p.45)。
  2. ^ 最初に作ったのが『キャベツ畑の妖精』(自伝『私は銀幕のアリス』で1896年としているが、1900年前後と考える人もいる)中条省平『フランス映画史の誘惑』集英社文庫 2003年p.47f。

出典[編集]

  1. ^ Richard Abel, The Ciné Goes to Town: French Cinema, 1896-1914, University of California Press, 1994, p. 10, ISBN 0520079361.
  2. ^ Nicole de Mourgues, Le générique de film, éd. Méridiens Klincksieck, 1994, 292 p. (ISBN 2-86563-318-7), p. 179.
  3. ^ Logos de la marguerite : logos officiels
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『クラシックカメラ専科No.22、アイレスのすべて/アトム判カメラの世界』pp.52-70「アトム判カメラの世界」。

参考文献[編集]

  • 『クラシックカメラ専科No.22、アイレスのすべて/アトム判カメラの世界』朝日ソノラマ

外部リンク[編集]