キラー・トーア・カマタ
キラー・トーア・カマタ | |
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プロフィール | |
リングネーム |
キラー・トーア・カマタ トーア・カマタ ドクター・モト キング・カマタ |
本名 | マクロナルド・カマカ |
ニックネーム | 流血大王 |
身長 | 183cm |
体重 | 140kg(全盛時) |
誕生日 | 1937年3月9日 |
死亡日 | 2007年7月23日(70歳没) |
出身地 |
アメリカ合衆国 ハワイ州ホノルル |
デビュー | 1958年 |
引退 | 1987年 |
キラー・トーア・カマタ("Killer" Tor Kamata、本名:McRonald Kamaka、1937年3月9日 - 2007年7月23日[1])は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ハワイ州ホノルル出身。カナカ人の血を引くとされる[2]。
選手時代は悪役レスラーとして活躍し、流血大王の異名を持つ。実弟のコーア・ティキもプロレスラーで、1972年7月に新日本プロレスに来日したことがある[3]。
来歴
同じハワイ出身のプロレスラーであるキング・イヤウケアに誘われて1958年にプロレス入り[4]。スポーツ歴としてはレスリング、アメリカンフットボール、ハワイ相撲の経験があるという[4]。なお、空手については「ナカソネという日本人にほんの少し教えてもらっただけ」と語っている[5]。
デビュー当時はハワイの日系人レスラー、ミスター・モトに倣って日系人ギミックを用い、ドクター・モト(Dr. Moto)のリングネームで活躍[2]。ミツ・アラカワとタッグチームを結成し、1967年10月13日にインディアナポリスにてディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーからWWA世界タッグ王座を[6]、同年12月2日にはシカゴでウイルバー・スナイダー&パット・オコーナーからAWA世界タッグ王座を奪取している[7]。翌1968年12月28日、最終的に両王座をブルーザー&クラッシャーに明け渡すまで、AWAとWWAの世界タッグ王座の2冠王として1年間にわたって長期政権を築いた[6][7]。
アラカワとのタッグ解消後、1969年よりトーア・カマタ(Tor Kamata)に改名(「カマタ」はより日本人らしく見せるためのネーミング・ギミック。「トーア」は「東亜」より取ったといわれているが、スペリングからすると「巨大な岩山」という意味合いである)。以降、日系ヒールとして派手な着物をまとい、ニューヨークのWWWFやカナダのカルガリー地区(スチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリング)などの主要テリトリーを転戦した[2]。
カルガリーでは1972年にクルト・フォン・ヘスやジェフ・ポーツを破って北米ヘビー級王座を再三獲得[8]。王座戴冠中の同年7月8日にはエドモントンにて、当時ドリー・ファンク・ジュニアが保持していたNWA世界ヘビー級王座に挑戦した[9]。以降もフラッグシップ・タイトルの北米王座を巡り、ジョージ・ゴーディエンコ、カルロス・ベラフォンテ、アーチー・ゴルディー、ギル・ヘイズらと対戦[10]。同タイプのアブドーラ・ザ・ブッチャーとも流血の抗争を繰り広げた[11][12]。1975年5月には同地区のブッカーだったジョー・タイゴーの招聘で国際プロレスに初来日。以後、日本マットにおいても実績を残した(後述)。
1976年下期からはWWWFに進出したが[13]、反則・暴走が目に余るため、トップコンテンダーにもかかわらず当時の王者ブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦させてもらえなかったという逸話を残している[14](マディソン・スクエア・ガーデンでの挑戦機会はなかったものの、1977年2月27日にメリーランド州のキャピタル・センターにてサンマルチノへの挑戦が実現した[15][16])。WWWFではフレッド・ブラッシーをマネージャーに迎え、ニコライ・ボルコフやスタン・スタージャックと組んでチーフ・ジェイ・ストロンボー&ビリー・ホワイト・ウルフが保持していたWWWF世界タッグ王座にも度々挑戦した[15][16]。
地元のハワイでは、1977年12月にサム・スティムボートからNWA北米ヘビー級王座を[17]、1978年8月にドン・ムラコからNWAハワイ・ヘビー級王座を奪取[18]。1980年からは再びニューヨークに登場し、新王者ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦[16][19]。同年8月9日にシェイ・スタジアムにて開催されたビッグ・イベント "Showdown at Shea" にも出場しており、パット・パターソンを相手に反則負けを喫している[20]。
1981年の下期はジム・バーネットの主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに参戦し、レイ・スティーブンスとのタッグなどで活動[16]。同年11月1日にはアトランタのオムニ・コロシアムにてスーパー・デストロイヤーと組み、スタン・ハンセン&トミー・リッチと対戦[21]、翌11月2日にはオーガスタにてハンセンとのシングルマッチも行われた[22]。1982年にはマーク・ルーインのブッキングにより、キング・カマタ(King Kamata)のリングネームでニュージーランドに遠征。キラー・カール・クラップやオックス・ベーカーをパートナーにタッグ王座を獲得している[23]。
1980年代前半に心臓に不安要因が見つかり減量、最後の来日を果たした1987年に現役を引退した。
2007年7月23日、カナダ・サスカチュワン州サスカトゥーンにて心臓発作のため死去[1]。70歳没。
日本での活躍
日本には1975年5月に国際プロレスに初来日し、5月26日に後楽園ホール、6月6日に宇都宮市体育館にてラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座に連続挑戦(宇都宮では金網チェーン・デスマッチで挑戦)[24]。以降、1977年まで3回に渡って国際プロレスに参戦し、木村のIWA世界タイトルには計5回挑戦、金網デスマッチでも雌雄を決している[24]。IWA世界タッグ王座にも挑戦しており、1976年3月13日にはカルロス・コロンと組んで王者チームのグレート草津&マイティ井上に、1977年8月4日にはジプシー・ジョーとの狂乱コンビで草津&アニマル浜口にそれぞれ挑んだ[25]。
1978年5月、全日本プロレスに初登場し、6月1日に秋田市立体育館でジャイアント馬場のPWFヘビー級王座に挑戦。38回もの連続防衛記録を重ねていた馬場を破り、第2代のPWF王者となる(カマタの反則攻撃に怒った馬場の暴走による反則勝ち)[26]。しかし6月12日の愛知県一宮市での初防衛戦でビル・ロビンソンに敗れて王座転落[26]。同年10月9日に久留米にてロビンソンにリターン・マッチを挑むが失敗[27]、その後も王者に返り咲いた馬場に2度に渡って挑戦したが王座奪回は果たせなかった。
以降も全日本の常連外国人選手となり、世界最強タッグ決定リーグ戦には1979年に大木金太郎、1978年後半戦と1980年には因縁のアブドーラ・ザ・ブッチャーと組んで参加しており、1980年にはジャイアント馬場&ジャンボ鶴田、ザ・ファンクスと並んで最後まで優勝戦線に残っている[28]。1979年のチャンピオン・カーニバルでは、3月17日の福岡市九電記念体育館での公式戦でブッチャーと対戦して引き分けているが[29]、カルガリー時代のような抗争アングルには発展せず、全日本ではブッチャーのパートナーとして女房役に回った。
1980年2月の来日ではディック・マードックとの対立アングルが組まれ、3月2日に後楽園ホールで行われたシングルマッチではマードックを相手に大流血戦を演じた[30]。馬場&鶴田のインターナショナル・タッグ王座には、1980年11月2日にブッチャー、1981年7月17日にグレート・マーシャルボーグ(カマタの弟子という触れ込みで来日したが、昭和プロレス史上でも一・二を争う「食わせ物選手」として名を残している)、1982年7月16日にタイガー・ジェット・シンと組んで挑戦。1982年は1月3日に後楽園ホール、7月9日に熊本にて、ジャンボ鶴田のUNヘビー級王座にも2回挑戦した[31]。
日本には国際・全日本を合わせ、1975年5月から1987年5月まで12年間で計16回来日している。1980年のWWF参戦時にはボブ・バックランド、ダスティ・ローデス、ペドロ・モラレス、パット・パターソン、レネ・グレイなど当時の新日本プロレス系の外国人選手と対戦し[19]、8月9日の "Showdown at Shea" ではアントニオ猪木や藤波辰巳と邂逅したが[20]、団体間の紳士協定のため新日本に来ることはなかった。
エピソード
- 国際プロレス参戦時、杉浦滋男(東京12チャンネルアナウンサー)の胸ぐらを掴み、実況席からゴボウ抜きにし、背広をビリビリに破いたことがある[32]。
- プロレスファンからも存在が忘れられていた1989年、当時の人気バラエティ番組『とんねるずのみなさんのおかげです』のコーナードラマ『仮面ノリダー』において、カマタをモデルとした「トーア・カマタ男」が登場。ノリダーの敵役の怪人として石橋貴明が演じた。これによりプロレスファン以外の知名度も高まり、放送局だったフジテレビにより本人招聘も企画されたが、相談を受けた全日本プロレス側の「当人の体調面(心臓疾患の容態)の心配や痩せ衰えた外見によりファンのイメージを損ねる恐れがある」との見解から実現には至らなかったという。
- 流智美のインタビューにおいて、自身のキャリアにおけるラフェスト・マッチ(もっとも荒っぽかった試合)としてブッチャー戦を挙げている[5]。
- 強面(こわもて)の外見とは違って、普段は物静かでビーズ細工やレース編みが趣味だったという[32][33]。
- 好物は天ぷらとたくあん[33]。
- 作家の町田康は、カマタがジャイアント馬場からPWFヘビー級王座を奪取した1978年当時「腐れおめこ」というバンドを組んでおり、『馬場はカマタに負けよった』なる曲を歌っていた[34]。
得意技
- 当時の中継では「指突き」と紹介された。突きを中心にした空手を連想させる打撃技が得意である。他に「三段突き」なども。
- 当時の中継では「フライング・ソーセージ」とも紹介された。
- その場で垂直にジャンプして空中で相手の喉元を蹴り上げる。
- 当時カマタのようなアンコ型のレスラーのドロップキックは非常に珍しかった。また、打点が高くフォームが美しいという点も特筆される。
獲得タイトル
- AWA世界タッグ王座:1回(w / ミツ・アラカワ)[7]
- NWA南部タッグ王座(ミッドアメリカ版):1回(w / トージョー・ヤマモト)[36]
- NWAオーストラレージアン・タッグ王座:3回(w / バロン・フォン・クラップ、オックス・ベーカー、ジェネラル・ヒロ)[23]
- NWA世界タッグ王座(ロサンゼルス版):1回(w / カマラマラ)[37]
- WWCプエルトリコ・ヘビー級王座:1回[38]
- スタンピード北米ヘビー級王座:3回[8]
脚注
- ^ a b “Tor Kamata dead at 70”. SLAM! Sports: July 26, 2007. 2010年4月8日閲覧。
- ^ a b c 『THE WRESTLER BEST 1000』P65(1996年、日本スポーツ出版社)
- ^ 『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P82(2002年、日本スポーツ出版社)
- ^ a b 『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P29(2002年、日本スポーツ出版社)
- ^ a b 『デラックス・プロレス 昭和58年3月号』P56(1983年、ベースボール・マガジン社)
- ^ a b c “WWA World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月8日閲覧。
- ^ a b c “AWA World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月8日閲覧。
- ^ a b “North American Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年12月2日閲覧。
- ^ “The Records of NWA World Heavyweight Championship Matches 1972”. Wrestling-Titles.com. 2013年12月18日閲覧。
- ^ “The Stampede matches fought by Tor Kamata in 1973”. Wrestlingdata.com. 2013年9月28日閲覧。
- ^ “Abdullah the Butcher vs. Tor Kamata”. Wrestlingdata.com. 2013年9月28日閲覧。
- ^ “Tor Kamata: Mean but nice”. SLAM! Sports: July 7, 2004. 2010年4月8日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1976”. The History of WWE. 2008年7月12日閲覧。
- ^ 『別冊ゴング 昭和52年6月号』P132(1977年、日本スポーツ出版社)
- ^ a b “WWE Yearly Results 1977”. The History of WWE. 2011年12月2日閲覧。
- ^ a b c d “Wrestlers Database: Tor Kamata”. Cagematch.net. 2011年12月2日閲覧。
- ^ a b “NWA North American Heavyweight Title: Hawaii version”. Wrestling-Titles.com. 2013年7月11日閲覧。
- ^ a b “NWA Hawaii Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年12月2日閲覧。
- ^ a b “WWE Yearly Results 1980”. The History of WWE. 2008年7月12日閲覧。
- ^ a b “WWF Showdown at Shea 1980”. Cagematch.net. 2015年4月14日閲覧。
- ^ “GCW at Atlanta 1981/11/01”. Cagematch.net. 2014年9月9日閲覧。
- ^ “GCW at Augusta 1981/11/02”. Wrestlingdata.com. 2014年9月9日閲覧。
- ^ a b “NWA Australasian Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月8日閲覧。
- ^ a b 『忘れじの国際プロレス』P101(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802)
- ^ “IWE 1977 Big Challenge Series”. Puroresu.com. 2015年4月14日閲覧。
- ^ a b c “PWF Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年12月2日閲覧。
- ^ “AJPW 1978 Giant Series”. Puroresu.com. 2015年4月14日閲覧。
- ^ “AJPW 1980 Real World Tag Team League”. Puroresu.com. 2015年4月14日閲覧。
- ^ “AJPW 7th Champion Carnival - Tag 13”. Cagematch.net. 2015年4月14日閲覧。
- ^ “AJPW Excite Series 1980 - Tag 14”. Cagematch.net. 2015年4月14日閲覧。
- ^ “The AJPW matches fought by Tor Kamata in 1982”. Wrestlingdata.com. 2015年4月14日閲覧。
- ^ a b 『不滅の国際プロレス 1974-1981』(2007年、ポニーキャニオン、JAN 4988013253940)
- ^ a b 『Gスピリッツ Vol.1』P66(2007年、辰巳出版、ISBN 4777804313)
- ^ 『町田康全歌詩集 1977-1997』(2001年、マガジンハウス、ISBN 4838711700)
- ^ “NWA North American Tag Team Title: Central States version”. Wrestling-Titles.com. 2014年11月8日閲覧。
- ^ “NWA Southern Tag Team Title: Mid-America version”. Wrestling-Titles.com. 2011年12月2日閲覧。
- ^ “NWA World Tag Team Title: Los Angeles version”. Wrestling-Titles.com. 2011年12月2日閲覧。
- ^ “WWC Puerto Rico Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2011年12月2日閲覧。