アイヌの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。126.74.101.192 (会話) による 2016年3月24日 (木) 16:24個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎アイヌモシリの被支配化: 事実関係を正しました)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

アイヌの歴史(アイヌのれきし)とは、アイヌ語で言うところのアイヌモシリ(日本列島北海道島・千島列島および樺太島)の先住民族の一つであるアイヌの歴史である。

序論

アイヌは形質人類学的には縄文時代の日本列島人と近く、本州以南が弥生時代に入った後も縄文文化を保持した人々の末裔であると考えられている。アイヌとはアイヌ自らの固有の言語であるアイヌ語で「人間」を意味する。アイヌの歴史は、考古学上の概念としてのアイヌ文化が成立した時に始まるが、後にアイヌと呼ばれるようになるエスニック・グループは、アイヌ文化が成立する遙か以前から存在していた点に注意が必要である。詳しくはアイヌ文化を参照。

アイヌの歴史の始まり

先に述べたように、アイヌの歴史はアイヌ文化の成立を嚆矢とする。アイヌ文化はアイヌモシリ(北海道・樺太)で13世紀に成立したと考えられているが、アイヌは文字を持たなかったため、文献史料が十分ではなく、アイヌ文化成立の経緯について考古学や文献でその経緯を十分に跡付けることは未だ困難である。しかし基本的には、北海道の前時代にあった擦文文化を継承しつつ、オホーツク文化と融合し、本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。

擦文文化に継承された続縄文時代土器の文様には、アイヌの衣装に描かれる模様(アイヌ文様)との類似性があると指摘されるが、アイヌ文様は黒竜江流域や樺太中部〜北部の諸民族の文様とも類似しており、その発生・系統を実証することは困難である。

オホーツク海南沿岸で栄えたオホーツク文化には、ヒグマを特別視する世界観があった。これはアイヌ文化と共通するが、擦文文化の遺跡からはこれをうかがわせる遺物は検出されていない。アイヌにとって重要な祭祀である熊送りイオマンテ)が、オホーツク文化(今日のニヴフに連なる集団によって担われたと推定されている)に由来する可能性も、示唆されている[1]

また、擦文文化からアイヌ文化の生活体系に移るに伴い、土器の製作や使用が廃れ、その代わりに本州から移入された鉄器漆器が生活用具として定着した。この点からは、アイヌ文化を生んだ契機に日本との交渉の増大があると考えられている。また、住居がそれまでのかまどを備えた竪穴式住居から、囲炉裏のみでかまどが排除された掘立柱建物チセへと変貌していった。

和人との交易関係

農耕民族の和人と狩猟採集民族のアイヌは、それぞれの生活様式によって確保した生産物を交易で交換した。アイヌは魚や毛皮を輸出品目とし、和人の生産する道具(鉄器や漆器)や嗜好品(米、茶、酒)と交換した(場所請負制および北前船も参照)。江戸時代では武力を背景とした松前藩による不平等な交易でアイヌは経済的な不利益を蒙った。また和人との関係が増える中で天然痘などの伝染病に罹患し、民族としての衰退を招いたと考えられている。

続縄文時代や擦文時代の北海道では、などの雑穀が小規模ながら栽培されていた。しかしアイヌ文化の成立とともに、農耕は縮小する傾向にあった。これは寒冷な気候ゆえに耕作を諦めたというより、本州との交易用の毛皮や干魚を確保するため、狩猟や漁労を重視した結果らしい。

北方諸民族との交流

樺太アイヌは北方のツングース系などの諸民族とも交流があり、それを介して大陸の中華王朝とも関係を持った(アイヌ文化を参照)。1264年 には樺太に侵入したアイヌ(元朝の文献では「骨嵬」と書かれている)とニヴフ(同じく「吉烈迷」)との間に紛争が勃発した。この戦いにはモンゴル帝国軍が介入し、アイヌからの朝貢を取り付けた(詳細はモンゴルの樺太侵攻を参照)。その後もアイヌは大陸との交易を続けていた。この交易は山丹交易と呼ばれ、江戸時代にはアイヌが交易によって清朝などから入手した絹織物や官服が、「蝦夷錦」と呼ばれて日本国内にも流通していった。

年表

アイヌモシリの被支配化

文字文化を採用しなかったアイヌには、自ら記した歴史記録がない。現代まで、正式に記録が残っている物は和人の視点からの物が殆どである。アイヌからの視点で歴史を記述することが、歴史学の課題でもある。

  • 13世紀 - 安藤太蝦夷代官職になる。
  • 1264年 - モンゴルの樺太侵攻始まる。[2]
  • 1268年 - 津軽でエゾの蜂起があり、安藤氏が討たれる。
  • 1295年 - 日持上人が樺太南西部(後の樺太本斗郡本斗町阿幸)に上陸し、日蓮宗の布教活動を行った。
  • 1297年 - 蝦夷代官・安藤氏が蝦夷(樺太アイヌ)を率いて黒龍江流域に侵攻しキジ湖付近でと交戦[3]
  • 15世紀 - 蝦夷管領・安東氏被官である渡党(後に松前藩の母体となる)が蝦夷地南部12箇所(道南十二館)に勢力を張る。彼らはアイヌとの交易や漁場への進出を通して成長する。
  • 1457年 - コシャマインの戦い。和人鍛冶職人とアイヌ青年の争いを発端としてアイヌの首長コシャマインが起こした蜂起。花沢館の館主である蠣崎氏の客将、武田信広が平定し、蠣崎家を相続したと伝えられている。[4]
  • 1485年 - 樺太アイヌの首長が、蝦夷管領・安東氏の代官武田信広(松前家の祖)に銅雀台を献じ配下となる。
  • 1514年 - 蠣崎氏が他の渡党に優越する地位(上国・松前両守護職)につく。
  • 1515年(または1519年) - ショヤ・コウジ兄弟の戦い
  • 1529年 - タナサカシの蜂起、蠣崎義広に討たれ平定される。
  • 1536年 - タナサカシの娘婿・タリコナの蜂起、蠣崎義広に討たれ平定される。
  • 1550年 - 安東舜季、蝦夷地の国情視察を目的に蝦夷地に渡る(東公の島渡)。このとき、蠣崎氏・渡党とアイヌとの交易の協定が締結され、日の本蝦夷酋長の知内のチコモタインと唐子蝦夷酋長のセタナイのハシタインはそれぞれ東夷尹、西夷尹(「尹」とは裁判権を持つ統率者の意)とされ、蝦夷から松前への渡航を統制すること、ハシタインは上ノ国に居住すること、松前大館蠣崎季広は和人との交易税(原文:『自商賈役』)の一部を「夷役」として両尹に献上することが定められたという[5]
  • 1591年
  • 1593年(または1598年) - 慶広、秀吉から全蝦夷地(樺太北海道)の支配権を与えられる。
  • 1599年 - 慶広、名字を蠣崎から松前に改める。
  • 1604年 - 慶広、江戸幕府からアイヌとの交易独占を認められる。以後、和人(本州)との交易窓口が一本化されて必需品輸入の生命線を握られたため、アイヌの松前藩への従属が強まり、不平等な交易によるアイヌの不満が、和人に対するアイヌ蜂起の一因ともなった。
  • 1635年 - 松前藩の松前公広が村上掃部左衛門に蝦夷地の調査を命じる。
  • 1644年 - 松前藩から提出の所領地図を基に「正保御国絵図」が作成されている。
  • 1661年 - 得撫島に伊勢国の七郎兵衛の船が漂着した。アイヌ人たちの助けで択捉島国後島を経て十州島(北海道)へ渡り、1662年(寛文元年)に江戸へ帰った。
  • 1669年 - 漁猟権をめぐる蝦夷同士の争いがシャクシャインの戦いに発展。このころ以後、和人がアイヌに軍事的にも優越する。
  • 1679年、松前藩の穴陣屋が久春古丹(後の樺太大泊郡大泊町楠渓)に設けられ、日本の漁場としての開拓が始まる。
  • 1685年 - 樺太は松前藩家臣の知行地として開かれたソウヤ場所に含まれた(場所請負制を参照)。
  • 1700年 - 松前藩は蝦夷地(十州島唐太千島列島勘察加)の地名を記した松前島郷帳を作成し、幕府に提出。
  • 1711年 - ロシア人アンツィフェーロフとコズイレフスキー、千島最北端の占守島(シュムシュ島)と幌筵島(パラムシル島)に上陸。住民にサヤーク(毛皮税)の献納を求めるが拒絶される。
  • 1713年 - コズイレフスキーが占守島に再来の後、パラムシル島に上陸し、激しい抵抗を受けるも武力で征服。北千島住民にサヤーク(毛皮税)を献納させ、ロシアの支配を認めさせた。同年、温祢古丹島(オンネコタン島)も襲撃し帰国(ロシア人、占守郡まで南下)。
  • 1715年 - 幕府に対し、松前藩主は「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。
  • 1721年 - 中部千島の新知島(シムシル島)にロシア人上陸(ロシア人、新知郡まで南下)。
  • 1731年 - 国後・択捉の首長らが松前藩主のもとを訪れ献上品を贈る。
  • 1739年 - デンマーク人シパンベルク、色丹島に上陸。その後、本州に到達。
  • 1747年 - ロシア正教修道司祭イオアサフが、布教のため北千島へ渡り、シムシュ島・パラムシル島のアイヌ208人をロシア正教に改宗させる。
  • 1752年 - ソウヤ場所から樺太場所が分立。
  • 1754年 - 松前藩家臣の知行地として国後場所国後島択捉島得撫島を含む)が開かれる。
  • 1758年 - 弘前藩や盛岡藩によって藩内に居住していたアイヌの同化政策や追放が進む。
  • 1766年 - イワン・チョールヌイが国後場所に侵入。ロシア人として初めて得撫島(ウルップ島、後の得撫郡)以南に到達。周辺のアイヌから毛皮の取り立てや過酷な労働を課し、ウルップ島で多数の女性を集めてハーレムを作る(1769年まで)。
  • 1772年 - ウルップ島の千島アイヌが蜂起し、ロシア人20名が殺害され残りはカムチャッカ半島へ撤退。
  • 1776年 - ロシアの毛皮商人による殖民団が、ウルップ島へ一時的に居住(7年後に撤退)。
  • 1786年 - 最上徳内択捉島と得撫島を探検。幕吏として最初に択捉島・得撫島を探検した徳内は、このときロシア人が居住していること、択捉島現地人の中にキリスト教を信仰する者がいる事を確認している。
  • 1789年 - 労働条件や国後場所請負人・飛騨屋との商取引に不満を持った蝦夷(アイヌ)が蜂起したクナシリ・メナシの戦い勃発。この戦いに破れて以降、アイヌによる大規模な蜂起は見られなくなった。
  • 1790年 - 樺太南端の白主に松前藩が商場を設置、幕府は勤番所を置く。
  • 1791年 - 最上徳内択捉島と得撫島を探検。
  • 1798年 - 近藤重蔵が東蝦夷を探検、択捉島に「大日本恵土呂布」の標柱を立てる。
  • 1799年 - 東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が公議御料幕府直轄領、ただし仮上知)となる。東北諸藩に警固を命じる。場所請負制を通じて東蝦夷地のアイヌ人の宗門人別改帳が作成される。
  • 1800年 - 伊能忠敬が蝦夷を測量。
  • 1801年 - 深山宇平太や富山元十郎などが千島列島得撫島を探検し、「天長地久大日本属島」の標柱を立てる。
  • 1802年 - 江戸幕府、東蝦夷地を正式に上知し蝦夷奉行を置く。後に箱館奉行となる。
  • 1804年 - ニコライ・レザノフ日露の通商を求めて長崎に来日、通商を拒絶される。
  • 1807年 - ニコライ・レザノフの部下、ニコライ・フヴォストフロシア語版らが択捉島や樺太に上陸、略奪や放火などを行う(フヴォストフ事件)。幕府は東北諸藩の兵で警固を強化。西蝦夷地(北海道日本海岸・オホーツク海岸・樺太)も公議御料(幕府直轄領)とし、樺太アイヌを含む全蝦夷地のアイヌ人の宗門人別改帳が作成されるようになる。箱館奉行を松前に移し松前奉行を置く。アイヌに対する和風化政策がおこなわれる。
  • 1808年 - 幕府が、最上徳内松田伝十郎間宮林蔵を相次いで樺太に派遣。松田伝十郎が樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の標柱を建てる。
  • 1809年間宮林蔵が樺太がであることを確認し、それまで属した西蝦夷地から北蝦夷地として分立する。また、山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。
  • 1811年 - ゴローニン事件日露の緊張が高まる。
  • 1813年 - ゴローニン事件が解決するものの日露の緊張が残る。
  • 1821年 - 日露関係の緩和を受け、幕府蝦夷地松前藩に返還する。このころ以後、蝦夷地への和人移住が増加し、アイヌの生活・文化の破壊が顕著となる。

日露国境の画定

戦後の民族運動

千島・樺太のアイヌの歴史

千島樺太のアイヌは日露両国の進出、南北千島の分断統治、樺太と千島の交換、日露戦争ロシア(当時はソ連)の北方領土占領によって国際的に翻弄された。

千島アイヌ

千島列島には先史時代から居住者がいたが、文字記録が残されるようになるのはロシアが東シベリアまで勢力を拡大した18世紀からである。千島アイヌは千島列島を南北に移動して交易していたが、この頃、日本の北進と東シベリアを版図に入れたロシアの南進によって、彼らは生産・交易活動を両国に依存することが多くなっていった。松前藩は家臣の知行地として1754年にウルップ(得撫島)までを含む国後場所を開いていたが、その後のロシア人の侵入もあり、江戸幕府は、1803年、エトロフ-ウルップ(得撫島)間のアイヌの移動を禁止した。これによりウルップ島以北のアイヌは日本との交易が困難になり、ロシアの影響を強く受けるようになった。1854年日露和親条約によって千島列島は日露両国が南北を分断して統治することになったが、1875年には樺太・千島交換条約に基づき千島列島が全て日本の領土になった。その際居住者は日本国籍を得て残るか、ロシア国籍を得て去るか選択させられ、大部分は日本国籍を得た。

1884年には若干の千島アイヌが日本領北端のシュムシュ(占守島)に残っており、北の国境に民間人を置いておくよりも南の地で撫育した方が良いと考えた日本政府は、97名を半ば強制的に色丹島へ移住させ、牧畜・農業に従事させた。しかし先祖代々続いた漁撈を離れ、新しい土地で暮らすことに馴染めず、健康を害するものも現れた。望郷の念を募らせる千島アイヌに対し、日本政府は1898年以降、軍艦に彼らを乗せ北千島に向かわせ、臨時に従来の漁撈に従事させる等の措置をとった。1923年には人口は半減しており、更に第二次世界大戦(太平洋戦争)における日本の敗戦に乗じたソ連による千島・北方領土の占領に伴い、千島アイヌを含んだ日本側居住者は全て強制的に本土に移住させられ、各地に離散した。1970年代に最後の一人が死去した時点で千島アイヌの文化を継承する者は消滅したと思われている。

樺太アイヌ

樺太のアイヌも国際情勢の変化の影響を強く受けた。樺太・千島交換条約に伴って樺太がロシア領になることから、同条約発効に先立つ1875年10月、もともと樺太南部の亜庭湾周辺に居住し日本国籍を選択した108戸841名が宗谷に移住し、翌年6月には対雁(現江別市)に移された。生活環境の変化に加え、運の悪いことに1886年コレラ、さらには天然痘の流行が追い討ちをかけ、300名以上が死去したという。1905年の日露戦勝によって南樺太が日本領になると、1906年、漸く樺太アイヌは再び故郷の地を踏むことができるようになった。ところが第二次世界大戦後に樺太全域がまたもロシア(当時はソ連)の占領下となり、同国政府によって樺太アイヌの殆どが北海道へ強制送還された。しかしながらアイヌは現在も樺太に少数ながら住んでいる。

脚注

  1. ^ 2005年には知床の斜里町ウトロにあるチャシコツ岬下のトビニタイ文化期の遺跡から、熊を祀った跡と思われる遺物が出土した。これにより、熊送りがオホーツク文化からトビニタイ文化を経由してアイヌ文化にもたらされたとの見方が改めて浮上した。詳細はトビニタイ文化を参照のこと。
  2. ^ 交易の民アイヌⅦ 元との戦い 旭川市博物館
  3. ^ 海保嶺夫 96年
  4. ^ 交易の民アイヌⅧ 中世のアイヌ 旭川市博物館
  5. ^ 海保嶺夫 『エゾの歴史』 講談社、1996年、ISBN 4062580691
  6. ^ 「松前藩」『藩史大事典』 第1巻 北海道・東北編、木村礎・藤野保・村上直編、雄山閣、2002年。 慶広は天正18年9月(1590年10月)に津軽海峡を渡り、同年末(西暦では翌年初め)に上洛している。『新・国史大年表』 第4巻 (一四五六〜一六〇〇)、日置英剛編、国書刊行会、2009年。 
  7. ^ 麓慎一「北千島アイヌの改宗政策について -色丹島におけるアイヌの改宗政策と北千島への帰還問題を中心に -」『立命館言語文化研究』第19巻1号、2007年、立命館大学国際言語文化研究所
  8. ^ 明治末期の日本海軍 千島アイヌの生活調査 - 北海道新聞2015年6月9日
  9. ^ 道ウタリ協会 来春に「アイヌ協会」と改称

関連項目

外部リンク