アブデュルアズィズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Hruygo (会話 | 投稿記録) による 2015年12月15日 (火) 11:09個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

アブデュルアズィズ
Abd-ul-Aziz
オスマン帝国第32代皇帝
アブデュルアズィズ
在位 1861年 - 1876年

出生 1830年2月9日あるいは2月18日
イスタンブル
死去 1876年6月4日
イスタンブルチュラーン宮殿
埋葬 イスタンブル
子女 アブデュルメジト2世
家名 オスマン家
王朝 オスマン朝
父親 マフムト2世
宗教 イスラム教スンナ派
サイン
テンプレートを表示

アブデュルアズィズ(Abd-ul-Aziz, 1830年2月9日あるいは2月18日 - 1876年6月4日)は、オスマン帝国の第32代皇帝(在位:1861年 - 1876年)。第30代皇帝マフムト2世の子で、第31代皇帝アブデュルメジト1世の弟。子にアブデュルメジト2世

生涯

西洋訪問と海軍整備

パリ万国博覧会に出席するためパリを訪問するアブデュルアズィズ(馬車中央の人物。右隣はナポレオン3世

1861年、兄のアブデュルメジト1世の後を継いで即位する。

1867年にはパリで開催中だった万国博覧会の視察を目的に、オスマン帝国の皇帝としては史上初となる西欧諸国歴訪を行った。その折に列強の持つ装甲艦に魅了された彼は、のちに海軍力の増強に力を入れ、その結果この時期のオスマン帝国海軍は軍艦の保有数だけでは世界有数となった。また、パリ、ロンドン、ウィーンなどの博物館も視察し、帰国後にイスタンブール考古学博物館を設立した。

1863年にはオスマン帝国ではじめて切手が発行され、1875年に万国郵便連合に加入し、民法典も整備された。

アブデュルアズィズこのような開明的な一面を持つ一方、帝国の財政が悪化しているのを顧みずにいたずらに宮殿の造営などの乱費を繰り返したりもした。

また、力を注いだ海軍整備も、多くの艦船は外国製の中古である上に艦長もお雇い外国人であった。このため造船・操船とも技術が根付くことはなかったばかりか、艦船の購入と維持にかかる莫大な費用が国家財政を圧迫することにもなった。

そして、これらにかかる費用は公債で資金調達されたため、オスマン帝国が事実上の破産状態に陥ることにもなった。

クーデターによる廃位

アブデュルアズィズは西洋化そのものには積極的であったが、自らの権力に制限を加えることになる憲法や議会の創設には否定的であったため、当時「新オスマン人」と呼ばれた改革派から不満が上がるようになった。

そのため、1876年に改革派の支持を背景にしたクーデターの結果、憲政樹立を主張するミドハト・パシャらによって廃位され、甥のムラト5世が即位した。廃位後に幽閉され、同年に死去。病死とも毒殺とも言われている。

人物像

アブデュルアズィズの身長は非常に高く、歴代の皇帝の中で稀にみる大変な巨漢でもあった。

参考文献

関連項目