オットー・アッド
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
ラテン文字 | Otto Addo | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
ガーナ ドイツ | |||||
生年月日 | 1975年6月25日(48歳) | |||||
出身地 | ハンブルク | |||||
身長 | 188cm | |||||
体重 | 78kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | OH | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1981-1991 | フメルスビュテラー | |||||
1991-1992 | ハンブルガー | |||||
1992-1993 | ブラムフェルダー | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1993-1996 | VfL93ハンブルク | 80 | (4) | |||
1996-1999 | ハノーファー | 97 | (20) | |||
1999-2005 | ドルトムントⅡ | 5 | (0) | |||
1999-2005 | ドルトムント | 75 | (11) | |||
2005-2007 | マインツ | 19 | (0) | |||
2007 | ハンブルガーⅡ | 10 | (0) | |||
2007-2008 | ハンブルガー | 4 | (0) | |||
代表歴 | ||||||
1999-2006 | ガーナ | 15 | (1) | |||
監督歴 | ||||||
2009-2010 | ハンブルガーU-19 (アシスタント) | |||||
2010- | ハンブルガーU-19 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
オットー・アッド(Otto Addo, 1975年6月25日 - )は、西ドイツ(現ドイツ)・ハンブルク出身の元カメルーン代表の元サッカー選手。現サッカー指導者
経歴
クラブ
ガーナ出身の医者の息子[1]として生まれたアッドは、6歳の時にフメルスビュテラーSVの下部組織でキャリアを始め、ハンブルガーSVとブラムフェルダーSVの下部組織を渡り歩き、3部(現4部)のVfL93ハンブルクとトップチーム契約を結んだ。1996年に同リーグのハノーファー96へ加入し、後にドイツ代表となるゲーラルド・アサモア, ファビアン・エルンストと共に主力の1人としてプレー。加入1年目は、リーグ最多得点数の100得点と圧倒的な強さでレギオナルリーガ(北部)を制するも、レギオナルリーガ(北東部)王者エネルギー・コットブスとのプレーオフに敗れ涙をのんだが、翌シーズンに2部昇格を果たした。
2部の舞台でも30試合7得点と今までと同様に活躍したことから、1部の強豪ボルシア・ドルトムントに引き抜かれ、1999年9月にアウェーのTSV1860ミュンヘン戦でデビュー。2001-02シーズンは優勝の歓喜を味わう中、アッドは2001年7月15日のDFB ポカール・SCフライブルク戦で十字靭帯断裂し、同月22日に右膝の手術を受けた[2]ことで長期離脱を余儀なくされ、2002年5月8日のUEFAカップ 2001-02決勝デ・カイプのフェイエノールト戦(2-3)でエベルトンに代わり61分から途中出場で復帰したが、惜しくも優勝を逃した。2002年9月7日にカンパラで行われたアフリカネイションズカップ2004予選のウガンダ戦で[3]再び右膝の靭帯を断裂[4]し、2003年9月24日のUEFAカップ 2003-04・FKアウストリア・ウィーン戦(2-1)で今後のキャリアを脅かすことになる3度目の靭帯断裂を右膝に負ってしまった[5]。この負傷で2004年度全体を欠場し、2005年1月末のボルシア・メンヒェングラートバッハ戦(ホーム1-1)に途中出場で復帰した。加入してから主力として54試合11得点、特に2年目はキャリア最多にしてチーム2位となる9得点を挙げていたが、翌シーズンの負傷以降は4シーズンで21試合0得点に終わった。
ドルトムントから契約延長のオファーがあったものの、ユルゲン・クロップ監督に魅力を感じ[6]1.FSVマインツ05に2年+オプション1年で移籍[7]し、クロップ監督も本人も復活を望んでいたが、2シーズンで19試合に終わり、特にインパクトを残すことは出来なかった。しかし、そんな中でガーナ代表としては2006年2月14日に3月1日のメキシコ戦へ向け4年ぶりに招集[8]され、2006 FIFAワールドカップのメンバーに選出された。
2006-07シーズン終了後にマインツが降格し、オプションが行使されず放出されたアッドは、2007年8月9日に地元にして古巣のハンブルガーSVと3年契約を結んだ[9]。元々はリザーブチームのみの起用を想定していたが、フーブ・ステフェンス監督はプレーぶりに感銘を受けトップチームで4度起用し、2008年10月6日のアルミニア・ビーレフェルト戦でラファエル・ファン・デル・ファールトに代わり90分から途中出場したのが、最後の試合となった。
代表
ドイツに生まれたアッドは、1999年2月28日のエリトリア戦(5-0)でガーナ代表としてデビューを果たし[10]、2000年1月27日のアフリカネイションズカップ2000・トーゴ戦で初得点を記録した[11]。2006 FIFAワールドカップでは、同じくドイツに幼少の頃から過ごしているVfLヴォルフスブルクのハンス・サーペイと共に選出され、グループリーグのチェコ戦(2-0)とアメリカ戦(2-1)に出場。このアメリカ戦が代表として最後の試合になった。
コーチ
現役引退したアッドは、ハンブルガーSVの下部組織のアシスタントコーチに就任[12]し、2010-11シーズンにヘッドコーチへ昇格[13]。2013年3月27日に監督のライセンスを取得した[14]。
脚注
- ^ "HSV-Juniorentrainer Addo: "Ich lerne jeden Tag dazu""
- ^ "Injury KO for Otto Addo"
- ^ "Uganda Shock Ghana"
- ^ "Otto Addo out for rest of year"
- ^ "Otto Addo's Injury Not Career Threatening"
- ^ "Interview mit Otto Addo: "Ich werde meist in gebrochenem Deutsch angesprochen""
- ^ "Addo joins German side Mainz"
- ^ "Otto Addo returns for Ghana"
- ^ "Hamburg in shock Addo swoop"
- ^ "Soccer-Black Stars rout Eritrea 5-0"
- ^ "African Nations Cup 2000 - Final Tournament Details"
- ^ "Otto Addos Traumturnier"
- ^ "Deutschland ist klarer Favorit"
- ^ "Otto Addo ist Fußball-Lehrer"
外部リンク
- オットー・アッド - National-Football-Teams.com
- transfermarkt
- footballzz