アントニオ・サラザール

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アントニオ・サラザール
António Salazar

アントニオ・サラザール

任期 1932年7月5日1968年9月25日

任期 1951年4月18日7月21日

出生 1889年4月28日
ポルトガル王国の旗 ポルトガル王国サンタ・コンバ・ダン
死去 (1970-07-27) 1970年7月27日(81歳没)
ポルトガルリスボン
政党 国家連合党
署名

アントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザールポルトガル語: António de Oliveira Salazar1889年4月28日 - 1970年7月27日)は、ポルトガル政治家首相および一時大統領で、エスタド・ノヴォ権威主義独裁者と言われた。

出生と青年時代

ポルトガルの北部ヴィゼウ県サンタ・コンバ・ダンの小地主の家に生まれた。姉が4人おり、末子であったが唯一の男子だった。当初は聖職者を目指しており、また生涯熱心なカトリック教徒であり、1900年(11歳)から1914年(25歳)までの間神学校で学んでいた。しかしながら当時のリスボンでは僧侶が多すぎたので、下級聖品叙品式の後に教会登録済みとして還俗し、その後はコインブラ大学法学を学んだ。1916年に論文「黄金時代、その本質及び原因」により、経済学の学位を取得した[1]

1917年第一共和制政府から大臣になるよう依頼を受けたが断り、29歳の若さで1918年にコインブラ大学で政治経済学講師から教授に就任し教鞭を執った。政治経済学教授としてのサラザールは人気教授で、その講義には多くの学生が集まった。反カトリック的な共和政府に対しては不満を抱いており、カトリック擁護の意見を新聞に書いたり、教会の権利と利益を訴えたりしていた。この時期にサラザールは、20世紀初頭にフランスで勃興した王党派・極右団体であるアクション・フランセーズの影響を受けている[2]

政界へ

1917年から1918年シドニオ・パイスの独裁期には大臣への就任を要請されたが辞退した。政界に進出するのはその数年後で、保守的なカトリック中央党から出馬して議員となるも1期で辞めてしまった。

マヌエル・ゴメス・ダ・コスタが率いた1926年5月28日クーデターの後、ジョゼ・メンデス・カベサダスの政権に加わるもすぐに辞職。政府の混乱と社会の無秩序のため、十分な仕事ができないためと説明した。アントニオ・オスカル・カルモナが大統領となり政情が固められると、1928年にカルモナの要請に応じて財務大臣に就任し、緊縮財政、デフレ政策を断行して危機的財政の建て直しを行った。この時の手腕が評価されたことにより、政治家としての地歩を固めたサラザールは世界恐慌の危機の下で1932年に首相に昇格。第二次世界大戦が始まり、多忙となった1940年まで財務大臣を兼任した。サラザールの権力掌握がうまくいったのは財政を立て直したという実績と、カルモナ大統領の強力な支持、そして鋭い政治センスを持っていたからである。

独裁体制は右派の連合体で構成されたが、サラザールは穏健派を登用し、過激派勢力に対しては検閲や抑圧政策を取った。サラザールは熱心なカトリック信者であり、元々政治に関わりを持ち始めたのも教会派として新聞に記事を書き始めたのが始まりであったが、政教分離は維持し、親しくしつつも教会とは距離を置いていた。しかし、それでも教会はサラザールの最も忠実な支持層であり続けた。

初期の政権にとって最も危険な敵対勢力となったのは抑圧された右派過激派であった。彼らはいくつかのクーデター未遂を起こしたが、その度に容易に鎮圧された。統一した組織を持っていなかったためである。サラザールは地主層や商工業者の支持を得て、また亡命中の王族を含む王党派の支持も取り付けていた。亡命していたマヌエル2世が没した時は国葬を行っている。

社会改革者として一部左派にまで支持層を広げる一方、全くの敵対勢力は秘密警察を利用して排除した。1933年には新憲法を制定して、「神、祖国、そして家族」をスローガンに「エスタド・ノヴォ」の成立を宣言、長期にわたるファシズム独裁体制を敷いた。

エスタド・ノヴォ体制の確立

アントニオ・サラザール(1940年)

サラザールの独裁体制はエスタド・ノヴォ、いわゆる新国家体制と呼ばれる。サラザールの政権の基礎は社会の安定であった。社会の安定が財政の安定、そして成長をもたらすとしたのである。第一共和政期の混乱を目の当たりにした国民にとっては目覚しい進歩と受け止められた。この頃サラザールへの支持率は最高潮に達し、このポルトガルの変革は「サラザールの教訓」という政府方針の下行われた。教育、特に高等教育は重視されず、投資は少なかったが、初等教育は全ての国民に与えられており、教育インフラにはしっかりと投資が行われ、多くの学校がつくられた。今日でもエスタド・ノヴォ体制下に作られた学校が多く活動しているが、体制下でのポルトガルの識字率は西欧最低レベルとなった。

1933年ドイツイタリアから顧問を招聘し、国家防衛警察(PIDE)と称する秘密警察を創設した[3]共産主義者、社会主義者(社会民主主義者)、自由主義者、フリーメーソン、サラザールの個人的な政敵勢力に対する手段としてはこのゲシュタポを模して組織されたPIDEが用いられ、ポルトガル軍団と共に反体制派への弾圧に猛威を揮った。この秘密警察は当初、国家防衛秘密警察、PVDE(Polícia de Vigilância e Defesa do Estado)と呼ばれ、1945年以降は秘密警察PIDEとなった。

「人民独裁を基礎とする新国家」を標榜したエスタド・ノヴォ体制下では、1822年から1926年まで続いた議会制民主主義は敵視され、既存の労働組合が解体された後、ポルトガル国民は農業、漁業、商工業、運輸業などの職能組合に組織され、工業が未発達の農村的国家を教会と伝統的な身分制中間層が支配するコルポラティズモ体制が建設された[4][5]。サラザールの支持基盤はカトリック教会、軍部、銀行家、大地主であった[6]。また、サラザールは無政府主義政党を禁止した。サラザールの率いる国家連合党は体制のために存在する政党で、体制のイデオロギー以外が差し挟まれる余地はなかった。

1936年1月にサラザールはそれまでの首相、財相に加え、外相、陸軍相、海軍相のポストを兼任し、体制を確立した[7]。同年勃発した隣国のスペイン内戦では、ホセ・サンフルホ将軍の共和国への反乱を支持して2万人の義勇軍を送っている[8]1939年フランコ将軍率いる反乱軍が勝利すると、スペインと友好不可侵条約を締結した。1940年にはローマ教皇庁と政教協定(コンコルダート)を結んだ。

サラザールの政治哲学はカトリックの教義に基づいており、経済政策もカトリックに影響を受けているようである。また、同時代の政治指導者ではヒトラームッソリーニよりも、オーストリアエンゲルベルト・ドルフース政権に似通っているとも評される[9]

第二次世界大戦

第二次世界大戦では中立を宣言した。枢軸国の側に立てばポルトガルの植民地はイギリスの攻撃を受けることとなるし、連合国側に立てば、ポルトガル本土が危険に晒されるという判断からだった。ドイツはポルトガルを攻める計画(イサベラ作戦)を立てていたが、実行はされなかった。

タングステンなどの資源は連合国と枢軸国双方に輸出を続けた(枢軸国への輸出は主にスイスを経由した)。連合国の勢いが増すと1943年からアゾレス諸島テルセイラ島基地として提供するなどした。ポルトガルは大戦中にはヨーロッパからアメリカへの最後の脱出口となり、多くの亡命者の避難所となった。

第二次世界大戦後

1945年の時点で、ポルトガルはアンゴラギニアモザンビークカーボベルデサントメ・プリンシペインドマカオティモールなどの広大な植民地を領有するポルトガル海上帝国を築き上げていた。サラザールの基本方針はこれらの植民地と海上帝国の栄光を維持することであり、1951年には第二次世界大戦後の高まる脱植民地化の波に対応するために「植民地」を「海外州」と呼び換えて、新興の第三世界諸国からの植民地支配への非難を回避しようとした[10]。サラザールの反共主義もあって西側諸国は1949年に北大西洋条約機構(NATO)、1955年には国際連合1960年にはヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)への加盟をポルトガルに認め、東西冷戦構造下でエスタド・ノヴォ体制は世界大戦後も存続した[11]。NATO原加盟国中唯一の非民主主義国であった。ポルトガルは大戦中は中立国だったが、大戦期の連合国への協力が考慮された結果マーシャル・プランによる援助の申し出を受けた。こうして生き延びたサラザール体制に対抗するために、1949年には元アンゴラ総督のノルトン・デ・マトスが、1958年には共産党以外の野党勢力の統一候補となったウンベルト・デルガード将軍がそれぞれ大統領選に出馬したが、いずれも敗北している[12]

しかし、「アフリカの年」こと1960年にそれまで植民地だったアフリカ諸国が新たな国民国家として一斉に独立し、加えてアジアラテンアメリカ諸国がその民族解放の歩みを始めると、もはや歴史の歯車をそれ以上押し留めることはできなかった。1961年1月22日エンリケ・ガルヴァン率いるイベリア解放革命運動サンタ・マリア号乗っ取り事件を引き起こしたことをきっかけに非合法的な反体制闘争が火蓋を切り、国内では労働者と学生の反体制運動が激化し、植民地でも1961年2月4日アンゴラ人民解放運動(MPLA)が植民地の主都ルアンダで蜂起し、アンゴラ独立戦争が始まった[13]。同年12月には独立したインド政府がポルトガル領のゴアダマンディーウに武力侵攻し、1962年にはギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)によってギニアビサウ独立戦争が、1964年にはモザンビーク解放戦線(FRELIMO)によってモザンビーク独立戦争が始まった[14]ポルトガルの植民地戦争西ヨーロッパの最貧国ポルトガルにとって大きな負担となり、1971年には国家予算中の軍事費は45.9%に達していた[15]。この植民地政策はカーネーション革命の端緒となったのである[16]

晩年

こうしてエスタド・ノヴォ体制は戦後も長期に渡って継続したが、1968年8月3日にリスボン郊外のカスカイスにあるサント・アントニオ・ダ・バッラ城砦で静養中だったサラザールはハンモックでの昼寝中に誤って転落、頭部を強打して意識不明の重体となった。2年の時を置いて意識を取り戻したが、その頃には政権が後継のマルセロ・カエターノ首相の手に移っていた。だが、側近や身の周りの人間たちはサラザールにショックを与えないため、その執務室を病態に陥る以前と同じ状態に保全しのみならず当時のポルトガルの動乱のことなどは一切記載されない偽の新聞を読ませ、サラザールが権力を喪失した落胆に見舞われないよう配慮した。サラザールはこの執務室で効力のない命令書を書き、偽の新聞を読んで晩年を過ごした。1970年7月27日、サラザールはポルトガルの混乱を知らないまま息を引き取った。

サラザールの死後もエスタド・ノヴォ体制とポルトガル植民地帝国は維持されたが、ポルトガル軍の大尉達が次第に体制への不満を募らせた結果、1974年4月25日のカーネーション革命によって打倒された。

私生活

サラザールの私生活は謎に包まれていた。孤独を好み素性の知れぬ2人の少女と暮らし、フランスの女性ジャーナリストが愛人だったという噂もある[17]

後のフィクション、ハリー・ポッターシリーズの登場人物「サラザール・スリザリン」のモデルでもある。

脚註

註釈

出典

  1. ^ 野々山(1992:14)
  2. ^ 野々山(1992:14)
  3. ^ 野々山(1992:18)
  4. ^ 野々山(1992:15-16)
  5. ^ 金七(2003:224-225)
  6. ^ 野々山(1992:16)
  7. ^ 金七(2003:220)
  8. ^ 野々山(1992:19-20)
  9. ^ 野々山(1992:13)
  10. ^ 金七(2003:238)
  11. ^ 金七(2003:234-235)
  12. ^ 金七(2003:234-237)
  13. ^ 金七(2003:234-237)
  14. ^ 金七(2003:239)
  15. ^ 金七(2003:240)
  16. ^ フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 114ページ
  17. ^ 野々山(1992:17)

参考文献

  • 柳沢健 著、斉藤太郎 訳『葡萄牙のサラザール――附録・サラザール語録』改造社、1941年。 
  • サラザール 著、景山哲夫 訳『新国家の建設』刀江書院、1942年。 
  • 市之瀬敦『ポルトガルの世界──海洋帝国の夢のゆくえ』(初版)社会評論社東京、2001年12月15日。ISBN 4-7845-0392-7 
  • 金七紀男『ポルトガル史(増補版)』(増補版)彩流社東京、2003年4月20日。ISBN 4-88202-810-7 
  • 野々山真輝帆『リスボンの春──ポルトガル現代史』(初版)朝日新聞社〈朝日選書448〉、1992年4月25日。ISBN 4-02-259548-5 

外部リンク