クレア・リー・シェンノート

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クレア・リー・シェンノート
Claire Lee Chennault
クレア・シェンノート少将
生誕 1893年9月6日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国テキサス州コマース英語版
死没 1958年7月27日(1958-07-27)(64歳)
所属組織 アメリカ陸軍航空隊(USAAC)
中華民国空軍(ROCAF)
アメリカ陸軍航空軍(USAAF)
軍歴

1917年 - 1945年

  • 1917年 - 1937年(USAAC)
  • 1937年 - 1942年(ROCAF)
  • 1942年 - 1945年(USAAF)
最終階級 中将(Lieutenant General)
除隊後 民航空運公司設立
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クレア・リー・シェンノート: Claire Lee Chennault, 1893年9月6日 - 1958年7月27日)は、アメリカ合衆国の軍人。中国名は陳納徳アメリカ陸軍航空隊の将校であり、日中戦争最中には顧問として派遣された中華民国軍で航空参謀長を務めた。フライング・タイガースの指揮官としてその名を知られる。最終階級は中将

なお、日本では姓Chennaultについて「シェンノート」と呼ばれることが多いが、正しい発音はシェノールト又はシエノールに近い[1]

生涯

生い立ち

「Chennalt」はフランス語起源で「灌漑用運河付近の住人」をさす。「Claire Lee」は母方の叔父ものである。この叔父は保安官代理で、囚人護送中に囚人に射殺された。「Lee」の由来は、シェンノートの祖父が南軍の軍医で、リー将軍と縁続きであったためである。

テキサス州コマースで生まれ、その後ルイジアナ州に移り住んだ。一家の生計は綿花の栽培でなりたっていた。母親の死亡後、叔母のルイーズ・リー・チェイスに育てられた。その後、父親のジョンがシェンノートの通っていた学校の教師ロティ・バーンズと再婚した。ロティ・バーンズはシェンノートに大きな影響を与え、ロティの薦めで1909年1月25日にルイジアナ州立大学農学部に入学した。

その後、叔父のネルソンの薦めで、ルイジアナ州の教師になるために州立の師範学校に再入学した。師範学校入学中に知り合ったネル・トモソンと1910年12月24日に最初の結婚をした。

アメリカ陸軍航空隊

第一次世界大戦時の1917年4月、オハイオ州のグッドイヤーの工場で働いていたが、アメリカの参戦を聞いてアメリカ陸軍に入隊した。まずインディアナ州ベンジャミン・ハリソン基地で士官養成訓練を受け、1917年11月27日に予備役歩兵中尉に任官する。任地はサンアントニオのトラビス基地で所属は第90師団であった。

航空機にあこがれていたシェンノートは、近くの陸軍航空隊のケリー基地への転属を希望して異動するが、そこでの任務は航空隊の士官候補生に歩兵訓練を施す物であった。しかし、飛行隊の教官と親しくなることで飛行機の操縦を身につけた。1918年9月に第46追撃中隊の副官としてヨーロッパ戦線に派遣される予定であったが、戦争終結が近いということでこれは中止された。その後、ヴァージニア州のラングレイ基地で悪性インフルエンザが流行り、病院代わりとされた格納庫の責任者となったシェンノートも病気にかかり、一時は軍医も見放した。シェンノートいわく、友人の差し入れてくれたバーボンで回復したとのことである。

待望の飛行学校への入校が認められてケリー基地へ向かう汽車の中で終戦の報を聞く。教官との確執から一時は卒業が危ぶまれたものの、1919年4月9日に飛行学校を卒業した。1920年4月16日に名誉除隊をするが、職もなく1920年7月1日常備軍に志願、採用される。1923年9月にハワイへの転属を命ぜられ、フォード島ルーク基地の第19戦闘機中隊の隊長に任ぜられる。

1926年にサンアントニオのブルックス基地に転属、初等飛行訓練の責任者となったが、ここで空挺作戦について研究をした。これがソビエト連邦のバラノフ将軍を団長とする軍事使節団の目にとまり、シェンノートをソビエト陸軍の教官として採用したいと望まれた。シェンノートは乗り気ではなく、婉曲に断ろうと採用条件として必要経費とは別に月給$1,000と大佐の階級を要求するが、ソビエト陸軍側はこれを快諾した。

結局ソビエト陸軍の誘いは断り1930年に陸軍航空隊戦術学校に入校する。1933年に3編の論文をまとめた「防御的追跡の役割」を書き上げ陸軍航空隊戦術学校で印刷配布した。1930年代には訓練教官になる。その後1937年に「健康問題」を理由に退役する。

「フライング・タイガース」

蒋介石宋美齢夫妻と

その後、1937年日中戦争に突入した蒋介石総統率いる中華民国国民党政府に、アメリカの支援によって設立された中華民国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして、航空参謀長の地位(階級は大佐)で雇い入れられた。

その後、蒋介石総統からの軍事支援の要請を受けたフランクリン・D・ルーズベルト大統領の指示を受け設立された「ワシントン中国援助オフィス」の支援の下に、アメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group、AVG)を設立し、カーチスP-40などの100機のアメリカ製の最新鋭戦闘機と、シェンノートと同じくアメリカ軍籍を一時的に抜いて「民間人による義勇兵」となったパイロット100名、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集め中国大陸に送る。  

パイロット募集の結果、シェンノートの下にはかつて彼と共に飛んだ「フライング・トラピーズ」(陸軍統括の飛行部隊)のメンバーも数名加わり、それなりにベテランパイロットは揃い始めた。しかしその後は思ったように集まることはなく最終的にはシェンノートが理想としていた基準は落とさざるを得なかった。募集名簿がすべて埋まった時、AVGのパイロットは39州から海軍50名、陸軍35名、海兵隊15名の合計100名で編成された。しかし戦闘機訓練と航空機射撃の訓練を受けてきたパイロットはこの中の僅か1/3しかおらず、むしろ爆撃機の経験者の方が多く機体の扱いなどには未熟な者も多かった為、中国現地にてメンバーに対しての再訓練が必要であった。一方、中華民国軍兵士のパイロット訓練にも当たった。

活動開始

フライングタイガースが装備したP-40C

1941年11月に友好国のイギリス植民地であったビルマにむけ5~6週間かけて渡航し、現地にて正式に中華民国軍として兵籍に入った。そしてイギリス空軍からラングーンの北にあるキェダウ航空基地を借り受け、ここをAVGの本拠地とした。その翌月の1941年12月には昆明で日本軍と初の航空戦を行い、護衛機無で飛来してきた川崎製九九式双発軽爆撃機10機と遭遇し戦闘状態に入った。報告はさまざまであったが、この内AVGは5~9機の爆撃機を撃墜(日本側記録では3機被撃墜)を主張し、AVG側は損失1機(燃料切れで不時着)だった。

なお同月に、日本はアメリカをはじめとする連合国軍と戦闘状態に入っていたことから、中国国内及びビルマなどを中心に活動を行い、その後1942年7月まで、ビルマと同じくイギリスの植民地であったインドから来る補給隊の航空支援を行い続けた。

「フライング・タイガース」の解散

しかしその後日本軍は各地でアメリカ軍やイギリス軍などの連合国軍を圧倒し、同地における連合国軍の再編成を行なわざるを得なくなった上に、正式に日本に宣戦布告したアメリカにとって義勇軍の意味はなく、1942年7月3日に、アメリカ軍はAVGに対して正式に解散命令を出した。解散命令を受託したシェンノートは部隊を解散し残存戦力を中国国内やイギリス領ビルマ方面に展開するアメリカ軍第10空軍の部隊で編成された中国空軍起動部隊(CATF)に編入させた。この7ヶ月間に生き残ったAVGパイロットのうち僅か5名はシェンノートと共にアメリカ陸軍航空軍に復帰、そして残りのメンバーは報奨金を受け取り祖国アメリカに帰るものもいれば、現地に残り輸送機パイロットとして働く者もいた。

AVGフライングタイガースの解散の日、蒋介石の夫人である宋美齢はAVGメンバー全員に対し賛辞を送っている。そして彼らを夫人は「フライング・タイガー・エンジェル」と呼んだ。

民航空運公司

2度目の妻・陳香梅と

1945年8月の終戦後にアメリカ軍を退役し、1946年中国共産党軍との間で再び国共内戦に突入した中華民国軍及び国民党政府のために、民間航空会社である民航空運公司(Civil Air Transport/CAT)を設立した。その後、1949年には国共内戦に敗北し台湾島に撤退した国民党政府とともに台湾に渡り、中国共産党が中国大陸に設立した中華人民共和国に対する作戦活動を行っていたCIAの後援の元に、同社の運営を継続する。

その後同社は、中華人民共和国に対する作戦活動支援のみならず、朝鮮戦争インドシナ戦争でアメリカ軍向けの軍事物資の運搬業務や諜報活動支援につく傍ら、ダグラスDC-4Bやコンベア880などの大型旅客機を運行し東京大阪香港バンコクなどへの国際線を運行するまでになった。

死去

最初の妻・ネル夫人とは1946年に離婚し、翌年には中華民国の通信社・中央通訊社の記者だった陳香梅と再婚。1958年に死去し、ワシントンD.C.アーリントン国立墓地に埋葬された。

脚注

  1. ^ アラン・アームストロング『「幻」の日本爆撃計画―「真珠湾」に隠された真実』塩谷紘訳、日本経済新聞出版社 (2008)では「シェノールト」と表記。

参考文献

関連項目

人物

その他

外部リンク

受賞や功績
先代
フランクリン・ルーズベルト
タイム誌の表紙を飾った人物
1943年12月6日
次代
チャールズ・E・ウィルソン