アンマン

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座標: 北緯31度57分00秒 東経35度56分20秒 / 北緯31.949977度 東経35.938854度 / 31.949977; 35.938854

アンマン

عمان
ヨルダンの旗
Skyline of アンマン
アンマンの旗
Location of アンマン
アンマンの位置(ヨルダン内)
アンマン
アンマン
アンマンの位置(地中海東海岸内)
アンマン
アンマン
アンマンの位置(中東内)
アンマン
アンマン
北緯31度57分24秒 東経35度55分57秒 / 北緯31.95667度 東経35.93250度 / 31.95667; 35.93250
ヨルダンの旗 ヨルダン
アンマン県
政府
 • 種別
 • 市長 Omar AlMaani
面積
 • 合計 1,680 km2
 • 陸地 700 km2
標高
773 m
人口
(2018年)
 • 合計 3,728,346人
等時帯 UTC+3
ウェブサイト www.ammancity.gov.jo
地図
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アンマンアラビア語: عمان‘Ammān; アンマーン、: Amman)は、ヨルダン・ハシミテ王国首都。ヨルダンの政治経済の中心都市となっており、中東でも有数の世界都市である。

アンマンはヨルダンの首都で、同国の政治・経済の中心。紀元前17世紀以来の古い都市で、古代にはフィラデルフィアと呼ばれ繁栄していた。しかし、その後度重なる地震や戦乱によって衰退し荒廃した。当地は一寒村となっていたが、20世紀初頭にトランスヨルダンの首都となり発達し、パレスチナ戦争後急激に規模を拡大した。

アンマンの人口はおよそ120万人で、ヨルダンの全人口の4分の1ほどにも及び、近郊を含む都市的地域の人口では252万人であり、世界では146位である[1]

アンマンは近代的なビルが立ち並ぶ近代都市である一面で、昔ながらの市場(スーク)のある旧市街のダウンタウンを抱えている。ヨルダン川にも比較的近く、イエス洗礼を受けたとされるワディ・ハラール(Wadi Kharrar)まで自動車で45分ほどであるため、多くのキリスト教徒が訪れる。

イラク西部とは陸路で直結しており、2003年イラク戦争前後から、混乱の続くイラクに陸路で入る人々の中継点としても注目を集めた。

歴史[編集]

アンマンの地は新石器時代の9000年前以来の定住地であった。聖書ではアンモン人の主要な都市として、ラバ、もしくはラバトの名で登場する。やがて、ヘブライ語ラバト・アンモーンヘブライ語: רבת עמון‎)と呼ばれるようになったこの都市は、アッシリア帝国ペルシア帝国マケドニア王国の征服を経て、エジプトヘレニズム王朝プトレマイオス朝の支配下になり、プトレマイオス2世ピラデルポス(Philadelphos)にちなんで、ギリシャ語フィラデルフィア古代ギリシア語: Φιλαδέλφεια)と呼ばれた。

フィラデルフィアは紀元前1世紀ローマの統治下に入り、ローマ帝国のもとでキリスト教が流入し、司教座が置かれた。アラビア語名のアンマーンは、先イスラム期にシリアを支配したキリスト教系アラブ人ガッサーン朝のもとで起こり、ウマイヤ朝およびアッバース朝の時代に都市の繁栄と共に定着していったが、度重なる地震と戦乱によって次第に都市としては衰えていった。

1887年ロシア帝国の弾圧を逃れて北カフカスからオスマン帝国領のシリア地方に亡命してきたチェルケス人が、フィラデルフィアの廃墟の近傍に住み始めたことによってアンマンは再び歴史に登場する。1900年、オスマン帝国のスルタンアブデュルハミト2世ダマスカスからメディナまでのヒジャーズ鉄道建設を命じたことにより、アンマンに大きな鉄道駅が建設されることになり、周囲や沿線の物資の集散地として浮上を始めた。1921年ハーシム家アブドッラー・ビン=フサインイギリスによって、委任統治領パレスチナ東部に新設されたトランスヨルダン(ヨルダン川東岸地域)の首長(アミール)に据えられると、アンマンに政府が置かれた。当時はサルトがトランスヨルダンの中心都市であり、アンマンは未だ都市らしい都市ではなく、アブドッラー・ビン=フサインは当初、駅を王宮に、列車を政府庁舎代わりに使っていた。

1946年にトランスヨルダンが王国として独立すると、アンマンはその首都に昇格するが、1940年代後半の人口はわずかに2万人程度であった。しかし、イスラエル独立をめぐる混乱の中で、ヨルダンにはパレスチナ人の難民がパレスチナ各地から押し寄せ、トランスヨルダンにおける数少ない都市らしい都市であるアンマンの人口は急速に膨張した。その結果、居住地は都市の中心部を外れて、旧市街を取り囲む丘の上にまで拡大している。1990年代だけでも、パレスチナイラクなどからの移住者や難民もあり都市拡大のペースは加速し、西部に新市街が次々誕生する一方、水の供給が深刻な問題となり始めている。

なお、1970年に発生したヨルダン内戦によってレバノンに追放されるまで、パレスチナ解放機構(PLO)の本部が存在していた。同年9月14日から始まった内戦では、郊外のワハダート難民キャンプに拠点を置くPLOとヨルダン正規軍が交戦し、多数の死傷者が出た。9月30日以降、両勢力はアラブ最高委員会の仲介によりアンマン市内から退去した[2]

地理[編集]

アンマンはヨルダン北西の丘の多い地域に位置している。街はもともと7つの丘の上に建設されたが、現在では周囲の他の丘の上にまで拡大している(丘はjabel〈ジャバル〉と呼ばれ、現在のアンマンは19の丘にまたがっている)。

気候[編集]

  • ケッペンの気候区分ではステップ気候(BSk)に属する。夏は暑く乾燥し、冬は湿潤となり、標高700m以上の高地にあるために寒冷で雪が降ることも珍しくなく大雪となることもある。
アンマンの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 23.6
(74.5)
28.9
(84)
30.4
(86.7)
36.2
(97.2)
37.9
(100.2)
40.3
(104.5)
44.0
(111.2)
43.8
(110.8)
40.0
(104)
38.2
(100.8)
34.6
(94.3)
26.3
(79.3)
44
(111.2)
平均最高気温 °C°F 12.3
(54.1)
13.7
(56.7)
17.2
(63)
22.6
(72.7)
27.8
(82)
30.8
(87.4)
32.0
(89.6)
32.4
(90.3)
30.7
(87.3)
27.1
(80.8)
20.4
(68.7)
14.4
(57.9)
23.5
(74.2)
平均最低気温 °C°F 3.6
(38.5)
4.2
(39.6)
6.1
(43)
9.5
(49.1)
13.5
(56.3)
16.6
(61.9)
18.5
(65.3)
18.6
(65.5)
16.6
(61.9)
13.8
(56.8)
9.3
(48.7)
5.2
(41.4)
11.3
(52.3)
最低気温記録 °C°F −10.0
(14)
−9.5
(14.9)
−8.2
(17.2)
−2.6
(27.3)
−0.9
(30.4)
3.2
(37.8)
7.0
(44.6)
5.4
(41.7)
0.0
(32)
−1.8
(28.8)
−4.5
(23.9)
−7.8
(18)
−10
(14)
降水量 mm (inch) 63.4
(2.496)
61.7
(2.429)
43.1
(1.697)
13.7
(0.539)
3.3
(0.13)
0
(0)
0
(0)
0
(0)
0.3
(0.012)
6.6
(0.26)
28.0
(1.102)
49.2
(1.937)
269.3
(10.602)
平均降水日数 11.0 10.9 8.0 4.0 1.6 0.1 0 0 0.1 2.3 5.3 8.4 51.7
平均月間日照時間 179.8 182.0 226.3 266.6 328.6 369.0 387.5 365.8 312.0 275.9 225.0 179.8 3,298.3
出典1:World Meteorological Organization[3]
出典2:Hong Kong Observatory(sun, 1961–1990)[4]

行政区画[編集]

大アンマン地方自治体(GAM: Greater Amman Municipality)は27地区で構成される[5][6]

番号 区名 面積 (km2) 人口 (2015) 番号 区名 面積 (km2) 人口 (2015)
1 Al-Madinah(アル=マディナ) 3.1 34,988 15 Badr Al-Jadeedah(バドル・アル=ジャディーダ) 19 17,891
2 Basman(バスマン) 13.4 373,981 16 Sweileh(スウェイレ) 20 151,016
3 Marka(マルカ) 23 148,100 17 Tla' Al-Ali(トゥラ・アル=アリ) 19.8 251,000
4 Al-Nasr(アル=ナスル) 28.4 258,829 18 Jubeiha(ジュベイハ) 25.9 197,160
5 Al-Yarmouk(アル=ヤルムーク) 5.5 180,773 19 Shafa Badran(シャファ・バドラン) 45 72,315
6 Ras Al-Ein(ラス・アル=アイン) 0.68 138,024 20 Abu Nseir(アブ・ヌセイル) 50 72,489
7 Bader(バデル) 0.01 229,308 21 Uhod(ウホド) 250 40,000
8 Zahran(ザーラン) 13.8 107,529 22 Al-Jeezah(アル=ジーザ) 558 95,045
9 Al-Abdali(アル=アブダリ) 15 165,333 23 Sahab(サハブ) 12 169,434
10 Tareq(タレク) 25 175,194 24 Al-Muwaqqar(アル=ムワッカル) 250 47,753
11 Qweismeh(クウェイスメ) 45.9 296,763 25 Husban Al-Jadeedah(フスバン・アル=ジャディーダ) 55 31,141
12 Kherbet Al-Souk(ヘルベット・アル=スーク) 0.5 186,158 26 Na'our(ナウール) 87 78,992
13 Al-Mgablein(アル=ムガブレイン) 23 99,738 27 Marj Al-Hamam(マリ・アル=ハマム) 53 82,788
14 Wadi Al-Seer(ワディ・アル=シール 80 241,830

経済[編集]

アンマン市街(旧市街)
9区(アル=アブダリ区)にある、超高層ビルが立ち並ぶ予定のアブダリ・プロジェクト地区の遠景(2018年)

ヨルダンの経済の中心地である。食品、中小規模の加工業、建設業、銀行業、保険、貿易、観光業、宿泊業(ホテル)が主要な産業である。

交通[編集]

国内交通では路線バスとタクシー、そして固定された路線を主に走る乗合タクシー「セルビス」が活躍している。市内交通は、特に通勤のピーク時における混雑に悩まされている。

アンマンの空の玄関は、市内から車で南へ30分ほどの距離にあるクィーンアリア国際空港であり、ヨルダン国内を発着する路線のほとんどを扱っている。

陸路では、隣接する各国の都市へのバスが頻繁に発着している。隣接国、例えばイラクへはセルビスによる往来もある。鉄道はかつてのヒジャーズ鉄道の一部に当たる路線がダマスカスとの間を運行しているが、週に数便しかない。

主なバスステーションは以下の3つである。

なお、Abdali station→北緯31度57分36.44秒 東経35度55分2.67秒 / 北緯31.9601222度 東経35.9174083度 / 31.9601222; 35.9174083と、Raghadan station→北緯31度57分9.39秒 東経35度56分34.9秒 / 北緯31.9526083度 東経35.943028度 / 31.9526083; 35.943028はすでにバスステーションとしての役割を終えている。

教育[編集]

ヨルダン大学英語版を始め複数(約20)の大学がある。

スポーツ[編集]

アンマン国際スタジアムを中心としたアンマン・スポーツ・シティ

サッカー[編集]

アンマンをホームとするサッカークラブがある。

観光地[編集]

ローマ劇場
アンマンの城塞(ジャバル・アル=カラー)とローマ都市の遺跡

アンマンの観光地の多くは、金製品や布などを扱う古くからの市場(スーク)とアルフセイン・モスクを囲んで広がる旧市街にある。地元住民には「バラド(Balad)」の名で知られる旧市街は、周囲を囲んで虫食い状に広がる新市街の中に縮こまっているような状態である。しかしながら旧市街は古くからの情緒を残しており、古いアンマンを楽しみたい場合はジャバル・アンマン(アンマンの丘)の東側に行けば旧来の町並みや生活、大きなスーク、古代の遺跡、博物館などを見ることができる。

アンマンの城塞(シタデル)の丘(ジャバル・アル=カラー〈Jabal al-Qal'a〉)は古来から人の居住があり、軍事的・政治的に重要な場所だった。その建築物群はローマ帝国、ビザンチン帝国、イスラム教初期にまで遡る。丘の北端と東端から出土している遺跡は、青銅器時代にまで遡る可能性のあるものである。丘には、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝が命じて造らせたといわれるヘラクレス神殿があり、エフェソスアルテミス神殿に似た形だとされる。

ヘラクレス神殿

アンマン(当時のフィラデルフィア)は七つの丘にまたがっているところがローマに似ているとされ、古代ローマの兵士や役人には大変好まれた。ローマ時代のフォルム(公共広場)の裏には収容観客数6,000人規模の円形劇場(ヨルダン国内最大のローマ劇場)がある。アントニヌス・ピウス帝によって138年から161年の間に建設されたと思われ、丘の斜面を利用して作られている。今でもこの劇場はスポーツイベントや上演などに利用される。

アンマンは西アジアで最大規模のモスクがある街でもある。この街最古のモスクである旧市街のフセイン・モスクはかつてフィラデルフィア大聖堂があったと思われる場所にあり、この地をムスリムとして初めて征服した第2代正統カリフウマル・イブン=ハッターブが建設を指揮したとされる。現在見るアルフセイン・モスクはハーシム家のトランスヨルダン支配後、アブドッラー・ビン=フサインによってオスマン建築様式で改装されている。最も新しいモスクは1982年から1989年にかけて建設された真っ青なモザイクの大屋根のある巨大モスク、キング・アブドッラー1世モスクである。ドームの下の礼拝所は3,000人が収容できる規模である。アンマンのモスクでユニークなものは、市内で最も高い丘、ジャバル・アシュラフィエ(Jabal Ashrafieh)の上にあるアブー・ダルウィーシュ・モスクであり、黒と白のチェックのパターンという異様な姿を見せている。外見と違い、内部は黒と白の配色はなされておらず、淡い色の壁とペルシャ絨毯が敷かれている。このモスクは北カフカスのサーカシア(チェルケシア)から移民してきた人が造ったものである。

アンマン城塞の丘(ジャバル・アル=カラー)からローマ劇場方面の下町を眺めた風景

ギャラリー[編集]

姉妹都市[編集]

アンマンの衛星写真
立体交差の交差点(ジャマル・アブドゥル・ナセル・サークル)

関連項目[編集]

出典[編集]

  1. ^ http://www.demographia.com/db-worldua.pdf
  2. ^ 両軍の撤退を開始『朝日新聞』1970年(昭和45年)10月1日朝刊 12版 7面
  3. ^ World Weather Information Service – Amman”. World Meteorological Organization. 2013年2月22日閲覧。
  4. ^ Climatological Information for Amman, Jordan”. Hong Kong Observatory. 2013年2月22日閲覧。
  5. ^ Greater Amman Municipality – GAM Interactive”. Ammancity.gov.jo. 2015年1月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月24日閲覧。
  6. ^ Archived copy”. 2016年6月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年5月13日閲覧。

外部リンク[編集]