クロード・ド・フランス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クロード
Claude
ブルターニュ女公
在位 1514年1月9日 - 1524年7月20日
別号 エタンプ女伯

フランス王妃
在位 1515年1月1日 - 1524年7月20日
戴冠 1517年5月10日

全名 Claude de France
出生 (1499-10-14) 1499年10月14日
フランス王国ロモランタン=ラントネー
死去 (1524-07-20) 1524年7月20日(24歳没)
フランス王国ブロワ城
埋葬 フランス王国サン=ドニ大聖堂
配偶者 フランスフランソワ1世
子女
家名 ヴァロワ=オルレアン家
父親 フランス王ルイ12世
母親 ブルターニュ女公アンヌ・ド・ブルターニュ
テンプレートを表示

クロード・ド・フランス(Claude de France, ブルトン語:Klaoda Bro-C'hall, 1499年10月13日 - 1524年7月20日)は、フランスフランソワ1世の王妃で、ブルターニュ公国女公(在位:1514年 - 1524年)。父はフランス王ルイ12世、母はブルターニュ女公アンヌ・ド・ブルターニュ

生涯[編集]

クロードの母アンヌは2度の結婚でも男子に恵まれず、サリカ法により王位を継ぐことができない女子2人を得たのみだった。娘たちにはアンヌ自身の持つブルターニュ公位の継承権があったが、故国ブルターニュの行く末を案じたアンヌは1504年のブロワ条約で、ブルターニュの王領併合を阻止しようと長女クロードと未来の神聖ローマ皇帝カール5世とを婚約させる案を出した。しかしこの案は、フランスへの外国人支配を許すこととなるため貴族らに反対され、婚約は成立しなかった。代わりにルイ12世は、従甥で王位継承権者であるアングレーム伯フランソワをクロードの夫とすることを決めた。

1514年にアンヌが死ぬとクロードがブルターニュ女公となり、同年5月15日にサン=ジェルマン=アン=レーでフランソワと結婚した[1]。翌1515年に父ルイ12世が没し、夫フランソワ1世が即位する。

クロードの結婚生活は、絶え間ない妊娠と夫が作った多くの愛人たちの存在のため、心が安まることはなかった。末子マルグリットを生んだ翌年、1524年にクロードは死去した。

のち、1530年にフランソワ1世はカール5世の姉エレオノールと再婚した。ブルターニュ公位は長男フランソワ王太子が継承し、その早世後は王太子の地位と共に次男アンリ2世へと受け継がれた。

子女[編集]

ブーリン姉妹[編集]

クロードが王妃となった頃、侍女に2人のイングランド人姉妹、メアリー・ブーリンアン・ブーリンがいた。メアリーは1519年に帰国するとヘンリー8世の愛妾となった。1520年頃には、アンはクロードの通訳として仕えていた。また、クロードの妹ルネフェラーラ公エルコレ2世妃となる)のよい話し相手でもあった。彼女も1521年に帰国し、姉と同じく愛妾となり、やがてはイングランド王妃となる。

備考[編集]

  • プラムの一種に、クロードにちなみ「レーヌ・クロード」(Reine Claude:クロード王妃)という名前がつけられている。

脚注[編集]

  1. ^ 佐藤、p. 225

参考文献[編集]

  • 佐藤賢一 『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』 講談社現代新書、2014年
先代
アンヌ
ブルターニュ女公
1514年 - 1524年
次代
フランソワ3世