ウィリアムズF1

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ウィリアムズ・メルセデス
イギリスの旗 Williams
エントリー名 ウィリアムズ・レーシング
チーム国籍 イギリスの旗 イギリス
チーム本拠地 イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド
オックスフォード州
グローヴ
チーム代表者 マシュー・サベージ(ドリルトン・キャピタル会長)
サイモン・ロバーツ(チーム代表)
ヨースト・カピートCEO
フランク・ウィリアムズ(旧・創設者)
パトリック・ヘッド(旧・共同創設者)
テクニカルディレクター ダグ・マッキャナン(チーフエンジニア)
ドライバー {{{2024ドライバー}}}
テストドライバー {{{2024テストドライバー}}}
シャーシ {{{2024シャーシ}}}
エンジン {{{2024エンジン}}}
タイヤ {{{2024タイヤ}}}
F1世界選手権におけるチーム履歴
参戦年度 1977-
出走回数 チームとして
731 (727スタート)
コンストラクターとして
720 (719スタート)
コンストラクターズ
タイトル
9 (1980, 1981, 1986, 1987, 1992, 1993, 1994, 1996, 1997)
ドライバーズ
タイトル
7 (1980, 1982, 1987, 1992, 1993, 1996, 1997)
優勝回数 114
通算獲得ポイント 3,561
表彰台(3位以内)回数 312
ポールポジション 128
ファステストラップ 133
F1デビュー戦 チームとして
1977年スペインGP
コンストラクターとして
1978年アルゼンチンGP[1]
初勝利 1979年イギリスGP
2020年順位 10位 (0ポイント)
(記録は2020年最終戦アブダビGP終了時)
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ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング・リミテッドWilliams Grand Prix Engineering Limited)は、1977年から活動しているイギリスF1レーシング・チーム。創設者は、フランク・ウィリアムズおよびパトリック・ヘッド2020年にウィリアムズ家が経営権を手放し、現在は米国の投資会社「ドリルトン・キャピタル」がオーナーを務めている。

概要

1970年代に誕生したコンストラクターとしては最も成功を収め、過去にドライバーズタイトル7回、コンストラクターズタイトル9回(2019年時点)を獲得している。フェラーリマクラーレンと並び、F1を代表する名門チームである。

チームとしては「頑固なエンジニア集団」と表現されたこともあるように保守的な手法をとることが多い。実際、1980年代前半の車作りは保守的で[2]、同時期の優勝経験のあるチームの中ではカーボンファイバーモノコックの導入やターボエンジンへの切り替えは後発の部類となった。一方でタイトルスポンサーとしてキヤノンおよびロスマンズと契約していた時代には、多くのチャレンジを行っている。エンジン面ではターボエンジンでは当時F1の実績がないに等しかったホンダ製や自然吸気エンジンではF1で採用例がなかったV10で設計されたルノー製の採用などは、当時としては異例の決断でもあった。また、シャシー面ではフェラーリの次にセミオートマチックトランスミッションを採用し、ロータスと同時期にアクティブサスペンションを実戦投入し、それが失敗したにもかかわらず、開発を続け、1992年には完成の域に達して時のシーズンを圧倒。同時にルノーV10の採用をきっかけに後のトータルパッケージの概念の先便となるなど、1990年代前半の開発競争をリードした。他にも、ドライバーとの契約時に技術知識に関する筆記テストを行うユニークな特徴がある[3][4]

チーム内に明確な序列を設けず「チャンピオンは独力で勝ち取れ」という方針のため、コンストラクターズチャンピオンを獲得してもドライバーズチャンピオンを獲得できなかった年が数回ある。またドライバーに対してドライな態度を取る事も目立ち、チャンピオンを獲得したドライバーが契約を更新せずにチームを離脱することもあった(後述)。

2020年夏まではチーム株式の過半数をオーナーのフランク・ウィリアムズが所有しており、チーム関係者のパトリック・ヘッドや、アメリカの病院経営者であるブラッド・ホリンガーといった人物も大株主に名前を連ねていた他、元ウィリアムズのエグゼクティブディレクターで現在はメルセデスAMG F1のチーム代表を務めるトト・ヴォルフも株主の1人であった[5]

2020年8月21日にプレスリリースを発表。5月下旬に始まった戦略的な見直しによって導き出された結論により、ドリルトン・キャピタルに買収されたことが明らかになった。なお、ドリルトン・キャピタルによれば今後もチーム名とシャシー名は今まで通り”ウイリアムズ”と”FW”を使い続けるといい、「ウイリアムズの遺産を尊重し、維持することの重要性を認識している」としてファクトリーを含むチーム本社のグローブからの移転も計画していない[6]。9月3日にはフランク・ウィリアムズを筆頭とする取締役が解任され、ドリルトン・キャピタルの会長マイケル・サベージらが新たに取締役に就任したことが発表され[7]、ウィリアムズ家はチーム経営から離脱した。これにより家族経営のプライベーターチームとしてのウィリアムズの歴史に終止符が打たれることになった。

マスコミでの日本語の表記は、昔から小文字を使わない「ウリアムズ」が多い。

チームの歴史

1966年〜1976年 チーム創設と苦闘時代

1977年〜1983年 再出発から頂点へ

創設者フランク・ウィリアムズ
FW06・フォード
FW07・フォード

1977年、自ら興したフランク・ウィリアムズ・レーシングカーズを手放したフランク・ウィリアムズは、エンジニアのパトリック・ヘッドとともに新チームを設立。ウィリアムズが70%、ヘッドが30%を出資し「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」として再出発した。この年は一時的なつなぎとしてマーチ・761を購入して参戦した。

マーチのマシンで参戦し、1978年からのフル参戦の体制を整えるべくチームは奔走。ヘッドは部下のフランク・ダーニーニール・オートレイロス・ブラウンらを指揮して、強力な技術部門を構築。フランクはサウジアラビア航空の後援を受け、オーストラリア人ドライバーのアラン・ジョーンズと契約し、独立したチームとしてフル参戦できる環境を整えた。そして、1978年、再出発の純粋な第一号となるウィリアムズ・FW06を手にフル参戦を果たす。チームとしてグラウンド・エフェクト理論の研究が済んでいなかったことや資金不足から同マシンはあえて保守的な設計を取っていたが、コンストラクターズランキング9位とこれまで不遇だったウィリアムズにとっては大戦果を挙げることとなった。

1979年、チームはサウジアラビア航空アルビラッドTAGなど複数のサウジアラビア企業のスポンサーを獲得し、長年の資金難から脱した。その際、フランクは営業活動でサウジアラビアの王室関係者のオフィスにマシンを運び込み、「このマシンにあなた方の企業名が付いて走ります」と口説いたと言われている。この年の第5戦から研究を重ねて完成させたFW07を投入。そして、第9戦イギリスGPクレイ・レガツォーニがチーム初勝利を挙げ、残り6戦でさらに4勝をあげ、一気に優勝戦線に割り込んだ。

そして、1980年には初のコンストラクターズチャンピオンを獲得するとともに、アラン・ジョーンズをドライバーズチャンピオンへと導いた。

1981年にはジョーンズとカルロス・ロイテマンにより2年連続のコンストラクターズチャンピオンを獲得したものの、両ドライバー間の確執をうまく調整できなかったことから、ブラバムネルソン・ピケに最終戦でドライバーズチャンピオンを奪われてしまった。

1982年はターボエンジン勢に馬力で劣るものの、熟成されたFW08を駆るケケ・ロズベルグが堅実にポイントを積み重ね、わずか1勝で年間チャンピオンを獲得した。また、リヤを4輪にした6輪車のテストを続けていたが、規定変更により実戦には持ち出せなかった。

1984年〜1987年 ホンダとの提携

キヤノンカラーにICIロゴのFW11B・ホンダ

1983年は1勝に終わるが、スピリットにエンジンを供給していたホンダと契約し、同年末よりV6ターボエンジンを搭載した。ウィリアムズがターボエンジンを使うのはこれが初めてだったことに加え、ホンダエンジンの燃費や過渡特性の悪さもあり、すぐにはその能力を発揮することはできなかった。そんな中、1984年アメリカGPでロスベルグが優勝し、ホンダエンジンとしては17年ぶりの勝利をものにした。新たにスポンサーとなったインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)は80年代を通して円形のロゴをフロントに載せ続けた。

1985年にはキヤノンとのメインスポンサー契約が成立。ナイジェル・マンセルが加入し、FW10はホンダの新設計エンジンを搭載した。決勝レース中のタイヤ磨耗に苦戦したが、シーズン終盤にはサスペンションを改善し、シーズン最後に3連勝を飾った。ちなみにマンセルはその口火となる地元イギリスでの第14戦ヨーロッパGPが初優勝、出走72戦目で当時としてはデビュー後最も遅い初優勝だった。

1986年にはピケが加入。ホンダエンジンを武器に9勝し、3度目のコンストラクターズタイトルを獲得する。しかし、チーム内ではピケ派とマンセル派のいさかいが生じた。この背景は、当初は契約上ではピケがNo.1ドライバーとして加入したにもかかわらず、それに反発するようにチームが自国ドライバーのマンセルを優遇し、両ドライバーの険悪な関係を招いた。また、チームオーナーのフランクが交通事故により脊椎骨折の重傷を負い、下半身麻痺となり車椅子での生活を余儀なくされた。それでも、チームの指揮を執ったが、定期的な療養が必要であったため、リーダーとしてチーム内の混乱を収める余裕がなかった。さらに、フランクも含めウィリアムズ側がマンセルを支持していたのに対し、エンジンを供給するホンダはピケのウィリアムズ加入を推薦したことやその条件としてピケの契約金を一部負担していたことからピケを支持していたこともこの混乱に拍車をかけた。そのため、チームの混乱をつかれてマクラーレンアラン・プロストにドライバーズチャンピオンを奪われてしまった。

1987年はコンストラクターズを連覇し、ピケがマンセルとの戦いを制してチャンピオンを獲得した。また、ロータスに続いてアクティブサスペンションを投入し、イタリアGPで勝利している。ピケはチームへの不満が募り、このシーズン限りでロータスに移籍。ホンダも運営に不満を持ち、ウィリアムズへのエンジン供給を打ち切った。コース上では最速を誇ったものの、短期間に多くのものが失われる幕切れとなった。

1988年 ジャッド時代

ホンダターボを失った1988年は、ノンターボのジャッドエンジンを搭載したFW12で参戦。マンセルが2回2位を獲得したものの、ジャッドエンジンの戦闘力不足、アクティブサスの熟成不足により成績は低迷。シーズン中盤のイギリスGP以降はノーマルサスペンションに戻す羽目になり、1978年シーズン以来の未勝利に終わった。

マンセルはシーズン終了後フェラーリへ移籍した。

1989年〜1997年 ルノーとの黄金期

1989年にターボ禁止・NA統一が導入されるとルノーと契約し、マシンとエンジンの英仏共同開発路線を整えた。ルノーエンジンとのマッチングも上手くいったため、ジャッドとは比較にならない程の戦闘力に高まり、マンセルの後任となったティエリー・ブーツェンカナダGPではが遅咲きの初優勝を達成。最終戦も彼が制し、シーズンで計2勝を挙げた。

1990年にはリカルド・パトレーゼがサンマリノGPで久々の優勝をし、ブーツェンもハンガリーGPでポール・トゥ・ウィンを果たした。シーズン途中にはレイトンハウスから前衛的な空力設計者エイドリアン・ニューウェイが加入。堅実な性格のヘッドとの異なる個性が融合したFW14が生み出される。

FW14B・ルノー(1992年)

マンセルが復帰した1991年は序盤にセミオートマチックトランスミッションのトラブルが多発。その後マクラーレンを急追するも、チームのミスなどが祟り、タイトルを逃した。

1992年はアクティブサスペンション[8]トラクションコントロールを搭載したハイテクマシン、FW14Bが他チームを圧倒する速さで計10勝を挙げ、マンセルと共にダブルタイトルを獲得した。しかし、マンセルはチームとの契約更新を巡る関係悪化から突如F1引退を表明(後にアメリカのCARTへ転向)、パトレーゼもチームの方針に嫌気を指し、ベネトンへ移籍した。

FW15C・ルノー(1993年)

1993年はFW14Bの正常進化形であるFW15C[9]を投入、1年間の休養から復帰したアラン・プロストと、テストドライバーから昇格したデイモン・ヒルがコンビを組んだ[12]。前年チャンピオン不在のためカーナンバーは"0"と"2"となるが、プロストはフランス語で無能を示唆する"0"ではなく"2"を選んだ。プロストは4度目のタイトル獲得を最後に現役を引退し、ヒルは後半戦にかけて初優勝をふくむ3勝を挙げた。ウィリアムズは1992年から1993年にかけて24戦連続ポールポジションという記録を残し、F1マシンの電子制御の進化を牽引した。このシーズンを持ってメインスポンサーだったキヤノン、およびキャメルとの関係が終了。慣れ親しまれた「青・黄・白・赤」のカラーリングも見納めになった。

FW16・ルノー、ウィリアムズの1990年代を象徴するロスマンズカラー

1994年ロスマンズが新たにメインスポンサーとなり、ウィリアムズ入りを熱望していたアイルトン・セナが加入した。シーズン開幕前からこの組み合わせでチャンピオンは決定しているとさえ言われたが、ハイテクデバイス禁止を受けてデザインされたFW16は極端に不安定な特性をもち、ベネトンミハエル・シューマッハに開幕連勝を許す。さらに第3戦サンマリノGPではセナがタンブレロコーナーのコンクリートウォールに激突、帰らぬ人となった(この事故以降、ウィリアムズのマシンにはセナのSマークが刻まれている)。イタリアの検察は過失致死の疑いでチーム首脳を告訴し、以後10年以上に渡り裁判が続くことになる(2005年に全員無罪が確定)。セナの後任にはテストドライバーのデビッド・クルサードが昇格したが、CARTの合間を縫ってマンセルもスポット参戦した。突如としてエースの重責を負うことになったヒルは、シューマッハが失格や出場停止となる間にポイント差を縮め、最終戦オーストラリアGPでの直接対決に持ち込んだが、シューマッハとの接触により涙を呑んだ(コンストラクターズは3連覇達成)。

1995年はベネトンもルノーエンジンを獲得し、同エンジンでの対決が注目された。予選の速さにおいてはベネトンを上回っていたが、シューマッハとロス・ブラウンの作戦に翻弄されたり、チームやドライバーのミス、FW17の信頼性に難があったことなどが災いし、ベネトンとシューマッハにダブルタイトルを奪われる結果に終わる。ヒルは「ウィリアムズは勝つ為なら手段を選ばないチームではなかった」「ベネトンは実質的にミハエル・シューマッハーのワンマンチームだから、彼を徹底的にマークすれば当然勝機は増す。でもウイリアムズはそう言う戦い方を選ばない矜持を持っていた」と当時を語っている[13]

FW18・ルノー(1996年)

1996年はマクラーレンに移籍したクルサードに代わり、CARTチャンピオンのジャック・ヴィルヌーヴが加入し、ヒルと二世ドライバーコンビを組む。ヴィルヌーヴはデビュー戦からポールポジションを獲得しあわや優勝と言う電撃的デビューを飾る。FW18が16戦12勝を挙げるほど他チームを圧倒する戦闘力を誇ったこともあり、チャンピオン争いはヒルとヴィルヌーヴの一騎打ちとなる。最終戦日本GPでヒルは史上初の親子二代チャンピオンを決定するも契約延長交渉が決裂、マンセル同様にチャンピオンがチームを去ることになった。そしてこの一件がニューウェイの堪忍袋の緒が切れる最後の一押しとなってしまい(これに関する事前の相談もなかった)[14][15]、後述の理由もあり、ニューウェイはマクラーレンへの移籍を決断することとなった。ヒルの放出を強行した詳細は不明だが、これは翌1997年をもってルノーのワークス活動撤退が確定したことに伴い、ウィリアムズ側が新たにBMWエンジン獲得のためにドイツ人ドライバーとの契約を必要としていたためという説が有力である。

この時期の出来事について後年のインタビューでいくつか語られており、フランクは、ニューウェイのチームの株式保有に関して難色を示したこと[16]が結果的にニューウェイ離脱を招いたとして自分のミスだったとも認めている。ただし、ニューウェイ[17]はチーム側がドライバー人事に関する約束を守らなかったことを挙げている。その背景には1992年のチームとマンセルを巡る一連の出来事を受け、それ以降はドライバーの選択に関して自分の意見を取り入れることを条件に契約を延長していた。しかし、1996年のドライバー選択でもテスト走行の結果で見切るはずだったヴィルヌーヴを起用し[18]、さらに、個人的に親しかったヒルを放出して1997年はハインツ=ハラルド・フレンツェンを獲得すると事後報告されたため、そのやり方に嫌気がさし、チームにこれ以上留まらないことを決断した。そんな時期にメルセデスエンジンの開発を担当するイルモアの代表者マリオ・イリエンマーチ時代の友人)から、メルセデスエンジンを搭載するマクラーレンへの加入を誘われた、と語っている[19]。一方でヘッドはニューウェイがマクラーレン代表のロン・デニスと交渉していることを示唆する書類を偶然目にし、その交渉内容はチームが応じられない内容であることが判明。それで半ば諦めたと語っている[20]

どのような経緯があったとしても、後年フランク・ウィリアムズ自身が「ヒル放出」を「あれは大きな失敗だったな」と認める[21]ほどであり、FW19での活躍を最後にBMWのワークスエンジンを得るまで一旦チームは低迷期に入ることとなる[14]

1997年はヒルに替わりハインツ・ハラルド・フレンツェンが加入。だが、ニューウェイは最後の仕事としてFW19の完成を見届けると同時に出社を拒否。そのため、チームとの間で法廷闘争にまで発展[22]。チーム内の混乱はあったが、FW19が依然優位というのが大方の予想であった。ところが、ヒルやニューウェイといったマシンに精通した人材に一時的に穴が開いてしまったことにより、マシンのセッティングに苦慮し[23]、チームの戦略ミス[24]などもあって、ヴィルヌーブとフェラーリのシューマッハの激しいタイトル争いとなった。最終戦ヨーロッパGPの直接対決では、シューマッハとの接触を乗り切ったヴィルヌーヴがチャンピオンを獲得し、コンストラクターズタイトルも制した。このシーズン末をもってルノーは予定通りF1から撤退、9年間に渡る蜜月関係にピリオドが打たれた。

1998年〜1999年 ワークスエンジン不在の苦戦

ウィンフィールドカラーに衣替えしたFW20・メカクローム

1998年はスポンサーブランドがロスマンズからウィンフィールドに変更され、FW20は同チームでは珍しい赤いマシンカラーとなった。だが、エンジンは元々カスタマー仕様のルノーエンジンの供給を請け負っていたメカクロームとなり、ルノーエンジンという点では変わりなかったが、その内容は前年のルノーRS9(1997年型)を改修したカスタマー供給であった。そのうえ、ニューウェイが去ったこともあり、マシン開発におけるレギュレーション変更の対応に後手に回り、シャシーの戦闘力不足に悩んだ。最終的にはチームとしては1988年以来の未勝利に終わり、コンストラクターズランキングこそ3位を確保したものの、移籍したヒルが第13戦ベルギーGPで初勝利をプレゼントしたジョーダンに肉薄されてしまった。シーズン終了後にはヴィルヌーヴとフレンツェンは揃ってチームを離脱した。

1999年はエンジン名をスーパーテック(供給はメカクローム)とし、5年ぶりのF1復帰となるCARTチャンピオンアレッサンドロ・ザナルディとフレンツェンと入れ替わりでジョーダンから加入したラルフ・シューマッハのラインナップとなったが、タイトル争いどころかレースでの優勝争いからも遠ざかった。鳴り物入りで加入したザナルディは精彩を欠き、第13戦イタリアGPで予選4位を獲得したこと以外は振るわず、結果的に1ポイントも獲得できなかった。シューマッハも第14戦ヨーロッパGPで一時首位を走行するなど健闘は見せたものの、優勝争いには絡めなかった。結局この年はジョーダンとスチュワートに抜かれコンストラクターズ5位に終わり、1988年以来11年ぶりにトップ4陥落の屈辱を味わった。

2000年〜2005年 BMWとのワークス期

FW26・BMW
いわゆる「セイウチノーズ」のマシン

ホンダ、ルノーに続くパートナーとして、F1に復帰したBMWと提携。ル・マン24時間レースでの共同プロジェクトを経て、2000年より2009年までの長期契約を締結した。登録名はBMWウィリアムズF1 (BMW Williams F1) となり、マシンカラーリングもBMWワークスの白と紺を基調としたものに変わった[25]。2000年はラルフ・シューマッハと、テストで抜擢した新人ジェンソン・バトンのコンビで戦い、シューマッハが開幕戦を含む3回の3位表彰台を獲得し、コンストラクターズ3位となった。

2001年には同じく復帰したミシュランタイヤと組み、タバコスポンサーとの離脱を宣言する活動を進めた。シューマッハが初優勝を含む3勝を挙げ、CARTから加入したファン・パブロ・モントーヤも初優勝するなど、新体制2年目で結果が表れ始めた。2002年はフェラーリに圧勝を許すも、公称1万9,000回転のBMWパワーを武器にモントーヤが5連続を含む7ポールポジションを獲得。タイトルを獲得した1997年に次ぐ成績となるコンストラクターズ2位を獲得を果たした。

2003年は序盤戦は低迷するも、FW25の改良とミシュランとのマッチングにより中盤以降4勝(シューマッハ2、モントーヤ2)を挙げ、最終戦までフェラーリとコンストラクターズタイトルを争い、順位こそ前年に準じた位置であったが、ポイント面ではBMWエンジン時代として最高の成績を記録することとなった。結果的に1997年以来最も両タイトルに近づいた年となったが、この年を最後にタイトル争いに関わることがなくなり、ここからチームの凋落が表面化することとなる。

2004年FW26の特異なハイノーズ(通称「セイウチノーズ」)が失敗し、最終戦ブラジルGPでのモントーヤの1勝に留まった。この年にはパトリック・ヘッドがテクニカルディレクターを退き、後任にはサム・マイケルが就任した。

2005年シーズンはドライバーを一新してマーク・ウェバーニック・ハイドフェルドが加入したが、前年来のシャシー設計(特に空力部門)の失敗により2000年以来の未勝利、1999年以来のコンストラクターズ順位トップ4からの陥落(5位)という不本意なシーズンに終わった。成績の低迷とチーム運営への方針を巡ってBMWとの関係は悪化。BMWはザウバーを買収してコンストラクターとして参戦することを決意したことから、ウィリアムズとの長期契約は2005年限りで打ち切りとなり、結果的にワークスエンジンとして供給された最後のシーズンとなった。また、この2年に渡りB・A・Rとの間で争われたジェンソン・バトンの契約問題(通称「バトン・ゲート」)は、バトン自身がウィリアムズに多額の違約金を支払いB・A・Rに残留するという結末となった。

2006年 「プライベーターチーム」として

FW28・コスワース

BMWとの離別後はトヨタやホンダとの交渉が噂されたが、どれも実現には至らなかった。V8・2400ccエンジンへ変更となる2006年コスワースと契約し、自動車メーカーのワークス化というF1界の潮流に逆らうように、「プライベーター」として参戦することとなった。また、タイヤメーカーもミシュランからブリヂストンへ変更された。ドライバーはウェバーが残留し、GP2初代チャンピオンであり、かつてウィリアムズでチャンピオンを獲得したケケ・ロズベルグの息子であるニコ・ロズベルグを起用した。

開幕戦でロズベルグがデビュー戦でファステストラップを記録するなど出だしは悪くなかったが、ワークスチームには遠く及ばず、コスワースエンジンも全くの信頼性不足でリタイヤが多く、現体制になって以来最悪のコンストラクターズランキング8位でシーズンを終えた。

2007年〜2009年 トヨタとの提携

トヨタエンジン搭載のFW27 中嶋車

2007年にはトヨタと契約し、2009年までカスタマーエンジンの供給を受けることになった。AT&Tがメインスポンサーになり、チーム名はAT&Tウィリアムズ (AT&T Williams) とされた。ドライバーはロズベルグが残留し、3rdドライバーのアレクサンダー・ヴルツがレースドライバーに昇格した。最終戦のブラジルGPではヴルツのF1引退を受け、トヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム出身の中嶋一貴中嶋悟の息子)がF1デビューした。マクラーレンの失格やワークスチームの失速に伴い、最終的にトヨタを上回るコンストラクターズランキング4位を獲得した。

2008年はチーム創設30周年にあたり、シーズン中に出走500回(トルコGP)、決勝レース50000周回(スペインGP)を達成した[26]。ドライバーは3年目のロズベルグとレギュラーに昇格した中嶋という、ヒル・ヴィルヌーヴ以来の二世コンビ。ロズベルグが2度表彰台を獲得したものの入賞の機会は少なく、コンストラクターズランキング8位に後退した。また、2009年に導入されるKERSの開発を見越してオートモーティブ・ハイブリッド・パワー社の株式を少数取得し、「ウィリアムズ・ハイブリッド・パワー」に改称してチームファクトリーに移転した。

2009年は大幅なレギュレーション変更があったが、レギュレーションの穴を突き、2層ディフューザを投入し議論の的となった。しかし、最終的にFIAから許可が出されたため他チームもこれを追随する形となった。シーズン序盤は2層ディフューザもあり、ウィリアムズの成績も序盤は上向くかと思われたが、信頼性の不足や中嶋がノーポイントに終わる不調もあり、コンストラクターズランキング7位に終わっている。今シーズンから規約で認められたKERSであったが、ウィリアムズは全F1チームの中で唯一フライホイール式のKERSを開発していた。しかし、実戦に投入されることはなかった。

トヨタとのエンジン供給契約はあと1年残っていたが、2009年10月14日にトヨタからウィリアムズへのカスタマー供給の打ち切りが発表され[27]、2009年末に契約を前倒しして終了する形となった。これに伴い、2010年に使用するエンジンはコスワースとなる事も後日発表された。

2009年12月にはウィリアムズの株式をトト・ヴォルフに少数売却したことを発表した。のちに、売却比率が全体の10%であり、フランクが63%、ヘッドが27%を引き続き所有していることが明らかにされた[28]

10年ほどスポンサーを務めたアリアンツが離脱・新興メルセデスGP(後年AMGがつく)のスポンサーとなった。

2010年〜2011年 再度コスワースへ

ニコ・ヒュルケンベルグがドライブするFW322010年マレーシアGP

2010年に投入したマシンFW32ではエンジンをトヨタからコスワースにスイッチした。また、ドライバーラインナップを一新し、ロズベルグとのトレードでブラウンGPからルーベンス・バリチェロを起用した。中嶋の後任にはテストドライバーから昇格したニコ・ヒュルケンベルグとなった。テスト・ドライバーにはバルテリ・ボッタスと新しく契約した。ブラジルGPにてヒュルケンベルグがチームにとって5年ぶり、コスワースエンジンにとって11年ぶりとなるポールポジションを記録した。しかし最終戦アブダビGP終了後の11月15日に、ヒュルケンベルグがチームを離脱し、同時にバリチェロとの契約を翌年も継続することが発表された[29]

2008年末からの金融危機が原因でRBS(ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド[30]が、オランダの家電機器メーカーのフィリップス[31]が、それぞれスポンサーを降りた。

2011年シーズンはバリチェロが残留する一方で、ヒュルケンベルグの後任としてベネズエラ人ドライバーのパストール・マルドナドを起用することを発表し、これに伴いPDVSA(ベネズエラ国営石油会社)などベネズエラ資本の複数のスポンサーを獲得。しかしそれでもRBS・フィリップスらの離脱による収入減少を補いきれない(一説には43%もの減収となったとされる[32])ため、チームはレーシングチームとしては異例となる自社の株式公開を計画し、2011年3月2日にフランクフルト証券取引所に株式を上場することを発表した[33]。フランク・ウィリアムズは株式の過半数を保有し続けるものの、主にパトリック・ヘッドらの所有株を中心に、発行済株式の約27%が市場に放出される。

この年は自社製超コンパクトギアボックス(十分な信頼性は確保されていた)以外に目立った体制変更はなかったが、5ポイント・コンストラクターズランキング9位という2006年以上の不振のシーズンとなった(2006年当時のポイントシステムに換算するとこの年のウィリアムズはノーポイントである)。このためテクニカルディレクターのサム・マイケルを始めとする首脳陣が責任を取る形でチームを離脱。またフランク・ウィリアムズと共に同チームを長年率いたパトリック・ヘッドも関連会社の運営に専念することになりF1の現場を離れた[34]。さらに過去5年にわたりメインスポンサーを務めたAT&Tが2011年末をもって降りた。

2012年〜2013年 ウィリアムズ・ルノー復活

バルテリ・ボッタスがドライブするFW352013年マレーシアGP

2012年シーズンからルノーが15年ぶりにエンジンを供給することが2011年7月に決定。契約は2013年までの2年間で、エンジンのレギュレーションが変更される2014年はオプションとなっている[35]。ドライバーはバリチェロに代わりブルーノ・セナが起用された。また同年4月1日付でフランク・ウィリアムズはF1チームの取締役から退くことになった(ただし引き続きチーム代表を務め、役員会議には出席を続けるとのこと)。ウィリアムズ家の代表として、役員会には引き続きフランクの娘クレアが出席する。彼女はチームの広報部門に10年務めており、今回ドミニク・ライリーの退社を受けてマーケティング&コミュニケーションディレクターに昇進した[36]。第2戦マレーシアGP終了後の3月26日、フランク・ウィリアムズの後継者と見なされていたアダム・パーが3月30日付でウィリアムズ・グランプリ・ホールディングズPLCを退職することを発表。これを受け、ディアジオの前CFOで現在WPGHと2つのFTSE100企業の非常勤取締役を務めるニック・ロースが非総裁(Non-Executive Chairman、非常勤会長)に就任。支配株主のフランク・ウィリアムズが、株主で非常勤取締役のトト・ヴォルフ、経営最高責任者のアレックス・バーンズ、残りの取締役のサポートを受けながら会社の監督を続けていく[37]。第5戦スペインGPでは、パストール・マルドナドが自身初のポールポジションを獲得。決勝ではスタート時にフェルナンド・アロンソに抜かれ2位となったものの、ピットストップのタイミングが功を奏し1位に逆転。後半では2位となったアロンソからの追随をも守りきり、ウィリアムズにとって8シーズン・7年半ぶりとなる優勝を獲得した。しかし、レース終了後の優勝祝いの最中にガレージの燃料庫から出火、火災が発生という災難に見舞われた。幸いに命に関わるような重篤な負傷者はいなかったもののFIAによると、この火災で3チームの計31人が負傷したとのこと。貴重なデータを収めたコンピューターも廃棄となり、それらについて当面は他チームから借り受けて運用することになった。その後、マルドナドは光る速さは持っていたものの、安定性に欠けていたが終盤には再び安定したドライビングをし、セナはマルドナドほどの速さはなかったものの予選下位から追い上げる粘り強さやクレバーな走りで中団争いをすることもしばしばあり、76ポイントでランキング8位となった。同年11月にマルドナドの2013年の残留と、リザーブドドライバーだったバルテリ・ボッタスをレギュラードライバーとして起用することが発表された[38]

2013年、フランク・ウィリアムズの後継者と目されていたトト・ヴォルフがメルセデスチーム代表に就任したことからウィリアムズとの関係を次第に解消する動きに出る(2016年3月に全株式を手放した)。マシンは一転して2年前の性能に逆戻りしたかのような戦闘力に苦労する事となった。予選最高位はカナダでのマルドナド13位ボッタス3位、決勝はマルドナドが第10戦ハンガリーGPの10位、ボッタスが第18戦アメリカGPの8位で、チーム成績は2年前の5ポイント・9位と同じになった。8月にパット・シモンズがチーフテクニカルオフィサーに就任した[39]。シーズン終盤にマルドナドはチーム離脱を表明、ロータスへの移籍を発表した。

2014年〜 メルセデスとの提携

フェリペ・マッサがドライブするFW362014年中国GP

2014年からF1のエンジンレギュレーションが大きく変更されることから、2013年5月にウィリアムズは、2014年より新たにメルセデスからエンジン供給を受けることを発表した[40]。メルセデスはウィリアムズにエンジン及びエネルギー回生システム(ERS)を含むパワーユニット(PU)を供給するが、トランスミッションはウィリアムズが独自開発する。ドライバーは残留したボッタスとフェラーリからフェリペ・マッサが移籍。テスト段階では従来の紺ベースだったが、マルティーニ・エ・ロッシとの大型スポンサー契約がまとまり、チーム名や塗装にマルティーニの意向が反映され、白地に赤青ストライプが車体に描かれた。2008年を最後に離れていたペトロブラスブラジル人のマッサ加入に伴いスポンサーに復帰。マルドナドが離脱したもののPDVSAは契約期間が残っていた為に残り期間のスポンサー料が違約金として支払われ、BMWエンジンを失って以後、最も潤沢な資金を得てシーズンに臨む事となった。それでもフェラーリの半分の年間予算[41]である。 開幕戦オーストラリアGPではボッタスが前年を上回る5位入賞を果たし、開幕戦の段階で前年の成績を上回った。続く第2戦マレーシアGP第3戦バーレーンGPでもマッサ7位、ボッタス8位の2戦連続のダブル入賞が続く。第8戦オーストリアGPの予選ではマッサがポールポジション(PP)、ボッタスが2番手とフロントローを独占した。ウィリアムズのPPは2012年第5戦以来[42]となるが、フロントローを2台独占したのは2003年フランスGP以来の11年ぶりの出来事であった。なお、マッサ自身にとっても2008年ブラジルGP以来6年ぶりのPP獲得であった[43]。決勝は序盤トップと2位を先行したが、ピット作戦でメルセデス勢に逆転を許しマッサ4位、ボッタス3位初表彰台という結果となった。次戦イギリスGPではボッタスが14番手スタートながらも決勝で2位表彰台を獲得。また、最終戦のアブダビGPではダブルポイントの効果もあり、2台で66ポイントを獲得。これにより、1レースで獲得したポイントが最も多いチームとしての記録を残した。この年はフェラーリとロータスの不振もあったが、未勝利ながらも年間ランキング3位と2003年以来の好成績をあげトップチーム返り咲きを果たしたと思われた。

バルテリ・ボッタスがドライブするFW372015年カナダGP

2015年もボッタス、マッサのコンビで参戦。序盤は表彰台に上がれないレースが続いたが、第7戦カナダGPでボッタスが、続く第8戦オーストリアGPでマッサが表彰台を獲得する。第9戦イギリスGPではマッサ、ボッタス共に2列目につけ、ロケットスタートでメルセデスを抜き去り1-2体制でレースを進めていた。しかしピット作戦でメルセデス2台に逆転されると、終盤に雨が降り出した際にウェットタイヤへ交換するタイミングを誤り、フェラーリのセバスチャン・ベッテルにも逆転されマッサ4位、ボッタス5位に終わった。 シーズンを通してメルセデス、フェラーリの後塵を拝するレースが多かったものの、レッドブルの不振もあり、コンストラクターズは前年と変わらず3位、個人ランキングではボッタス5位、マッサ6位となり、結果だけ見れば、前年に近い成績でシーズンを終えた。だが、総獲得ポイントは減少し、前年がチームとして全戦入賞を果たしたのに対し、今季は入賞を逃したGPや前述のようなチャンスのある場面を生かせておらず、現に表彰台は両ドライバーとも2回ずつに留まるなど、この時期最強とされていたメルセデスPUを搭載していたため、下位チームに対しては優勢を保っていたものの、この年優勝したチームには後れを取っており、それが反映したような成績となってしまった。そして、この年以降、チームの位置付けは、相対的に下がってゆくこととなる。

2016年もドライバーは変わらず。序盤は2015年と同じような成績であったがシーズンが進むにつれてポイントを獲得するのが精一杯という状況になっていき、メルセデス、レッドブル、フェラーリから大きく差をつけられた。表彰台もカナダGPでのボッタスの3位のみとなり、同じメルセデス製PUを使用するフォース・インディアが3位を2度獲得したこともあり、コンストラクターズ5位に後退した。イタリアGPでマッサがこの年で限りで引退することを発表した。また、テクニカルディレクターのパット・シモンズがこの年をもってチームを離脱[44]

最終年となったマッサがドライブするFW40

2017年は「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」としてのF1参戦40周年を迎えることから、順番通りのFW39ではなくシャシー名称を「FW40」とした[45]。ドライバーは当初、マッサの引退を受け、ボッタスの残留と前年ウィリアムズのリザーブドライバーを務めていたランス・ストロールの昇格を発表していた[46]。しかしその後、前年度王者のニコ・ロズベルグの電撃的引退に伴いボッタスがメルセデスに移籍し、その影響でマッサは引退を撤回して引き続きウィリアムズで走ることとなった[47][48]。ストロールには父親であるローレンス・ストロールによる資金提供が強く関わっているとの声が強く、ウィリアムズの資金難を示唆していた。なお、ウィリアムズで10代のドライバーが走るのは史上初のことである。メルセデスを離脱したパディ・ロウチーフテクニカルオフィサー(CTO)[49]、前年末にフェラーリを離脱したディルク・デ・ビアが空力責任者にそれぞれ就任し技術陣の強化を行った[50]

ストロールは開幕3戦でリタイアを喫し経験不足を露呈するが、初の母国レースとなる第7戦カナダGPで9位入賞を果たすと、次のアゼルバイジャンGPでは3位に入り、初の表彰台に立った。オーストリアGPでは予選ではマッサ17位、ストロール18位と低迷するも決勝ではマッサ9位、ストロール10位にまで追い上げ今シーズン初のダブル入賞を果たした。ハンガリーGPはマッサが体調不良を訴え欠場したため、リザーブドライバーのポール・ディ・レスタが代走を務めた[51]。ほとんどのGPで入賞はし、1年を通じてトップ3チーム(メルセデス、フェラーリ、レッドブル)以外のドライバーとしてストロールが1回だけだが表彰台に上がったものの、ダブル入賞の回数が大幅に減り(前年10回、今季3回)、ランキングこそ昨年の5位と変わりはなかったが4位のフォース・インディアにはダブルスコアを付けられる結果となった。また、マッサはシーズン後半に改めて引退を表明した[52]

期待外れに終わったFW41

2018年1月16日、ストロールの残留とセルゲイ・シロトキンの起用、そしてロバート・クビサのリザーブ兼開発ドライバー就任が発表された[53]。開幕を前に、2014年からタイトルスポンサーとなっていたマルティーニが2018年をもって契約終了となることが発表された。マルティーニは25歳以上のドライバーを起用することを要望していた(マッサが2017年に引退を撤回した要因の一つでもあった)が、ストロールは19歳、シロトキンは22歳と条件を満たしておらず、今回のドライバー選択が契約終了の一因ではないかとの見方をされていたが、クレア・ウィリアムズはこれを否定している[54]。パディ・ロウの手による新車FW41に期待が高まったものの空力に問題を抱え[55]、5月にはチーフデザイナーのエド・ウッドと空力責任者のディルク・デ・ビアが相次いで離脱し[56][57]、パフォーマンスエンジニアリング責任者のロブ・スメドレーもシーズン終了をもって離脱する事態に陥った[58]。そのため、戦闘力強化の一環で自社開発を続けて来たトランスミッションもメルセデスからの供給に切り替える報道[59]が出るほどであり、入賞したのはストロールが第4戦アゼルバイジャンGPで挙げた8位とダブル入賞を果たした第14戦イタリアGPの2戦(イタリアGPのダブル入賞のうち、シロトキンの入賞は上位のドライバーが失格になったこともあってのものであった)のみで、コンストラクターズランキング最下位へと転落した。そんななか、ストロール家率いるコンソーシアムが破産宣告を受けたフォース・インディアを買収し、ランス・ストロールも同チームから名称を変更したレーシング・ポイントへ移籍。シロトキンも持参金が用意できなかったことや資金難の影響で交代させられる形となり、わずか1年でF1から去ることとなった。

低迷が続いたFW42

2019年、前年の予告通りマルティーニとの契約が終了したため、今期は携帯電話会社の「ROKiT(ロキット)」と新たなタイトルスポンサー契約を結び、『ロキット・ウィリアムズ・レーシング』の名でエントリー[60]。リザーブドライバーのクビサが正ドライバーに昇格して9年ぶりにF1復帰、メルセデスのリザーブドライバーを務めた新人ジョージ・ラッセルとのコンビとなる。新車FW42は合同実走テストに2日半参加できず大幅なハンデとなり、開幕1週間前にCTOのパディ・ロウが事実上更迭された[61]。開幕戦オーストラリアではクビサ、ラッセル共々予選・決勝共に最下位に甘んじ、その後のレースでも下位に低迷。チームは人員の再編を行い、パトリック・ヘッドがコンサルタントとして8年ぶりにF1へ復帰、アダム・カーターがデザイン責任者の役割を引き継いだ[62]。第11戦ドイツGPでクビサが10位となりノーポイントは免れたが、上位のドライバーのペナルティによる繰り上がりでの入賞であった[63]。結局、ドイツGPの入賞で獲得した1ポイントがシーズン唯一のポイントとなり自力入賞は一度もないままシーズンを終えた。7月にROKiTと2023年まで、9月にメルセデスPUと2025年までの長期契約をまとめた。シンガポールGP記者会見でクビサがチーム離脱を発表した。また、2年連続最下位については、2018年はペイドライバーの能力不足や資金難を理由にした苦戦と思われていたが、2019年は改善どころか悪化したことから、第3者から見ても、パディ・ロウを含めたマシン開発の失敗という見方が強くなったものの、これ以上言い訳のできない状況に追い込まれつつあった。

2020年、ドライバーはラッセルが残留し、リザーブドライバーを務めていたニコラス・ラティフィが昇格[64]。技術部門も刷新され、レッドブルからデイビッド・ワーナー、ルノーからジョナサン・カーターが移籍してチーフデザイナー、副チーフデザイナー兼デザイン部門責任者にそれぞれ就任し、デザイン部門のアダム・カーターがチーフエンジニアに就任[65]。マクラーレンからサイモン・ロバーツをマネージングディレクターに迎えた[66]。今季はクラッシュテストの素早い合格[67]やマシンの戦闘力の改善の成功といった明るい兆し[68]見せ、チームの低迷に終止符を打つシーズンになるかと思われていた。ところが、世界的な問題による開幕延期に伴い、チームの資金難に拍車がかかることとなった。プレシーズンテストの頃でさえ、深刻な資金難に陥っており、関連会社のウィリアムズ・アドバンスド・エンジニアリングの株式を前年末に過半数売却し[69]参戦用の資金を確保。ラティフィの起用は金銭面が理由ではないとしながらも、彼が関連するスポンサーが多数参加しており[70]、それを否定することもできなかった。そのうえ、シーズンが凍結されていることにより、レースで得られる収入が一時的に消滅してしまったため、施設や歴代マシンなどを担保に運営資金の緊急調達[71]に迫られる事態となった。それに追い打ちをかけるかのように、チームからタイトルスポンサーのROKiTが5月29日付で契約が即時終了されたことが発表され、その分の収入も喪失。そのため、チーム株式の過半数あるいはチーム自体の売却を検討し始める事態[72]となった。

2020年〜 チーム売却、新たな体制に

2020年8月21日、アメリカの投資企業、ドリルトン・キャピタル(Dorilton Capital)に1億5200万ユーロ(約190億円)でチームを売却したことを発表した[6]。チームのオーナーシップはドリルトン・キャピタルに移るが、チームはグローブの拠点に留まり、ウィリアムズとしてF1への参戦は続ける[73]。そして9月初頭の第8戦イタリアGPをもって、フランク・ウィリアムズら首脳陣が正式に退任[7]。43年に及ぶウィリアムズ家の運営に終止符が打たれた。後任のチーム代表には、残留したマネージングディレクターのサイモン・ロバーツが臨時で務める[74]

今季はラッセルが前年届かなかった予選Q2に何戦か進出したが、ラッセル1度、ラティフィ3度の11位が最高位であり、チーム史上初(フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ時代は除く)の年間無得点に終わった。

F1以外の活動

ウィリアムズはF1以外にも過去に下記のような活動を行っている。

新人の登竜門

かつては、レギュラードライバーは30歳代のベテランしか起用しなかったり、技術も保守的といわれていたウィリアムズだが、1990年代半ば以降のドライバーに関しては、ザウバーミナルディジョーダンほどではないが、新人ドライバーを起用することがある。この傾向は新人を自分のチームでF1デビューさせることはめったにないフェラーリ、マクラーレンとは大きく異なる。ウィリアムズからF1デビューしたドライバーとしてデビッド・クルサード、ジャック・ヴィルヌーヴ、ジェンソン・バトン、ファン・パブロ・モントーヤ、ニコ・ロズベルグ、中嶋一貴、ニコ・ヒュルケンベルグ、パストール・マルドナド、バルテリ・ボッタス、ランス・ストロール、セルゲイ・シトロキン、ジョージ・ラッセル、ニコラス・ラティフィがいる。 このうちヴィルヌーヴ、バトン、ロズベルグはワールドチャンピオンを獲得している。しかし2010年代になるとチームの財政的な運営状態が厳しくなり、ストロールの起用を筆頭にチームに資金をもたらす「ペイドライバー」の起用を優先することが増えてきている。

なお、1983年にイギリスF3参戦中のアイルトン・セナをテストをさせており、早くからセナの才能に目をつけていた。ただし、当時のウィリアムズの方針では、セナはまだ若いということでレギュラードライバーとしての起用は見送られた。

ウィリアムズでF1初勝利を記録したドライバー

歴代のウィリアムズドライバーの中で10名がウィリアムズでF1初勝利を達成している。

ウィリアムズでドライバーズタイトルを獲得したドライバー

変遷表

エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン 燃料
オイル
ドライバー ランキング ポイント 優勝数
1969年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ ブラバムBT26A D フォードDFV
(3.0L V8)
ガルフ ピアス・カレッジ - - -
1970年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ デ・トマソ505/38 D

G

フォードDFV BP ピアス・カレッジ
ブライアン・レッドマン
ティム・シェンケン
- - -
1971年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ マーチ701
マーチ711
G フォードDFV モチュール アンリ・ペスカロロ
ジャン・マックス
- - -
1972年 チーム・ウィリアムズ・モチュール マーチ711
マーチ721
(ポリトイ)FX-3
G フォードDFV モチュール アンリ・ペスカロロ
カルロス・パーチェ
NC 0 0
1973年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ (イソ-マールボロ)
FX-3B
IR
F フォードDFV フィナ アンリ・ペスカロロ
ハウデン・ガンリー
ジャッキー・イクス
10位 2 0
1974年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ (イソ-マールボロ)
FW01,FW02,FW03
F フォードDFV フィナ アルトゥーロ・メルツァリオ
ジャック・ラフィット
10位 4 0
1975年 フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ FW02,FW03
FW04
G フォードDFV フィナ アルトゥーロ・メルツァリオ
ジャック・ラフィット
9位 6 0
1976年 ウルフ-ウィリアムズ・レーシング
Mapfre-Williams(FW04)
(ウルフ-ウィリアムズ)
FW04
FW05
G フォードDFV フィナ ジャッキー・イクス
アルトゥーロ・メルツァリオ
クリス・エイモン
ワーウィック・ブラウン
ハンス・ビンダー
NC 0 0
1977年 ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング
Jolly Club of Switzerland(FW04)
マーチ761 G フォードDFV テキサコ パトリック・ネーヴェ - - -
1978年 ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング FW06 G フォードDFV テキサコ アラン・ジョーンズ 9位 11 0
1979年 アルビラド-サウディア・レーシング・チーム FW06
FW07
G フォードDFV モービル[要曖昧さ回避] アラン・ジョーンズ
クレイ・レガッツォーニ
2位 75 5
1980年 アルビラド・ウィリアムズ・レーシング・チーム
RAM/Penthouse-Rizla Racing(FW07)
RAM/Rainbow Jeans Racing(FW07)
RAM/Williams Grand Prix Engineering(FW07)
Brands Hatch Racing(FW07)
FW07,FW07B G フォードDFV モービル アラン・ジョーンズ
カルロス・ロイテマン
1位 120 6
1981年 アルビラド・ウィリアムズ・レーシング・チーム
TAG・ウィリアムズ・レーシング・チーム
FW07C M

G

フォードDFV モービル アラン・ジョーンズ
カルロス・ロイテマン
1位 95 4
1982年 TAG・ウィリアムズ・レーシング・チーム FW07C
FW08
G フォードDFV モービル ケケ・ロズベルグ
カルロス・ロイテマン
マリオ・アンドレッティ
デレック・デイリー
4位 58 1
1983年 TAG・ウィリアムズ・レーシング・チーム FW08C
FW09
G フォードDFV,DFY
ホンダRA163E
(1.5L V6ターボ)
モービル ケケ・ロズベルグ
ジャック・ラフィット
4位(フォード)
11位(ホンダ)
36
2
1
0
1984年 ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング FW09,FW09B G ホンダRA164E モービル ケケ・ロズベルグ
ジャック・ラフィット
6位 25.5 1
1985年 キヤノン・ウィリアムズ・ホンダ・チーム FW10 G ホンダRA164E,RA165E モービル ナイジェル・マンセル
ケケ・ロズベルグ
3位 71 4
1986年 キヤノン・ウィリアムズ・ホンダ・チーム FW11 G ホンダRA166E モービル ナイジェル・マンセル
ネルソン・ピケ
1位 141 9
1987年 キヤノン・ウィリアムズ・ホンダ・チーム FW11B G ホンダRA167E モービル ナイジェル・マンセル
ネルソン・ピケ
リカルド・パトレーゼ
1位 137 9
1988年 キヤノン・ウィリアムズ・チーム FW12 G ジャッドCV
(3.5L V8)
モービル ナイジェル・マンセル
リカルド・パトレーゼ
マーティン・ブランドル
ジャン=ルイ・シュレッサー
7位 20 0
1989年 キヤノン・ウィリアムズ・チーム FW12C
FW13
G ルノーRS1
(3.5L V10)
エルフ ティエリー・ブーツェン
リカルド・パトレーゼ
2位 77 2
1990年 キヤノン・ウィリアムズ・チーム FW13B G ルノーRS2 エルフ ティエリー・ブーツェン
リカルド・パトレーゼ
4位 57 2
1991年 キヤノン・ウィリアムズ・チーム FW14 G ルノーRS3 エルフ ナイジェル・マンセル
リカルド・パトレーゼ
2位 125 7
1992年 キヤノン・ウィリアムズ・チーム FW14B G ルノーRS3C,RS4 エルフ ナイジェル・マンセル
リカルド・パトレーゼ
1位 164 10
1993年 キヤノン・ウィリアムズ FW15C G ルノーRS5 エルフ アラン・プロスト
デイモン・ヒル
1位 168 10
1994年 ロスマンズ・ウィリアムズ・ルノー FW16,FW16B G ルノーRS6 エルフ アイルトン・セナ
デイモン・ヒル
デビッド・クルサード
ナイジェル・マンセル
1位 118 7
1995年 ロスマンズ・ウィリアムズ・ルノー FW17,FW17B G ルノーRS7
(3.0L V10)
エルフ デイモン・ヒル
デビッド・クルサード
2位 112 6
1996年 ロスマンズ・ウィリアムズ・ルノー FW18 G ルノーRS8 エルフ デイモン・ヒル
ジャック・ヴィルヌーヴ
1位 175 12
1997年 ロスマンズ・ウィリアムズ・ルノー FW19 G ルノーRS9 カストロール ジャック・ヴィルヌーヴ
ハインツ・ハラルド・フレンツェン
1位 123 8
1998年 ウィンフィールド・ウィリアムズ FW20 G メカクロームCG01
(3.0L V10)
カストロール
ペトロブラス
ジャック・ヴィルヌーヴ
ハインツ・ハラルド・フレンツェン
3位 38 0
1999年 ウィンフィールド・ウィリアムズ FW21 B スーパーテックFB01
(3.0L V10)
カストロール
ペトロブラス
ラルフ・シューマッハ
アレッサンドロ・ザナルディ
5位 35 0
2000年 BMW・ウィリアムズF1チーム FW22 B BMW E41
(3.0L V10)
カストロール
ペトロブラス
ラルフ・シューマッハ
ジェンソン・バトン
3位 36 0
2001年 BMW・ウイリアムズF1チーム FW23 M BMW P80 カストロール
ペトロブラス
ラルフ・シューマッハ
ファン・パブロ・モントーヤ
3位 80 4
2002年 BMW・ウィリアムズF1チーム FW24 M BMW P82 カストロール
ペトロブラス
ラルフ・シューマッハ
ファン・パブロ・モントーヤ
2位 92 1
2003年 BMW・ウィリアムズF1チーム FW25 M BMW P83 カストロール
ペトロブラス
ファン・パブロ・モントーヤ
ラルフ・シューマッハ
マルク・ジェネ
2位 144 4
2004年 BMW・ウィリアムズF1チーム FW26 M BMW P84 カストロール
ペトロブラス
ファン・パブロ・モントーヤ
ラルフ・シューマッハ
マルク・ジェネ
アントニオ・ピッツォニア
4位 88 1
2005年 BMW・ウィリアムズF1チーム FW27 M BMW P84/5 カストロール
ペトロブラス
マーク・ウェバー
ニック・ハイドフェルド
アントニオ・ピッツォニア
5位 66 0
2006年 ウィリアムズF1チーム FW28 B コスワースCA2006
(2.4L V8)
カストロール
ペトロブラス
マーク・ウェバー
ニコ・ロズベルグ
8位 11 0
2007年 AT&Tウィリアムズ FW29 B トヨタRVX-07
(2.4L V8)
ペトロブラス ニコ・ロズベルグ
アレクサンダー・ヴルツ
中嶋一貴
4位 33 0
2008年 AT&Tウィリアムズ FW30 B トヨタRVX-08 ペトロブラス ニコ・ロズベルグ
中嶋一貴
8位 26 0
2009年 AT&Tウィリアムズ FW31 B トヨタRVX-09 - ニコ・ロズベルグ
中嶋一貴
7位 34.5 0
2010年 AT&Tウィリアムズ FW32 B コスワースCA2010
(2.4L V8)
- ルーベンス・バリチェロ
ニコ・ヒュルケンベルグ
7位 69 0
2011年 AT&Tウィリアムズ FW33 P コスワースCA2011 - ルーベンス・バリチェロ
パストール・マルドナド
7位 5 0
2012年 ウィリアムズF1チーム FW34 P ルノーRS27-2012
(2.4L V8)
トタル パストール・マルドナド
ブルーノ・セナ
8位 76 1
2013年 ウィリアムズF1チーム FW35 P ルノーRS27-2013 トタル パストール・マルドナド
バルテリ・ボッタス
9位 5 0
2014年 ウィリアムズ・マルティーニ・レーシング FW36 P メルセデスPU106A Hybrid
(1.6L V6ターボ)
ペトロナス フェリペ・マッサ
バルテリ・ボッタス
3位 320 0
2015年 ウィリアムズ・マルティーニ・レーシング FW37 P メルセデスPU106B Hybrid ペトロナス フェリペ・マッサ
バルテリ・ボッタス
3位 257 0
2016年 ウィリアムズ・マルティーニ・レーシング FW38 P メルセデスPU106C Hybrid ペトロナス フェリペ・マッサ
バルテリ・ボッタス
5位 138 0
2017年 ウィリアムズ・マルティーニ・レーシング FW40 P メルセデスM08 EQ Power+ ペトロナス フェリペ・マッサ
ランス・ストロール
ポール・ディ・レスタ
5位 83 0
2018年 ウィリアムズ・マルティーニ・レーシング FW41 P メルセデスM09 EQ Power+ ペトロナス ランス・ストロール
セルゲイ・シロトキン
10位 7 0
2019年 ロキット・ウィリアムズ・レーシング FW42 P メルセデスM10 EQ Power+ ペトロナス ロバート・クビサ
ジョージ・ラッセル
10位 1 0
2020年 ウィリアムズ・レーシング FW43 P メルセデスM11 EQ Performance ペトロナス ジョージ・ラッセル
ニコラス・ラティフィ
ジャック・エイトケン
10位 0 0
  • 太字はチャンピオンを獲得したドライバー
  • 斜体になっているチームに車体を供給(括弧内に供給した車体の型番を記載)
  • 斜体になっているドライバーはスポット参戦など

ギャラリー

  • ノーマルノーズ型(1973年 - 1978年, 1983年 - 1994年)
  • グラウンド・エフェクト型(1979年 - 1982年)
  • ハイノーズ型(1995年 - 2013年)
  • パワーユニット型(2014年 - )

脚注

  1. ^ FIAによる2007年エントリーリストによると、1978年アルゼンチングランプリとなっている。これは、同一人物による運営ではあるものの、ウルフに買収されるまでとその後新規に設立した現在のウィリアムズを別記録としていることによる。
  2. ^ ただし、再出発直後の1978年から83年までに関しては資金や研究不足であえて技術的な冒険をする余裕がなかった面もある。
  3. ^ GRAND PRIX SPECIAL』(ソニー・マガジンズ)2008年8月号 p.23
  4. ^ 『GRAND PRIX SPECIAL』がドライバーに対する筆記テストの有無について取材したところ、フェラーリ・BMWザウバーの2チームは「ノーコメント」、残る7チームは「筆記テストは行っていない」と答えている。
  5. ^ メルセデスF1代表ウォルフが古巣ウイリアムズの株式5パーセントを購入”. autosport web (2020年6月9日). 2020年6月27日閲覧。
  6. ^ a b Williams Racing is acquired by Dorilton Capital”. Williams Racing Official Website (2020年8月21日). 2020年8月25日閲覧。
  7. ^ a b ウィリアムズF1、クレアとフランク含む5名の取締役が退任…ドリルトンから後任”. Formula1-data.com (2020年9月4日). 2020年9月9日閲覧。
  8. ^ 商標の関係から当時チームでは「リアクティブサスペンション」と称していた。
  9. ^ 当初は1992年シーズン途中にFW15の投入を予定していたが、FW14Bでも十分な戦闘力であったため見送り、1993年度レギュレーションに合わせたFW15Cとして投入した。
  10. ^ F1速報』 7/16号「フランスGP号」 第9巻13号、ニューズ出版、1998年7月16日発行、39頁。
  11. ^ 「“フライング・フィン”飛んでしまったマクラーレン」『F1グランプリ特集』 1993年4月号、第5巻4号、ソニー・マガジンズ、79 - 81頁。
  12. ^ 当初はプロストのチームメイトとしてミカ・ハッキネンと契約したが、フランク・ウィリアムズが1993年シーズンのエントリーを忘れていたため、ウィリアムズが参戦するには他の全チームの承認が必要となる事態となった。ハッキネンを取り返したかったピーター・コリンズロータス)が認めなかったため、ウィリアムズはハッキネンを諦めることとなったという報道と[10]、ロータス側は「93年もハッキネンは残留」と発表したが、それは口約束という情報を掴んだウィリアムズがロータスと交渉。コリンズはハッキネンを手放す意思はなかったが、金銭的条件(6億円)次第では応じようと目論むもウィリアムズ側がその条件を受け入れるつもりはなく、結局1992年12月14日にデイモン・ヒルとの契約を発表したという報道がある[11]
  13. ^ 1996年のF1王者デイモン・ヒルに聞くウイリアムズFW18。「少しも複雑じゃないところが最大の美徳」 auto sport web 2019年10月10日、同11月13日閲覧。
  14. ^ a b いぶし銀のデイモン・ヒル、1996年の鈴鹿でビルヌーブを退け初戴冠 Web Sportiva(集英社) 2018年8月21日。
  15. ^ GPX(F1 Grand Prix Xpress)』 BELGIUM GP 山海堂、30-31頁、1997年。
  16. ^ “ニューイ離脱を悔やむウィリアムズ代表”. ESPN F1. (2012年2月27日). http://ja.espnf1.com/williams/motorsport/story/71437.html 2020年3月22日閲覧。 
  17. ^ 『GP CAR STORY Vol. 29 Williams FW18』(サンエイムック) 、22-27頁、2019年。
  18. ^ CART王者ヴィルヌーヴのF1参戦については、バーニー・エクレストンからフランクに働きかけがあったといわれる。
  19. ^ 『GPX』 Australian GP issue/210、山海堂、15頁、1998年。
  20. ^ 『GP CAR STORY Vol. 29 Williams FW18』(サンエイムック) 、42頁、2019年。
  21. ^ 「質問があるなら直に訊け:フランク・ウィリアムズ」『F1 RACING 日本版』2008年7月号、三栄書房、36頁。 
  22. ^ 『GPX』MONACO GP、山海堂、1997年、28頁。 
  23. ^ 『F1 RACING 日本版』2010年3月号 三栄書房、31頁
  24. ^ モナコGPベルギーGPではウェット路面でのタイヤ選択を誤り、シューマッハに勝利を許した。
  25. ^ スポンサー各社のロゴもこの配色に統一され、通常は赤いバドワイザーのロゴも紺色とされていた。
  26. ^ これらの記録は、1977年創設、1978年から参戦したウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリングの成績であり、1973年、1974年に参戦したイソ-ウィリアムズと1975年、1976年の旧ウイリアムズ(ウルフに売却)、1977年のマーチのシャシーで参戦した分は入っていない。
  27. ^ そのトヨタだが、当初はリーマンショックに端を発する経済状況悪化による業績悪化を受け、コスト削減のためにカスタマー供給の打ち切りを発表しただけだったが、最終戦後に2009年を以てF1から撤退することを発表された。
  28. ^ Struggling Williams' sale of stake was 10%(this is london)
  29. ^ ウィリアムズ、ニコ・ヒュルケンベルグの離脱を発表(F1TopNews.JP)
  30. ^ “RBS ウィリアムズとの提携は来年限り”. GPupdate.net. (2009年2月26日). http://f1.gpupdate.net/ja/news/2009/02/26/207402/ 2009年2月26日閲覧。 
  31. ^ “フィリップス、ウィリアムズのスポンサーを終了”. F1 Gate.com. (2010年11月6日). http://f1-gate.com/williams/f1_9856.html 2010年11月7日閲覧。 
  32. ^ ウィリアムズ、上場でスポンサー減少か - ESPN F1・2011年2月10日
  33. ^ F1ウィリアムズが上場へ=独フランクフルト市場 - 時事通信・2011年2月7日
  34. ^ ヘッド「F1離脱はウィリアムズにとってベスト」 - GPUpdate.net・2011年11月28日
  35. ^ ウイリアムズ・ルノー復活! 2012年から2年契約(オートスポーツweb 2011年7月4日)
  36. ^ ウィリアムズ卿、取締役退任へ(ESPN F1 F1ニュース、速報 2012年3月2日)
  37. ^ アダム・パー、ウィリアムズを退職(F1-Gate.com 2012年3月26日)
  38. ^ “ウィリアムズ、パストール・マルドナドとバルテリ・ボッタスの起用を発表”. F1 gate.com. (2012年11月28日). http://f1-gate.com/williams/f1_17511.html 2012年11月29日閲覧。 
  39. ^ "ウィリアムズの新技術ボス、パット・シモンズQ&A". Topnews.(2013年8月22日)2014年3月7日閲覧。
  40. ^ ウィリアムズ、メルセデスとの長期エンジン契約を発表 - F1-Gate.com・2013年5月30日
  41. ^ 財政的なアンバランスを指摘するマルヤ(ESPN F1)
  42. ^ ただし、2012年第5戦のポールポジションは繰り上げによるものであるため、純粋に自力で獲得したポールポジションは2010年第18戦以来となる。
  43. ^ “フェリペ・マッサ、6シーズンぶりのポールポジション獲得に“感動的””. F1-gate.com. (2014年6月22日). http://f1-gate.com/massa/f1_24129.html 2014年6月25日閲覧。 
  44. ^ “シモンズが今年末でウィリアムズ離脱”. ESPN F1. (2016年12月21日). http://ja.espnf1.com/williams/motorsport/story/232261.html 2016年12月24日閲覧。 
  45. ^ 幻の「FW39」。F1参戦40周年のウイリアムズ、来季はシャシー名のしきたり破る”. AUTO SPORT web (2016年11月2日). 2016年11月2日閲覧。
  46. ^ 【正式発表】ウイリアムズ、マッサの後任に18歳ストロールを起用。ボッタスの残留も確定”. AUTO SPORT web (2016年11月3日). 2016年11月4日閲覧。
  47. ^ メルセデス、バルテリ・ボッタスの起用を正式発表”. F1-Gate.com (2017年1月17日). 2017年1月17日閲覧。
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  50. ^ ウィリアムズ、ディルク・デ・ビアが空力責任者に就任”. F1-Gate.com (2017年2月17日). 2017年3月3日閲覧。
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  76. ^ 新設のF2王者、ウィリアムズのF1テスト参加へ - MSNスポーツ
  77. ^ ウィリアムズ、ポルシェにKERS技術を提供(F1TopNews.JP)
  78. ^ Williams Hybrid Power Chosen As Supplier By Audi Sport - Williams Hybrid Power・2012年3月1日
  79. ^ F1のウイリアムズとニスモが技術提携を発表! 協力して日産車ベースの高性能モデル開発へ! - autoblog日本版・2013年6月28日
  80. ^ C-X75 - Jaguar Japan
  81. ^ ジャガー「FEでの成功にはウイリアムズが鍵」 - オートスポーツ・2015年12月17日

関連項目

ボディとリアウィングに「SEGA」のロゴを貼った、1993年のFW15C

外部リンク