アイザック・マーフィー

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アイザック・マーフィー

アイザック・バーンズ・マーフィーIsaac Burns Murphy, 1861年4月16日1896年2月12日)はアメリカ合衆国黒人騎手

1412レースに騎乗し、628の勝ち星を挙げたが、この44%という勝率に並んだ騎手は現在に到るまで出ていない[1]。この記録樹立によって、1955年アメリカ競馬殿堂に初めて選出された騎手の一人となった。たださすがにこの記録は誇張であったらしく1538戦530勝(勝率34%)であるという[2]。とはいえ凄まじい数字であることには変わりない[2]

経歴[編集]

ケンタッキー州フランクフォート出身。父親は捕虜としてキャンプ・ネルソンに葬られるまで、南北戦争に連合軍兵士として出兵していた。父の死後、家族は彼の祖父グリーン・マーフィーの住むレキシントンに移住。14歳で騎手になったとき、彼は尊敬する祖父の苗字“マーフィー”に改名した。

1877年から1893年の間、ケンタッキーダービーに11回騎乗。1884年にはブキャナン、1890年にはライリー、そして1891年にはキングマンで、史上初のケンタッキーダービー3度制覇を成し遂げた騎手となった[3]。また、ケンタッキーダービー、ケンタッキーオークスクラークハンデキャップの3レースを同一年に勝利した唯一の騎手でもある(1884年達成)。

彼は“Colored Archer”とあだ名されたが、これは同じ時代に活躍したイギリスの騎手、フレッド・アーチャーにちなんで付けられたものである。

アイザック・マーフィーは1896年に肺炎がもとで死去したが、墓に名前が刻まれていなかったため、その場所は長らく忘れ去られていた。しかし1967年に見つけ出され、亡骸はケンタッキー・ホース・パークのエントランスに移された。現在はマンノウォーの隣で眠りについている。

1995年には彼の名誉を称え、1年で最も勝率の高かった騎手に贈られるアイザック・マーフィー賞が創設された。また、アーリントンパーク競馬場では彼の名前を冠したレース、アイザックマーフィーハンデキャップが行われている。

脚注[編集]

  1. ^ エディ・アーキャロは「彼の記録を超えるチャンスはないだろう。」と話している [1]
  2. ^ a b Steven A. Riess (2018年5月5日). “The American Jockey, 1865-1910”. 2020年4月15日閲覧。
  3. ^ なお、キングマンは黒人のオーナー兼調教師ダドリー・アレン(Dudley Allen)の管理馬であり、これは黒人のオーナーがダービーを勝った唯一の記録である。

参考文献[編集]