キューティー鈴木

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。211.1.219.101 (会話) による 2016年3月18日 (金) 11:05個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

キューティー鈴木
プロフィール
リングネーム キューティー鈴木
本名 原嶋 由美
身長 155
体重 55
誕生日 (1969-10-22) 1969年10月22日(54歳)
出身地 埼玉県
スポーツ歴 柔道
ハンドボール
トレーナー 山本小鉄
デビュー 1986年9月19日
プラム麻里子
引退 1998年12月27日
テンプレートを表示

キューティー鈴木(キューティーすずき、本名:原嶋 由美(はらしま ゆみ、旧姓:鈴木)、1969年10月22日 - )は、日本タレント女優。元女子プロレスラー埼玉県出身。川口市立川口女子高等学校

人物

愛らしい容姿からアイドルプロレスラーとして人気を集め、試合だけに留まらず歌、ドラマ、映画、CM、グラビア、バラエティーなどのテレビ番組など多方面で活躍、トークショーなど各種イベントにもひっぱりだこで絶大な知名度を誇った。

現役時代は身長155cm、B86cm、W66cm、H90cm、体重55kg。血液型はAB型。

力道山と言われた大森ゆかり(元全日本女子プロレス)をプロレスラーとしての目標とし、ライバルは尾崎魔弓である[1]。 師の山本小鉄の「思いやりのある人間になれ。」との教えに感化を受け、後輩への指導やインタビューでたびたび引用する。 特に一般誌によく取り上げられたのは、技を掛けられて苦悶の表情を浮かべる写真が多く使用され、当時のキューティーのイメージとして定着する。男性ファンからも、「そのやられっぷりがいい」と支持され、弱いという印象も持たれるが、受け身のうまさと打たれ強さには定評があり、尾崎魔弓も「あのケガに対する強さは持って生まれた才能だと思う。[2]」と語っており、引退まで怪我らしい怪我はなかった。

プロレスラー時代の趣味は、犬の散歩とファミコンで、特に『ドラクエ』に熱中し、『女子プロレスグランプリ』(ソニー・マガジンズ)ではゲームに関するコラムを寄稿していた。ゲームソフトの新作が出ると、弟に寮まで届けさせたこともあった。

アイドル雑誌を読むのが好きで、愛読書は『DUNK』(集英社)と『BOMB』(学研[3]。好きな芸能人は永井真理子近藤真彦織田裕二瀬能あづさ三上博史で、歌番組で近藤真彦と共演した際には感激している。

引退後も含めると、14冊の写真集を出しており、女子プロレスラー最多の記録を持っている。最終的にヘアヌードまで披露しており、カメラマンの要求に「個人的にはギリギリで行きたかったけど押しに弱いから。[4]」と言い、尾崎とのレズビアン風の写真集(『赤い糸』サン出版)を撮る時は、カメラマンから「抱き合ったみたいなのやってみようか。」と言われ、最初は二人とも「嫌だ、冗談じゃない!」と抵抗したという[5]

小4頃から母の薦めで琴を習い始め、中学卒業まで続ける[1]

日本ダイエットアカデミー協会主催のダイエットマスターの資格を所得している。

経歴

デビュー前

1969年10月22日、埼玉県川口市に生まれる。三つ上の兄、四つ下の弟に囲まれて育つ。小学生の時、当時全盛のビューティーペアのファンとなり、その頃から漠然とプロレスラーになりたいと思い始める。中学3年の頃にはクラッシュギャルズの登場でクラス中が女子プロブームになるが、キューティー1人だけは大森ゆかりを応援する。その7月1日、初めて女子プロを友達と生で観戦、クラッシュギャルズの試合を見てプロレスラーになることを決意[1]、周囲にもプロレスラーになると言い触れ回るが、本気にとらえた人は少なかったという。

高校受験直前の1985年1月15日、フジテレビのスタジオで全日本女子プロレスのオーディションを受ける。応募条件は身長160センチ以上だったため(本人は155センチ)、履歴書には身長、体重ともにサバを読んで書き、体も大きく見せるため肩にタオルを入れた写真を貼ったりした。それまでにも身長を伸ばす機材などを通信販売で購入したりもしていた。第一次審査は前転、後転と平均台に上がっただけと簡単なものであったが落選する。本人はかなりショックで、翌日学校を休むほど落ち込み、悔しさのあまり全女の事務所に抗議の電話をかけたりイタズラ電話をしたことを後に告白している[6][7]

1985年4月、川口市立川口女子高等学校に入学、中学時代から続けていたハンドボール部に入部したが、夏休みの合宿の後、顧問の先生と喧嘩になり退部。プロレスラーになるべく近所の柔道場に通い始めるが[1]、後に柔道は全然プロレスの役に立たなかったと語っている[2]。10月、クラスメイトに女子プロを目指してる人(ムーン章子)がいたため、いっしょに再度、全女に応募するが今度は書類審査で落とされる[6]

1986年3月、ジャパン女子プロレスが旗揚げすることを友人から聞いてオーディションを受け合格、両親からも「せめて高校を卒業してから」と懇願されたが、反対を押し切り入門を果たす。しかし高校中退に反対する先生との間で学校を辞める話がまとまらず、最初のうちは放課後だけ練習場に通っていたが、その中に一人だけ同じ川口から通っていた練習生がおり、それが尾崎魔弓だった[7]。同期は他にハーレー斉藤エデン馬渕イーグル沢井ダイナマイト関西らがいる。一学年の終了するのを待って学校を中退、寮に入るべく尾崎と待ち合わせて寮へ向かうが、もう後戻りできないという不安感で二人とも電車の中で人目もはばからず泣いたという[6][2]

ジャパン女子プロレス時代

1986年、四天王と言われたジャッキー佐藤ナンシー久美風間ルミ神取忍以外は全員新人という状況でジャパン女子プロレスが発足する。ここでキューティーは山本小鉄グラン浜田の教えを受ける[7]FMWを旗揚げする前の大仁田厚も指導に当たるが、選手たちは大仁田に対して快く思っておらず、キューティー本人も後年のインタビューではっきりと「大嫌いでした!」と答えている[8]

リングネームの名付け親は秋元康で、アップル鈴木キウイ鈴木という候補もあったが、キューティーというリングネームも含めて、本人には不満だった[6]

1986年8月17日、ジャパン女子後楽園ホールで旗上げするが、キューティーは落ちこぼれだったためにデビューはできず場内整理係りをする。

キューティーは勝手にスポ根ドラマのような、女同士の美しい友情に支えられた世界を想像していたが、現実のあまりの違いに衝撃を受けたという[8]。練習のきつさと、気の強いレスラー同士の人間関係に耐えかねて一度だけ母親に「もう辞めたい。」等の電話をしている[9]

1986年9月19日、徳島市立体育館で、対プラム麻里子戦でデビュー、フォール負け。

ジャパン女子はあまり客が入らず、半年くらいの間は給料が出ないことや試合も月に一度、後楽園ホールのみという状況になったためプラム麻里子と飲み屋でアルバイトをしていたこともあったという[7]。地方へ行くと客の数より選手の数の方が多かったこともあったくらいで、売店に立ちグッズを売らないと、泊るところも食事代もないという状況も経験する[8]

プラム麻里子とはファイティング・ドールズというタッグチームを結成するが、さしたる結果も残せず自然消滅した。

尾崎魔弓との抗争が次第に白熱して、いじめる尾崎と耐えるキューティーの構図が観客に受け、スポーツ紙や芸能メディアにも取り上げられるようになり、メインよりも大きく扱われることがでてきた[2]。当時はライバル扱いされた二人だが、尾崎の方はキューティーは弱いのでライバルじゃないと相手にしてなかったという。

ジャパン女子は大手の芸能事務所と提携しており、全国的な人気のある選手を育てなければ団体もやっていけないということで、最初は風間ルミエデン馬渕を芸能関係へ売り出そうとしていたが、エデンが早々と引退してしまったのでキューティーを売り出すことになった[2]

1989年、『週刊ヤングジャンプ(7月20日号)』(集英社)の表紙を単独で飾り、歌手としてもデビュー、リング上で歌を披露した。ラジオのレギュラーが決まったり写真集が出てドラマの出演も決まり、イメージビデオもヒットして人気が一気に爆発する。しかし本人は練習する時間が減って体の動きが悪くなるのと、道場へ行くと周囲から孤立したような違和感を感じてしまい、タレント活動がいやでしょうがなかったし[6]、アイドルレスラーと呼ばれることも苦痛だったと後に語っている。労働省の『ほっとweek』という有給休暇の取得推薦のポスターにも起用されるが、キューティー本人は「年365日中364日は働いてた。睡眠時間も3~4時間くらい。試合がオフの時は芸能の仕事をして巡業先まで仕事が入ってる。[10]」といった皮肉なものであった。「名前が売れれば売れるほど周りが離れていく[2]」「試合ギリギリに会場に入って、試合が終わったらすぐ次の(芸能の)仕事に行く[8]」という中で、嫉妬から来る対戦中のえげつない攻撃を幾度も受けたという[8]。また『週刊ゴング』(日本スポーツ出版社)では雑誌が売れるとの理由から毎週のように取り上げられていたが、風間ルミは、なぜキューティーばかり載せるのかと苦言を呈したという。しかし、この頃の本人の気持ちは、他の選手は休めるのに自分は休めないなどで、辞めたいという思いは相変わらずであった。

1989年1月5日、後楽園ホールにてバトルロイヤルで優勝、100万円を獲得。

1990年、ジャパン女子プロレスMVPを受賞する。

週刊現代(1990年2月3日号)』(講談社)の表紙になる。

1990年12月26日、浜松アリーナにおける新日本プロレスの試合のテレビ中継の解説席にゲストとして招かれる。

1991年10月10日後楽園ホールでザ・スコルピオンマスカラ・コントラ・カベジェラ(一方はマスク、もう一方は髪の毛を賭ける試合形式)を行う。これは8月30日のタイトルをかけた試合で敗北した時、自ら髪の毛をかけての再戦を直訴したもので、会場は人気アイドルレスラーが丸坊主にされるところを見たさの観客で超満員となる。場内にはヘアーサロンの人間が待機しているとのアナウンスも流れたが、エビ固めで勝利し、レスラーキャリア5年目にして初のシングルベルトを腰に巻き、涙を流した。

しかしキューティー個人の人気をもってしても団体の経営状況は改善せず、1992年1月26日、熊谷大会を持ってジャパン女子は解散、試合後仲間たちと抱き合い泣き崩れる。本人は、いったんはプロレスを辞めることを決意、そのまま芸能人になるつもりもなかったが、事務所に所属選手全員が呼ばれた時に風間ルミが立ち上げるLLPWにいく選手と、残留する選手の二つに分かれ、尾崎に促されるまま後者のJWP女子プロレスを旗上げする組に参加することになる。のちに風間に誘われなかったのはショックだったと語っている[8]

JWP女子プロレス時代

1992年4月3日、JWP女子プロレスが所属選手が8人のみで旗上げ。選手数の少なさを1日で2試合もこなすなどしてカバーする。後楽園ホールでの旗揚げ戦では、宿敵の尾崎魔弓と新人時代以来4年9ヶ月ぶりにタッグを組み、関西福岡晶組から勝利を奪う。新団体では本人の中で、はっきりと自覚が芽生え、「それまでは自分の仕事だけをすればいいという考えでしたが、この団体は私が引っ張っていかなければという意識を持つようになりました。[9]」と語っている。4月11日、後楽園ホールで空手家の桑原三佳誠心会館)と生涯唯一の異種格闘技戦で腕挫十字固で余裕の勝利[2]。この頃には横浜のスーパータイガージムを訪れて、佐山聡の指導も受けている[11]

1993年には女子プロレス界に対抗戦ブームがおこり、キューティーは最初のうちはあまり興味を示さなかったが、井上貴子との試合にライバル心を燃やす。この二人の対決はアイドル対決と言われた。全女との試合では「同じプロレスなのに組み方や間のとり方が全然違う。」という違和感をむしろ楽しんだという[2]。11月、元クラッシュギャルズ長与千種の復帰戦でタッグパートナーを務め、翌1994年3月13日には、シングルで初対戦するが、48秒で敗北。4月10日、後楽園ホールにてコマーシャルで人気者になったレジー・ベネットとタッグを結成、以後たびたび二人はタッグを組むことになる。

1994年11月20日の東京ドームで行われた『憧夢超女大戦』では井上貴子と越境タッグを組み工藤めぐみ福岡晶組と対戦、26、27日には尾崎と共にアメリカ、バージニア州でのWCWの試合に遠征、ブル中野北斗晶組と2連戦をする。北斗とは初対戦であった。

1995年5月14~16日、JWPの中国遠征で北京市と天津市で、6月3~5日の韓国遠征で釜山市、光州市で試合をする。

この時期、「私の新人指導は厳しいですよ。優しいだけでは結局、彼女たちのためにならないから徹底的にしごいてやります。[9]」と鬼コーチ的な役割も受け持つようになる。この頃からしきりにインタビューで「デビル雅美、関西にシングルで勝ちたい。」と二人を意識した発言をするようになる。 1995年6月16日両国国技館での対ボリショイ・キッド戦で、生涯で一度のマスク着用で試合を行う。純白のタイガーマスクに似たデザインであった。12月24日には、後楽園ホールでのデビュー10周年記念試合を行う。

JWPは当時、大塚製薬がスポンサーだったので、リング上でオロナミンCドリンクジャワティーを一気飲みして宣伝に努めた。

次第に引退を考え始めるが、1997年8月、盟友、プラム麻里子がリング上のアクシデントで亡くなるという事故が起き、もう少し会社のために頑張らなくてはいけないと思いとどまる。事故後、「彼女がやり残した分までプロレスをやっていきます。いつもどこかにいると思うからプラムに怒られないように頑張っていきたい。[12]」とのコメントを残した。

1998年10月15日、引退を正式表明、12月27日、29歳で後楽園ホールにて現役生活を終える。引退試合は関西とのシングルマッチの予定だったが関西がけがで欠場、8人タッグで勝利を飾り、リング内で仲間たちに胴上げされ選手生活にピリオドを打つ。引退の理由としては、ケガや体力の衰えなど明確なものではなく、「やるべきことは全てやったし、もう後輩に教えることもない。」という漠然としたものであった[2]。終生のライバルであった尾崎との戦績は、10勝1分け25敗[13]。引退後も芸能の仕事は継続する。

引退後

2005年5月5日、当時、シュートボクセ・アカデミージャパン代表であった原嶋秀行(2014年現在、病院事務員に転職)と結婚、7月10日都内で挙式。

2006年7月25日、長男を出産。

2011年7月21日、次男を出産。不妊治療をして授かったという[14]

尾崎が代表を務めるOZアカデミーに、よくゲストとして呼ばれている。

現役時代の付き人日向あずみがおり、2009年12月27日の日向引退セレモニーにも来場している。

2012年発売の『週刊プロレス(4月4日号)』(ベースボール・マガジン社)で、引退して10年以上経っている女子プロレスラーとしては異例の24ページ、カラーでの特集が組まれる。

2012年4月22日、後楽園ホールで行われたJWP20周年記念大会に来場し、JWP二冠タッグ選手権試合の立会人を務めた[15]

獲得タイトル

  • 第11代UWA&JWPジュニア王座(1991年10月10日、ザ・スコルピオンを破って獲得。)ジャパン女子プロレス時代
  • 初代JWP認定タッグ王座(1992年8月9日、尾崎とのタッグで獲得、1993年3月21日、関西、デビル組に敗れるまで保持。)以下JWP女子プロレス時代
  • 第3代JWP認定タッグ王座(1993年12月2日、尾崎とのタッグで奪還、1994年3月27日、三田英津子下田美馬組に敗れるまで保持。)
  • 第6代JWP認定タッグ王座(1995年3月18日、関西とのタッグで尾崎、福岡組から奪取、12月9日、KAORU、福岡組に敗れるまで保持。)
  • 第8代JWP認定タッグ王座(1996年7月7日、関西とのタッグで奪還、11月26日、デビル、福岡組に敗れるまで保持。)
  • 第12代JWP認定タッグ王座(1998年6月14日、デビルとのタッグで福岡、日向組から奪取、7月31日、福岡、日向組に敗れ王座から転落。)

得意技

  • ジャンピング・ニーアタック
    若手時代から引退まで使い続けた。
  • フルネルソン・スープレックス
    相手の背後からフルネルソンに捉え、そのまま後方にスープレックスで反り投げてフォールする。藤波辰巳(現:藤波辰爾)が元祖で、そのニックネームからドラゴン・スープレックスとも呼ばれる。
  • キューティースペシャル
    変形ブロックバスター・ホールド。クラッチが女子式ボディスラムと同型である点が通常のブロックバスターと異なる。突進してきた相手へのカウンターとしても用いられる。JWPの後輩である中島安里紗がフィニッシュ・ホールドとして継承した。決まる時と決まらない時の差が激しかったと後に回想している[2]
  • ダイビング延髄ニー
    コーナーポストから相手の後頭部へ膝を当てる技で、エプロンから場外にいる敵に放つ場合もあった。「試合の流れを変えるために使い始めた。[2]」と言っており、付き人の日向あずみに継承された。
  • 魔神風車固め
    新日本プロレス平田淳嗣の考案した技で、他にはキューティーしか使い手はいない。中腰の相手の正面から、首を左脇で抱え込み相手の左腕を背中側に折り曲げさせ、その手首を右手でロックしながらブリッジを利かせて後方に投げ、そのまま固めて3カウントを狙う。
  • ジャンピング・ラリアート
    若手時代はフィニッシュに多用していた。
  • ダイビング・フットスタンプ
    コーナーポストに登って両足から相手の体に飛び降りる単純明快な技。タッグパートナーと連携で使うことも多かった。「若い子への試練として、よく出してました。[2]」と本人は言っている。
  • 卍固め
    アントニオ猪木の得意技。自分の右足を相手の左脚に絡める。次に相手を前屈みの状態にし、右腕の下から自分の上半身を出す。そして、相手の首の部分に自分の左足を引っ掛けた状態で、相手の右腕を相手の背中側に直角に曲げ、自らの左腋に抱え込む。「個人的に好きな技、決めてる時の自分のポーズが好き。[2]」と言っている。

入場テーマ曲

  • IT'S MAGIC / マリーン(1990年、CBSソニー)-『ベスト・オブ・マリーン』収録
  • FIGHTING GIRL(1992年、センチュリー・レコード)-『POWER OF WOMAN/You-ki』収録
  • GUILTY(1994年、バップレコード)-『PURE HEART~JWP女子プロレステーマ曲集』収録

メディア

テレビドラマ

映画

オリジナルビデオ

  • 空想科学任侠伝 極道忍者ドス竜(1990年、東北新社) - 猿渡ジュン役、他、尾崎魔弓
  • 時空戦士 魅鬼(1996年、ビームエンターテインメント)横山智佐(主演)、他、尾崎魔弓、福岡晶
  • エンジェルファイター風と天使の街(1995年、新東宝、主演)、他、尾崎魔弓、デビル雅美、ダイナマイト関西、福岡晶
  • 女囚K 濡れた過去の女たち(2001年、東宝)- K171 ユウ役(主演)、他、ダイナマイト関西
  • ガードレス 復讐の女暗殺者 (2001年9月21日、クリエイティブアクザ)- 片山サキ役(主演)
  • 地獄に散る花 足抜け女郎秘話 (2007年9月7日、アタッカーズ)他、豊田真奈美
  • MONSTER COMMANDO Y(1995年、日本ビデオ販売)-『時空戦士 魅鬼』の本人のみの戦闘シーンの拡大バージョン
  • COLD MOON (2008年10月7日、アタッカーズ)- 陽子役、他、納見佳容(主演)、尾崎魔弓
  • バトルガール Tokyo Crisis Wars(1991年、大映ビデオ)- K子役(主演)、他、神取忍、デビル雅美、ミスA、イーグル沢井[16]

テレビバラエティ番組

ラジオ番組

CM

  • アンシェーヌ 除毛フォーム(レピアス)
  • パワーステーション(デンヨー
  • るすてる(タカコム)
  • 高須クリニック(2007年)-『週刊女性』の企画としてアンチエイジングに挑戦

ゲーム

シングル

発売日 1/2 タイトル 作詞家 作曲家 編曲家 レーベル レコード番号 備考
1989年7月1日 1 泣かないで 天野滋 天野滋 岩本正樹 ポリドール HOOP-20339 マキシシングル
2 Good-byeシンデレラ 暮湖遊 山梨鐐平 岩本正樹
1990年6月25日 1 大人になりたい 山梨鐐平 山梨鐐平 岩本正樹 ポリドール PODH-1012 OVA「冒険!イクサー3」イメージソング
2 日曜日がまちどおしい 山梨鐐平 山梨鐐平 岩本正樹
1991年4月1日 1 おとめの反乱 宝野アリカ 片倉三起也 片倉三起也 ポリドール PODH-1035 日本テレビギグギャグゲリラ」挿入歌
2 恋の唐獅子牡丹 宝野アリカ 片倉三起也 片倉三起也

アルバム

  • キューティー・スペシャル(1991年4月25日、ポリドール POCH-1081)
    1. おとめの反乱
    2. ベビーフェイスは桃色仮面
    3. Good-byeシンデレラ
    4. 大人になりたい
    5. BIGINNING
    6. 泣かないで
    7. 日曜日がまちどおしい
    8. 雪の断章
    9. 湾岸ラブストーリー
    10. 恋の唐獅子牡丹

吹き替え

アニメ

CD

  • 冒険!イクサー3 おまたせ、誕生!イクサー3(1990年、ポリドール)- イクサー3役
  • 冒険!イクサー3 御意見無用!ネオス四天王の逆襲!!(1991年、ポリドール)- イクサー3役

出版

著書

  • 青春に負けないで!!(1991年、リム出版)
  • キューティー鈴木 リングの妖精(1996年、TOKYO FM出版)

写真集

  • ジャンピングINエルニド(1989年、ビッグマン)
  • CUTY(1989年、ペップ出版)
  • Borderless(1990年、近代映画社
  • 赤い糸(1992年、サン出版)- 尾崎魔弓との共演
  • キューティ マニア(1996年、ビクターブックス)
  • キューティ マニア2(1997年、ビクターブックス)
  • CUTE(1994年、スコラ
  • CUTE2(1995年、スコラ)
  • Cute Tale(1998年、スコラ)
  • ガードレス(2000年、竹書房
  • セカンド・ミッション|ガードレス(2001年、竹書房)
  • Cute Days 1989-2000(2000年、ワニブックス
  • ULTIMATE(2002年、双葉社
  • 艶恋物語(2004年、竹書房)

イメージビデオ DVD

  • ジャンピング in エルニド(1989年 パワースポーツ)他、大仁田厚
  • キューティー革命 cuty revolution(1990年、JVD)友情出演、プラム麻里子
  • キューティー・ファイト!(徳間ジャパン
  • キューティ・タイフーン(1990年、大陸書房
  • Shooting Vacance(1990年、天田印刷加工)
  • FOUL PLAY(1990年、天田印刷加工)友情出演、プラム麻里子
  • キューティー鈴木 尾崎魔弓(1993年、スコラ)
  • Another Splendor(1994年、バップビデオ)井上貴子と共演
  • 女子プロレスの素顔 キューティー鈴木(1994年、JVD)他、ダイナマイト関西、福岡晶、プラム麻里子、キャンディー奥津、デビル雅美、尾崎魔弓
  • Cuty Suzuki(1995年、スコラ)
  • キューティー・マニア 10th ANNIVERSARY(1996年、ビクター)
  • DREAMING キューティー鈴木10年の軌跡(1997年、テイチクエンタテインメント
  • ラブ・フォ-ル Vol.1(1998年、スコラ)
  • ガードレス(Guardless)(2000年、日本コロンビア
  • セカンド・ミッション|ガードレス(2001年、徳間ジャパンコミュニケーションズ)
  • Body Voltage(2002年、アットマーク)
  • 艶恋物語(2004年、竹書房)
  • Double Face(2005年12月7日、アタッカーズ)
  • 女子プロレスの技は本当に痛いのか徹底検証! (2009年8月19日、rookie)
  • 武藤敬司の男の鍛(つく)り方 初公開!!これがレスラーズ・トレーニングだ。(ARIGATO)

試合ビデオ DVD

  • CUTY SUZUKI 10th ANNIVERSARY キューティ鈴木 リング・ヒストリー(1996年、ビクターエンタテインメント
  • CUTY MANIA(2013年、クエスト)
  • CUTY MANIA 2(2014年、クエスト)

脚注

  1. ^ a b c d ジャンピングinエルニド ビッグマン
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 週刊プロレス 2012年4月4日号 P54~78
  3. ^ 女子プロレスグランプリ 1994年Vol.1 P13
  4. ^ 月刊アサヒ芸能『私が脱いだ本当の理由』2003年12月号 P33
  5. ^ 女子プロレス事件File P49
  6. ^ a b c d e 青春に負けないで!! リム出版
  7. ^ a b c d キューティー鈴木 リングの妖精 TOKYO FM出版
  8. ^ a b c d e f kamipro 2011年157号 P90~96
  9. ^ a b c 近代中小企業 1996年2月号 P95~97
  10. ^ 女子プロレスSUPER BOOK!2 P74~75
  11. ^ 激闘 キューティー鈴木 クエスト
  12. ^ 週刊プロレス1997年9月7日号 P31
  13. ^ 週刊ゴング1998年12月3日号 P89
  14. ^ 週刊女性 2011年8月9日 P52
  15. ^ JWP女子プロレス. “2012.4.22後楽園ホール 試合”. 2012年4月23日閲覧。
  16. ^ 竹書房/イオン編 編「BonusColumn 女戦士たちの闘いよ、永遠なれ」『超人画報 国産架空ヒーロー40年の歩み』竹書房、1995年11月30日、202頁。ISBN 4-88475-874-9。C0076。 

関連項目