ちばあきお

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ちば あきお
本名 千葉 亜喜生
生誕 1943年1月29日
満洲国の旗 満洲国奉天
死没 (1984-09-13) 1984年9月13日(41歳没)
東京都
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家
活動期間 1967年 - 1984年
ジャンル 野球漫画スポーツ漫画
代表作キャプテン
プレイボール
ふしぎトーボくん』 他
受賞 第22回小学館漫画賞1976年
公式サイト ちばあきお オフィシャルウェブサイト
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ちば あきお(本名:千葉 亜喜生、1943年1月29日 - 1984年9月13日)は、日本漫画家満州の奉天(現:中華人民共和国遼寧省瀋陽)出身。4人兄弟の三男で、長兄は漫画家のちばてつや、次兄は千葉プロダクション社長の千葉研作(元漫画家)、弟は漫画原作者の七三太朗

来歴

少年時代は手先が器用でラジオの修理なども出来たほど(ただし、本人談。ビッグコミック2017年5月10日号で、兄ちばてつやが「ひねもす のたり日記」にてこのエピソードを披露している)。高校は夜間学校で昼間は玩具製造工場に勤めていたが身体を壊し退社。療養中にちばてつやのアシスタントとして漫画界に携わる。

ちばてつやのアシスタントをする中、1967年なかよし』(講談社)掲載の『サブとチビ』でデビュー。代表作は『キャプテン』、『プレイボール』など。ひたむきで健全な少年たちを明朗に描いた作品で人気を得た。

躁鬱病を患った後に、1984年9月13日、仕事場2階にて首を吊り自殺した。41歳没。絶筆となった『チャンプ』の最終回(第8話)は、チーフアシスタントであった高橋広が、ちばあきおの下絵をもとに作品として仕上げ掲載された。

21世紀に入ってからも『プレイボール』がアニメ化されるなど、根強く評価されている。

経歴

  • 1967年、『サブとチビ』でデビュー。
    各種少年少女誌に読切作品を掲載する。ちばてつやのアシスタントは1971年まで行う。
  • 1972年、『キャプテン』を連載開始(~1979年)※1972年読みきりの『がんばらなくっちゃ』好評に付き改題して連載化する。
  • 1973年、『プレイボール』を連載開始(~1978年)
  • 1977年、第22回(昭和51年度)小学館漫画賞受賞(『キャプテン』『プレイボール』)。
  • 1979年、『キャプテン』終了後、休筆
  • 1982年、『ふしぎトーボくん』を連載( - 1983年)
  • 1984年、『チャンプ』を連載(絶筆)

作品リスト

エピソード

  • 2008年に『週刊ヤングマガジン』で発表されたちばてつやの読み切り作品『トモガキ』によると、てつやは気分転換として弟のあきおと幼い頃から他の人に電気あんまをかますことがしばしばあった。『ママのバイオリン』(1958年7月 - 1959年5月、少女クラブ、講談社)が連載されていた当時も締め切りが迫っていて缶詰状態だったために、気分転換のために当時の担当者にあきおと電気あんまをかましたところ、担当者は堪らずにてつやを蹴飛ばしてしまった。てつやは蹴飛ばされた勢いで窓ガラスに体を突っ込んで、割れたガラスの破片で腕の腱を切る大怪我を負い、一時は漫画が描けなくなった。この時、口の中にもガラスの破片が刺さっていたが、かろうじて奥歯で食い止められていたため頚動脈を切らずに済んだとのことだった。
  • 漫画原作者の武論尊を売れる前から面倒を見ていた。当時、武論尊の住んでいたマンションにちばあきおの仕事場があり、アシスタントの食事を作る際に1食分多く用意し、よく食べさせてたという。後に『ドーベルマン刑事』がヒットして有頂天になっていた武論尊を呼び出し、説教したこともあった。武論尊は「あきおさんのひと言がなければ、ヒット作を一本出しただけでオレは消えていたかもしれない」と語っている[1]

アシスタント

脚注

外部リンク