エディ・コリンズ

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エディ・コリンズ
Eddie Collins
1911年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州ミレルトン
生年月日 1887年5月2日
没年月日 (1951-03-24) 1951年3月24日(63歳没)
身長
体重
5' 9" =約175.3 cm
175 lb =約79.4 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 二塁手
プロ入り 1906年 FA
初出場 1906年9月17日
最終出場 1930年8月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

殿堂表彰者
選出年 1939年
得票率 77.74%
選出方法 BBWAA[1]選出

エディ・コリンズ(Edward Trowbridge Collins Sr., 1887年5月2日 - 1951年3月24日) は、20世紀初めのアメリカメジャーリーグで活躍した野球選手。ポジションは二塁手ニューヨーク州ミレルトン出身。右投げ左打ち。ニックネームは"Cocky"(「生意気」の意)。19歳でデビューしてから25年現役を続け3300安打以上を記録、20世紀最高の二塁手の一人と称される。血液型はO型。

略歴

コロンビア大学在学中の1906年フィラデルフィア・アスレチックスから「サリバン」という名でデビューした[1]。翌1907年に本名でアスレチックスに加入[2]1909年に二塁手のレギュラーに定着し、打率.347、67盗塁を記録、翌1910年に81盗塁を記録して、初の盗塁王となった。

アスレチックス時代は、コニー・マック監督の下で、スタフィー・マッキニスジャック・バリーフランク・ベーカーらとともに、『10万ドルの内野陣』の一人として4度ワールドシリーズに出場した。コリンズは、当時「チョーク・グリップ」と呼ばれた独特のバットの握りから、高い打率を毎年コンスタントに残すことのできた打者で、1909年以降1915年までの間、7年連続で.320以上の打率を記録し続けていた。1914年には打率.344を記録し、同年代に活躍していたタイ・カッブらとの競り合いのなか首位打者(公式記録上はタイ・カッブが首位打者となっているが、出場不足とし、コリンズを首位打者とする記録もある)となり、シーズンの最優秀選手にも選ばれた。

Collins in 1911

1915年からはシカゴ・ホワイトソックスでプレーし、移籍最初の年は打率.332、46盗塁を記録。またこの年の119四球はリーグ最多となり、出塁率は.460にもなっていた。1917年には53盗塁を記録し、ワールドシリーズでは22打数9安打、3盗塁と活躍しチームをワールドシリーズ制覇に導く活躍をした。しかし、2年後の1919年に、チームはブラックソックス事件に巻き込まれ、多くの永久追放者を出すことになった。

コリンズ自身は1920年に224安打、.372の打率を残すなど30代になってもコンスタントな活躍を続けていた。1923年と1924年には2年続けて盗塁王となる。1924年からの3年間はホワイトソックスの選手兼任監督を務めたが、自身もこの間一度盗塁王となっただけでなく、いずれのシーズンでも.340以上の打率を記録するなど、フィールドでもチームを引っ張る存在であった。

1926年オフに、コリンズはホワイトソックスから放出され、アスレチックスに復帰、4年在籍した後1930年、43歳で選手を引退する。その後は1932年にアスレチックスのコーチを務め、1933年から1947年までは、ボストン・レッドソックスゼネラルマネージャーを務めた。この間、後にアメリカ野球殿堂入りするボビー・ドーアテッド・ウィリアムズらとの契約を成功させ、チーム再建の手助けとなる。1939年、記者投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。1951年ボストンにて死去。

なおコリンズの息子(Eddie Collins Jr.)も後年アスレチックスの選手になったが、実働はわずか3年(1939年、1941年、1942年)であった。このコリンズJr.の義父は、野球殿堂入りした投手のハーブ・ペノックである。

通算犠打数記録

コリンズのメジャーリーグ記録である通算犠打数(512)は、2003年8月20日に、当時読売ジャイアンツ川相昌弘選手が更新した。[3]ただし、MLBのレギュラーシーズンの打撃記録において、犠打(犠牲バント)犠飛(犠牲フライ)が分けて記録されるのはもっと後年のことで、当時は両方が「犠打」に数えられていた。

詳細情報

年度別打撃成績











































O
P
S
1906 PHA 6 18 15 2 3 0 0 0 3 0 0 -- 0 0 3 -- .200 .200 .200 .400
1907 14 24 23 0 8 0 1 0 10 2 0 -- 0 0 1 -- .348 .348 .435 .783
1908 102 364 330 39 90 18 7 1 125 40 8 -- 16 3 15 -- .273 .312 .379 .691
1909 153 660 571 104 198 30 10 3 257 56 67 -- 62 6 21 -- .347 .416 .450 .866
1910 153 658 581 81 188 16 15 3 243 81 81 -- 49 6 22 -- .324 .382 .418 .800
1911 132 588 493 92 180 22 13 3 237 73 38 -- 62 15 18 -- .365 .451 .481 .932
1912 153 673 543 137 189 25 11 0 236 64 63 -- 101 0 29 -- .348 .450 .435 .885
1913 148 652 534 125 184 23 13 3 242 73 55 -- 85 7 26 37 .345 .441 .453 .894
1914 152 657 526 122 181 23 14 2 238 85 58 30 97 6 28 31 .344 .452 .452 .904
1915 CWS 155 680 521 118 173 22 10 4 227 77 46 30 119 5 35 27 .332 .460 .436 .896
1916 155 673 545 87 168 14 17 0 216 52 40 21 86 3 39 36 .308 .405 .396 .801
1917 156 689 564 91 163 18 12 0 205 67 53 -- 89 3 33 16 .289 .389 .363 .752
1918 97 425 330 51 91 8 2 2 109 30 22 -- 73 0 22 13 .276 .407 .330 .737
1919 140 628 518 87 165 19 7 4 210 80 33 -- 68 2 40 27 .319 .400 .405 .805
1920 153 706 602 117 224 38 13 3 297 76 20 8 69 2 33 19 .372 .438 .493 .931
1921 139 607 526 79 177 20 10 2 223 58 12 10 66 2 13 11 .337 .412 .424 .836
1922 154 701 598 92 194 20 12 1 241 69 20 12 73 3 27 16 .324 .401 .403 .804
1923 145 632 505 89 182 22 5 5 229 67 48 29 84 4 39 8 .360 .455 .453 .908
1924 152 676 556 108 194 27 7 6 253 86 42 17 89 3 28 16 .349 .441 .455 .896
1925 118 533 425 80 147 26 3 3 188 80 19 6 87 4 17 8 .346 .461 .442 .903
1926 106 455 375 66 129 32 4 1 172 62 13 8 62 3 15 8 .344 .441 .459 .900
1927 PHA 95 290 226 50 76 12 1 1 93 15 6 2 56 0 8 9 .336 .468 .412 .880
1928 36 37 33 3 10 3 0 0 13 7 0 0 4 0 0 4 .303 .378 .394 .772
1929 9 9 7 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 0 0 .000 .222 .000 .222
1930 3 2 2 1 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 .500 .500 .500 1.000
通算:25年 2826 12037 9949 1821 3315 438 187 47 4268 1300 744 173 1499 77 512 286 .333 .424 .429 .853
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はMLB歴代最高

ワールドシリーズでの打撃成績

  • 128打数42安打、二塁打7、三塁打2、盗塁14、打率.328

タイトル・表彰・記録

監督としての記録



















1924 C
H
W
AL 27 14 13 .519 6位 5月19日 - 6月18日、選手兼任
1925 154 79 75 .513 5位 選手兼任
1926 155 81 72 .529 5位
通算成績:3年 336 174 160 .521

出典

  1. ^ 山崎武 『野球博士のおもしろENCYCLOPEDIA PART2』 ベースボール・マガジン社、1989年、156頁。
  2. ^ 山崎、157頁。
  3. ^ 【8月20日】2003年(平15) 犠打職人・川相昌弘 73年ぶりに世界記録を更新”. スポーツニッポン (2007年8月20日). 2012年8月15日閲覧。

外部リンク