アドルフ・ガーランド
アドルフ・ガーランド Adolf Galland | |
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生誕 |
1912年3月19日 ドイツ帝国 プロイセン王国 ヴェストファーレン州 ヴェステルホルト |
死没 |
1996年2月9日(83歳没) ドイツ ラインラント=プファルツ州 レマーゲン オーベルヴィンター |
所属組織 | ドイツ国防軍 空軍 |
軍歴 | 1933年 - 1945年 |
最終階級 | 中将 |
除隊後 | 実業家 |
署名 |
アドルフ・ガーランド(Adolf Galland 、1912年3月19日 - 1996年2月9日)[注釈 1][注釈 2]は、ドイツの軍人。最終階級は空軍中将。戦闘機パイロット、戦闘機隊総監を務め、第44戦闘団司令官として終戦を迎えた。出撃回数705回、撃墜機数104機のエースパイロットである。
生涯
ドイツ空軍入隊
1912年3月19日、ヴェストファーレンのヴェステルホルトにラインラント人として生まれた[1]。17世紀末の宗教迫害からフランスを逃れた新教徒(ユグノー)の子孫の一人である。四人兄弟の次男であった。幼少から空に対して強い憧れを抱いていたガーランドは、十代の頃からグライダーを飛ばしていた[注釈 3]。
1932年、ゲルゼンキルヒェン=ブーアのヒンデンブルク・ギムナジウムを卒業したガーランドは、ブラウンシュヴァイクのルフトハンザ航空学校に入学した。ルフトハンザは民間航空であったが、極秘裏に再建中のドイツ空軍のパイロット養成を担当していた。ガーランドはイタリアで戦闘機パイロット訓練を受けた。1934年、航空学校を卒業したガーランドは少尉に任官した。空軍が禁じられていたためドレスデン第10歩兵連隊に配属された。
1935年、アドルフ・ヒトラーはヴェルサイユ条約の破棄及び再軍備を宣言し、ヴァイマル共和国軍はドイツ国防軍に改組された。また国防軍の一軍種たるドイツ空軍も公的に設置され、ガーランドは第2戦闘航空団リヒトホーフェンに配属された。同年10月、訓練中にガーランドは墜落事故を起こして負傷する。顔面を計器板にめり込ませ鼻が砕けて歪み、本人曰く「母親が見ても自分と気が付かない」ほど顔が変わってしまい、片方の目の視力も大きく落ちた。医者は操縦不適と判断したが、ドイツ空軍にとって貴重なパイロットであり、ガーランドの強い要望もあって飛行を続けることが許された。ガーランドによれば視力表を全て覚えて凌いだという。
スペイン内戦~フランス侵攻
1936年、スペイン内戦が勃発。ドイツはフランコ政権を支援して義勇軍を送り込んだ。スペイン内戦の間、ガーランドはコンドル軍団第88戦闘飛行隊第3中隊長(3./JGr88)として300回以上の戦闘任務をこなした。当時の乗機は旧式のハインケルHe51で、対地戦闘が主任務であった。1939年、ヴェルナー・メルダースに中隊長職を引き継ぎ、ガーランドはドイツ本国へ帰還、ダイヤモンド付きスペイン十字章を授与された。
1939年9月、大尉に昇進。ポーランド侵攻時、第2地上攻撃教導航空団第2中隊長の任に就いた。ヘンシェルHs123を乗機として50回以上の戦闘任務をこなした。2級鉄十字章を授与された。
1940年2月、ガーランドの希望が聞き届けられ、第27戦闘航空団(JG27)の戦闘機パイロットとして転属された。 1940年5月、ドイツはフランスへ侵攻。5月12日、ベルギーのリエージュ近郊でガーランドは初の敵機撃墜を達成、さらに同日中に2機を撃墜した。5月19日、5機撃墜を達成してエース・パイロットとなる。その後もスコアを伸ばして計14機を撃墜した。
8月22日、ガーランドは第26戦闘航空団第3戦隊団長に昇進[2]。この頃からメッサーシュミット Bf109を乗機としている。
バトル・オブ・ブリテン
1940年7月、バトル・オブ・ブリテンが開始する。JG26はパ=ド=カレー県を根拠地としてイギリスへの攻撃を行った。 9月24日、撃墜40機を達成し柏葉付き騎士鉄十字章を授与された[3]。11月1日、撃墜数50機、中佐に昇進[4]。第26戦闘航空団司令に着任。1940年末までに撃墜数58機までスコアを伸ばした。1940年末には第51戦闘航空団司令ヴェルナー・メルダースとともに戦闘機パイロットとして有名になった。
1941年6月21日、ガーランドはブローニュでイギリス空軍のスピットファイアに撃墜されたが、基地に帰還したガーランドは同日中に再出撃した。しかし、今度は英軍第303戦闘機中隊ボレスラウ・ドロヴィンスキのスピットファイアに撃墜されて負傷する。 1941年6月撃墜数70機、剣付柏葉騎士鉄十字章を授与される。9月4日撃墜数80機。12月8日大佐[5]。バトル・オブ・ブリテンにおいてドイツ空軍が劣勢になる中、ヘルマン・ゲーリングに「どんな戦闘機があれば英空軍に勝利できるというのか」と詰問されたガーランドは、「英空軍のスピットファイアが欲しい」と言った。
11月22日、戦闘機隊総監ヴェルナー・メルダースが事故死、ゲーリングはガーランドを後任に選出した。撃墜数は96機を記録していた。1942年1月28日、メルダースに続き全軍で2人目のダイヤモンド剣柏葉付き騎士鉄十字章が授与された。以後戦闘は禁止された。
戦闘機隊総監
1942年2月、フランスのブレスト港のドイツ艦隊をドイツ本国へ脱出させるツェルベルス作戦(英名チャンネル・ダッシュ)が実施され、ガーランドは艦隊の上空支援作戦を指揮した。
1942年7月19日からスターリングラードに侵攻するがドイツは劣勢になる。ガーランドは「われわれ(戦闘機隊)がいくら敵を落としても爆撃隊が敵飛行機工場、施設をやってくれないときりがない」と空軍首脳部をなじった[6]。
連合軍の爆撃機に対する本土防空作戦の指揮を任されたが、その中で戦闘機隊総監であるにもかかわらず、フォッケウルフ Fw190を乗機として幾度か防空作戦に出撃し1944年にはB-17を非公式に2機撃墜した。 米英空軍によるドイツ本土都市爆撃に対しガーランドは「悪天候や闇夜をさけて条件のいい晴天の昼間に敵爆撃大編隊へ大規模な攻撃をかけるべき」と意見具申するが空軍首脳はこれを無視した[7]。
1942年3月から英米の絨毯爆撃が始まる。4月にロストック、5月にケルン、6月にはブレーメンが灰燼に帰し、防空を任されていたガーラント、カムフーバーはヒトラーに叱責される。そのため2人は夜間機400機と昼間機200機を集めて大迎撃を試みる。敵の物量が圧倒的であり撃墜率は5、6パーセントであった。さらに敵はレーダーかく乱兵器「ウインド」を投入しドイツ防空は87機で撃墜率は3パーセント以下に落ちる[8]。
1943年末ごろからB17といった大型機迎撃に対し現場で決死の体当り戦法が敢行されていること知ったガーランドは「肉薄攻撃はいいが体当たりすることはない。体当たりが必要なのは技術不足や相討ちの時だけだ。戦闘機パイロットは一朝一夕で養成できないので体当たりは避けるべきだ」と禁止を命令した[9]。
1943年5月22日、ガーランドはジェット戦闘機メッサーシュミット Me262のテスト飛行を自ら行った。その加速性と高速性からMe262を戦闘機として高く評価したが、1943年に地上展示されたMe262を見たヒトラーはこれを爆撃機として生産するように命じる。ガーランドはミルヒとともに戦闘機としての運用が最適との判断から戦闘機としての開発が継続し、たびたびヒトラーを説得した。 ガーランドは「Me262のような小型機に小型爆弾を積んでも無駄。アラド社が別に爆撃用を作っているのでMe262は防空戦闘機にするべき」と主張した。ヒトラーはノルマンディー上陸を受けて一部戦闘機とすることを認める。ガーラントは少数の実用実験部隊を作った[10]。
少年をHe162パイロットに使う案にガーラントは反対しジェット機の扱いの難しさをヴァルター・ノヴォトニー少佐に説明させ中止をケラーに説得した。ノヴォトニーは実戦の披露で戦死した[11]。
1942年12月、ガーランドは少将に昇進。30歳でありドイツ軍最年少の将官であった。1944年11月には中将に昇進。ガーランドとゲーリングら空軍首脳はMe262やハインケルHe162の運用方針を巡って対立が激化し1945年1月、ガーランドは戦闘機隊総監を解任され、ゴードン・ゴロプが後任となった。
第44戦闘団(JV44)
ガーランドの戦闘機隊総監の解任を受けてシュタインホフ大佐、リュッツォー中佐ら飛行団長がゲーリングを弾劾した。 そのため1945年3月ガーランドはジェット戦闘機隊の第44戦闘団(Jagdverband 44、略号JV44)の司令官に任じられ、人選の自由裁量権を与えられた。ガーランドは名だたるエース達に声をかけゲルハルト・バルクホルン(撃墜301機)、ハインツ・ベーア(同220機)、ヴァルター・クルピンスキー(同197機)、ヨハネス・シュタインホフ(同176機)、ギュンター・リュッツオウ(同108機)といったトップ・エースがJV44へ編入した。部隊員の大半が騎士鉄十字章受章者だったため、騎士鉄十字章戦闘機隊とも呼ばれた。中にはエーリヒ・ハルトマンのように断った者もいた。JV44 の部隊番号は、一説にはスペイン内戦時のJGr88にあやかり、せめて半分の成功を収められれば、という事で命名されたという。また、44(vier und vierzig / フィーア・ウント・フィーアツィヒ)には総統(Führer / フューラー)2人分、という洒落も込められているという。
4月からJV44は迎撃任務を開始しガーランド自身もメッサーシュミット Me262に乗って出撃した。4月16日ガーランドはB-26を撃墜し、撃墜100機を達成した。4月26日、アメリカ軍の爆撃機編隊に攻撃を仕掛け2機を撃墜。しかし、護衛のP-47に攻撃されて被弾し、不時着を余儀なくされた。着陸時に頭を負傷したガーランドはドイツ南部のバイエルン州の病院に入院。しかし5月14日、ガーランドは入院したままアメリカ軍の捕虜となってしまう。戦争を通してのガーランドの戦績は出撃回数705回、撃墜数104機であった。
戦後
終戦時イギリスに戦犯として逮捕され5年収容された[12]。最初の仕事はイギリス空軍における戦術教官であった。後にアルゼンチン空軍の顧問となる。
1954年2月12日、ガーランドはアルゼンチンで出会ったドイツ総領事の娘、シルヴィニア・フォン・ドーンホフと結婚した。1956年、ドイツに帰国したガーランドは航空会社へのコンサルタント事業に成功した。
1963年、シルヴィニアと離婚したガーランドは、ハンネリース・ラートヴァインと二度目の結婚をした。ラートヴァインとの間には1966年8月7日息子のアンドレアス・フーベルトゥス、1969年7月29日娘のアレキサンドラ・イサベレという二人の子供に恵まれたが、1973年に離婚した。
1984年には長くガーラントの個人飛行機の副操縦士を務めたハイディ・ホルンと三度目の結婚をした。
ガーラントは1996年2月9日にレマーゲンのオーベルヴィンターで83歳の生涯を閉じた。
人物
スペイン内戦時からガーランドのパーソナルマークは、葉巻をくわえ、手に斧と拳銃を持ったミッキーマウスであった。ミッキーマウスが好きだったガーランドは、スペイン内戦時の自分の中隊名をミッキーマウスとしていた。葉巻好きとしても有名であり、ガーランドの写真や漫画には葉巻をくわえた姿が多い。バトル・オブ・ブリテンの際には、自身の戦闘機のコックピットに灰皿を取り付けてもらった。鹿狩と鉄道模型が趣味だった。
メルダースが命中率の良いプロペラ軸内砲15mm(モーターカノン)や小口径の胴体銃を好んだのに対して、安全から小口径になる胴体銃の7.92mmMG17機銃を「花火」と称し、口径に制約のあるプロペラ軸内砲より大口径の翼内機銃を推奨しF型を評価しなかった。
戦後各地の航空ショーや講演に参加し連合軍パイロットたちとも友誼を結んだ。特にダグラス・バーダーとの友情は深く、ともにカナダのウィニペグの名誉市民となっている。
弟二人も戦闘機パイロットである。ヴィルヘルム=フェルディナント・ガーランドは撃墜54機、パウル・ガーランドは撃墜17機のエース・パイロットで大戦中に戦死している。
空軍首脳部との確執
ガーランドの直言は空軍首脳部にとって面白くないものであった。ゲーリングはガーランドに「君は我々をよく責めるが、戦闘機隊隊員は無能者の集まりで臆病でだらしがない」とたしなめた。それに対しガーランドはダイヤモンド剣付柏葉騎士十字章を叩きつけ「もうそんなものはいりません」と怒った[13]。
著書
- 『Die Ersten und die Letzten (邦訳:始まりと終り)』: 第二次世界大戦を中心とした自伝。全世界で翻訳され、300万部を超えるベストセラーとなった。日本では1972年にフジ出版社より刊行されている。
注釈
- ^ 渡辺洋二によれば本人に手紙で確認したところ、「ガランド」(アクセントは「ガ」)が正しいとの回答を得たという。
- ^ ドイツ語の発音辞典( Das Aussprachewörterbuch (6 ed.). Duden. p. 348. ISBN 978-3-411-04066-7)に記載された発音記号は [galant] であり、これをカタカナ転写すれば「ガラント」である。
- ^ ヴァイマル共和政時代のドイツではヴェルサイユ条約によって空軍の保持ならびに航空機研究・開発が禁止されていたため、青少年にグライダー・スポーツが奨励されていた。
脚注
- ^ 鈴木五郎『撃墜王列伝 大空のエースたちの生涯』光人社NF文庫118頁
- ^ 鈴木五郎『撃墜王列伝 大空のエースたちの生涯』光人社NF文庫118頁
- ^ 鈴木五郎『撃墜王列伝 大空のエースたちの生涯』光人社NF文庫117頁
- ^ 鈴木五郎『撃墜王列伝 大空のエースたちの生涯』光人社NF文庫118頁
- ^ 鈴木五郎『撃墜王列伝 大空のエースたちの生涯』光人社NF文庫118-119頁
- ^ 鈴木五郎『撃墜王列伝 大空のエースたちの生涯』光人社NF文庫120頁
- ^ 鈴木五郎『撃墜王列伝 大空のエースたちの生涯』光人社NF文庫120頁
- ^ 鈴木五郎『撃墜王列伝 大空のエースたちの生涯』光人社NF文庫121-122頁
- ^ 鈴木五郎『撃墜王列伝 大空のエースたちの生涯』光人社NF文庫126頁
- ^ 鈴木五郎『撃墜王列伝 大空のエースたちの生涯』光人社NF文庫128-129頁
- ^ 鈴木五郎『撃墜王列伝 大空のエースたちの生涯』光人社NF文庫131-132頁
- ^ 鈴木五郎『撃墜王列伝 大空のエースたちの生涯』光人社NF文庫138頁
- ^ 鈴木五郎『撃墜王列伝 大空のエースたちの生涯』光人社NF文庫127頁
文献
- ヴェルナー・ヘルト著、野崎透訳、『アドルフ・ガラント』、大日本絵画
- ロバート・フォーサイス著、岡崎淳子訳、『第44戦闘団 ザ・ガーランド・サーカス』大日本絵画
- 渡辺洋二著、『ジェット戦闘機Me262 ドイツ空軍最後の輝き』、光人社