オスバルド・エスクデロ
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名前 | ||||||
カタカナ | オスバルド・サルバドル・エスクデロ | |||||
ラテン文字 | Osvaldo salvador Escudero | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アルゼンチン | |||||
生年月日 | 1960年10月15日(63歳) | |||||
出身地 | パソ・デ・ロス・リブレス | |||||
身長 | 160cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW/MF | |||||
代表歴2 | ||||||
1979 | アルゼンチンU-20 | 5 | (1) | |||
監督歴 | ||||||
年 | チーム | |||||
2014- | サンタテクラFC | |||||
2. 2016年3月4日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
オスバルド・サルバドル・エスクデロ(スペイン語: Osvaldo salvador Escudero、1960年10月15日-)は、アルゼンチンのパソ・デ・ロス・リブレス出身の元サッカー選手、サッカー指導者。そのプレーぶりからアルディレス2世とも呼ばれた。愛称はピチ。
来歴
日本で開催された1979 FIFAワールドユース選手権の優勝メンバーで、アルゼンチンU-20代表の右ウイングとしてディエゴ・マラドーナやラモン・ディアスらを擁する攻撃陣の一翼を担った。
1991年に日本サッカーリーグ1部の三菱自工(現・浦和レッドダイヤモンズ)にカルロス・マカリスターと共に加入し、同クラブ史上初の外国人選手となった。日本リーグ通算15試合2得点を記録。
1992年のJリーグカップや天皇杯においても突破力のある鋭いドリブルを武器に、福田正博や柱谷幸一らの得点をアシストする活躍を見せ浦和の躍進を支えたが、1993年のJリーグの開幕前に契約満了により退団した。
家族
息子のダミアンはレアル・バリャドリードに所属し、アルゼンチンA代表経験もある。弟のセルヒオもかつて浦和でプレーし、現在は埼玉栄高等学校サッカー部総監督を務めている。またセルヒオの息子で甥のエスクデロ競飛王は日本育ちで、父と共に日本国籍を取得しており、U-23日本代表にも選出された。
所属クラブ
- 1978-1979 チャカリタ・ジュニアーズ
- 1979 CAベレス・サルスフィエルド
- 1980 チャカリタ・ジュニアーズ
- 1981 ボカ・ジュニアーズ
- 1982-1985 ウニオン・デ・サンタフェ
- 1986 CAインデペンディエンテ
- 1986-1989 ロサリオ・セントラル
- 1989-1990 ラシン・クラブ
- 1991 バルセロナ・グアヤキル
- 1991-1992 三菱自工/浦和レッドダイヤモンズ
- 1993 CAプラテンセ
- 1993-1994 CAチャコ・フォー・エバー
個人成績
この節はその主題が日本に置かれた記述になっており、世界的観点から説明されていない可能性があります。(2012年7月) |
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1991-92 | 三菱 | 14 | JSL1部 | 18 | 4 | 1 | 0 | ||||
1992 | 浦和 | - | J | - | 7 | 0 | |||||
通算 | 日本 | J | - | 7 | 0 | ||||||
日本 | JSL1部 | 18 | 4 | 1 | 0 | ||||||
総通算 |
その他の公式戦
- 1991年
- コニカカップ 5試合0得点
代表歴
- アルゼンチンU-20代表
- 1979 FIFAワールドユース選手権 (1979日本大会=優勝)
外部リンク
- オスバルド・エスクデロ – FIFA主催大会成績(英語)
- Profile at BDFA (スペイン語)
- Campeonato 1986/87(スペイン語)