ウルホ・ケッコネン

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ウルホ・ケッコネン
Urho Kaleva Kekkonen
ウルホ・ケッコネン(1975年)
生年月日 (1900-09-03) 1900年9月3日
出生地 フィンランド大公国の旗 フィンランド大公国
クオピオ州 ピエラヴェシ英語版
没年月日 (1986-08-31) 1986年8月31日(85歳没)
死没地  フィンランド
ウーシマー州 ヘルシンキ
出身校 ヘルシンキ大学
前職 弁護士警察官ジャーナリスト
所属政党 農民同盟 (1956-1965)
フィンランド中央党 (1965-1982)
配偶者 シルビ・サロメ・ウイノ
サイン

在任期間 1950年3月17日 - 1953年11月17日
大統領 ユホ・クスティ・パーシキヴィ

在任期間 1954年10月20日 - 1956年3月3日
大統領 ユホ・クスティ・パーシキヴィ

在任期間 1956年3月1日 - 1982年1月27日
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ウルホ・カレヴァ・ケッコネンフィンランド語: Urho Kaleva Kekkonen [ˈurho ˈkekːonen] ( 音声ファイル)1900年9月3日 - 1986年8月31日)は、フィンランド政治家

司法大臣(1936–37, 1944–46, 1951)、内務大臣(1937–1939, 1950–1951)、エドゥスクンタの議長(1948–50)、外務大臣(1952–53, 1954)、首相(1950–53, 1954–56)[1]、第8代大統領(1956-1982)を務めた。

26年近く政権を担当し、専制的とも評された[2]

評価[編集]

ケッコネンは大統領として、前任者のユホ・クスティ・パーシキヴィから「積極的中立」政策を引き継いだ。これは、北大西洋条約機構ワルシャワ条約機構の何れの加盟国とも良好な関係と広範な貿易を維持し、フィンランドの独立を保持するというもので、パーシキヴィ=ケッコネン・ライン英語版として知られる一方、批判者からはその宥和的な方針を「フィンランド化」と蔑まれた。

1975年にはヘルシンキにおいて全欧安全保障協力会議を開催し、その年の有力なノーベル平和賞受賞候補者とされた。彼の外交・貿易政策は、ソビエト連邦という隣国の存在を前提としつつも、フィンランドの市場経済を西ヨーロッパ諸国から大きく劣後させることなく、フィンランドが欧州の統合プロセスへ漸進的に参加することを可能とした、とフィンランドの歴史家によって評価されている[3]。その一方で、権力への渇望や国内政治における分断統治の姿勢、純粋な野党の欠如が、特に政権の後期に於いてフィンランドの民主主義を著しく弱体化させることとなった[3]。ケッコネンの退任後、後任の大統領によって議会と首相の権限を強め、大統領の権限を弱めるようにするフィンランド憲法の改正が始まった。

幅広い政治経験の他にも、ケッコネンは作家としても知られている。大統領在任中にも友人のIlmari Turjaが編集長を務めた雑誌『Suomen Kuvalehti』に様々な偽名でユーモラスで情報に富んだコラム(causerie)を執筆したことが知られている。

人物[編集]

出典[編集]

  1. ^ Ministerikortisto”. Valtioneuvosto. 2009年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年12月21日閲覧。
  2. ^ Kekkonen, Urho. Kansallisbiografia (English edition). (The section "The rise to the position of 'autocrat'")
  3. ^ a b Kekkonen, Urho. Kansallisbiografia (English edition).

関連項目[編集]

公職
先代
ユホ・クスティ・パーシキヴィ
フィンランドの旗 フィンランド共和国大統領
第8代 : 1956年 - 1982年
次代
マウノ・ヘンリク・コイヴィスト