わが友ヒットラー

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わが友ヒットラー
訳題 My Friend Hitler
作者 三島由紀夫
日本の旗 日本
言語 日本語
ジャンル 戯曲
幕数 3幕
初出情報
初出文學界1968年12月号
刊本情報
出版元 新潮社
出版年月日 1968年12月10日
装幀 前川直
総ページ数 144
初演情報
公演名 劇団浪曼劇場第1回公演
場所 紀伊國屋ホール
初演公開日 1969年1月18日
劇団 浪曼劇場
演出 松浦竹夫
主演 村上冬樹
ポータル 文学 ポータル 舞台芸術
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わが友ヒットラー』(わがともヒットラー)は、三島由紀夫戯曲。全3幕から成る。アドルフ・ヒトラーが政権を獲得した翌年に起こした突撃隊粛清レーム事件)を元にした作品である。ヒトラーに厚い友情を抱いているナチス私兵・突撃隊幕僚長エルンスト・レームと、全体主義の移行のために「中道」姿勢を国民に見せておく必要から極右のレーム処分を考えるヒトラーとの対比を会話劇で描いている。私兵「楯の会」を率いていた三島が、レームに理想の人物像を重ね合わせている作品でもある[1][2]。登場人物が男性4人だけなので、女性6人のみの『サド侯爵夫人』と対をなす作品となっている[1]。なお、作者・三島による脚本読みの肉声録音が残っている[3]

発表経過[編集]

1968年(昭和43年)、文芸雑誌『文學界』12月号に掲載され、同年12月5日に新潮社から単行本刊行された[4][5]。初演は翌年の1969年(昭和44年)1月18日、劇団浪曼劇場第1回公演として紀伊國屋ホールで上演された[6]

翻訳版は佐藤紘彰訳(英題:My Friend Hitler)、イタリア(伊題:Il mio amico Hitler)で行われている[7]

設定・主題[編集]

舞台は、1934年(昭和9年)6月30日夜半の「レーム事件」前後のベルリン首相官邸の大広間。登場人物は、アドルフ・ヒトラーエルンスト・レームシュトラッサーグスタフ・クルップの実在人物の男性4人のみ。第1幕と第2幕は事件数日前。終幕の第3幕は6月30日夜半。

突撃隊幕僚長・レームはあくまでヒトラーを友と信じる右翼軍人社会主義者・シュトラッサーはナチス左派。エッセン重工業地帯の独占資本を象徴する鉄鋼会社社長・クルップはヒトラーにうまく取り入る死の商人として描かれる。

三島は、〈レームに私はもつとも感情移入して、日本的心情主義で彼の性格を塗り込めた〉と述べ[1]、『わが友ヒットラー』の主題について、ヒットラーへの興味というよりも「レーム事件」が書きたかったとしている[8]

政治的法則として、全体主義体制確立のためには、ある時点で、国民の目をいつたん「中道政治」の幻で瞞着せねばならない。それがヒットラーにとつての一九三四年の夏だつたのであるが、このためには、極右極左を切り捨てなければならない。さうしなければ中道政治の幻は説得力を持たないのである。この法則は洋の東西を問はぬはずであるが、日本では、左翼の弾圧をはじめてから二・二六事件の処断までほぼ十年かかつた。いかにも計画性のないお国柄を反映してゐる。それをヒットラーは一晩でやつてのけたのである。ここにヒットラーの仮借ない理知の怖ろしさがあり、政治的天才がある。(中略)そしてレーム大尉は、歴史上の彼自身よりも、さらに愚直、さらに純粋な、永久革命論者に仕立ててある。この悲劇に、西郷隆盛大久保利通の関係を類推して読んでもらつてもよい。 — 三島由紀夫「作品の背景――『わが友ヒットラー』」[8]

また、先行で発表された『サド侯爵夫人』(女性のみ6人の登場人物)を書いている時から、それと〈対をなす作品〉として男性のみの登場人物の作品を創作しようと考えていたとし[1]、〈女らしさの極致〉の『サド侯爵夫人』の奥に、〈劇的論理の男性的厳格さ〉が隠され、〈男らしさの極致〉の『わが友ヒットラー』の背後に、〈甘いやさしい情念〉が秘められているとしている[9]

『サド侯爵夫人』における女の優雅、倦怠、現実性、貞節は『わが友ヒットラー』における男の逞しさ、情熱、性の観念性、友情と照応する。そしていづれもがジョルジュ・バタイユのいはゆる「エロスの不可能性」へ向つて、無意識に衝き動かされ、あがき、その前に挫折し、敗北してゆくのである。もう少しで、さしのべた指のもうほんのちよつとのところで、人間の最奥の秘密、至上の神殿の扉に触れることができずに、サド侯爵夫人は自ら悲劇を拒み、レームは悲劇の死の裡に埋没する。それが人間の宿命なのだ。 — 三島由紀夫「一対の作品―『サド侯爵夫人』と『わが友ヒットラー』」[9]

序説[編集]

                     時 一九三四年六月
                      所 ベルリン首相官邸

                          登場人物

                         アドルフ・ヒットラー

                          エルンスト・レーム

                        グレゴール・シュトラーサー

                          グスタフ・クルップ

あらすじ[編集]

第1幕 - 1934年6月。ベルリン首相官邸の大広間。奥にバルコニー

前年に政権を獲得し首相となったナチス党党首・ヒットラーは聴衆を前に演説している。官邸に呼ばれた突撃隊幕僚長・レームシュトラッサー、そして鉄鋼会社社長・クルップはそれぞれの思惑で演説の終わったヒットラーと対話する。

第2幕 - 翌朝。ベルリン首相官邸の大広間。

朝食後、ヒットラーは、レーム率いる突撃隊に長い休暇をとるように勧める。ヒットラーは、現大統領が死んで自分が大統領になるまでの間、病気を装い休戦しろとレームに命じた。今や正規軍を指揮する立場にあるヒットラーは、ナチス私兵の処分を考えていたのだった。そうとは知らないレームはヒットラーに厚い友情を抱き、「どんな時代になろうと、権力のもっとも深い実質は若者の筋肉だ。それを忘れるな。少なくともそれをお前のためにだけ保持し、お前のためにだけ使おうとしている一人の友のいることを忘れるな」と言い、その命令に同意して去る。
レームとの会話を盗み聞きし、ヒットラーの意図に気づいたクルップが現れ、君の暗い額にひらめいたのは「嵐の兆そのものだった」と褒め、ヒットラーを持ち上げる。
昨夜からヒットラーの心中を感づいていたシュトラッサーはレームに、2人で逆にヒットラー抜きの政権を目指す策略案を提案する。そうしないと我々はヒットラーに殺されると言う。激しい会話の応酬が交わされるが、あくまでレームは、ヒットラーを裏切るような行動に加担できないと言い、聞き入れない。

第3幕 - 1934年6月30日夜半。ベルリン首相官邸の大広間。

レームシュトラッサーを「長いナイフの夜」で粛清した後の眠れぬ夜、ヒットラークルップを呼び出す。互いに粛清を正当化しつつ、クルップが、「アドルフ、よくやったよ。君は左を斬り、返すで右を斬ったのだ」と言い、ヒットラーが、「そうです、政治は中道を行かなければなりません」と答える台詞で幕引きを迎える。

作品評価・研究[編集]

1932年、ベルヒテスガーデン。左からヒトラー、シュトラッサー、レーム、ゲーリング

『わが友ヒットラー』は、戯曲としての出来は悪くはないが、ヒットラーを扱っているというタブーから、海外では上演が行われない傾向がある[6]。発表当時も作品自体のことよりも、俳優が観客にウケるためカーテンコールの挨拶でやっている「ナチス式敬礼」について批判し、「今通じる洒落と通じない洒落がある」と秋山安三郎が述べている[10]。しかし、そのような中でも小島信夫は、「古典演劇のようなレトリックの多い文章でしゃべらせているので、福田恆存氏訳のシェークスピアを読むような感じがするが、非常に充実感がある」と評価している[11]

マイコウィッチ・ミナコ・Kは、三島がヒットラーへの興味よりもレーム事件に興味を持ち、〈レームに私はもつとも感情移入して、日本的心情主義で彼の性格を塗り込めた〉と説明している創作意図を鑑み、「この戯曲はかなり日本化されたヒットラー劇という特性を備えている」と説明しながら、この劇のヤマ場が第2場の、レームが断固としてヒットラーを信じる場面だとし[12]、「それだからこそ、〈わが友ヒットラー〉という表題の意義が大きく浮かび上がるわけである」と解説し、最後のヒットラーの台詞を「三島の技倆を遺憾なく発揮したもの」と評している[12]

佐藤秀明は、ヒットラーに厚い友情を抱く突撃隊のレームと、ナチス私兵・突撃隊の処分を考えていたヒットラーを比較し、全体主義の移行のために一旦中道政治の方向を示して国民の支持を取りつけようとするヒットラーよりも、私兵「楯の会」を率いる三島は当然突撃隊のレームと重なるとし[13]、そこに必然的に浮上してくる「政治的敗北」ということを考え併せ、「三島は政治的な敗北を予言したのだろうか」と疑問を呈しながら、むしろ三島が告白しようとしたのは、「政治的勝利や政治的権謀術数への訣別の意志」であり、「粛清される側に立つ三島」が、ヒットラーを「わが友」と呼んだのは、レームの言う「軍隊への郷愁」を、敗者になることでそのまま享受しようという「心情」があったからだと考察している[13]

伊藤勝彦は、三島の死後に彼の「親友」を自認する「エセ親友」がぞくぞくと出てきたことから、三島が生前にそういった多くの取り巻きの者たちの媚態や偽善を見抜き、華やかで社交的な振舞いの中でも孤独を感じて「真の友」を欲していた人であり[2]、いわばシュトラッサーのようにヒットラーの裏切りを事前に敏感に察知できるような「明察」の人だったとして[2]、それゆえ三島は、自身とは異質の他者である「愚直で、誠実で、人を信じきることができる男」であるレームになりたいと思い、愚直にに邁進してそれを体現する悲劇的な人物に憧れていたと考察している[2]。そして三島の造型したそのレーム像について伊藤は以下のように解説し、レーム同様に「楯の会」を率いていた三島も、「戦士共同体の再現はもはや帰らぬ夢であることを知りぬいていた」が、それにもかかわらず、「それを信じることにいのちを賭けてみたかった」のだとしている[2]

レームにしても、まるっきりのバカではない。ヒットラーの裏切りの可能性を知らないわけではなかった。(中略)しかし、“わが友ヒットラー”を裏切ることだけは絶対にできない。彼はいわば戦士共同体を夢みる男だった。その夢が無残にこわされるくらいなら潔く死んだほうがましだった。(中略)たとえ裏切られてもいい。最後まで“わが友ヒットラー”を信じ、ヒットラーの信頼に応えるような、誠実な行動をとりつづけたい。こう考えたからこそ、シュトラッサーに同調しなかった。そうして見事に裏切られ、壮烈な死をとげたのである。 — 伊藤勝彦「わが友ヒットラー」(『最後のロマンティーク 三島由紀夫』)[2]

また伊藤は、ヒットラーの造型については、決して「狂気の人」ではなく、「冷酷無残な政治的人間」であり、そこに「現実政治の実態」を三島が描いているとして[2]、その観点でいくと、「ヒットラーが異常性格で狂人にひとしい存在であるという常識」に妥協していた公演(石沢秀二の演出、平幹二朗の演技)は、三島の原作の「真精神を裏切っていた」と劇評している[2]

そして、「もっとも冷静で、正気な人間のうちにも、狂人以上の冷酷無残がひそんでいる」という「正気という名の狂気」がこの劇の主題であり、三島が言いたかったのも、「あなたはヒットラーを自分とは無縁な特殊人間に仕立てあげ、ヒューマニズムの中に安住していたいのだろうが、そのあなたの中にもヒットラーが生きている。あなた自身、“ヒットラーの友”なのかもしれませんよ」ということだろうと伊藤は考察し[2]、しかしながら演出家の強調点が三島の真意と噛み合っていないにもかかわらず、『わが友ヒットラー』で交わされる台詞には、三島の精神が躍動し、演劇空間の中に三島が甦り、「三島由紀夫は生きている」と実感できるとして、「すぐれた芸術作品はかくも不出来な演出の中においてすら、真価を発揮する」と評している[2]

エピソード[編集]

1968年(昭和43年)暮、『わが友ヒットラー』の来年上演予定の告知として新聞紙上に、ヒットラーに扮した村上冬樹や、勝部演之レームの写真が掲載され、そのコスチュームが上野中田商店あたりで買ったような米軍の中古の執務服に、二級鉄十字勲章のレプリカをつけただけだったのを見た、当時中学3年だったヒットラー・マニアの少年が、劇団「浪曼劇場」に電話をかけて来たという[14][15]。将来ドイツ現代史の研究家を志していたその少年・後藤修一は、歴史の時代考証上の協力を申し出た。三島はその申し出を喜び、その晩さっそく少年の家に電話をかけ稽古場へ来てもらうこととなった[15]

ナチスの制服や突撃隊の軍服や勲章、ヒットラーの仕草、朝食のメニューなど細かい考証を助言した後藤修一は当時を振り返り、「三島さんは革のジャンパーにGパンという軽装で現れ、僕は最初、大道具の方かと見まがったほどだった」と回想し、後藤が「三島先生!」と呼びかけると、三島は笑い「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし。三島さんで良い」と言ったという[15]。後藤は、「だから、僕は今でも一貫して“三島さん”である」と述べている[15]。当時、舞台監督をしていた和久田誠男によると、当初原稿で、「シュトラーサー」となっていたのも後藤少年に指摘され、再版で「シュトラッサー」に改められたという。和久田は、「その時、三島さんもいたんだよね。その子から、これはシュトラッサーですよ、って指摘を受けたんです」と述懐している[14]

また、公演閉幕後、高校生となった後藤修一は友人と共に閉幕パーティーに招待された[15]。後藤はその時のことを回顧し、以下のように語っている。

三島さんが、当時の田辺茂一紀伊国屋書店社長に「こちらが今お世話になっている後藤さんです」と詰襟の高校生の僕を紹介されたことはとても感銘を受けた。三島さんは大学教授だろうが、高校生だろうが分け隔てをしない人だったのだ。真に偉大な人は外見や肩書に捉われないのだ。(中略)それから約一年十ヶ月後、三島さんは壮絶な諌死をされた。三島さんとの出会いは僕の人生を決定づけた。僕は生涯愛国者として生きようと決意したのだから。 — 後藤修一「『わが友ヒットラー』の時代考証―三島さんとの出会い」[15]


1969年の初演でレームを演じた勝部演之は、米軍放出の生地を仕入れ、仮縫いにも立ち会って事細かに指示を出すなど、三島のレームの衣装への拘りは凄まじかったと述べている。また、三島が稽古場で俳優に対して芝居の中身や要望などを話すことは殆どなかったが、通し稽古の際、クルップの杖が倒れるシーンで芝居を止め、「稽古場でさんざん、僕、注文したじゃないですか。それが全然できてないです。それはあなた、意識的に放してらっしゃいます」と青筋を立てて怒っていたと話している。三島は、杖が倒れた音が聞こえたことで初めて、クルップの手から杖が放れた=権力が(クルップからヒットラーに)移行したことが分かる、という演出を意図しており、クルップの手から抜け落ちた権力の象徴としての杖を意識的に手から放して、その瞬間が観客の目に留まってはならないと、そのシーンに強く拘っていたという。勝部自身は三島からは、「若くって、美しくって、さっそうとしてればいいよ」と言われたのみで怒られた覚えはなく、「言ってもしょうがないんだと思ってたのかもしれない」と述懐している[16]

おもな舞台公演[編集]

おもな刊行本[編集]

  • 『わが友ヒットラー』(新潮社、1968年12月10日) NCID BN15354217
    • 装幀:前川直。布装。紫色帯。貼函。写真提供:共同通信。帯に「44年1月上演決定」とある。巻末に初演データ。144頁
  • 文庫版『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』(新潮文庫、1979年4月25日。改版2003年6月30日。新版2020年11月1日)
    • カバー装幀:辰己四郎。カバー写真提供:メゾン・デ・ザール。付録・自作解題:三島由紀夫
    • 帯(表)に「ルノー/バロー劇団来日公演決定!」とある。
    • 収録内容:「サド侯爵夫人」「わが友ヒットラー」「自作解題」(跋(『サド侯爵夫人』)、『サド侯爵夫人』について、『サド侯爵夫人』の再演、豪華版のための補跋(『サド侯爵夫人』)、作品の背景――『わが友ヒットラー』、『わが友ヒットラー』覚書、一対の作品――『サド侯爵夫人』と『わが友ヒットラー』)
    • ※ 改版2003年より、カバー改装:新潮装幀室(新版解説:平野啓一郎
  • 英文版『My Friend Hitler and Other Plays』(訳:佐藤紘彰)(Columbia University Press、2002年11月15日。他)
    • 収録作品:鹿鳴館(The Rokumeikan)、楽屋で書かれた演劇論(Backstage Essays)、朱雀家の滅亡(The Decline and Fall of The Suzaku)、わが友ヒットラー(My Friend Hitler)、癩王のテラス(The Terrace of The Leper King)、悪の華(The Flower of Evel: Kabuki)、椿説弓張月(A Wonder Tale: The Moonbow)

全集収録[編集]

  • 『三島由紀夫全集23(戯曲IV)』(新潮社、1974年11月25日)
    • 装幀:杉山寧。四六判。背革紙継ぎ装。貼函。
    • 月報:松浦竹夫「雪翁はもういない」。《評伝・三島由紀夫 19》佐伯彰一「伝記と評伝(その10)」。《同時代評から 19》虫明亜呂無「『サド侯爵夫人』をめぐって」
    • 収録作品:「源氏供養」「喜びの琴」「美濃子」「恋の帆影」「サド侯爵夫人」「憂国」「アラビアン・ナイト」「朱雀家の滅亡」「ミランダ」「わが友ヒットラー」
    • ※ 同一内容で豪華限定版(装幀:杉山寧。総革装。天金。緑革貼函。段ボール夫婦外函。A5変型版。本文2色刷)が1,000部あり。
  • 『三島由紀夫戯曲全集 下巻』(新潮社、1990年9月10日)
  • 『決定版 三島由紀夫全集24巻 戯曲4』(新潮社、2002年11月8日)
    • 装幀:新潮社装幀室。装画:柄澤齊。四六判。貼函。布クロス装。丸背。箔押し2色。
    • 月報:立松和平「厳粛なる快楽」、斎藤康一「ファインダーの中の三島さん」、〔天球儀としての劇場4〕田中美代子「政治劇のあとに」
    • 収録作品:「喜びの琴」「美濃子」「恋の帆影」「サド侯爵夫人」「撮影台本 憂国」「アラビアン・ナイト」「朱雀家の滅亡」「ミランダ」「わが友ヒットラー」「『喜びの琴』創作ノート」「『美濃子』創作ノート」「『恋の帆影』創作ノート」「『アラビアン・ナイト』創作ノート」「『朱雀家の滅亡』創作ノート」「『ミランダ』創作ノート」

音声資料[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 2021年1月16-24日に東京・シアター風姿花伝にて上演予定であったが、新型コロナウイルス感染症の流行拡大に伴う緊急事態宣言の発出が見込まれたため延期。
  2. ^ サド侯爵夫人』の脚本読みを録音したテープもあったが、そちらは紛失してしまい所在不明だと和久田誠男は語っている[17]

出典[編集]

  1. ^ a b c d 「『わが友ヒットラー』覚書」(劇団浪曼劇場プログラム 1969年1月)。新潮文庫 2003, pp. 234–237、35巻 2003, pp. 386–388に所収
  2. ^ a b c d e f g h i j 「第四章 最後のロマンティーク――三島由紀夫 5『わが友ヒットラー』」(伊藤 2006, pp. 164–168)
  3. ^ 「disc1」「disc2」(41巻 2004
  4. ^ 井上隆史「作品目録――昭和43年」(42巻 2005, pp. 448–452)
  5. ^ 山中剛史「著書目録――目次」(42巻 2005, pp. 540–561)
  6. ^ a b 松本道介「わが友ヒットラー」(事典 2000, pp. 421–425)
  7. ^ 久保田裕子「三島由紀夫翻訳書目」(事典 2000, pp. 695–729)
  8. ^ a b 「作品の背景――『わが友ヒットラー』」(東京新聞 1968年12月27日)。新潮文庫 2003, pp. 231–233、35巻 2003, pp. 319–320に所収
  9. ^ a b 「一対の作品―『サド侯爵夫人』と『わが友ヒットラー』」(劇団浪曼劇場プログラム 1969年5月)。新潮文庫 2003, pp. 237–239、35巻 2003, pp. 472–473に所収
  10. ^ 秋山安三郎「劇評」(朝日新聞夕刊 1969年1月27日号)。事典 2000, p. 424
  11. ^ 小島信夫「文芸時評」(朝日新聞夕刊 1968年11月28日号)。事典 2000, p. 424
  12. ^ a b マイコウィッチ・ミナコ・K「わが友ヒットラー」(旧事典 1976, pp. 469–470)
  13. ^ a b 「第五章 文と武の人」(佐藤 2006, pp. 144–205)
  14. ^ a b 和久田誠男「『サロメ』演出を託されて――和久田誠男氏を囲んで(聞き手:松本徹・井上隆史・山中剛史)」(研究4 2007, pp. 4–28)。同時代 2011, pp. 389–426に所収
  15. ^ a b c d e f 後藤修一「『わが友ヒットラー』の時代考証―三島さんとの出会い」(憂国忌 2010, pp. 54–56)
  16. ^ 勝部演之、佐々木治己 著「記憶-三島由紀夫と松浦竹夫」、日本演出家協会 編『戦後新劇 演出家の仕事2』れんが書房新社、2007年5月25日、247-265頁。 
  17. ^ 「解題――わが友ヒットラー」(41巻 2004, pp. 5–7)

参考文献[編集]

関連項目[編集]