ジャイナ教

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マハーヴィーラ像

ジャイナ教(ジャイナきょう、サンスクリット: जैन: Jainism)は、マハーヴィーラヴァルダマーナ前6世紀-前5世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の禁戒を厳守するなど徹底した苦行禁欲主義をもって知られるインド宗教。「ジナ教」とも呼ばれる。仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろして、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、2019年時点、およそ世界全体で500万人の信徒がいるとされる[1]

起源[編集]

「マハーヴィーラ」(Mahāvīra)は、本名「ヴァルダマーナ」(Vardhamāna、栄える者)。「マハーヴィーラ」(偉大な勇者)の尊称で広く知られた。

マハーヴィーラはマガダ(現ビハール州)のバイシャーリー市近郊のクンダ村に、クシャトリヤ(王族)出身として生まれた。父親の名はシッダールタで、ゴートラはカーシヤパだった。母親はトリシャラー。30歳で出家してニガンタ派の行者となり、12年の苦行ののち真理を悟り「ジナ」(Jina、勝利者)となった(ジャイナ教とは「ジナの教え」の意味。なお、ジャイナ教の考え方ではマハーヴィーラは最初にジャイナ教を唱えた人物ではなく永遠の真理であり、現在の世界の相において24人のティールタンカラが同じ教えを述べたと考えられている。マハーヴィーラは最後のティールタンカラとされている)。以後30年間遊行しながら教えを説き広め、信者を獲得し、72歳でパータリプトラ(現パトナ)市近郊で生涯を閉じた。

仏典ではニガンタ・ナータプッタ(nigaṇṭha nātaputta, निगण्ढ नातपुत्त)の名で釈迦在世時代の代表的な自由思想家たち(六師外道)の一人である。彼は「ナータ族の出身者」で、古くからの宗教上の一派ニガンタ(束縛を離れた者)派で修行したのでそう呼ばれた。

相対主義と断定の回避[編集]

ジャイナ教の旗

ヴァルダマーナは当時の自由思想家の一人としてバラモン教の供犠や祭祀を批判し、あわせてヴェーダの権威を否定して、合理主義的な立場から独自の教理・学説をうち立てた[2]サンジャヤ・ベーラッティプッタや釈迦と同様、彼は言語による真理表現の可能性を深く模索した。ヴァルダマーナは、真理は多様に言い表せると説き、一方的判断を避けて「相対的に考察」することを教えた。これがジャイナ教の「相対論」(アネーカーンタ・ヴァーダ、anekānta-vāda)である。

具体的な表現法としては、「これである」「これではない」という断定的表現をさけ、常に「ある点からすると(スヤート、syāt)」という限定を付すべきだとする、「スヤード論」(syād-vāda)を説いた。これによりジャイナ教徒を「スヤード・ヴァーディン」(syād-vādin)ともいう。ジャイナ教は、相対主義を思想的支柱とし、後世「ヴェーダーンタ学派」の不二一元論や「サーンキヤ学派」の二元論、また「仏教」の無我論などと対抗してインド思想史上重要な位置を占めた。

「三宝」の重視と五禁戒[編集]

ジャイナ教僧侶ハティーシング寺院
ジャイナ教徒の瞑想

ジャイナ教では宗教生活の基本的心得を、「三つの宝」(トリ・ラトナ、tri-ratna)と称して重んじる。

  1. 正しい信仰
  2. 正しい知識
  3. 正しい行い

である。解脱を目的として行われる宗教生活上で重要なのは3の正しい行い、つまり戒律に従って正しい実践生活を送ることである。

修行生活に関する規定は多くあるが、基本は出家者のための五つの大禁戒(マハーヴラタ、mahāvrata)、

  1. 生きものを傷つけないこと(アヒンサー
  2. 虚偽のことばを口にしないこと、
  3. 他人のものを取らないこと、
  4. 性的行為をいっさい行わないこと、
  5. 何ものも所有しないこと(無所有)

である。在家者は同項目の五つの小禁戒(アヌヴラタ、aṇuvrata)を守る。他宗教と比べて特徴的なのは(5)の無所有(アパリグラハ、aparigraha)であり、とくに裸行派の伝統に強く生きている。

1の禁戒、アヒンサーの厳守はもっとも重要である。ジャイナ教はあらゆるものに生命を見いだし、動物植物はもちろんのこと、地・・大気にまで霊魂(ジーヴァ)の存在を認めた。したがって、アヒンサーの禁戒のためにあらゆる機会に細心の注意を払う。宗派によっては空気中の小さな生物も殺さぬように白い小さな布きれで口をおおう(イエズス会の伝道師たちがジャイナ教徒に顕微鏡で普段飲んでいる水をみせたところ、それをみたジャイナ教徒は飲み水に微生物があふれていることを知り、飲むよりは衰弱死を選んだという報告書の存在がトマス・ブルフィンチの著書に記されている)。

また、「出家者は路上の生物を踏まぬようにほうきを手にする」という説明が各所にみられるが、実際には道を掃きながら歩くわけではなく、座る前にその場を払うための道具である。とはいえ、これはアヒンサーの徹底ぶりを象徴している。

アヒンサーを守るための最良の方法は「断食」であり、もっとも理想的な死はサッレーカナー(sallekhanā)、「断食を続行して死にいたる」ことである。マハーヴィーラも断食の末に死んだとされ、古来、段階的な修行を終えたジャイナ出家者・信者のみがこの「断食死」を許された。

だが、ジャイナ教徒にとってのアヒンサー(不害)は、身体的行為のみならず、言語的行為、心理的行為の3つを合わせたものとして理解されなければならない。人を傷つけることばを発することや人には気づかれなくとも心の中で他者を傷つけるようなことを思うことさえもジャイナ教徒は罪と考えるのである。これこそがアヒンサーの厳しさである。

また、例えば動物に襲われたときにも自衛のために動物を傷付けてはいけない。つまり、アヒンサーを忠実に守るためには死をも覚悟しなければならない。これは現世の身体は不浄のものであるから肉体に執着してはならないという考えに裏打ちされている。

食生活[編集]

食生活はジャイナ教の生物の分類学上、できる限り下等なものを摂取すべきであり、豆類葉菜類と茎野菜を中心とした食事となることが多い。殺生を徹底的に忌むことから、魚介類球根類(五葷[注釈 1]などは口にしない。敬虔な信徒は、蜂蜜鰹節煮干し出汁ブイヨンゼラチン・肉エキス・バターラード・ヘット(牛脂)・魚油馬油やそれらを使用した調理器具も忌むことがある。また誤って虫を殺めぬよう、火を使用する調理を避け、調理と食事は日の出ている時間内に済ませる。ジャイナ教徒に食事を振る舞う際は、相手の食べられないものをなるべく個別に確認し、料理に含まれる食材と含まれない食材を説明するのが望ましい[3]

白衣派と裸行派[編集]

12年に1度、聖地シュラバナ・ベラゴラ山のジャイナ教寺院で、牛乳や香辛料などがゴマテーシュワラ像に 次々とかけられていく祭り。

マハーヴィーラ在世時、マガダのセーニヤ(seṇiya、仏典中に見られるビンビサーラ)王やその王子クーニヤ(Kūṇiyaアジャータシャトル)などの帰依・保護を受けて、すでに強固な教団を形成していたと思われるが、彼の没後はその高弟(ガナダラ、「教団の統率者」)たちのなかで生き残ったスダルマン(sudharman、初代教団長)などにより順次受け継がれ、マウリヤ朝時代にはチャンドラグプタ王や宰相カウティリヤなどの庇護を得て教団はいっそうの拡大をみた。それ以降のジャイナ教教団史をみる上では、白衣(びゃくえ)派(シュヴェーターンバラ、śvetāmbara)と裸行派(or空衣派:くうえは、ディガンバラ、digambara)が分裂しながらも存続している。

両派の分裂は1世紀頃に起こったと伝えられる[4]。相違点は、白衣派が僧尼の着衣を認めるのに対し、裸行派はそれを無所有の教えに反するとして裸行の厳守を説く。また、裸行派は裸行のできない女性の解脱を認めない。白衣派は行乞に際して鉢の携帯を認めるが、裸行派ではこれも認めない。

概して白衣派は進歩的なグループ、裸行派は保守的なグループであるといえる。ただし、両派の相違は実践上の問題が主で、教理上の大きな隔たりはみられない。

中世、イスラム教徒のインド侵入は仏教のみならずジャイナ教にも打撃を与えたが、それを契機として、ジナ尊像の礼拝を否定するローンカー(lonkā)派が新たに誕生するなど、伝統はとだえることはなかった。現在は白衣派・裸形派とも多くの分派が派生している。そのなかで最大の勢力は白衣派の尊像崇拝派(ムールティプージャカ)であり、さらに多くのガッチャと呼ばれる分派に分かれている。

ジャイナ教の現況[編集]

聖地シャトルンジャヤ山を巡礼に登るジャイナ教徒

現在、白衣派の多くみられるのはグジャラートラージャスターン両州、ムンバイ(ボンベイ)などである。寺院で尊像を礼拝するデーフラーバーシー派(dehrāvāsī)とこれを行わないスターナクヴァーシー派(sthānakvāsī)の2派がある。

裸行派はほとんど南インドに集中するが、マディヤ・プラデーシュ州にも多少みられる。テーラーパンティ(terāpanthi)とヴィスパンティ(vispanthi)の2派があるが、生活儀礼の上でわずかな相違がみられるのみである。

ジャイナ教徒は2001年のインド国勢調査(Census 2001)によれば450万人ほどを数え、これは全人口の0.5%にも満たないが、インド社会において事実上の一カーストを形成している。ただし、ここでいうカーストとは職業的内婚集団と説明される「ジャーティ」の意味合いである。インド社会でのジャイナ教徒の結束はきわめて固く婚姻も多くがジャイナ教間だけでおこなわれることがそれを裏付けているといえる。

ジャイナ商人[編集]

殺生を禁じられたジャイナ教徒の職業はカルナータカ州に例外的に知られているわずかな農民を除けばほとんどが商業関係の職業に従事しており[注釈 2]、なかでも豪商と名高いジャイナ商人(ジェイン)が知られる。ジャイナ教団体によると、インドにおける個人所得税の2割はジャイナ教信徒により納税されている。 その理由として、『嘘を禁忌として、約束は絶対に守る』『信徒は死後、生前の善行と悪行が帳簿の債権債務のように集計され、来世の行方が決定づけられる』『事業の成功も泡沫のものである』と戒められ、また積極的な慈善行為、無所有主義など彼らが日頃から厳しい戒律を遵守していることから、清く正しい印象を客観づけられ、圧倒的な信用を集めているためと云われる。そのため、信用第一である宝石貴金属商に従事する者が多い。ほかにも、インド商人ならではの高い語学力と計算能力からも、ビジネスマンとして重宝されている側面が在る[5]

ジャイナ聖典およびジャイナ教文献[編集]

ジャイナ教の聖典はシッダーンタ(siddhānta)あるいはアーガマ(āgama)と呼ばれる。白衣派では、前3世紀ころパータリプトラで開かれた最初の聖典編纂会議で古聖典(14のプッバ (puvva)。聖典名は俗語形)に関する記憶が集められ12のアーンガ (āṅga)が編纂されたが、最終的に5世紀ころ西インドのバラビーにおける編纂会議でまとめられた。

白衣派聖典の言語は俗語アルダ・マーガディー語(半マガダ語)で、伝統的にはアールシャ(ārṣa、聖仙のことば)と呼ばれる。これに対し裸行派はいにしえの聖典はすべて散逸したとして俗語シャウラセーニー語(śaurasenī)で書かれた独自の文献を聖典とする。

サンスクリットで最初に書かれたのは、有名なウマースヴァーティ(umāsvāti)の教理綱要書(タットヴァールターディガマ・スートラ)である。裸行派の学匠クンダクンダ(kundakunda(4-5世紀))は自派の聖典用語で(ニヤマサーラ、niyamasāra)など哲学書を書いた。また、白衣派のハリバドラ・スーリ(haribhadra sūri(8世紀ごろ))はジャイナ教聖典に対して初めてサンスクリット語で注釈を書き、『六派哲学集成』等の哲学書の他、文学作品、ヨーガに関する書物など、多彩な作品を残した。 白衣派のヘーマチャンドラ(12世紀)は諸学に通じ、すぐれた文法学者・文筆家として多くの作品を残した。

俗語文学は10世紀前後にはアパブランシャ語作品が流行し、ダナパーラ(dhanapāla)の叙事詩(バビサッタカハー、bhavisattakahā)などのすぐれた作品を生んだが、その後もジャイナ教徒はサンスクリットとともに、その時代の地方語・俗語を文学作品に用いた。中世裸行派の中心となった南インドでは、タミル語カンナダ語で多くの文学作品が作られた。

ジャイナ教寺院[編集]

ジャイナ教の聖地シャトルンジャヤ山のパーリターナ寺院。(グジャラート州パリタナ)
863もの寺院からなる山岳寺院都市でジャイナ教白衣派最大の本山である。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 球根類は植物の殺生に繋がり、土中から掘り起こす時に虫を殺傷するおそれがあるとされる。
  2. ^ 戒律に則ると、消去法で商業に就かざるを得ないという見解が近いという。

出典[編集]

  1. ^ 厳格な人は微生物や虫にも配慮する。不殺生貫く「ジャイナ教」フードが今注目される理由”. 南龍太 メディアジーン (2019年12月19日). 2023年6月18日閲覧。
  2. ^ 木村靖二岸本美緒小松久男『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2017年、56頁。ISBN 978-4-634-70034-5 
  3. ^ ジャイナ教とは” (PDF). 国土交通省. 2023年7月1日閲覧。
  4. ^ 『南アジア史』(新版世界各国史7)p60 辛島昇編 山川出版社 2004年3月30日1版1刷発行
  5. ^ Gemmy 149 号 「小売店様向け宝石の知識「宝石大国・インド4」」”. 早川武俊. 2023年6月28日閲覧。

関係文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]