カルメン故郷に帰る

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カルメン故郷に帰る
天真爛漫なカルメンと朱美
監督 木下惠介
脚本 木下惠介
製作 月森仙之助
製作総指揮 高村潔
出演者 高峰秀子
小林トシ子
望月優子
音楽 木下忠司
黛敏郎(主題歌)
主題歌 「カルメン故郷に帰る」高峰秀子
撮影 楠田浩之
製作会社 松竹大船
配給 松竹
公開 日本の旗 1951年3月21日
上映時間 86分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
興行収入 6800万円
次作 カルメン純情す
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カルメン故郷に帰る』(カルメンこきょうにかえる)は、1951年松竹大船撮影所製作の日本映画、および高峰秀子による同名の主題歌。

概要

ファイル:カルメン故郷に帰る.jpg
「カルメン故郷に帰る」ポスター

ほぼ全編を浅間山麓でロケ撮影し、国産初の「総天然色映画」として公開されて話題を呼んだ。

都会でストリッパーをしているヒロインを演じる高峰秀子の爽やかな演技が光る。戦後の自由でどことなく軽薄な風潮と、それに対する賛否両論の世論を風刺した軽快な喜劇で、新しい時代の映画の創作意欲が随所に見て取れる作品である。また父娘、姉妹、夫婦の情愛などが非常に丁寧に描かれている。

あらすじ

上州北軽井沢浅間山のふもとの村で育った娘・おきんは、家出をして東京に出、リリィ・カルメンという名のストリッパーになっていた。彼女は男性たちを魅了する裸踊りを芸術だと信じて疑わない。とある初秋に、おきんは同僚の踊子・マヤ朱美を連れて故郷へ錦を飾りに帰ってくる。芸術の擁護者を自任する校長先生は、村から芸術家を輩出したと大喜び。村人たちも共に帰郷を歓迎した。ところがふたりを目の当たりにして、村とは不釣合いな派手な出で立ちと言動に戸惑ってしまう。おきんの父は彼女が子供の頃に牛に頭を蹴られ、それが原因で少し頭が弱くなったと疑っており、かわいい娘を不憫に思い憂う。学校で運動会が開催されふたりも見学に行くが、カルメンが昔好きだった田口春雄(結婚して子供も一人いるが、戦争で目が不自由になり、生活にも困っている)のオルガン演奏の際に大失態を起こして滅茶苦茶にしてしまう。名誉挽回とばかり芸術披露を思いつき、業者のおだてもあり「裸踊り」を行うことになるが、父や校長先生は恥かしいやら悲しいやらで、校長先生は興行主の丸十の親父(丸野十造)を投げ倒して、当日は仲間と家で酒を飲む。翌日、カルメンとマヤは村を離れるが、踊りでたんまり儲けた丸野十造は、田口春雄の借金のかたに巻き上げたオルガンを田口春雄に返してやり、妻の光子は泣きながら、学校の校庭で自作の曲を演奏している春雄にそのオルガンを持っていく。校長先生とカルメンの父は、カルメンからもらったギャラの一部を春雄に渡し、本当の芸術家が村から出ることを祈る。

日本初のカラー映画

戦後アメリカから輸入されたカラー映画に刺激され、日本でも本格的なカラー映画を製作しようとする機運が高まっていた。日本最初のカラー映画としては1937年の『千人針』があったが、フィルムは国産ではなかった。松竹ではトーキーに続く「日本初」を目指し、富士フイルムと協力してカラー映画を製作することを決定した。

しかしカラー映画には技術やコストの面で問題が多く、松竹と富士フイルムは、万一『カルメン故郷に帰る』がカラー映画として満足のゆく出来にはならなかった場合は、カラー撮影そのものがなかったことにしてフィルムを破棄し、従前のモノクロ映画として公開することを内約していた。このため『カルメン』はまずカラーで撮影を行い、それが終わってから改めてモノクロの撮影を行うという、二度手間をかけて撮り上げた作品となった[1]

撮影に使われたのはフィルムはリバーサル・外式発光というものだった。これは撮影フィルム自体が正像を持つ反転式で、発色は現像液に発色剤を添加する外式で行うというもので、当時カラー撮影の主流だったテクニカラーとも、また当時コダックが開発に力を入れていたイーストマン・カラーとも異なる独自の技術によるものだった。このリバーサル・外式発光方式は褪色に強いという長所があったが、ネガポジ式ではないため、上映用のフィルムを大量に焼き付けるには非常に手間がかかるという短所があった。そのため初回映画公開時には東京・横浜・名古屋・大阪・京都でのみカラー上映が行われ、それ以外の都市では白黒のフィルムで公開された(カラーフィルムはその後2番館・3番館で随時公開された)。

「総天然色映画」

撮影現場には富士側のスタッフも立会い、断続的に試写用プリントを確認しながら撮影が進められた。またこの方式によるカラー撮影には相当の明るさが必要なため、本作はコスト削減のためそのほぼ全編をロケーションで撮影するという異色作となった[2]

メイクもまた挑戦だった。モノクロの時とはまったく異なるメイクに戸惑う出演者も多く、笠智衆はどんなメイクを施しても顔が奇妙な発色になるのでスタッフ一同首を傾げるほどだったという。しかし撮影と同時にさまざまなデータも蓄積していった。撮影に使用されたリバーサル・外式発光方式は、基本的に赤と緑の発色に問題があることも分った[3]。結果として映画は必ずしも満足のゆくものではなかった。「総天然色映画」と前面に打ち出して公開された映画の興行収入は6800万円を記録。大成功だった。

なおカラー版と並行して撮影されたモノクロ版は、映画公開後に破棄されたものと長らく思われていたが、木下惠介の死後の遺品の中からオリジナルの16mmモノクロ版が発見された。過去にその一部は松竹ホームビデオの『木下惠介DVD-BOX』に特典として収録された。2012年9月26日、木下惠介監督生誕100年に因み、デジタルリマスターを施されたBlu-ray Disc版がリリースされ、特典として、16mmモノクロ版が全編収録された。なお、同年のヴェネツィア国際映画祭にて上映され、11月以降に日本での上映も予定されている[4]

音楽

作中の楽曲は、「芸術披露」をメインに設計されているため、フランツ・シューベルトの作品が使われている。

「芸術披露」の前に一言「シューバートです。」と語る場面があり、戦後日本で原語読みが定着していたことが伺える。

キャスト

左から 高峰秀子、小林トシ子、望月優子

スタッフ

主題歌

注釈

  1. ^ そのためもあってか、松竹大船の関係の間では「カラー版よりもモノクロ版の方が肩の力が抜けた演技ができている」と評価になるほどだったという。
  2. ^ 当初映画の舞台に設定されていた上高地北軽井沢に変更したものの、後者の方が安定した日照が期待できたことがその理由のひとつになっている。
  3. ^ 赤の発色が強く、画面に緑が多いシーンでは草木が枯れたように見えるなどの問題が生じた。
  4. ^ 日本初のカラー映画、ベネチア映画祭で上映日本経済新聞2012年9月1日

参考文献

  • 『わたしの渡世日記』(高峰秀子 著)
  • 『昭和 二万日の全記録』「カラー映画の夜明け」P138〜139(講談社、1989年
  • 『季刊 映画撮影』(日本映画撮影監督協会
  • 『日本映画発達史』(田中純一郎 著)

関連項目

外部リンク

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