キース・エマーソン
キース・エマーソン Keith Emerson | |
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キース・エマーソン Keith Emerson 2008年 | |
基本情報 | |
生誕 | 1944年11月2日 |
出身地 | イギリス |
死没 | [1] |
ジャンル |
プログレッシブ・ロック ロック クラシック音楽 クラシック・ロック アート・ロック |
職業 |
ミュージシャン シンガーソングライター キーボーディスト 作曲家 |
担当楽器 |
ピアノ ハモンドオルガン モーグ・シンセサイザー キーボード ハープシコード オルガン アコーディオン チェレスタ クラビネット |
活動期間 | 1967 - 2016 |
レーベル |
Edel Records (Germany/Europe) ビクターエンタテインメント (Japan) Shout! Factory Manticore Records J!MCO Records サンクチュアリ・レコード EMI ライノ・エンタテインメント Varèse Sarabande Gunslinger Records Cinevox Records |
共同作業者 |
Gary Farr & The T-Bones The V.I.P.'s P.P. Arnold ナイス Free Creek ELP エマーソン・レイク&パウエル 3 Keith Emerson Band Boys Club |
公式サイト | www.keithemerson.com |
キース・エマーソン(Keith Emerson、1944年11月2日 - 2016年3月10日[1])は、イギリス出身のキーボーディスト、作曲家。シンセサイザー奏者の草分け的存在であり、ロックにクラシックやジャズの要素を取り入れ、シンセサイザーを楽曲の中心に導入した先駆者とされる[2][3]。
概要
1970年代前半にイギリスのプログレッシブ・ロック・バンド「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」(Emerson, Lake & Palmer, ELP) のメンバーとして活動し、本国イギリスやアメリカを始め、世界的な人気と知名度を獲得した[4]。また、当時まだ開発されて間も無いシンセサイザー(モーグ・シンセサイザー)を世界に知らしめた功績でも知られる[5][6]。特に「ロックという分野においてシンセサイザーをどう使うかという方法論を提示した最初の人物」とロバート・モーグから評されている[7]。
略歴
ヨークシャー州のトッドモーデン生まれ[8]。本名は Keith Noel Emerson。終戦後にウェスト・サセックス州のワージングに転居。8歳半よりピアノのレッスンを始める。15歳の時、地元で開催されたワージング・ミュージック・フェスティバルに出場し、バッハの部で2位を獲得。本人によると、これが人生初のライブ・ステージである。
その後、ワージングで編成されたスウィング・オーケストラでジャズ・ピアノを弾き始め、同オーケストラのベーシスト/ドラマーとともにジャズ・トリオを結成し、ジャズ・クラブなどでの演奏を手がけ、1963年末にはキース・エマーソン・トリオとしてピアノトリオ演奏で初レコーディング。この時の音源が2015年に限定発売されている。学校を卒業後[注釈 1]、地元の銀行電算機課に就職したが、バンド演奏を優先したことで解雇された。
父親に頭金を手伝ってもらいハモンドオルガンを購入すると1965年ジョン・ブラウンズ・ボディーズというバンドを結成し、ブライトンのクラブ、ポップ・インに出演し始める。共演バンドであったTボーンズのドラマーのブライアン・ウォーキーに誘われ、ロンドンに出てゲイリー・ファー&T・ボーンズに加入。マーキークラプなどで演奏するようになる。その後、このバンドにリー・ジャクソンが加入し知り合うことになった。1966年にはスプーキー・トゥース (Spooky Tooth) の前身であるヴィップス (The V.I.P.'s) というバンドに引き抜かれドイツのスタークラブ等で演奏活動をしていた。しかし、ヴィップスの最後のコンサート後出演してたクラブオーナーに金を持ち逃げされてしまった。英国に帰国する直前、最後のライブでP.P.アーノルドの売出しをしていたミッキー・ザ・オーと知り合う。
帰国後の1966年暮れ、解散したTボーンズのゲイリー・ファーのアパートを引き継ぐと、フランスで知り合ったミッキー・ザ・オーが住み着き始める。ミッキーからの紹介でパット・アーノルドに会いにいったエマーソンは居間のフェンダー・ローズで演奏し、パット・アーノルドのバック・バンド結成を持ちかけられた。リー・ジャクソンらとバンドを結成すると移動中の車中においてアーノルドからナイスと名づけられ、1967年より単独バンドとして活動を開始する。
1970年、元キング・クリムゾンのグレッグ・レイク、アトミック・ルースターのカール・パーマーとエマーソン・レイク・アンド・パーマー (ELP) を結成。著名なイギリスのバンドで名を知られたロックミュージシャンが集結したELPはスーパーグループと呼ばれ[8]、同年にバンド名を冠したデビューアルバム『エマーソン・レイク・アンド・パーマー』を発表。全英1位を獲得した1971年の『タルカス』、彼らの代表作とされる1973年の『恐怖の頭脳改革』など、キャリアの過程で9枚のアルバムを発表した[1]。ELPが消滅した後の1980年代には、エマーソン・レイク・アンド・パウエル、3(スリー)などのバンド活動をおこなった。1992年および2010年にはエマーソン・レイク・アンド・パーマーを復活させている。
ELP以外の活動としては、ソロアルバムを発表の他、映画音楽制作も手掛け、ダリオ・アルジェント監督の1980年のホラー映画『インフェルノ』、シルヴェスター・スタローン主演の1981年のスリラー映画『ナイトホークス』[6]、1983年のSFアニメーション映画『幻魔大戦』、2004年の特撮怪獣映画『ゴジラ FINAL WARS』などのサウンドトラックを担当した[9]。また、自身が作曲に携わった『タルカス』が吉松隆によってオーケストラ化され、NHK大河ドラマ『平清盛』の劇中音楽に採用された[10][11]。2011年3月11日の東日本大震災では、イギリスでニュースを見た同日に『The Land Of Rising Sun/日出ずる国へ』をサセックス州のスタジオで録音し、3月20日にYouTubeで公開[12]、被災者に曲を捧げるとともに被災地への寄付を呼び掛けた[13]。エマーソンは吉松版『タルカス』の録音でコンサートマスターを務めた荒井英治に同曲の弦楽四重奏曲への編曲を提案、荒井が第一ヴァイオリンを担当するモルゴーア・クァルテットの演奏によりCD化されている[14]。
2016年3月11日未明、カリフォルニア州サンタモニカの自宅で倒れているのを同居の日本人女性が発見し通報、死亡が確認された。71歳没[4][3][15]。サンタモニカ警察は頭部を銃で自ら撃ったことによる自殺と判断していたが、ロサンゼルス郡検視局によって自殺と断定された[6][16][17]。訃報を受け、ELPメンバーを始め、多くのミュージシャン、アーティストから追悼コメントが寄せられた[18][19]。
音楽性
エマーソンの音楽性の根本にはジャズ、クラシック、ロックの3本の柱がある[1][6][20]。その時々においてウェイトは変わるものの、常にこの3つの柱が見え隠れする。使用する楽器においても彼独特の使用法、楽曲における意図などが存在している。楽器が持つ個性に対して愛着やリスペクトを公言する一方、独創性を追求するあまり時として奇行にも見える演奏法を試すことがある(後述)。
シンセサイザーを導入してからは、キーボードやフットペダルも含む複数のデバイスを四方に並べ、それらを全身を駆使して演奏するスタイルを確立。その機材は段状に積み上げられ、操作するデバイスは合計10台を超えることも少なくない。このスタイルは1980年代以降の彼のトレードマークになり、多くのライヴやプロモーションビデオでも見ることが出来る。
ハモンドオルガン
ハモンドオルガンの使用と言えばエマーソンが出始めた当時、ジャズオルガンとしてが主流だった。ハモンドの新しい可能性を指向したキースはよりヘビーな音を出すための方法として、オルガンを歪ませる、2nd又は3rdパーカッションの音を敢えて強調するという手段をとった。同じような可能性を指向していた人物としてディープ・パープルのジョン・ロードがいた。
彼が痛めつける目的で使っていたのはハモンドL-100でザ・ナイス時代から使用している。使用不能になったオルガンも数多かったとされるが、エマーソンは2005年のインタビューで実際に壊したハモンドは3台だと語っている[20]。電源を切ったり入れたりを繰り返してピッチを不安定にさせたり[注釈 2]、ハモンドの鍵盤にナイフを突き立てて音を鳴りっぱなしの状態にしたり、オルガンを傾けたり持ち上げ、オルガンの上に乗って揺さぶりながら前に進んだり、場合によっては放り投げたり蹴り飛ばしていたが、あまりにも毎回壊すためスタッフが金属でハモンドを覆って強化させたところ、重さ350ポンドぐらいだったものが450ポンドぐらいになり、自力では持ち上がらなくなったという[20]。また、スプリング・リバーブの特性である過度の衝撃での爆発音を出し(スプリング・リバーブに手を突っ込み、爆音を鳴らすこともあった)、L-100のスピーカーとオルガンのすぐ脇にあるキーボードのモニターとして使用されているPAスピーカーを近づけてハウリングを起こさせたり、オルガンの下敷きになってキーボードを弾いたりなど[20]、過激なステージングを行ったことから「オルガン(キーボード)のジミ・ヘンドリックス」と形容されたりもした[21]。ナイス時代にロイヤル・アルバート・ホールで行われたビアフラ救済チャリティーコンサートにおいては、オルガンを蹴り飛ばし、裏返しにした上でそこにアメリカ国旗をのせ、国旗ごと火を放つというパフォーマンスを行い、以後同ホールはロックミュージシャンには一切使用許可を出さなくなった[注釈 3]。1972年のELPの後楽園球場公演では、日本刀を振り回し鍵盤に突き刺すパフォーマンスを行った。
これらについて聞かれた際に本人は「ピート・タウンゼントがやっていることと別に変わらない」「扱い方を知るまでは嫌がらずに修理してくれたが、知ってからは断られ続けた」と懐述している。
彼のこの方法は、その昔ソウル・エージェンツというマーキークラブ常連バンドのドン・シンというオルガニストの演奏を見て刺激を受けたと自伝で書かれている[注釈 4]。シンがオルガンを分解しながら演奏しているのを見て、意図的に痛めつける方法を思いついたと語っている。目的は、バンドでそれまで地味な存在だったキーボードを目立たせる為でショーアップとして必要だと述べている。そして音とビジュアルの相乗効果に関して試行錯誤の末、あのようないくつかのパフォーマンスを考えだした。
ナイス後期に導入されたC-3は、その後レコーディングのメインキーボードとなった。同時にL-100はステージ用キーボードとしての役割を受け持つことになった。C-3はMIDI改造され今でも現役で使用されている。 また、自身の両側にC-3とL-100二台のハモンドを置くスタイルは、C-3の下段鍵盤にはパーカッシヴ機能が無い為で、両方のオルガンのパーカッシヴ機能を利用する為だとプレイヤー誌にその理由を答えていた。
シンセサイザー
また一方、シンセサイザーを初めてロックに持ち込んだ一人として音楽史に功績を残している。音色面において最初に分かりやすい形で示されたのはエマーソン・レイク・アンド・パーマーのデビューアルバムの中のタンク及びラッキー・マンのエンディング部分でのソロである。ライブにおいてはリアルタイムで音色を作るという構図が、「テクノロジーと人間との格闘」と言う図式を演出(ハモンドアクションもその意図)した。現在の音楽シーンにおいては格闘の部分は影を潜め、つまみをいじって音色を変える行為が、一つの表現形態として昇華されている。
「ピアノなどのアコースティック楽器は、音の強弱が表現できても、音質が変えられない。一方、ハモンドオルガンなどは、ある程度音質が変えられるが、鍵盤を弾くタッチで音の強弱が変えられない」と、常にフラストレーションが溜まっていたともいう。一説には、モーグ・シンセサイザー開発の際の、モニター兼スタッフの中にも入っていたという[注釈 5]。しかし、ELP名義の"Works"リリース以降はもっぱらヤマハの"GX-1"を愛用するようになる[20]。それ以降は様々なメーカーのシンセサイザーを使用した。彼のオリジナリティ溢れる音色も存在するのだが、1990年代になって彼の中でハモンドやピアノが再び重要な位置を占めてくる。その理由として彼は「シンセサイザーは誰が使っても同じ音が出るが、ピアノやオルガンはそうではない」と語った。
一方、サンプラーに関しては否定的な立場を取っており、フェアライトCMIの全盛期にもレコーディングやライヴで使用することはなかった。エマーソン・レイク&パウエルのレコーディング準備中にフェアライトCMIを試してみたが、「不純だ」との理由で使用しなかった。メロトロンに関しても「ただテープレコーダーを鳴らしているみたいだ」と否定的だった[20]。ELPのライブでは一時期、メロトロンは使用されていたが、弾いていたのはグレッグ・レイクだった。
ピアノ
クラシック奏法を極めると同時に、オールドジャズの影響も大きく、その影響は特にピアノソロにおいて多く出てくる。即興でいろいろなジャズアーティストのフレーズを弾き、そこからバンド演奏に引き継がれる、といったことも定番で行われていた。特に左手が強く、左手で低音のアルペジオを延々と繰り返し、右手でソロを弾く、といったことも行っていた。エマーソンにとって最初の鍵盤楽器はピアノだったことから、「一番ピアノに思い入れがある」とも語っていた[20]。
主な活動
時折ジャズオーケストラなどのコンサートに飛び入りし、スタンダート曲やELPの曲をジャズ風アレンジしたものなどを演奏する。
- 2002年 - 2003年
- 元ナイスのメンバー、ベースとボーカルのリー・ジャクソン (Lee Jackson)とドラムスのブライアン・デイヴィソン (Brian Davison 1942-2008)とのナイス再結成ツアーをイギリスやスコットランドで敢行。その他のサポートメンバーはギターとヴォーカルのデイヴ・キルミンスター (Dave Kilminster)、ベースのフィル・ウィリアムス (Phil Williams)、ドラムスのピート・ライリー (Pete Riley)
- 2004年
- キース・エマーソン・バンドとしてギターとヴォーカルのデイヴ・キルミンスター (Dave Kilminster)、ベースのフィル・ウィリアムス (Phil Williams)、ドラムスのピート・ライリー (Pete Riley)のメンバーで全米ツアー。
- 2005年10月
- キース・エマーソン・バンドとして来日。 2004年のツアーと同メンバー。
- 2006年6月16日〜7月20日
- メンバーチェンジをしたキース・エマーソン・バンドとしてアメリカとヨーロッパをツアー。ギタリストのデイヴ・キルミンスターが抜け、マーク・ボニーヤ (Marc Bonilla)がギターとヴォーカルを担当。
- 2007年初期
- 2007年12月10日
- ロンドンのO2で開催されたレッド・ツェッペリン再結成コンサート / アーメット・アーティガン・トリビュートに参加し、イエスのクリス・スクワイア、アラン・ホワイト、元フリー・バッド・カンパニーのサイモン・カークとのスーパーグループでアーロン・コープランド作曲の「市民のためのファンファーレ」を斬新なアレンジで演奏し、イベントのオープニングを飾った。近年には時折ジャズ・オーケストラとスタンダートジャズやELPの曲をジャズ風にアレンジしたナンバーを演奏する。
- 2008年4月13日
- ロン=ティボー国際コンクールなどで優勝経歴のあるアメリカのピアニスト、ジェフリー・ビーゲル (Jeffrey Biegel) が米イリノイ州のシャンペーン゠アーバナ・交響楽団 (Champaign Urbana Symphony Orchestra)をバックに『ELP四部作』(Works, Vol.1)に収録されているキース・エマーソン作曲のピアノ協奏曲第1番 (Piano Concerto No. 1) を演奏。コンサートの前にキース自身によるの曲の紹介がある。
- 2008年8月20日
- キース・エマーソン・バンド・フィーチャリング・マーク・ボニーヤ(Keith Emerson Band Featuring Marc Bonilla) としてJVCからソロアルバムのリリースした。
- 2008年8月22日 - 9月7日
- メンバーチェンジをしたキース・エマーソン・バンドとしてバルト三国、ロシア、ブルガリアをツアー。マーク・ボニーヤ (Marc Bonilla)に加え、新メンバーはベースのトラヴィス・デイヴィス (Travis Davis) とドラムスのトニー・ピア (Tony Pia)(ブライアン・セッツァー・オーケストラ)マークとキースはツアー後新譜プロモーションのためにドイツ、イギリス、イタリアを廻る。
- 2008年10月15、16、18、20日
- ウドー音楽事務所招聘で東京と大阪で来日公演を行った。また、この際にフジテレビ系列の朝のワイドショー番組、『情報プレゼンター とくダネ!』のコーナー「小倉智昭の週刊!エンタ☆マイスター」のゲストとして10月17日に生出演し、展覧会の絵―プロムナード (Pictures at an Exhibition-Promenade) から始まるメドレーをギターとヴォーカルのマーク・ボニーヤと生演奏した。その他の来日メンバーはベースのトラヴィス・デイヴィス (Travis Davis) とドラムスのトニー・ピア (Tony Pia)(ブライアン・セッツァー・オーケストラ)
- 2009年12月16日
- ノキア・シアターで行われた、ロサンゼルスのラジオ番組95.5KLOSマーク・アンド・ブライアン主催の恒例クリスマス・コンサートにゲスト出演。Karn Evil 9「悪の教典#9」とレッド・ツェッペリンのBlack Dog 「ブラック・ドッグ」の二曲をマーク・ボニーヤ、トラヴィス・デイヴィス、グレッグ・ビソネット、エド・ロス、ロブ・ハルフォード(ジューダス・プリースト)、スラッシュ(ヴェルヴェット・リヴォルヴァー、ガンズ・アンド・ローゼズ)、ジェイソン・ボーナム(レッド・ツェッペリン ジョン・ボーナムの息子)、スティーヴ・ルカサー(TOTO)、リー・スクラー(TOTO)などのメンバーと共演。
- 2010年1月8日
- ハリウッドでのチャリティーイベントで長男(1970年生まれ)のアーロン・エマーソンとの初共演。これに触発されたアーロンは初めてオリジナル曲のシングルをリリースする。
- 2010年4月1日〜25日
- 2010年7月25日
- エマーソン・レイク・アンド・パーマーの一夜限りの再結成コンサートがロンドンでのイベント「ハイボルテージフェスティバル (High Voltage Festival)」で実現。今後のELPとしての活動の予定はないが、その後にエマーソン&レイクとしてのヨーロッパでのツアー、および来日公演の予定が発表されている。
- 2011年3月20日
プライベート
子供はAaron (生1970)と Damon (生1976)。孫は2人。元妻Elinorとは1993年に公式離婚。元妻は「キース・エマーソン夫人」の名義で日本のロック・バンド「キャロル」のドキュメンタリー映画「キャロル」に出演している。
晩年は日本人のガールフレンドと共にカリフォルニア州ロサンゼルス郡サンタモニカに居住していた。
ソロアルバム
- ホンキー (Honky)(1981年)
- ザ・クリスマス・アルバム (The Christmas Album)(1988年)
- チェンジング・ステイツ (Changing State)(1995年)
- エマーソン・プレイズ・エマーソン (Emerson Plays Emerson)(2002年)
- ハマー・イット・アウト (Hammer It Out: The Anthology)(2005年)
- キース・エマーソン・バンド・フィーチャリング・マーク・ボニーラ (Keith Emerson Band featuring Marc Bonilla)(2008年)
サウンドトラック
- 『インフェルノ』(1980年、ダリオ・アルジェント監督)
- 『ナイトホークス』(1981年)
- 「アイム・ア・マン」で当初、スティーヴ・ウィンウッドに歌わせるはずが、スティーヴのスケジュールの都合がつかず、締め切りが迫り自暴自棄になって泥酔状態でヴォーカルを担当する羽目になった(MUSIC LIFEのインタビューより)が、現在入手可能なほとんどのビデオ商品では別の曲に差し替えられている。
- 『幻魔大戦』(1983年)
- 『ベスト・リヴェンジ』"Best Revenge"(1983年)
- 『マーダロック』"Murderrock"(1985年、ルチオ・フルチ監督)
- 『ザ・チャーチ(デモンズ3)』"La Chiesa"(1991年)
- 『アイアンマン』(1994年のテレビシリーズ)
- 『ゴジラ FINAL WARS』(2004年)
- CDのライナーノーツには、本作の音楽を担当したことを「名誉なこと」と書いている。ただし時間的な制約が厳しかったため出来栄えには不満があるという。
関連人物
- グレッグ・レイク - エマーソン・レイク・アンド・パーマーのメンバー。
- カール・パーマー - エマーソン・レイク・アンド・パーマーのメンバー。
- コージー・パウエル - エマーソン・レイク・アンド・パウエルのメンバー。
- ロバート・ベリー - スリーのメンバー。
- ロバート・モーグ - モーグ・シンセサイザーの開発者。
- 小室哲哉 - キース・エマーソンに大きな影響を受け、音楽雑誌で対談したことがある。ナイス時代からのファンを自称している。
- エマーソン北村(シアターブルック) - キース・エマーソンから影響を受けている。
- サエキけんぞう - Facebook友達。
- 吉松隆 - 作曲家。「タルカス」をオーケストラ版に編曲(2010年3月14日初演)。吉松の還暦を祝う演奏会(2013年3月20日)で再演されたときはキース・エマーソン本人が聴きに訪れたばかりでなく、ピアノ演奏で吉松を祝した(どちらも指揮は吉松と親交の深い藤岡幸夫、管弦楽演奏は東京フィルハーモニー交響楽団、コンサートマスターはプログレッシブ・ロックマニアの荒井英治)。
脚注
注釈
- ^ GCE(大学入学に必要な資格)を履修するための予備校。化学と数学と英語を専攻していたが、資格は取得出来なかった。
- ^ 電源を切っても構造的にトーンホイールの回転はすぐには止まらないので、音程が不安定になりながら回転が遅くなり、最後には回転が止まると共に音も鳴らなくなる。逆に電源を入れると、徐々にピッチが上がって、一定のピッチで安定する。
- ^ エマーソンは後に、このパフォーマンスについて「マネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムにそそのかされた」と明かしているが、オールダムは「あのバカ(エマーソン)が勝手にやったこと」と否定している[22]。
- ^ ハモンドオルガンを揺らし、内蔵のリバーブユニットに衝撃を加えることによって爆発音を得たりや電源を落としてベンディングする技も、60年代中期にドン・シンのソウルエージェンツがレコードに残している。
- ^ エマーソンは「ボブ・モーグ博士とポリモーグを一緒に開発した」と主張している[20]。
出典
- ^ a b c d “Keith Emerson of Emerson, Lake & Palmer Dead at 71 of Suicide”. billboard (2016年3月11日). 2016年3月13日閲覧。
- ^ “ELPのキース・エマーソン氏が死去、シンセ奏者の草分け”. AFP通信 (2016年3月12日). 2016年3月15日閲覧。
- ^ a b “キース・エマーソンさん死去 銃で自殺か 英バンドELP創設メンバー 映画「幻魔大戦」音楽も担当”. 産経ニュース (2016年3月12日). 2016年3月13日閲覧。
- ^ a b “人気バンドELPのキース・エマーソンさん死去”. NHK (2016年3月12日). 2016年3月13日閲覧。
- ^ “Remembering Keith Emerson (1944-2016)”. Moog Music (2016年3月11日). 2016年3月13日閲覧。
- ^ a b c d “Keith Emerson of Emerson, Lake & Palmer dead at 71”. CNN (2016年3月12日). 2016年3月13日閲覧。
- ^ リットー・ミュージック刊「キース・エマーソンズ・インタビュー」への寄稿文より。
- ^ a b “Rock keyboardist Keith Emerson died from self-inflicted gunshot”. Reuters (2016年3月12日). 2016年3月17日閲覧。
- ^ “『ゴジラ』最新作サントラ、音楽監督はELPのK・エマーソン”. CDJournal (2004年11月16日). 2016年3月18日閲覧。
- ^ “キース・エマーソン来日インタビュー[吉松隆還暦コンサート・リハーサル]”. ジャパン・アーツ (2013年3月19日). 2016年3月18日閲覧。
- ^ “NHK大河ドラマ『平清盛』に使用されているプログレッシヴ・ロック至高の名曲「タルカス」に話題沸騰”. BARKS (2012年1月24日). 2016年3月18日閲覧。
- ^ Keith Emerson "The Land Of Rising Sun"/キース・エマーソン「日出ずる国へ」 - YouTube 2016年3月18日閲覧。
- ^ “キース・エマーソン、日本へ向けた書き下ろしの新曲「THE LAND OF RISING SUN/日出ずる国へ」を公開”. BARKS (2011年3月23日). 2016年3月18日閲覧。
- ^ “4つの弦で奏でるロック魂”. ぶらあぼ (2014年6月18日). 2016年3月19日閲覧。
- ^ “キース・エマーソン、自殺の理由について恋人が語る”. NME-JAPAN (2016年3月14日). 2016年3月14日閲覧。
- ^ “Keith Emerson's death ruled suicide”. BBC (2016年3月15日). 2016年3月16日閲覧。
- ^ “Keith Emerson's Death Ruled a Suicide”. billboard (2016年3月15日). 2016年3月16日閲覧。
- ^ “グレッグ・レイク、キース・エマーソンを追悼”. BARKS (2016年3月14日). 2016年3月14日閲覧。
- ^ “【キース・エマーソン追悼コメント】グレッグ・レイク、小室哲哉、冨田勲、ヴァンゲリス、ジョーダン・ルーデス、リッチー・ブラックモア他”. amass (2016年3月12日). 2016年3月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “キース・エマーソン、'70年代にプログレッシヴ・ロックを創り上げたキーボードの魔術師”. BARKS (2005年11月1日). 2016年3月14日閲覧。
- ^ “Keith Emerson, the father of progressive rock, was the Jimi Hendrix of keyboards”. The Telegraph (2016年3月12日). 2016年3月18日閲覧。
- ^ 『涙が流れるままに―ローリング・ストーンズと60年代の死』A.E. ホッチナー著、川本三郎・実川元子訳 1991年 角川書店