クロード・マケレレ
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名前 | ||||||
本名 | クロード・マケレレ・シンダ | |||||
愛称 | マカ | |||||
ラテン文字 | Claude Makélélé | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | フランス | |||||
生年月日 | 1973年2月18日(51歳) | |||||
出身地 | ザイール キンシャサ | |||||
身長 | 170cm | |||||
体重 | 66kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF (DH) | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1990-1991 | ムラン | |||||
- | ブレスト | |||||
1991-1992 | ナントB | 12 | (0) | |||
1991-1997 | ナント | 169 | (9) | |||
1997-1998 | マルセイユ | 32 | (2) | |||
1998-2000 | セルタ | 70 | (3) | |||
2000-2003 | レアル・マドリード | 94 | (0) | |||
2003-2008 | チェルシー | 144 | (2) | |||
2008-2011 | パリ・サンジェルマン | 98 | (1) | |||
代表歴2 | ||||||
1995-1996 | フランス U-21 | 11 | (1) | |||
1995-2008 | フランス | 70 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
2014 | SCバスティア | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2014年11月4日現在。 2. 2014年11月4日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
クロード・マケレレ・シンダ(Claude Makélelé Sinda, 1973年2月18日 - )は、コンゴ民主共和国(旧ザイール)キンシャサ出身の元フランス代表サッカー選手。
キャリアを通して守備的MFでプレー。中盤の底のポジションはマケレレのポジションとして「マケレレロール(Makélélé Role)」と呼ばれることもある[1]。
来歴
1973年にザイールにて生まれ、1977年にフランス、サヴィニー=ル=タンプルへと移る。15歳の頃にムランのクラブであるUSムランに加入し、そこではリリアン・テュラムらとともにプレーした。
1993年、リーグ・アンのFCナントでキャリアをスタートし、フランス国籍を獲得。身体能力の高さを活かした活躍が評価され、1995年7月22日のノルウェー戦でフランス代表デビューを果たす。また1995-96シーズンではUEFAチャンピオンズリーグベスト4進出に貢献した。さらにその年に、アトランタ五輪にフランス代表として出場するがベスト8で敗退。
その後オリンピック・マルセイユを経て、1998年にリーガ・エスパニョーラのセルタ・デ・ビーゴへ移籍。UEFAカップにおいてリヴァプールFC、ユヴェントスFCら強豪を破った試合で活躍し、マケレレの評価は上昇した。
2000年にはレアル・マドリードへ移籍し、超攻撃的サッカーを標榜するスター集団の中において、中盤の守備を担うハードワーカーとして活躍し、2001-02シーズンにはチャンピオンズリーグの制覇に貢献。当時のチームメイトから「彼こそ、俺たちのバロンドールだ」という、最大級の賛辞が送られた。2002年、フランス代表は日韓W杯に出場するが、マケレレは出場機会に恵まれず、FWの不調やエースジネディーヌ・ジダンの故障も響きグループリーグで敗退する。しかし、クラブでは攻撃重視の選手を擁する中盤の底で守備を担い、イバン・エルゲラや最終ラインを支えるフェルナンド・イエロと共に守備の役割をしっかりとこなし、チームに欠かせない存在であった。しかし2002-03シーズン終了後、給料の問題などもありレアル・マドリードを退団。もっとも自身は後のインタビューの中で、自身の仕事に敬意を払われなかったことが問題なのであり、当時のレアル・マドリードの会長、フロレンティーノ・ペレスに「どんなに金を積まれても、私は出て行く」と言ったと述べている。その後レアル・マドリードは失点が増加、マケレレへの依存度が高かったにも関わらず彼を評価できなかったペレス会長には批判が浴びせられた。
その後ロシアの石油王、ロマン・アブラモヴィッチが新オーナーとなったチェルシーFCへ移籍。移籍後初シーズンはプレミアリーグ2位、UEFAチャンピオンズリーグではASモナコに準決勝で敗れるなど、タイトルを手にすることはできなかった。しかし2004-05シーズンにはプレミアリーグとフットボールリーグカップを獲得。2004年より監督に就任したジョゼ・モウリーニョはマケレレをシーズンの最優秀選手と褒め称え、FIFProによる2005年のベストイレブンにもチームメイトであるフランク・ランパードやジョン・テリーらとともに選出された[2]。
EURO2004以降代表から遠ざかっていたが、2006年ドイツW杯の欧州予選でフランス代表は予選敗退の危機を迎える。ドメネク監督の希望によりジダン、リリアン・テュラムとともに代表に復帰し、見事土壇場からの予選通過に貢献する。2006年5月15日、本選出場メンバーに選ばれ決勝戦まで進んだが、PK戦の末に準優勝に終わる。W杯終了後、地元のTV局のインタビューで、代表引退を明らかにしたが、ユーロ2008の予選でドメネク監督に招集され、モウリーニョ監督を巻き込み騒動となった。EURO2008本大会にも招集されたものの、チームはグループリーグ敗退。改めて代表引退を発表した。代表引退の記者会見の席で、フランス代表としてはメジャーなタイトルを得られなかったことについては「フランス代表のユニフォームを着ることができたことが、私のトロフィーだ」と語っている。
2008年7月21日、パリ・サンジェルマンFCがマケレレの獲得に関してチェルシーと合意。同時にキャプテンにも就任した。2010-11シーズン終了後に現役引退。
指導者として
古巣のパリ・サンジェルマンで名将カルロ・アンチェロッティ監督の下でアシスタントコーチを経験した後、リーグ・アンの2014-2015シーズンからSCバスティアの監督に就任。しかし、12試合で2勝しか挙げられず、11月3日に解任された[3]。その後、2016年1月8日にASモナコのテクニカルディレクター就任が発表された[4]。
所属クラブ
選手
- FCナント 1991-1997
- オリンピック・マルセイユ 1997-1998
- セルタ・デ・ビーゴ 1998-2000
- レアル・マドリード 2000-2003
- チェルシーFC 2003-2008
- パリ・サンジェルマンFC 2008-2011
監督
- SCバスティア 2014
タイトル
- ナント
- リーグ・アン: 1994-95
- レアル・マドリード
- リーガ・エスパニョーラ: 2000-01, 2002-03
- スペイン・スーパーカップ: 2001, 2003
- UEFAチャンピオンズリーグ: 2001-02
- UEFAスーパーカップ: 2002
- トヨタカップ: 2002
- チェルシー
- プレミアリーグ: 2004-05, 2005-06
- FAカップ: 2006-07
- コミュニティーシールド: 2005
- フットボールリーグカップ: 2005, 2007
- パリSG
- フランスカップ: 2009-10
その他
- 元妻はラッシュアワー3に出演している女優でスーパーモデルのノエミ・ルノワール。息子が一人いる。
- スパイクやその他の用具はNIKE社と契約している。
- イングランドでは現在もボランチという言葉はあまり使われず、ディフェンシブミッドフィルダーもしくはマケレレポジションと呼ばれている。
脚注
出典
- ^ “The Makelele role”. UEFA.com. 2012年11月13日閲覧。
- ^ “The FIFPro World XI of the Year 2004/2005”. FIFPro. 2012年11月13日閲覧。
- ^ “降格圏バスティア、マケレレを解任”. Goal. 2014年11月4日閲覧。
- ^ “元レアルの“縁の下の力持ち”マケレレ氏、モナコのディレクターに就任 ”. SANSPO.COM. 2016年1月8日閲覧。