金本知憲

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金本 知憲
阪神タイガース No.6
基本情報
国籍 日本
出身地 広島県広島市南区青崎
生年月日 1968年4月3日(40歳)
身長
体重
180cm
88kg
選手情報
投球・打席 右投左打
守備位置 外野手
プロ入り 1991年 ドラフト4位
初出場 1992年6月2日阪神戦(岡山)
年俸 5億5,000万円(2008年)
経歴
Template  ウィキプロジェクト 野球選手

金本 知憲(かねもと ともあき、1968年4月3日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手外野手)。

ファンやマスコミからはアニキ(兄貴)、平成の鉄人西の番長などと呼ばれる。友人からの愛称はかねもっちゃんカネ

目次

来歴・人物

プロ入り前

小学校4年のときリトルリーグ・広島中央リトルで本格的に野球を始める。しかし厳しい練習についていくことが出来ず1年で退部。その後は町内会のソフトボールや中学校の野球部で軟式野球を続けた。広島・広陵高等学校に進学し硬式野球部入部。外野手三塁手投手として2年からクリーンアップに座り、自身は高校通算20本塁打の活躍をするが、広陵高校の低迷期、特に投手力が弱い時代で甲子園出場は叶わなかった。西村龍次は同期入部だったが、すぐに寒川高校に転校した。金本の1学年上が桑田真澄清原和博のKKコンビで、PL学園の黄金期の桑田・清原は、当時多くの高校球児にとって憧れの存在であり、金本も広陵入学前の春休みに甲子園に清原を見に行くなど、高校・大学時代は清原マニアであったことを自認している。また、清原自身とは現在は深い交友関係がある。

その後、東京中央大学の野球部セレクション受験するが不合格(本当は法政大学に進学を希望していた)、浪人時代にヤクルトの入団テストを受けたがまたも不合格。失意中、知人から当時は全くの無名だった東北福祉大学を紹介され、野球推薦ではなく一般受験で合格。恩師として名前を挙げる故・伊藤義博監督の指導でその才能を開花させた。1年からレギュラーを獲得し佐々木主浩(後に横浜大洋入団)、大塚孝二(後に西武入団)、矢野輝弘(後に中日入団)、斎藤隆(佐々木と同じく後に横浜大洋入団)、浜名千広(後にダイエー入団)らと共に活躍。1988年第37回大学選手権では決勝で近畿大学に惜しくも逆転負けを喫するが、準優勝に貢献した。

以降、主力として4年連続で大学選手権に出場、翌1989年の第38回大会では連続優勝した近畿大学に再び3回戦で敗れ、第39回大会でも決勝戦まで勝ち残ったものの小池秀郎高津臣吾川尻哲郎ら好投手を擁する亜細亜大学に敗れてしまう。しかし、4年次の第40回大会(1991年)では3度目の決勝戦進出を果たし、関西大学を相手に延長17回の熱戦を繰り広げ、ついに念願の初優勝。左手首のはく離骨折という大怪我を抱えながら勝ち越しの2点タイムリーを放った金本は、東北福祉大初優勝の立役者となった。

同年、第20回日米大学野球選手権では日本代表に選出され、チームの勝利に貢献。この時、後にチームメイトとなる桧山進次郎と同部屋になり、「人に話せないようなことを色々した」(本人談)らしい。この時の縁がきっかけで、阪神入団後、雑誌で2人の対談が行われた。なお、この部屋で洗濯係をしていたのが後に中日に入団し、その後ソフトバンクに移籍した鳥越裕介であるが、鳥越は「金本さんにめちゃくちゃいじめられた」と後に語っている。

広島時代

1991年ドラフト斉藤肇の外れ4位で地元の広島東洋カープに入団。入団後の2年間は芽が出ず、年下の前田智徳江藤智らに追い抜かれ当時の打撃コーチからも、ころがして足を活かせと言われる程、非力だった。外野の守備に関しても地面に向かって投げる悪癖があり『モグラ殺し』のあだ名を付けられた。本人曰く「クビを覚悟していた」。それらの悔しさから筋トレを本格的に取り入れ、長い年月をかけて肉体改造を行う。山本一義コーチと出会ったことも転機となり、1994年後半から頭角を現し17本塁打を放つなどレギュラーに定着。1995年ベストナインを獲得した。以降、1996年に初の3割をマークすると、1997年には2年連続3割、そして初の30本塁打を達成、1998年には不振に陥るが、1999年には初の全試合出場、そして4月24日にはサイクルヒットを達成するなど復活、主に5番打者として活躍していた。

2000年、それまで不動の4番打者だった江藤が巨人へ移籍した事により4番に抜擢され、史上7人目のトリプルスリーを達成、2001年には39年ぶりに毒島章一の記録を大きく更新する1002打席連続無併殺打の日本記録を樹立、同年の128四球は個人年間四球の歴代5位(これ以前は個人年間四球記録は王貞治が10位までを独占していた)と、主砲として大活躍、広島にとってなくてはならない存在となる。

FA権行使を巡る苦悩と決断

2002年オフ、FA権の行使に最後まで悩んだ金本は、球団幹部に「今季は成績が悪かったので年俸は1000万円減で構わないが、FAの再契約金を100万円でいいから出してほしい」と相談した。しかし広島球団の財政事情が厳しい事もあって、FA権行使による再契約金高騰の前例が作られる事を懸念し、FA権を行使した選手との再契約を認めず、FA権行使を大きく後押ししたと言われる。

その後、阪神へ移籍。なお、星野は後に「非公式に阪神よりも高い年俸でオファーをしていた球団は他にもあったのに、金本はよくウチに来てくれた」と語り、他球団からのオファーがあったことをにおわせた。

阪神時代

阪神の球団改革の一端として移籍した金本は2003年は開幕から3番打者として定着。2番打者・赤星憲広盗塁王獲得に貢献すると共に、自身も主軸として活躍した。また、日本シリーズでは4本塁打、3試合連続本塁打、1試合2本塁打と3つのシリーズタイ記録を達成したが、チームは日本一に届かなかった。

2004年、星野の後任として就任した岡田監督の意向で、開幕から4番として起用されると、長打を量産するようになる。7月29日の中日戦において左手首に死球を受け軟骨損傷を負いながらも、自分の物より軽い久慈照嘉のバットを借りて出場を続け、8月1日には連続試合フルイニング出場の日本新記録を樹立すると、打率、本塁打、打点の3部門で自己新記録(本塁打は1999年と同数)を達成、初タイトルとなる打点王を獲得する。

2005年6月10日日本ハム戦にて「全球団から本塁打」記録を達成。これは史上4人目の記録だが、過去の3人はいずれもセ・パ各4球団以上を渡り歩いて記録している。金本はこの年から導入された交流戦のおかげで、広島と阪神の2球団しか所属していないにもかかわらずこの記録を達成することができた。6月28日には米子市民球場での広島戦で本塁打を放ち、現役選手では最多の32球場でアーチをかけた(日本記録は山内一弘の39球場、2007年に田中幸雄が33球場で本塁打を放ったため現役1位の記録は一旦譲ったが、田中幸雄は同年限りで引退し再び現役1位となった)。さらに、8月11日の中日戦では1000試合連続出場、8月25日の広島戦では1000得点、9月9日の広島戦で1000打点を達成すると、10月4日には40本塁打を達成。1986年バース以来、日本人選手では1985年掛布雅之以来の大台で、甲子園のラッキーゾーン撤廃後は初めてのことであった。チームも優勝し、打率、本塁打、打点の3部門で前年をさらに上回る記録を達成、MVPにも選ばれた。

2006年4月9日の横浜戦で、カル・リプケンの記録を抜く、"904試合連続フルイニング出場"の世界新記録を達成した。この記録は現在も継続中である(ちなみに連続イニング出場数では3月31日にリプケンの8243イニング連続出場を更新)。更に、同じカード・会場の同年8月15日の試合で1000試合に伸ばした。

2007年は31本塁打95打点を記録したものの低打率にあえぎ、打率.265という成績に終わった。この年の阪神はチーム打率が12球団ワーストで得点も12球団中11位であったため、主砲である金本の不振は殊更目立ち、(広島時代から言われていたことだが)イージーミスが目立つ守備や、走塁面が目に見えて衰えていること、シーズン中に左膝半月板損傷という大怪我をしたにもかかわらず、2004年同様強行出場を続けたものの成績は振るわなかったことから、「記録のために出場している」といった非難に加えて「出場し続けることによるチームへの弊害(代走、守備固めなどが送れず、若手選手の出場機会を奪う、など)」や「限界説」も囁かれた。なお、故障した左膝はシーズン終了後の10月に人生初という手術を受ける。

2008年、手術した左膝のリハビリテーション優先のため1月後半からアメリカに滞在し、2月後半の安芸キャンプからチームに合流。2000本安打まで残り13本、400本塁打まで残り6本でシーズン開幕。4月6日に1999本目の安打を記録して以来3試合19打席無安打だったが、4月12日の横浜戦にて史上37人目の通算2000本安打を達成。また、広島からFA移籍したばかりの新井貴浩も1000本安打を達成した。5月13日の広島戦でプロ入り通算400本塁打を達成。同時に阪神(達成時点の所属球団)では初の400本塁打達成選手となった。

2007年の推定年俸は、5億5000万円となり日本人選手としてプロ野球界トップとなった。

また、右投げ左打ちの打者としては、日本プロ野球最多のホームランを放っている。

出囃子(テーマソング)

タイトル・表彰・記録

タイトル

表彰

  • 日本シリーズ敢闘賞:1回(2003年)
  • 優秀JCB・MEP賞:5回(1996年、2000年、2004年、2006年、2007年)
  • セパ交流戦優秀選手賞(日本生命賞):2回(2005年、2008年)
  • 月間MVP:3回(1996年9月、2005年5月、2008年6月)
  • オールスターMVP:2回(1996年第3戦、2003年第2戦)

記録

  • サイクルヒット:1回(1999年4月24日)
  • トリプルスリー:1回(2000年)
  • 1186試合連続フルイニング出場(1999年7月21日 - 継続中 2007年シーズン終了時)※世界記録。
  • 1331試合連続出場(1998年7月10日 - 継続中 2007年シーズン終了時)※歴代2位。
  • 1002打席連続無併殺打(2000年5月12日 - 2001年9月28日)※日本記録。
  • 1試合5四球(2001年10月11日)
  • 1イニング5打点(2003年5月31日)
  • 日本シリーズ4本塁打(2003年)※シリーズタイ記録。
  • 日本シリーズ3試合連続本塁打(2003年)※シリーズタイ記録。
  • オールスター出場:9回(1995年 - 1997年、2000年、2001年、2003年 - 2006年)
  • ヒット数1999本から2000本になるまでの打席数(19打席)
  • 2000本安打:2008年4月12日、対横浜ベイスターズ(横浜スタジアム)、7回表、寺原隼人から

年度別打撃成績

年度 チーム


























O
P
S
1992 広島 10 5 3 1 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1 0 2 0 .000 .250 .000 .250
1993 42 89 9 17 3 0 4 32 9 0 0 0 5 1 16 4 .191 .242 .360 .602
1994 90 257 41 69 14 2 17 138 43 2 3 2 31 0 64 3 .268 .345 .537 .882
1995 104 369 72 101 15 1 24 190 67 14 0 3 61 5 78 5 .274 .381 .512 .896
1996 126 423 84 127 18 2 27 230 72 18 0 7 77 4 104 2 .300 .407 .544 .951
1997 133 465 77 140 17 2 33 260 82 13 0 4 80 3 104 8 .301 .404 .559 .963
1998 133 499 77 126 33 3 21 228 74 9 0 1 68 5 94 2 .253 .347 .457 .804
1999 135 502 84 147 21 2 34 274 94 10 0 1 70 3 92 3 .293 .382 .546 .928
2000 136 496 96 156 20 2 30 270 90 30 0 4 80 8 101 2 .315 .415 .544 .959
2001 140 472 101 148 28 1 25 253 93 19 0 6 128 9 69 1 .314 .463 .536 .999
2002 140 540 80 148 30 2 29 269 84 8 0 2 60 2 99 5 .274 .348 .498 .846
2003 阪神 6 140 532 94 154 24 2 19 239 77 18 0 2 93 5 89 6 .289 .399 .449 .848
2004 138 521 92 165 32 4 34 307 113 5 0 8 79 5 100 10 .317 .406 .589 .995
2005 146 559 120 183 35 3 40 344 125 3 0 2 98 3 89 6 .327 .429 .615 1.044
2006 146 545 85 165 24 4 26 275 98 2 0 5 79 5 98 5 .303 .393 .505 .897
2007 144 533 74 141 17 3 31 257 95 1 0 7 81 3 113 9 .265 .361 .482 .843
通算成績 1898 6805 1187 1987 331 33 394 3566 1216 152 4 54 1091 61 1309 71 .292 .392 .524 .916

年度別守備成績

年度 位置 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1992 外野 1 0 0 0 0 -
1993 26 38 0 0 0 1.000
1994 82 155 3 0 0 1.000
1995 102 178 5 1 0 .995
1996 121 227 6 3 3 .987
1997 128 225 9 4 1 .983
1998 131 209 11 5 1 .978
1999 135 197 10 6 1 .972
2000 136 226 4 6 0 .975
2001 140 200 5 3 0 .986
2002 140 205 8 2 2 .991
2003 140 222 9 6 0 .975
2004 138 186 12 10 3 .952
2005 146 197 8 2 3 .990
2006 146 204 6 3 1 .986
2007 146 186 9 1 1 .995
通算 1858 2855 105 52 16 .983

エピソード・その他

  • 少年時代に博成(ひろなり)から知憲に改名している。
  • 所属していたリトルリーグのチーム、広島中央リトルに野村弘樹(元横浜ベイスターズ)と元お笑いタレント山本圭一(元極楽とんぼ)がいた。山本の実家には当時の写真が保管されている。
  • ヤクルト高津臣吾は、同期で高校時代のライバルチーム県立広島工業の投手。練習試合も含め何度か対戦があるが、高津の方が控えで直接対決は無い。金本は広島時代、高津と一緒に飲んだりする事があった。
  • ヘッドスピードは155キロを誇り、「振り遅れているのに引っ張りの打球が打てる」というタイプの選手である。
  • 肉体年齢は25歳前後。年中筋肉トレーニングに励み、体脂肪率は8~9%を維持している。
  • 連続フルイニング出場を続けていることから、「怪我をしない」といったイメージを持たれているが、実際はシーズン中に骨折をしていることもあり、負傷したまま試合に出ていることが多い。
  • 自らを「ストイックなタイプではない」と評す。ビールは水のように飲む酒豪で、好物の芋焼酎「森伊蔵」の酒量もさほど減らず、ヘビースモーカー禁煙もすっかり諦めたという(しかし2007年より再び禁煙に挑戦している。2008年5月13日、富山市民球場アルペンスタジアムで行われた対広島戦5回裏終了時にベンチ内の喫煙所で喫煙していた。)。しかしサプリメント鍼灸、上記の猛トレーニングなどによる体調管理が肉体を支えている(ちなみにアンチエイジング治療も受けている)。
    • タバコ問題首都圏協議会によって行われる「タバコやめてネ」コンテスト(2006年)において、禁煙してほしい有名人の中で1位の常連である和田アキ子以上の得票を得て1位にランクインした[1]
  • 阪神移籍時に過去の阪神の背番号6番を付けていた藤田平和田豊の背番号を引き継げて嬉しいと話し、阪神ファンの心を掴んだ(しかし金本本人は本当は5番を付けたかったと話しており、このとき阪神への移籍が取り沙汰されていた中村紀洋のため6番にしたという)。
  • ランナーがいる場面ではよく敬遠の対象となる。また次打者に対して全幅の信頼を示しており、シーズン決起集会で2003年、濱中に「俺は四球や繋ぐバッティングしかしない」「打てなかった時だけ俺が決める」2005年は今岡に「今年はお前が打点王を取れ」などと声を掛けた。
  • これほどまでに出場に拘る姿勢は「カープ時代に試合前の練習中、当時ドラゴンズの監督であった星野とカープの監督であった達川の世間話をたまたま耳にしたことがきっかけになっている」と星野自身が発言している。
  • 2004年に左手首を故障した際は、「この時だけは記録のために出続けた」とシーズン後語っている(しかし、成績自体は負傷前から上昇している)。
  • 後輩選手に対して苦言を呈する事はあまりないが、2007年7月8日中日戦で1アウト満塁から金本のヒットで生還しなかった二塁ランナーの鳥谷敬に対し「あのヒットで1人しか還ってこれないなんてもったいない」「足の速い若い選手が緊張感とか集中力がないのかなと思う」と叱咤し、翌日のスポーツ紙各紙では大きく取り上げられた。
  • 1999年オフより、鹿児島市最福寺で護摩行をするのが恒例。火柱のすぐそばで不動真言を唱える。
  • 守備に関しては大きな特徴はなくスローイング、守備率、守備範囲ともに左翼手として平均前後だが、グラブ捌きやクッションボールの処理が粗末なシーンが見られることが多い。また、レフトしか守れないこと、自身の記録がかかっているために守備固めを送れないことから、「若手の出場機会を減らしている」とも言われる。
  • FA移籍するにあたって、かつて広島から巨人にFA移籍した川口和久江藤智が広島市民球場で激しく野次られるのを見ていたため、自分も広島市民球場での試合では野次られるのではないかと恐れていたが、阪神移籍後の広島市民球場での初の試合では、逆に声援がおこり、安堵したと語っている。
  • 金本が阪神に移籍する以前に阪神の監督をしていた野村克也(現楽天監督)の著書内で、「金本の獲得でタイガースは大きく変わった」「今のプロ野球界で本当にチームリーダーと呼べる存在なのは金本だけ」と高い評価を受けている。
  • 広島時代から東京ドームはよく本塁打を放っている。それは阪神でも変わらず、阪神移籍後初の本塁打、250号はいずれも東京ドームでだった。
  • ファンやマスコミの間で「アニキ」の愛称で親しまれるが、実生活では4人兄弟の末っ子である。
  • 公私混同を非常に嫌がるタイプであり、2001年の結婚時も夫人を写さないことなどを条件に取材制限をしたことがある(但し一度週刊誌に撮られて同誌に公開されたことがある)。
  • 明るく、チームのムードを大事にする性格で、多くのチームメイトにいたずらをすることでも有名。和田豊コーチによると、「調子の良さに比例していたずらも増える」とのこと。そのいたずらの矛先は、2006年までヘッドコーチであった平田勝男にまで向けられた事があったらしい。またインタビューでのジョークも度々行う。連続試合フルイニング出場の世界新記録の時、「セレモニーを見て、『オレ引退するのか?』と思った」と発言している。
  • インターネットなどで一時「金本は後輩とご飯を食べに行く時は割り勘にするほどケチである」という噂が流れた。しかし、2004年から打ったホームランの本数に応じて自費で熱海の温泉旅館への家族旅行招待などのプレゼント企画を行っている。なお、2007年からは虎バン主義の企画で、阪神甲子園球場で予定されている公式戦での本塁打を1本打つごとにハワイ家族旅行をプレゼントしている。
  • 以前の応援歌の替え歌として「メシは割り勘金本リボ払い それ行け偽善者金本ケチだ金本」という歌詞がある。これを赤星憲広がテレビで披露したこともある。この時一緒に出演していた金本は「何人かで一緒に食事に行ったときに、冗談で『みんなあと○百円ずつ』と言ったら、真に受けられてしまって本当にみんな数百円ずつ払ってきて、それからケチと言われるようになった」という主旨の弁解をしていた。収録終了後、金本は歌を披露した赤星と藤本を正座させ叱ったとされる。
  • 2006年11月15日に兵庫県から兵庫県スポーツ優秀選手特別賞を受賞している。
  • ファイテンとアドバイザリー契約を結んでいる。また2006年12月から日産自動車ADバンの雑誌広告、ラジオCMに出演している。
  • 男性タレント島田紳助と仲が良いことが2005年FNSの日で明らかになった。島田は桧山進次郎などの阪神の選手達との交友歴が長い。
  • 阪神甲子園球場では「金本兄貴のスタミナハラミ丼」という弁当が販売されている。金本が東北福祉大学時代によく食べていたという弁当を本人の協力をもとに再現したものだが、大学野球部のルームメイトであった大塚光二からは「食べているのを見たことない。アイツそんな金あったのか?」[2]と言われている。
  • 自身が通っているスポーツジム「アスリート」の金本専用ベルトには、広島時代の背番号10と共に名前が書いてあり、名前の上のフリガナが「ヒクソン・グレイシー」となっている。
  • 2000本安打にリーチをかけてから、2008年4月12日の対横浜戦で、2000本目の安打を放つまで、18打席連続無安打であった。これは2000本安打にリーチをかけてからの連続無安打記録の歴代最長である。
  • 広島時代の1995年8月29日、阪神甲子園球場での阪神戦で、クールボーのホームラン性の打球を追いかけている際、何もないところで転倒し骨折したことがある(その打球はホームランになっている)。

CM出演

脚注

  1. ^ 2006『「タバコやめてネ」コンテスト』結果発表!第1位は金本選手に!
  2. ^ e2 by スカパー!e2プロモチャンネル内で同弁当が紹介されたときの発言。

関連項目

外部リンク

先代:
A.ラミレス
セ・リーグ打点王
2004年
次代:
今岡誠
先代:
川上憲伸
セ・リーグMVP
2005年
次代:
福留孝介
先代:
-
交流戦優秀選手(セ・リーグ)
2005年
次代:
佐藤充
広島東洋カープ
1991年ドラフト指名選手
1位:町田公二郎 / 2位:徳本政敬 / 3位:佐藤貞治 / 4位:金本知憲 / 5位:杉田勇
6位:伊藤真 / 7位:小畑幸司 / 8位:大石昌義
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