アンドレ・ルコント

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アンドレ・ルコントAndré Lecomte, 1932年 - 1999年)は日本で初めてフランス菓子専門店を開いたフランスパティシエ

現在の日本におけるスイーツブームの草分け的存在である。

経歴

パリの南、ロワールの地主の生まれ。

13歳でお菓子の世界に入り、1945年 14歳 モンタルジーで一番腕のよいマイスター マルセル・ルナン氏のもとで見習いとして修業。

16歳のときパティシエとしての国家試験に合格。

兵役後、パリの高級ホテル「ジョルジュ・サンク」(当時4つ星)に入社。20代前半でスーシェフ(副シェフ)になると、ホテルの常連客に呼ばれて、世界各地に足を運ぶ。

1964年東京オリンピックを翌年に控えた1963年ホテルオークラのシェフ・パティシエとして初来日。

日本に本場の技術を広めるため寝る間も惜しんで働き、本格的な砂糖菓子の彫刻を日本で最初に広めた。

1968年12月17日六本木に今や伝説となる「A.ルコント」をオープン。

日本人に本場フランスの味をよく知ってもらおうと、フランスと同じ材料・同じレシピにこだわった。

“Tout a la Française”(万事、フランス流に…)が、彼の信念である。

その頑固なほどの味へのこだわりが皇室やフランス大使館をはじめ、各国大使館や政府官庁なども支持され、現在でも御用達になっている。併設されたサロン・ド・テには、一流芸能人や政・財界人まで、時代を代表する顔ぶれが集まったという。

キッチンの拡大の為、1978年本店を六本木から青山に移転(一時、キッチンを三田にも増設)。続いて、新宿伊勢丹店・日本橋店・銀座店(ともに三越)・丸の内店(現在は閉店)をオープンさせる。1994年、食事も楽しめる「ブラッスリールコント」を青山にオープン。2007年には 新宿高島屋店・「ルコント」の故郷でもある六本木に東京ミッドタウン店を相次いでオープン(2007年当時、都内6店舗)。

アンドレ・ルコントはシェフとしても一流で、東京サミットの際は、フランス大統領主催晩餐会の料理も担当していた。フランス料理アカデミー日本支部の初代会長を務める。現在は、古くからの友人でもあるジョエル・ブリュアンが2代目を務めている。その他の親しい友人には、ポール・ボキューズジョエル・ロブションなどの料理人、ピエール・エルメの師匠であるガストン・ルノートル(菓子職人)、日本のフランスパンの父であるフィリップ・ビゴ(パン職人)、前フランス大統領のジャック・シラクがいる。

オープン当時、フランスの材料を手に入れることが非常に困難であり、今では、お菓子には欠かせない菓子材料を輸入する会社を築いたのもルコントである。

死後の影響力

1999年にルコントが68歳で亡くなった後は、マダム・ルコントと彼の遺志を引き継ぐ職人達によって継がれており、「現存する最古のフランス菓子専門店」として、日本のフランス菓子界を引っ張っている。

ルコントの遺志を引き継ぎ活躍する主なオーナーパティシエに、島田進(パティシエ・シマ)、大山栄蔵(マルメゾン)、東健司(キャトル)、豊田英男(ペルージュ)、魵澤信次(レ・アントルメ)、加登学(ロワゾー・ド・リヨン)(以上東京)、蛭町裕司(コム・アン・プロバンス)(神奈川・湘南台)、目黒英治(ガトーめぐろ)、池田一紀(カズノリ・イケダ)(以上宮城・仙台)、上田真嗣(ラトリエ・ドゥ・マッサ)(兵庫・神戸)、ステファン・セッコ(SECCO)(フランス・パリ)など多数いる。

その他にも、料理研究家 いがらしろみ、内閣官房国家戦略室 古川国家戦略担当大臣より、2012年感謝状を授与された フランスで活躍中の佐藤亮太郎など。

2005年3月より、日本に初めて本場のフランス菓子を紹介した彼の冠名をつけた世界に通用する洋菓子職人を発掘するコンクール『アンドレ・ルコント杯』が開催されている。

「2010年9月26日15:00をもって完全閉店」と突然発表する。理由の1つにオーナーであるマダムの高齢と跡継ぎ問題といわれている。日本のフランス菓子の草分けである店の突然の発表により、42年の歴史に幕を下ろす。

「現存する最古のフランス菓子専門店」の存続を望む多くの声を受けて、3年後の2013年3月10日 アンドレ・ルコントの信念である”Tout a la francaise.(万事、フランス流に。)”を、しっかりと受け継ぎ「懐かしくてあたらしい」というコンセプトのもと 広尾に「ルコント広尾店」再オープン。六本木で3年間、そして青山に移転した「A.ルコント」で総製菓長としてルコントの片腕として活躍した島田進(パティシエ・シマ)が監修し、青山時代の「A.ルコント」でパティシエとして活躍してきたシェフ・パティシエがルコントの遺志を引き継ぎながら味を再現している。

エピソード

  • パリでのスーシェフ時代、ケネディ一家の為にジャマイカのリゾートホテルに滞在し、ジャクリーン夫人の好みのクレーム・カラメルを作ったこともある。
  • イランパーレビ国王にも可愛がられ、イラン王室に招聘された。同時に王室ホテル インターナショナル・イランのケーキ指導を拝命。
  • オープン当時、菓子材料をフランスからまとめて仕入れていたため、リキュールバターなどが1年分届き保管スペースが大変だという。
  • バブル時代に銀行から「融資するから13億円のビルを買いませんか?」と本社ビル建設の話を持ちかけられて、「職人にビルはいらない」とあっさり断わった。
  • ルコントは、食べ物のロスには厳しい人だったため、使える食材を捨てていないか、抜き打ちでゴミ箱チェックをしていたという。
  • 料理の鉄人でお馴染みの石鍋裕(クィーン・アリス)が昔、自分のお店のデザートに出すため シャルロット・オ・ポワールをよく買いに来ていたと言われている。

スペシャリテ

  • スウリー - ルコントが「ジョルジュ・サンク」時代に考案したネズミの形をしたシュークリーム。「子供達も楽しくなるお菓子を」と言う思いから生まれた。
  • ガトー・フランボワーズ - オープン当時から変わらぬお菓子。
  • ポンポネット - しっとりとラム酒が香るレーズン入りの本格的ババ
  • フルーツケーキ - ルコントの教えを守りつつ作り続ける名物。彼が世界中から厳選した10種類のドライフルーツをたっぷりのラム酒に1ヶ月漬け込んだ物が使われている。

叙勲・受賞歴

その他多数

関連項目

外部リンク