エフゲニー・プルシェンコ
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| 2010年欧州選手権 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 基本情報 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 代表国: | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 生年月日: | 1982年11月3日(30歳) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 出生地: | ソビエト連邦 ソルネチヌイ[1] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 身長: | 178 cm[2] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 体重: | 69 kg[3] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| コーチ: | アレクセイ・ミーシン[1](1993年 - ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 元コーチ: | ミハイル・マコヴィーエフ(1991年 - 1993年)、タチアナ・スカラ(1987年 - 1991年) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 振付師: | ダヴィド・アヴディシュ[4] セルゲイ・ペトゥホフ |
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| 元振付師: | ユーリ・スメカロフ[4] エドワルド・スミルノフ[4] エフゲニー・セレジュニコフ キリル・シモノフ アレクセイ・セミョーノフ ワレリー・ミハイロフスキー |
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| 所属クラブ: | ユビレイニー・スポーツクラブ[1][4] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ISU パーソナルベストスコア | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| トータルスコア: | 261.23 | 2012 欧州選手権 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ショートプログラム: | 91.30 | 2010 欧州選手権 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
| フリースケーティング: | 176.52 | 2012 欧州選手権 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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エフゲニー・ヴィクトロヴィチ・プルシェンコ(ロシア語: Евгений Викторович Плющенко イヴギェーニイ・ヴィークタラヴィチュ・プリューシンカ、ラテン翻字: Evgeni Viktorovich Plushenko、1982年11月3日 - )は、ロシアの男性フィギュアスケート選手(男子シングル)。2006年トリノオリンピック金メダリスト。2002年ソルトレイクシティオリンピック及び2010年バンクーバーオリンピック銀メダリスト。世界選手権優勝3回、欧州選手権優勝7回、グランプリファイナル優勝4回。ロシア連邦功労スポーツマスター。ロシア人名愛称ではジェーニャ。
目次 |
競技歴
幼少期
1987年2月25日、4歳のとき両親の故郷ヴォルゴグラードでフィギュアスケートを習い始める。7歳のときサマーラで行われた全ソビエト規模のノービス競技会クリスタルスケート[5] で初優勝。競争相手は全員10~11歳の少年たちで、最年少での優勝だった[6]。11歳で高名なコーチのアレクセイ・ミーシンに見出され、単身でサンクトペテルブルクへ移住。プルシェンコはこの幼少期の経歴ゆえソビエトシステムの最後の遺産とも言われる[7]。
ジュニア時代
当時ミーシンのグループは1994年のリレハンメルオリンピックで金メダリストとなるアレクセイ・ウルマノフや、のちに激しいライバル対決を繰り広げる事になるアレクセイ・ヤグディンも所属しているエリート集団だった。グループに加わった当初こそミーシンの関心も低かったもののここでも頭角を現しミーシンの関心を獲得。13歳になるとシニアの大会にも参加するようになる。
初出場した1996年世界ジュニア選手権[8] では出場選手中最年少で6位入賞。翌年の1997年世界ジュニア選手権[9] では14歳で優勝。これは現在も史上最年少記録である。
ソルトレイク五輪まで
1997/1998シーズンからシニアの大会に本格参戦。ISUグランプリシリーズのスケートアメリカとロシア杯、また欧州選手権でも初出場で2位になるなど大健闘。長野オリンピック金メダリストイリヤ・クーリックの棄権により急遽初出場することとなった1998年世界選手権では、弱冠15歳にして3位表彰台にのぼり史上最年少メダリスト[10] となるなど華々しいデビューを飾った。
1998/1999シーズンからは主要な競技会で優勝を重ねるようになり、1999年世界選手権では前年度より1つ順位を上げ2位になる。
1999/2000シーズンは欧州選手権まですべて優勝、ロシア選手権と欧州選手権で当時の世界王者ヤグディン相手に2連勝を果たした。だが、優勝候補の筆頭に挙げられて臨んだ世界選手権ではフリーで大崩れし、まさかの4位に終わった。
翌2001年世界選手権では前回王者のヤグディンを抑え初優勝、その他のタイトルも総なめにした。
勢いはこのまま続くかと思われたが、2001/2002シーズンのグランプリファイナルでヤグディンに敗北すると[11]、これに危機感を抱いたプルシェンコチームは急遽フリープログラムをビゼーのカルメンに変更。約1ヵ月後に迫ったソルトレイクシティオリンピックのため猛練習を重ねプログラムを完成させる。しかしプルシェンコはこの練習により右足首を負傷した。迎えたオリンピック本番ではショートプログラム冒頭の4回転トウループで「まさかの[12]」転倒、4位でフリースケーティングに臨むこととなった。自力優勝の可能性が消え背水の陣で臨んだフリーでは、4回転トウループ-3回転トウループ-3回転ループという超高難易度のコンビネーションジャンプに挑戦(3つ目のループはステップアウト)、また3回転アクセル-ハーフループ-3回転フリップというこちらも超高難易度のシークエンスジャンプを成功させるなどして追い上げ2位に浮上、銀メダルに輝く。直後の2002年世界選手権は右足首の怪我の悪化を理由に欠場した。
トリノ五輪まで
2003年に常に表彰台の1位と2位を争っていたライバルのヤグディンが引退すると、2003年世界選手権、2004年世界選手権を2連覇。独走態勢に入る。ただし2003年のグランプリファイナルでは、当時のルール下は2回までと決められていたコンビネーションジャンプを3回飛ぶという回数制限違反を犯し、まさかの準優勝となった。
2003年夏に出演した日本のアイスショーで氷の溝にはまり半月板を損傷して以来、故障に悩まされてきたが、自国開催の2005年世界選手権では、ショートプログラムを終えた後かねてより痛めていた股関節の状態も悪化したため棄権。その後ドイツで鼠径ヘルニアの手術を受ける。これ以後、デビュー以来プルシェンコのトレードマークとなっていたビールマンスピンは封印された。
万全とは言えない体調で迎えた2006年のトリノオリンピックでは、ショートプログラムで90点台をマークし、2位に10点以上の差をつけ首位に立った。フリースケーティングでも4回転トウループ-3回転トウループ-2回転ループを始めとする殆どの技を成功させ、出場選手の中でただ一人160点台をマーク。総合得点で2位に30点近い大差をつけるなど、圧倒的な実力で金メダルを獲得した。
休養
2006/2007シーズンは競技には出場せず休養することを宣言。この年からアイスショーを活動の中心に移す。
2007/2008シーズンには競技への復帰を発表し、2007年7月にドイツで以前から痛めていた左膝の半月板の手術を受けた。11月からはコーチのミーシンらと本格的な訓練を開始したが、術後の経過が思わしくなかったためこのシーズンの復帰は断念。ショーを中心に活動した。
2008年夏には再手術が予定されていたが、血液循環の治療が一定の効果を上げた事と、復帰がずれ込むことを危惧したため回避。6月から8月までミーシンチームのサマーキャンプに帯同し、フィジカルトレーニングを中心に最新の採点基準に合わせた技術習得に励んだ。8月にはロシアスケート連盟のテストスケートに臨んだが、古傷の悪化で再びドイツで治療を受けこの年の復帰は断念した。
2009年春から議員やプロスケーターとしての予定を整理。アマチュアアスリートの生活に戻り、1日に2回の氷上練習と1回のフィジカルトレーニングを再開。夏には恒例のミーシンのサマーキャンプとロシア代表のテストスケートにも参加。
復帰戦~バンクーバー五輪
2009年9月9日、サンクトペテルブルクフィギュアスケートアカデミーで開催された、サンクトペテルブルク杯第一試合に出場。ISU非公認の小さな国内地方試合での参考記録ながら、ショートプログラムで95.05点、フリースケーティングでは164.09点、総合259.14点をたたき出し、アマチュア競技に復帰[13][14]。
10月22日からモスクワのメガスポルトで開催された2009年ロステレコム杯では、ショートプログラムで必須要素の「ステップからの3回転」を2回転にするミスのため82.25点、しかしフリースケーティングでは大きなミスもなく158.40点を獲得、総合240.65点で優勝[15]。
12月24日からサンクトペテルブルクで開催された2010年ロシア選手権でも、同月上旬に膝の古傷を再発させ一時は引退を考えたほどの状態でありながら、ショートプログラムで100.09点、フリースケーティングで171.5点、総合271.59点(ISU非公認試合ゆえ参考記録)で優勝[16]。
2010年1月の2010年ヨーロッパフィギュアスケート選手権ではショートプログラム91.30点で自身の持つ世界最高得点を更新、フリースケーティグ164.36点、総合255.39点で2位のステファン・ランビエールに16.85点もの点差をつけ6回目の優勝。
2010年2月のバンクーバーオリンピックでは、ショートプログラムで90.85点を獲得し首位に立ち、続くフリースケーティングでもマイナスが付いたのはトリプルアクセルのみという2009/2010シーズンで最もクリーンな演技内容を見せたが、アメリカのエヴァン・ライサチェクに1.86点の逆転を許す。これによって総合256.36点を獲得、1位のライサチェクとはわずか1.31点の鼻差で、銀メダルに終わった[17]。
2010年初夏にはドイツで競技続行のためアキレス腱付近に出来たのう胞の除去と左膝の半月板清掃という2つの手術を予定していた。5月上旬に医師と面談を行い、のう胞は注射針で体液を抜き、両膝はこれまでと同様に関節内への注射で対処、そのほかに脊椎の神経を特殊な針で焼く治療法を採用[18]。
バンクーバー五輪での抗議
バンクーバー五輪で首位に立ったショートプログラムの直後に、演技構成点のトランジションの項目で他の6人のジャッジと比べて極端に低い点数をつけた3人のジャッジがいることに抗議するようロシアスケート連盟に訴えた。しかしロシアスケート連盟はこれに抗議はしないと決定。
これは五輪直前にアメリカ人ジャッジのジョゼフ・インマンが「『自分達はトランジッションのことはあまり考えていない』と自らトランジッションが無いことを認めている選手がいるが、こういう場合、我々ジャッジはどう判断すればいいんだろう?」という内容のEメールを60人の同僚ジャッジに送信したことを欧州メディアが「北米によるロビー活動だ」と報じスキャンダル化したことに起因している[19]。ちなみにインマン自身は五輪ジャッジにはかかわらなかったが、メールを受けとった60名の中には五輪でジャッジをした者もいた。
プルシェンコはショートプログラムで出場選手中唯一4回転トウループ-3回転トウループを成功させ、その他全ての要素も成功またはレベル3以上でそろえたが、3回転までの構成にした2位以下の選手たちとの差はわずかだった。続くフリーでも4回転トウループ-3回転トウループを成功させ、ショート同様スピン、ステップでもレベル3以上を獲得し2位となった。
プルシェンコはこの結果、特にショートプログラムでの点差に関し「自分のショートプログラムは完璧だった」「このわだかまりは一生消えない」「ソルトレイクシティオリンピックを思い出しましょう」と不満を述べている[20]。
タチアナ・タラソワは、フリースケーティングに関しては、4回転-3回転の連続ジャンプを成功させたとはいえ精彩を欠いたプルシェンコの演技がライサチェクの演技より劣っていたことは認めるものの、ショートプログラムで3回転-3回転しか跳べなかったライサチェクや高橋大輔とほとんど差の無い点数しか出なかったことを批判した[21]。
出場停止から二度目の復帰まで
2010年3月に行われた世界選手権を怪我を理由に欠場した後、一旦受理されていた本人主催アイスショーへの出演許可を再度取得しなおすよう国際スケート連盟より求められた。しかしショーの前日という突然の要請だったため、ロシアスケート連盟からの再承認は得られず、ショーを無許可のまま決行。そのため国際スケート連盟は6月に同選手のアマチュア競技会出場資格を停止した[22]。
処分通達から21日以内にローザンヌのスポーツ仲裁裁判所に異議申し立てをすることも出来たが、2014年に自国ロシアで初めて開催される冬季五輪への出場を目指しているため、国際スケート連盟と全面的に争うことは望まなかった。そのため処分は7月23日に確定された。
その後、資格回復を求める要望書をロシアスケート連盟と国際スケート連盟に送り[23]、約1年後の2011年6月に資格は回復された[24]。
しかし膝と背中の古傷が悪化したため、半月板切除手術と背骨にカテーテルを通して神経を焼く手術を行いリハビリ[25]。2011/2012シーズンのグランプリシリーズは準備が間に合わないだろうとのことで、出場しないことを決定[26]。
2011年12月24~27日開催のロシアフィギュアスケート選手権で復帰。非公式ながらショートプログラム、フリースケーティングともに1位で優勝[27]。2012年1月のヨーロッパ選手権では予選1位、ショートプログラム2位、フリースケーティング1位で7度目の優勝を果たした[28]。
2012年2月23日にミュンヘンで膝半月板の再手術を行った。同時に手術する可能性のあった椎間板ヘルニアは温存療法で対処することとなったが、リハビリのため3月の世界選手権には出場できなかった[29]。
三度目の復帰と人工椎間板
2012/2013シーズンには2013年ロシア選手権(2012年12月24~28日)から参加、三度目の競技復帰と通算10度目の優勝を果たす。
翌2013年1月21日から開催のヨーロッパ選手権には、大会開始の2日前に出場を決定。しかし公式練習中に背中から激しく転倒、元々の持病だった椎間板ヘルニアを悪化させた。そのためショートプログラムでは冒頭のトリプルルッツのミスのみならず、2004年以来失敗したことのなかったトリプルアクセルでは麻痺した足で着氷をコントロールすることが出来ず転倒、6位に沈んだ。
フリースケーティング滑走順抽選前に棄権を発表[30]すると、1月29日にはイスラエルのテルアビブに飛び、31日に緊急で潰れた腰椎の椎間板を人工の代替品と取り替える置換手術を受けた[31]。
2013年2月現在イスラエルの病院でリハビリ中。練習再開まで6ヶ月かかるという見通しも一部で報じられたが、本人とコーチのソチ五輪出場の意向は変わらないという。
偉業
2012年ヨーロッパフィギュアスケート選手権を制したことでオーストリアのカール・シェーファー以来76年ぶりの7度以上ヨーロッパを制した男子シングル選手になった。現在までの欧州記録はスウェーデンのウルリッヒ・サルコウが1898年~1913年にかけ達成した9度の優勝。次点が前述のカール・シェーファーによる1929年~1936年の8連覇。3位がプルシェンコが2000年~2012年にかけ達成した7度の優勝である。
なお欧州選手権で表彰台に乗った回数はシェーファーとブライアン・ジュベールの10回連続メダル、サルコウの計10回と並んで歴代トップ記録。
またバンクーバーオリンピックでの銀メダル獲得によって、スウェーデンのギリス・グラフストロームが1920年~1932年に達成して以来、実に78年ぶり、史上2人目となる3つ以上のオリンピックメダルを獲得した男子シングル選手になった。金メダルこそ逃しアメリカのディック・バトン以来58年ぶり史上4人目となる五輪連覇の夢はかなわなかったが、3シーズンというこれほど長い休養期間を経て復帰に成功した選手はプルシェンコが初であり、名前のあがったいずれの選手も半世紀以上前に活躍した選手である[32]。
スケート技術
演技
2004年世界選手権まで使用されていた旧採点方法式で満点にあたる「6.0」を最も多く獲得した選手である。16歳で初めての6.0を出して以来(1998年NHK杯:男子最年少記録)、新採点方式に移行するまでに技術点で5つ、プレゼンテーションで70、計75もの満点を獲得した。
ジャンプ
7歳で初めてのトリプルジャンプを降り、12歳までにアクセルを含む6種類の3回転ジャンプを修得。初めて4回転を降りたのは14歳で、試合に4回転トウループ-3回転トウループのコンビネーションを入れるようになったのは15歳から。「4回転からの3連続コンビネーションジャンプ」を武器としていた。
- 世界で初めてISU公式競技会で4回転トウループ-3回転トウループ-2回転ループのコンビネーションジャンプを成功させ(1999年NHK杯)、現在までにISU公式競技会で20回近くと、最も多くの『4回転からの3連続コンビネーションジャンプ』を成功させた選手である。
- 世界で初めてISU公式競技会で4回転トウループ-3回転トウループ-3回転ループのコンビネーションジャンプを成功させた選手でもある(2002年ロシア杯、2003年グランプリファイナル第2フリースケーティング、2003年世界フィギュアスケート選手権予選)。2008年11月現在、彼以外にISU公式競技会でこのコンビネーションを成功させた選手はいない。
- 世界で初めてISU公式競技会で4回転コンビネーションジャンプを2度成功させた選手でもある(代々木体育館で行われた2000年グランプリファイナル第2フリーにて、4回転トウループ-3回転トウループと4回転トウループ-3回転トウループ-2回転ループ)。現在、彼以外にISU公式競技会で4回転コンビネーションを2度成功させた選手はいない。
- その他にも世界で初めてISU公式競技会で3回転アクセル-ハーフループ-3回転フリップと(2002年ソルトレイクシティオリンピック)、4回転トウループ-2回転ループのコンビネーションジャンプを成功させた(2004年グランプリファイナルフリースケーテイング)。
- トウループ以外にも2004年のロシアンカップ第2ステージ・サマラ大会で4回転サルコウを成功している。また練習で5種類の4回転ジャンプを成功させている選手の一人でもあり、2001年ロシア杯フリースケーティングでは4回転ルッツに挑戦したが転倒。
- エキシビションなどで4回転トウループ-3回転トウループ-2回転ループ-2回転ループ(2001年世界選手権)、3回転トウループ-3回転トウループ-3回転ループ-2回転ループ(2005年ARD Gala)、3回転-3回転-2回転-2回転-2回転-2回転(欧州選手権、2006年ロシア選手権)を披露したこともある。
スピン
フィギュアスケートを始めて間もない頃、プルシェンコはテレビでデニス・ビールマンの演技を目にし言葉に出来ないほどの衝撃を受けた。すぐに専門家から正しい開脚の方法を教わり毎晩母親とストレッチを始め、ビールマンスピンとビールマンスパイラルを修得。一般的に女子より筋肉量が多く体が硬い男子、とりわけシニアでこの技を取り入れたのはプルシェンコが初めてだった[33]。
ドーナツスピンを演技に取り入れた最初の男子選手でもある。こちらもビールマン同様高い柔軟性を要する技術のためシニアの男子で行う選手は殆どおらず、プルシェンコが先駆者となった。
2005年に手術をして以来これらの高い柔軟性と技術を必要とするスピンは封印されていたが、2010年の夏以来再びドーナツスピンとハーフビールマンを演技に取り入れるようになった。
ステップ
トリノオリンピックのショートプログラムのサーキュラーステップでは、驚異的な速さと細やかなエッジワークで最高難度のレベル4(GOE加点2.14)を獲得、フリースケーティングのサーキュラーステップでもレベル4を獲得した。トリノオリンピックにおいてステップでレベル4を獲得した選手はプルシェンコ唯一人、また2005/2006シーズンを通してステップでレベル4を獲得したのもプルシェンコと高橋大輔[34] だけだった。
主な戦績
| 大会/年 | 95-96 | 96-97 | 97-98 | 98-99 | 99-00 | 00-01 | 01-02 | 02-03 | 03-04 | 04-05 | 05-06 | 09-10 | 11-12 | 12-13 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 冬季オリンピック | 2 | 1 | 2 | |||||||||||
| 世界選手権 | 3 | 2 | 4 | 1 | 1 | 1 | 棄権 | |||||||
| 欧州選手権 | 2 | 2 | 1 | 1 | 1 | 2 | 1 | 1 | 1 | 1 | 棄権 | |||
| ロシア選手権 | 6 | 4 | 3 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | |
| GPファイナル | 5 | 3 | 1 | 1 | 2 | 1 | 2 | 1 | ||||||
| GPロシア杯 | 4 | 2 | 2 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | |||
| GPスケートカナダ | 1 | 1 | ||||||||||||
| GPエリック杯 | 1 | |||||||||||||
| GPボフロスト杯 | 1 | 1 | 1 | 1 | ||||||||||
| GPNHK杯 | 1 | 1 | 1 | |||||||||||
| GPスケートアメリカ | 2 | |||||||||||||
| フィンランディア杯 | 7 | 3 | 1 | |||||||||||
| グッドウィルゲームズ | 3 | 1 | ||||||||||||
| 世界Jr.選手権 | 6 | 1 | ||||||||||||
| 欧州ユース五輪 | 1J | |||||||||||||
| ブルーソード杯 | 1J |
詳細
| 2012-2013 シーズン | ||||
| 開催日 | 大会名 | SP | FS | 結果 |
|---|---|---|---|---|
| 2013年1月23日-27日 | 2013年ヨーロッパフィギュアスケート選手権(ザグレブ) | 6 74.82 |
- | 棄権 |
| 2012年12月24日-28日 | ロシアフィギュアスケート選手権(ソチ) | 1 91.68 |
1 174.26 |
1 265.94 |
| 2011-2012 シーズン | |||||
| 開催日 | 大会名 | 予選 | SP | FS | 結果 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2012年1月23日-29日 | 2012年ヨーロッパフィギュアスケート選手権(シェフィールド) | 1 157.52 |
2 84.71 |
1 176.52 |
1 261.23 |
| 2011年12月24日-28日 | ロシアフィギュアスケート選手権(サランスク) | - | 1 88.24 |
1 171.43 |
1 259.67 |
| 2009-2010 シーズン | ||||
| 開催日 | 大会名 | SP | FS | 結果 |
|---|---|---|---|---|
| 2010年2月14日-27日 | バンクーバーオリンピック(バンクーバー) | 1 90.85 |
2 165.51 |
2 256.36 |
| 2010年1月18日-24日 | 2010年ヨーロッパフィギュアスケート選手権(タリン) | 1 91.30 |
1 164.09 |
1 255.39 |
| 2009年10月22日-25日 | ISUグランプリシリーズ ロステレコム杯(モスクワ) | 1 82.25 |
1 158.40 |
1 240.65 |
| 2005-2006 シーズン | ||||
| 開催日 | 大会名 | SP | FS | 結果 |
|---|---|---|---|---|
| 2006年2月10日-26日 | トリノオリンピック(トリノ) | 1 90.66 |
1 167.67 |
1 258.33 |
| 2006年1月17日-22日 | 2006年ヨーロッパフィギュアスケート選手権(リヨン) | 1 82.80 |
1 162.53 |
1 245.33 |
| 2005年11月24日-27日 | ISUグランプリシリーズ ロシア杯(サンクトペテルブルク) | 1 87.20 |
1 154.60 |
1 241.80 |
| 2004-2005 シーズン | |||||
| 開催日 | 大会名 | 予選 | SP | FS | 結果 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2005年3月14日-20日 | 2005年世界フィギュアスケート選手権(モスクワ) | 1 37.98 |
5 73.28 |
- | 棄権 |
| 2005年1月25日-30日 | 2005年ヨーロッパフィギュアスケート選手権(トリノ) | - | 2 75.33 |
1 151.81 |
1 227.14 |
| 2004年12月16日-19日 | 2004/2005 ISUグランプリファイナル(北京) | - | 1 84.35 |
1 167.40 |
1 251.75 |
| 2004年11月25日-28日 | ISUグランプリシリーズ ロシア杯(モスクワ) | - | 1 74.95 |
1 158.50 |
1 233.45 |
| 2003-2004 シーズン | |||||
| 開催日 | 大会名 | 予選 | SP | FS | 結果 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2004年3月22日-28日 | 2004年世界フィギュアスケート選手権(ドルトムント) | 1 | 1 | 1 | 1 |
| 2004年2月2日-8日 | 2004年ヨーロッパフィギュアスケート選手権(ブダペスト) | 1 | 1 | 2 | 2 |
| 2003年12月11日-14日 | 2003/2004 ISUグランプリファイナル(コロラドスプリングス) | - | 1 78.25 |
2 146.94 |
2 225.19 |
| 2003年11月20日-23日 | ISUグランプリシリーズ ロシア杯(モスクワ) | - | 1 80.35 |
1 150.90 |
1 231.25 |
| 2003年11月13日-16日 | ISUグランプリシリーズ ラリック杯(パリ) | - | 1 75.35 |
1 158.94 |
1 234.29 |
| 2003年10月30日-11月3日 | ISUグランプリシリーズ スケートカナダ(ミシサガ) | - | 1 81.25 |
1 152.40 |
1 233.65 |
| 2002-2003 シーズン | |||||
| 開催日 | 大会名 | 予選 | SP | FS | 結果 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2003年3月24日-30日 | 2003年世界フィギュアスケート選手権(ワシントンD.C.) | 1 | 1 | 1 | 1 |
| 2003年2月28日-3月2日 | 2002/2003 ISUグランプリファイナル(サンクトペテルブルク)[35] | - | 1 | 1 | 1 |
| 1 | |||||
| 2003年1月20日-26日 | 2003年ヨーロッパフィギュアスケート選手権(マルメ) | - | 1 | 1 | 1 |
| 2002年11月21日-24日 | ISUグランプリシリーズ ロシア杯(モスクワ) | - | 1 | 1 | 1 |
| 2002年11月7日-10日 | ISUグランプリシリーズ ボフロスト杯(ゲルゼンキルヒェン) | - | 1 | 1 | 1 |
| 2001-2002 シーズン | |||||
| 開催日 | 大会名 | 予選 | SP | FS | 結果 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2002年2月9日-21日 | ソルトレイクシティオリンピック(ソルトレイクシティ) | - | 4 | 2 | 2 |
| 2001年12月14日-16日 | 2001/2002 ISUグランプリファイナル(キッチナー)[36] | - | 1 | 1 | 2 |
| 2 | |||||
| 2001年11月21日-25日 | ISUグランプリシリーズ ロシア杯(サンクトペテルブルク) | - | 1 | 1 | 1 |
| 2001年11月8日-11日 | ISUグランプリシリーズ スパルカッセン杯(ゲルゼンキルヒェン) | - | 1 | 1 | 1 |
| 2001年9月4日-9日 | グッドウィルゲームズ(ブリスベン) | - | 1 | 1 | 1 |
| 2000-2001 シーズン | |||||
| 開催日 | 大会名 | 予選 | SP | FS | 結果 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2001年3月17日-25日 | 2001年世界フィギュアスケート選手権(バンクーバー) | 1 | 1 | 1 | 1 |
| 2001年2月15日-18日 | 2000/2001 ISUグランプリファイナル(東京)[37] | - | 2 | 1 | 1 |
| 1 | |||||
| 2001年1月22日-27日 | 2001年ヨーロッパフィギュアスケート選手権(ブラチスラヴァ) | 1 | 1 | 1 | 1 |
| 2000年11月28日-12月3日 | ISUグランプリシリーズ NHK杯(旭川) | - | 1 | 1 | 1 |
| 2000年11月16日-19日 | ISUグランプリシリーズ ロシア杯(サンクトペテルブルク) | - | 1 | 1 | 1 |
| 2000年11月7日-12日 | ISUグランプリシリーズ スパルカッセン杯(ゲルゼンキルヒェン) | - | 1 | 1 | 1 |
| 2000年10月14日-15日 | 2000年フィンランディア杯(ヘルシンキ) | - | 1 | 1 | 1 |
| 1999-2000 シーズン | |||||
| 開催日 | 大会名 | 予選 | SP | FS | 結果 |
|---|---|---|---|---|---|
| 2000年3月26日-4月2日 | 2000年世界フィギュアスケート選手権(ニース) | 2 | 2 | 4 | 4 |
| 2000年2月6日-13日 | 2000年ヨーロッパフィギュアスケート選手権(ウィーン) | 1 | 2 | 1 | 1 |
| 2000年1月13日-16日 | 1999/2000 ISUグランプリファイナル(リヨン)[38] | - | 1 | 1 | 1 |
| 1 | |||||
| 1999年12月2日-5日 | ISUグランプリシリーズ NHK杯(名古屋) | - | 1 | 1 | 1 |
| 1999年11月25日-28日 | ISUグランプリシリーズ ロシア杯(サンクトペテルブルク) | - | 1 | 1 | 1 |
| 1999年11月11日-14日 | ISUグランプリシリーズ スパルカッセン杯(ゲルゼンキルヒェン) | - | 1 | 1 | 1 |
| 1998-1999 シーズン | |||||
| 開催日 | 大会名 | 予選 | SP | FS | 結果 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1999年3月21日-28日 | 1999年世界フィギュアスケート選手権(ヘルシンキ) | 1 | 1 | 2 | 2 |
| 1999年3月4日-7日 | 1998/1999 ISUグランプリファイナル(サンクトペテルブルク) | - | 2 | 3 | 3 |
| 1999年2月6日-13日 | 1999年ヨーロッパフィギュアスケート選手権(プラハ) | 1 | 3 | 2 | 2 |
| 1998年12月2日-6日 | ISUグランプリシリーズ NHK杯(札幌) | - | 1 | 1 | 1 |
| 1998年11月26日-29日 | ISUグランプリシリーズ ロシア杯(モスクワ) | - | 2 | 2 | 2 |
| 1998年11月5日-8日 | ISUグランプリシリーズ スケートカナダ(カムループス) | - | 2 | 1 | 1 |
| 1998年7月29日-8月1日 | グッドウィルゲームズ(ニューヨーク) | - | 3 | 3 | 3 |
| 1997-1998 シーズン | |||||
| 開催日 | 大会名 | 予選 | SP | FS | 結果 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1998年3月28日-4月5日 | 1998年世界フィギュアスケート選手権(ミネアポリス) | 1 | 2 | 4 | 3 |
| 1998年1月10日-18日 | 1998年ヨーロッパフィギュアスケート選手権(ミラノ) | - | 3 | 2 | 2 |
| 1997年12月19日-21日 | 1997/1998 ISUチャンピオンシリーズファイナル(ミュンヘン) | - | 4 | 5 | 5 |
| 1997年11月19日-23日 | ISUチャンピオンシリーズ ロシア杯(サンクトペテルブルク) | - | 2 | 2 | 2 |
| 1997年10月22日-26日 | ISUチャンピオンシリーズ スケートアメリカ(デトロイト) | - | 2 | 2 | 2 |
| 1997年10月3日-5日 | 1997年フィンランディア杯(ヘルシンキ) | - | TBD | TBD | 3 |
| 1996-1997 シーズン | |||||
| 開催日 | 大会名 | 予選 | SP | FS | 結果 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1997年2月7日-12日 | 1997年ヨーロッパユースオリンピック ジュニアクラス(スンツヴァル) | - | 1 | 1 | 1 |
| 1996年12月12日-15日 | ISUチャンピオンシリーズ ロシア杯(サンクトペテルブルク) | - | 7 | 4 | 4 |
| 1996年11月24日-12月1日 | 1997年世界ジュニアフィギュアスケート選手権(ソウル) | - | 1 | 1 | 1 |
| 1996年10月24日-26日 | ブルーソード杯 ジュニアクラス(ケムニッツ) | - | TBD | TBD | 1 |
| 1996年10月3日-6日 | 1996年フィンランディア杯(ヘルシンキ) | - | TBD | TBD | 7 |
| 1995-1996 シーズン | |||||
| 開催日 | 大会名 | 予選 | SP | FS | 結果 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1995年11月26日-12月2日 | 1996年世界ジュニアフィギュアスケート選手権(ブリスベン) | 3 | 7 | 7 | 6 |
プログラム
| シーズン | SP | FS | EX |
|---|---|---|---|
| 2012-2013 |
The Storm ヴィヴァルディ『夏』より by ヤニー |
ロンド・カプリチオーソ ((序奏とロンド・カプリチオーソ + 白鳥 組曲『動物の謝肉祭』より + 死の舞踏)) 作曲:カミーユ・サン=サーンス 振付:セルゲイ・ペトゥホフ他 |
- |
| 2011-2012 | The Storm ヴィヴァルディ『夏』より by ヤニー |
ロクサーヌのタンゴ 映画『ムーランルージュ』より 編曲:エドウィン・マートン |
病の果てに(灰色の途) (Je suis Malade) by セルジュ・ラマ |
| 2009-2010 | アランフエス協奏曲 (Concierto de Aranjuez) 作曲:ホアキン・ロドリーゴ 編曲:エドウィン・マートン 振付:ダヴィド・アヴディシュ |
タンゴ・アモーレ (Tango Amore) by エドウィン・マートン 振付:ダヴィド・アヴディシュ |
病の果てに(灰色の途) (Je suis Malade) by セルジュ・ラマ 存在しない街 (The City That Doesn't Exist) サンクトペテルブルク300 by Igor Korniliuk |
| 2008-2009 | - | - | タンゴ・アモーレ (Tango Amore) by エドウィン・マートン 振付:ダヴィド・アヴディシュ |
| 2006-2008 | - | - | The Soldiers by Stamatis Spanoudakis シルタキ 映画『その男ゾルバ』より (Sirtaki) 作曲:ミキス・テオドラキス 編曲:エドウィン・マートン Candle Light by Mashina Vremeni |
| 2005-2006 [39][40] |
星は光りぬ オペラ『トスカ』より 作曲:ジャコモ・プッチーニ 振付:エドワルド・スミルノフ、ユーリ・スメカロフ、ダヴィド・アヴディシュ |
映画『ゴッドファーザー』より 作曲:ニーノ・ロータ 編曲・演奏:エドウィン・マートン |
星は光りぬ オペラ『トスカ』より 作曲:ジャコモ・プッチーニ カルーソー ボーカル:ルチアーノ・パヴァロッティ |
| 2004-2005 [39] |
月光 (Sonata N14) 作曲:ヴィクトル・ジンチュク 振付:セルゲイ・ペトゥホフ |
映画『ゴッドファーザー』より 作曲:ニーノ・ロータ 振付:セルゲイ・ペトゥホフ |
Asisiai 振付:アレクサンドル・スチョーピン |
| 2003-2004 [41] |
タンゴ・フラメンコ (Tango Flamenco by Paco De Lucía + Nyah by Hans Zimmer) 振付:ユーリ・スメカロフ |
ヴァーツラフ・ニジンスキーに捧ぐ (Art on Ice + Magic Stradivarius + King of the Forest by Edvin Marton) 振付:ユーリ・スメカロフ |
Asisiai 振付:アレクサンドル・スチョーピン Hafanafa by Afric Simone Logical Song by スーパートランプ |
| 2002-2003 [39] |
アルビノーニのアダージョ 作曲:トマゾ・アルビノーニ 振付:ワレリー・ミハイロフスキー |
サンクトペテルブルク300 by Igor Korniliuk 振付:キリル・シモノフ カルメン 作曲:ジョルジュ・ビゼー |
存在しない街 (The City That Doesn't Exist) オンリー・ユー カルメン 作曲:ジョルジュ・ビゼー |
| 2001-2002 | マイケル・ジャクソンメドレー (Earth Song + Childhood + Billy Jean + They don't care about us) 振付:ダヴィド・アヴディシュ |
カルメン (Carmen by George Bizet + Carmen Suite by Bizet/Shchedrin) 作曲:ジョルジュ・ビゼー、ロディオン・シチェドリン 振付:エドワルド・スミルノフ、ダヴィド・アヴディシュ[42] シルク・ドゥ・ソレイユ (Fixe + Eclipse + El Tango de Roxanne 映画『ムーランルージュ』より + El La Petite Fille de la Mer by Vangelis) 振付:ダヴィド・アヴディシュ |
セックス・ボム[39] ボーカル:トム・ジョーンズ カルメン 作曲:ジョルジュ・ビゼー |
| 2000-2001 | ボレロ 作曲:モーリス・ラヴェル 振付:ダヴィド・アヴディシュ |
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ (Xotica by Rene Dupere + Tango from Hasta Que Te Conoci by Raul di Blasio + Once Upon A Time In America by Ennio Morricone + The Cotton Club by Duke Ellington + Mortal Combat by George S. Clinton) 振付:ダヴィド・アヴディシュ |
セックス・ボム[39] ボーカル:トム・ジョーンズ 振付:ダヴィド・アヴディシュ Pasadena |
| 1999-2000 | 剣の舞 作曲:アラム・ハチャトゥリアン 振付:エフゲニー・セレジュニコフ |
黒い瞳 (Dark Eyes + Coachmen Don't Drive the Horse + Concierto Madrigal for Two Guitars by Joaquin Rodrigo) 振付:エフゲニー・セレジュニコフ |
Two Step Nadya + Ciocircla |
| 1998-1999 | ハヴァ・ナギラ (Hava Nagila) 振付:エフゲニー・セレジュニコフ |
ジャン・ミッシェル・ジャールメドレー (Chronologie #2 + Chronologie #3 + Zoolookologie by Jean-Michael Jarre) 振付:エフゲニー・セレジュニコフ |
白鳥 組曲『動物の謝肉祭』より 作曲:カミーユ・サン=サーンス Two Step Nadya + Ciocircla |
| 1997-1998 | アランフエス協奏曲 (Concierto de Aranjuez + El Gato Montes by Joaquin Rodrigo) 振付:エフゲニー・セレジュニコフ |
ジャン・ミッシェル・ジャールメドレー (Chronologie #2 + Chronologie #3 + Zoolookologie by Jean-Michael Jarre) 振付:エフゲニー・セレジュニコフ |
ジャン・ミッシェル・ジャールメドレー
Enigma |
| 1996-1997 | タランテラ バレエ『風変わりな店』より (La Boutique Fantasque IV: Tarantella Music by Gioachino Rossini, Arranged by Ottorino Respighi + O Sole Mio by Eduardo Di Capua) 振付:エフゲニー・セレジュニコフ |
ウィリアム・テル序曲 オペラ『ウィリアム・テル』より (William Tell Overture + The Barber of Seville + Semiramide by Gioachino Rossini) 振付:エフゲニー・セレジュニコフ |
- |
| 1995-1996 | - | バレエ『ドン・キホーテ』より (Don Quixote by Leon Minkus) 振付:エドワルド・スミルノフ |
- |
政治活動
2007年3月にサンクトペテルブルク立法議会選挙に中道左派の第四党公正ロシア・祖国・年金・生活党から出馬し当選。7月には2014年冬季オリンピックのソチへの招致運動にも積極的に参加し開催地決定に貢献したが、競技続行にあたって議員活動が妨げになるとして議会へは殆ど出席しておらず「議会に出ない議員、商業活動をする議員のうちの一人」として党内外から批判の声もあがっていた[43]。
バンクーバー五輪後には「私は議員を辞め政治からは離れスポーツに専念した方がいいと思う」[44] とも述べ、任期終了を待たず早期に辞任することも噂されていた。2010年12月にはソチ五輪が終わった後ならば下院選に出馬する可能性も否定しないが今の目標はソチ五輪だと発言している[45]。
2011年12月2日、4日に行われるロシア下院選を前に公正ロシア党と政治からの離脱を正式に表明[46]。スポーツに専念しいかなる政党にも参加しないと述べた[43]。
ウラジーミル・プーチンの支持者で2011年12月2日にはTwitter上で大統領選での支持を表明[47]。プーチンもプルシェンコに対してバンクーバー五輪後に「あなたの銀メダルは『金』に値する」と電報を送り[48]、2012年5月7日にはクレムリンで行われた大統領就任式にも招待するなどしている[49]。
人物
生い立ち
シベリアでの日々
1982年11月3日、ソビエト連邦ハバロフスク地方のウルガルで、大工の父ヴィクトルと母タチアナの長男として生まれる[50]。6歳年上の姉がいる[51]。両親は出稼ぎの鉄道建設労働者で一家はソルネチヌイにあった木造の貨物列車を改造したトレーラーハウスで生活していた。一般のロシア人と比べても決して裕福とはいえない暮らしだったが、家族の絆は強く特に母親とは大変深い愛情で結ばれている。
生後9か月で走り出すなど運動神経の発達した子供だったが、虚弱体質だったためシベリアの過酷な気候に耐えられず、1歳3カ月の時に肺炎にかかると数か月入院。発熱の続く息子の健康を案じた両親は1985年の夏に気候の温暖な故郷ヴォルゴグラードへ戻ることを決断[52]。
スケートとの出会い
4歳になると医師の勧めもあり体質改善の一環でフィギュアスケートとロシア民族舞踊を習い始めた。当初はレッスンに通うためトロリーバスに乗っても、3駅と進まないうちに具合が悪くなり何度も途中下車しては母親を心配させたが、2つの習い事を続ける内に体は鍛えられていき以前のようにすぐに体調を悪化させる事はなくなり、学校でも授業中じっと座って居られず動き回っていたずらをするような活発な子供になった。
間もなくスケート、ダンス、どちらの分野でも才能があることが認められ、民族舞踊の教師たちは「スケートをやめダンスに専念しなさい」と言い、スケートの教師たちも「ダンスをやめスケートに専念しなさい」と言い、レッスンの時間を取りあった。プルシェンコは自らの意思でスケートを選んだ[52]。
サンクトペテルブルクへ
1993年、ソ連崩壊の煽りを受け地元に一つしかないスケートリンクが閉鎖される。両親はこれを機に息子に普通の小学生の暮らしをさせようと考えたが、当時のコーチ、ミハイル・マコヴィーエフはサンクトペテルブルクのアレクセイ・ミーシンの元へ行くよう勧めた。まだ幼い我が子を手放したくない両親は反対したが、マコヴィーエフは有望選手のスポーツキャリアを終わらせる権限は親には無いと強く説得。また両親は息子のスポーツへの情熱を知り彼をミーシンに託す事に同意した。
11歳で単身サンクトペテルブルクへ移住。昼間から酒や薬や賭け事に溺れる不特定多数が出入りする共同アパートの一角で生活した。隣人女性は子供の同居人に構わず男たちを部屋に連れ込んだ。見かねたミーシンは自分のアパートや自宅、振付師の家に彼を住まわせた。それまでの栄養状態が悪かったこともあり体格が悪かった当時のプルシェンコの印象を、ミーシンは「痩せっぽちで脂のない緑色のチキンのようだった」と語っている[53]。1年後に母親がやって来て二人で暮らし始めるも母親にはサンクトペテルブルクでの労働許可がなく、一家の稼ぎ頭の一人を失ったプルシェンコ家は更に困窮を極め日々の食べ物にすら事欠くようになった。
14歳で世界ジュニア選手権を制すと以後は一家の稼ぎ頭になった。[54] 16歳になると以前から貯めていた賞金を使い、家族で暮らすためのマンションを購入。離れて暮らしていた父親と姉夫妻をヴォルゴグラードから呼び寄せた。
このような決して順風満帆とは言えない生い立ちながらも本人は至って明るく陽気な性格で知られる。アイスショーやエキシビションでは女装[55] や着ぐるみ[56] でパフォーマンスを見せたり、トム・ジョーンズの"Sex Bomb"に合わせ、偽の筋肉が縫い付けられた肌色の襦袢と金色のビキニブリーフだけという滑稽ないでたちでストリップダンスを披露するなど[57]、奇抜な演技も楽しげにこなす。
学歴・その他
1998年にペトログラードスキー区(Petrogradsky District)にある第91番学校を卒業。
2000年にはミーシンが教授をつとめるレスガフト名称サンクトペテルブルク国立体育アカデミーに入学し2005年に卒業(専攻:フィギュアスケート)。
2004年からサンクトペテルブルク国立技術経済大学(ENGECON)観光サービスマネジメント学部で校外生として学び2008年に修業[58]。
ロシア連邦軍における階級は上級中尉〔中尉〕(ru:Старший лейтенант)。ただし立法議会議員に当選したため現在は予備役。[2]
栄典
- 2010年3月12日、ロシア連邦名誉勲章[59]
- 2010年3月5日、ロシア連邦勲一等祖国功労賞)- 2010年冬季五輪の功績に対して[60]
- 2007年2月22日、ロシア連邦名誉勲章 - 2006年冬季五輪の功績に対して[61]
- 2003年5月5日、ロシア連邦友好勲章 - 2002年冬季五輪の功績に対して
- ロシア連邦功労スポーツマスター - 五輪や世界選手権で優勝したスポーツ選手に与えられる最高の称号[62]
交友関係
- ペアのアントン・シハルリドゼ、アレクセイ・ティホノフ、アイスダンスのロマン・コストマロフ、アクロバット男性ペアのアレクセイ・ポーリシュクらと仲が良い。
- 女子シングルではイリーナ・スルツカヤと子供の頃から大変仲が良い。サーシャ・コーエンとは文通していた。
- 男子シングルでは親しい友人はいないとも発言しているが、アレクサンドル・アブト、ヴィクトール・ペトレンコ、バフタン・ムルバニゼとは長い付き合いがある。幼くして選抜チームやミーシンの門下に入ったため年上のスケーター達から嫉妬され激しいいじめを受けていたプルシェンコを庇った唯一の年長者がアブトだった[63]。そのため少年時代のプルシェンコはアブトを慕っており、現在も友人関係にある。
- オリンピックで二度のメダルを手にしたペトレンコには幼い頃から憧れを抱いている。1993年に故郷唯一のリンクが閉鎖されたときはペトレンコやオクサナ・バイウルを育てたガリーナ・ズミエフスカヤの門下に入ることを望んだが当時父親が失業中だったため諦めた[64]。14~15歳の時にはペトレンコに勝利してしまい動揺、そんなプルシェンコにペトレンコは祝福の言葉をかけ励ましたという[65][66]。
- 若手ではチェコのトマシュ・ベルネル、アメリカのジョニー・ウィアー、羽生結弦らがプルシェンコに憧れている事を公言しており、ショーでの共演を通じて良好な関係を築いている。
- 同郷のペアスケーターマキシム・マリニンは同じマコヴィーエフコーチに師事していた。マリニンは1993年までシングル選手だったが、5歳年下のプルシェンコに敗れたことが決定打となりペアに転向。
- 2003/2004シーズン以降プログラムの作曲をハンガリーのヴァイオリニスト兼作曲家のエドウィン・マートンに依頼しており、エキシビションやアイスショーではマートンの生演奏に合わせて演技をする事が多い。プライベートでも大変仲が良い。
- 元兄弟子で現役時代に激しい火花を散らしたアレクセイ・ヤグディンとは長年の確執が噂されていた。「(同じコーチの元で)ヤグディンと一緒に練習していたとき、彼から学んだことは何かありますか?」という問いに対し、プルシェンコが「Nothing(何も)」とそっけなく答えたこともある[67]。両者はともに自伝の中でこの良好とは言いがたかった関係について言及しているが、インタビューでは「ライバル関係以外の険悪なものは無かった」とも発言している。2006年以降、韓国のスケートリンクで発生した火災を背景に二人で記念写真を撮る姿や、来日時のショーの合間に草サッカーに興じる姿、大型家電量販店で浅田真央の真似をしてふざけている二人の姿がメディア掲載されている[68]。また2010年9月になると北京での記者会見でヤグディンが同年6月に競技資格を剥奪されたプルシェンコを擁護、「2014年五輪金メダルの唯一の希望」と呼び、ロシア・フィギュアスケート連盟の姿勢を批判するなど[69]、関係が良好になったことを伺わせた。
- コーチのアレクセイ・ミーシンの事は門下に入った11歳のときから敬慕している。指導者としては勿論、小学生のうちに単身でサンクトペテルブルクにやってきたプルシェンコの保護者代わりとなったのがミーシンだった。彼はプルシェンコを自宅に住ませ、衣類や食事を与え、英会話や、どちらの手でフォークを持てばいいのかまで教えるなど、公私に渡って面倒を見た。現在も親しい付き合いを続けており、プルシェンコはミーシンを「第二の父親」と呼んでいる。またミーシンも彼を「息子以上」の存在だと発言[70]。
私生活
2005年6月18日にサンクトペテルブルクの著名実業家の娘マリア・イェルマークと結婚。翌2006年6月15日には長男が誕生する。当初クリスチアン(Кристиан)と名付けられたこの男児はマリアの独断でイェゴール・イェルマーク(Егор)に改名された[71]。マリアとの夫婦関係は結婚3か月目で既に破綻しており、2008年1月に正式に離婚が成立。
2009年9月12日に人気歌手ジーマ・ビラーンのプロデューサーで 実業家のヤナ・ルドコフスカヤ(Яна Рудковская)(1975年1月2日 - )と再婚[72]。
2008年5月にはビラーンとルドコフスカヤのためバックダンサーとしてユーロビジョン・ソング・コンテスト2008に参加。ロシアチームの優勝に貢献。
2013年1月6日にはルドコフスカヤとの間に男子が誕生。アレクサンドルと名付けられた。[73]
趣味
モータースポーツ
車はアウディR8をはじめ数台保有。バイクはヤマハ・YZF-R6やBMW・S1000RR[74] 等を所有、かねてより危険なのでやめるようコーチから注意を受けても手放さなかった。かなりのスピード狂で車でもバイクでも200数十キロ以上出して走ると度々発言している[75][76]。
コンピューターとゲーム
7歳で出場した競技会で優勝賞品として携帯ゲーム機を貰って以来の愛好家。プレイステーションのサッカーゲームがお気に入り。その他、PSPも保有している。コーチから何度注意を受けてもパソコンで遊ぶのをやめなかった[77]。PC版の『コール オブ デューティ モダン・ウォーフェア2』(Call of Duty: Modern Warfare 2)のプレーヤーであることも自宅撮影された写真によって確認されている。[78]
バレエ
基礎練習に取り入れている。11歳のとき師事していたマリインスキー・バレエの女性振付師から「フィギュアスケートの代わりにバレエをやらないか」と転向の誘いを受けたが、母親に相談し真剣に悩んだ末に断った[51]。ミーシンは教育のため生徒たちを劇場に連れて行った。現在もプルシェンコは時間があると劇場に足を運びバレエやオペラを鑑賞している。ボリショイ・バレエのニコライ・ツィスカリゼらや、オペラ歌手との親交もある。
スポーツ専門の振付師を起用する選手が多い中、プルシェンコのプログラムの殆どはバレエを本業とする振付師によるものである。一例を挙げると「サンクトペテルブルク300」はシェミャーキン版「くるみ割り人形」[79] の振り付けをしたキリル・シモノフの作品であり、「ニジンスキーに捧ぐ」はマリインスキー劇場のソリスト兼振付師のユーリ・スメカロフが手掛けている。その他にもマリインスキーやボリショイバレエなどの専門家と仕事をしており、元ペルミバレエ団バレエマスターのダヴィド・アヴディシュとも長年タッグを組んでいる。
スポーツ全般
アイスホッケーやサッカー、ビリヤード、テニス、ペイントボールなどスポーツ全般を愛好。テニスは息子2人がプレーヤーであるミーシンから手ほどきを受けた。サッカー好きでも知られショーの最中には共演者たちと草サッカーに興じている姿も見られる。
好きな食べ物
イチゴ、ミカン等のフルーツ、チーズケーキ、アイスクリーム、寿司、しゃぶしゃぶ等の日本料理、母親が作ったフライドチキン、ボルシチとペリメニ。[80]
好きなファッション
十代の頃はジュエリーの蒐集に凝っていたが最近はファッションや腕時計に興味が移行。好きなブランドはグッチ、ルイヴィトンなど[要出典]。腕時計は店を開けるほどのコレクションを持っており[要出典]、2012年にはスポンサーであるユリスナルダンから本人がデザインに関わったChampion's Diver Plushenko Limited Editionが発売されている[81]。
ペット
基本的に犬好きだが、猫やその他動物は何でも好む。
1998年頃にラーリャという名のペルシャ (ネコ)を飼っていた。
2001年からゴールデンと名づけたアメリカン・ブルドッグを飼っていたが2010年末に12歳で死去[82]。
2003年頃はヨークシャー・テリア2匹も飼っていた[83]。
2007年末には雄のブリティッシュ・チンチラ(猫)を飼いはじめプーフリク(ぽっちゃりした、小さくて太っている、丸々した、というような意味)という愛称をつけ溺愛。記者会見でも言及したり自身のサインにイラストを描くこともある[84]。同時期に購入した雌のリャーシカは、2010年8月に3歳で突然死 Плющенко лишился любимой кошки // KP.RU。
2010年末からジャックと名づけたジャック・ラッセル・テリアを飼い始めた[85]。
その他
刃物蒐集も十代からの趣味。一時はやめていたが最近復活[要出典]。
ロシア式サウナのバニャを始め風呂をこよなく愛しており、ミーシンとはプライベートでも裸の付き合いをしている。アイスショーや合宿などで海外遠征した際には現地のサウナへ足を運ぶことも多く、日本にも行きつけのサウナがある[86]。
信仰
5歳のとき自らの意思で両親を説得し洗礼を受けて以来の熱心な正教会信徒[87]。信仰については「個人的なこと」として語ることは殆どない。妻のルドコフスカヤによると複数の聖堂に多額の寄付も行っている。[88]
引退後の展望
2004年頃からホテルチェーン経営に興味を持っており2008年9月には観光ビジネスの学位を取得したが、元義父の実業家と共同で進めていたホテルプロジェクトは離婚によって破談となった。
2012年現在は引退後は指導者の道を歩みたいと述べ、ミーシン不在時に後輩たちの指導をするなどアシスタントコーチとしての活動も開始[89][90]。またフィギュアスケート環境の整備にも関心を抱いており、サンクトペテルブルクに学校教育機能と寄宿舎を備えたスポーツ学校を設立することを長年の夢としている。2008年末にはアルメニア共和国の首都エレバンに現地の国家予算から3割の資金援助を受け運営される私立のフィギュアスケートアカデミーを開設することを発表していたが[91]、これは復帰への集中のため延期されている。
脚注
- ^ a b c 『フィギュアスケートDays Plus 2008-2009男子シングル読本』ダイエックス出版、2008年9月、p.67
- ^ a b Евгений Плющенко: Когда катаешься, что-то горит внутри...
- ^ "...вес 69кг в соревновательный сезон.."
- ^ a b c d 『フィギュアスケート選手名鑑 2006』新書館、2005年12月
- ^ 現在のCISクリスタルスケート
- ^ 自伝p.14(英訳)
- ^ ソビエト連邦など社会主義国では、オリンピックは共産主義の優位性を西側諸国に示す場として、プロパガンダに利用された。ソ連各地から選ばれた素質ある子供たちは、時に幼い頃から家族と離され、必要な全てを国から与えられ、優秀な指導陣のもと英才教育を施された。しかしこのシステムは1991年末のソ連崩壊によって瓦解。当時のロシア経済は混乱を極め給料の遅配も相次いだため、指導陣は転職ないし海外で働くことを余儀なくされた。また経営が立ちゆかなくなった訓練施設は次々売却されるなどした。プルシェンコやマキシム・マリニンらが所属していたヴォルゴグラードのリンクも、1993年に自動車ディーラーに売却され閉鎖された。2006年のトリノ五輪に出場した選手団がこのソビエト時代のスポーツ英才児教育で発掘された最後の世代であり、彼らが五輪後に第一線から退いたことが、トリノ五輪後のロシアの国際大会での成績低迷の原因とされている(参考:イリーナ・ロドニナのインタビュー「バンクーバー五輪は難しいものになるだろう。トリノにはソビエト時代に育てられた最後の選手たちがいた。バンクーバーでは国が崩壊した後に競技の世界に来た者たちが戦う。彼らは困難な時代を過ごした。スポーツへの注目、資金、指導者がなかった。我々は難局に備えなければならない。」,エレーナ・チャイコフスカヤのインタビュー「(ドムニナ/シャバリン組の銅メダルのため)ロシアフィギュアスケート連盟はプルシェンコを犠牲にした。それはただ滑稽だった。我々は少なくとも1つの金メダルを得ることも出来たのだ。だが今、プルシェンコは勝ったが我々はそれを持ってすらいない。彼は我々がソビエト時代から持っている最後のものだ。全て我々が蓄え、創りあげた。」)。
- ^ 1995年11月26日~12月2日、オーストラリアブリスベン開催
- ^ 1996年11月24日~12月1日、韓国ソウル開催
- ^ 現在も世界記録
- ^ 第2フリーにおいて、技術点は全てのジャッジがプルシェンコの方を評価したが、芸術点では評価が分かれた。解説の五十嵐文男からは「技術的には上だが、曲調が頻繁に変わり過ぎて印象に残らない」、ディック・バトンからは「(昨シーズンのフリープログラムを含めて)腰を振るパフォーマンスがジャッジの印象を悪くした」と評価された。
- ^ 実況の刈屋アナのフレーズ。今大会まで2シーズンにわたり4回転トウループの転倒がなかった。
- ^ http://fsevents.narod.ru/event/FstLapSpb2009/
- ^ Plushenko SP - St. Petersburg Cup 09.09.09 (TV1 News)
- ^ http://www.isuresults.com/results/gprus09/
- ^ ロシアスケート連盟のリザルトページのGoogleキャッシュ
- ^ XXI Olympic Winter Games 2010 - Men
- ^ Евгений Плющенко: «Моя дисквалификация – месть Писеева»
- ^ プルシェンコの連覇を妨害した!?米国人ジャッジ、疑惑のEメール。~五輪でのロビー活動の真実~
- ^ Евгений Плющенко: «Заноза останется на всю жизнь»(このわだかまりは一生消えないだろう)
- ^ Плющенко заслужил золото!(プルシェンコこそ、金メダルに相応しかった) 記者「あなたの見解では、フリースケーティングでは確かにプルシェンコの負けだったと。」 タラソワ「はい、しかし(本来もっと差の付くはずだった)ショートプログラムの差で金メダルを取るべきだったと思います。」
- ^ International Skating Union (6 2010). “Decision of the ISU Council on Eligibility of Mr. Evgeny Plushenko (RUS)” (PDF). Communication 1622: 4-5.
- ^ “プルシェンコ、資格回復へ要望書=フィギュア男子-ジャパンオープン・フィギュア” (日本語). 時事通信. (2010年10月2日) 2010年10月2日閲覧。
- ^ Provisional Allotments of ISU Championships and Reinstatement of Evgeni Plushenko, 14 Jun 2011
- ^ <松葉づえなしで歩いています!>エフゲーニー・プルシェンコ ロシア語自習室
- ^ ノーヴォスチ通信社『Плющенко пропустит Гран-при, чтобы лучше подготовиться - тренер』2011年8月21日 http://sport.ria.ru/figure_skating/20110821/421064383.html
- ^ 2012年ロシア選手権リザルト
- ^ 2012年ヨーロッパ選手権リザルト
- ^ http://www.ria.ru/sport/20120228/578958181.html
- ^ http://www.jiji.com/jc/zc?k=201301/2013012700012 フェルナンデスが初優勝=プルシェンコは棄権-欧州フィギュア
- ^ プルシェンコが腰手術
- ^ Vancouver Preview - NBC Olympics
- ^ 「His trademark is a Biellmann spin, and so far, he is the only male skater to show this element in senior competitions.」
- ^ 高橋はNHK杯のSPにて、ストレートラインステップでレベル4を獲得。
- ^ 2002/2003 ISUグランプリファイナルはフリー演技を2度行った。
- ^ 2001/2002 ISUグランプリファイナルはフリー演技を2度行った。
- ^ 順位決定方法については2000/2001 ISUグランプリファイナルを参照のこと。
- ^ 順位決定方法については1999/2000 ISUグランプリファイナルを参照のこと。
- ^ a b c d e 『男子シングル読本』p.68
- ^ 『COLORS 2007』p.35, p.38
- ^ http://www.mariinsky.ru/en/company/ballet_mt_men/yuri_smekalov/
- ^ http://web.archive.org/web/20060501232020/http://www.kingonice.com/news01-02.htm
- ^ a b プルシェンコ、ソチ冬季五輪に向けて政治活動を断念 - AFPBB News 2011年12月2日
- ^ The Moscow Times - "I think I should lay lawmaking aside, leave it and pursue sports"
- ^ Rossiyskaya Gazeta - Evgeni Plushenko is going to run in the State Duma
- ^ 元五輪王者プルシェンコが練習再開 - スポーツニッポン 2011年12月2日 23:32
- ^ 「私はプーチンにのみ投票する。彼は実際的な仕事をし現在アスリートたちの練習環境は良くなった。」- 2011年12月2日のTwitterより
- ^ プルシェンコ「銀」に不満の声 ロシア、フィギュア男子 - 共同通信 2010年2月20日 10:50
- ^ 当日の写真
- ^ 自伝p.15
- ^ a b http://www.evgeniplushenko.net/profile.shtml
- ^ a b http://plushenko.ru/5/index.php?newsid=1166631882
- ^ http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9503E6DE1F31F932A05753C1A961958260&n=Top/Reference/Times%20Topics/Subjects/F/Figure%20Skating
- ^ http://www.kingonice.com/article2.htm
- ^ http://jp.youtube.com/watch?v=QzZCc5nQ8-E
- ^ http://jp.youtube.com/watch?v=1Al1ZlVz8FM
- ^ http://jp.youtube.com/watch?v=c1T61vX4wm4
- ^ Плющенко закончил вуз Чубайса
- ^ Евгений Плющенко получил орден почета
- ^ Указ Президента Российской Федерации от 5 марта 2010 года № 278
- ^ Указ Президента РФ от 22 февраля 2007 г. N 204
- ^ Евгений Викторович Плющенко. Биографическая справка
- ^ 自伝p.38
- ^ NOT THE SMOOTHEST OF RIDES
- ^ Куда кривая выведет?
- ^ 自伝p.50
- ^ 2000ユーロFS後インタビュー
- ^ ロシア発と思われる浅田のポップを前にふざけてあっている2人の画像
- ^ Плющенко помирился с Ягудиным // KP.RU
- ^ Alexey Mishin´s Jubilee - 08/03/11
- ^ Евгений ПЛЮЩЕНКО: Теперь моего сына зовут Егор
- ^ ルドコフスカヤの元夫ヴィクトル・バトゥリンは前モスクワ市長ユーリ・ルシコフの義兄で、インテコ(Inteco)社社長エレーナ・バトゥーリナの実兄。ルドコフスカヤはバトゥリンとの間に2人の息子の親権や、名誉毀損に関する裁判を複数抱えている。
- ^ http://evgeni-plushenko.com/eng/news/112.htm Congratulations on the birth of a son!
- ^ http://tweetphoto.com/27826179
- ^ http://www.izvestia.ru/sport/article3139336/
- ^ http://news.sport-express.ru/2009-06-19/307399
- ^ Плющенко «озолотил» тюменский лед
- ^ [1]
- ^ Nutcracker M.Shemiakin.1 аcт
- ^ http://www.kingonice.com/interview25.htm
- ^ ユリスナルダン公式サイト:Champion's Diver Plushenko Limited Edition
- ^ [2]
- ^ [3]
- ^ http://www.bilandima.ru/fotoalbum/foto.php?p=205_mkconference&n=41
- ^ [4]
- ^ http://www.youtube.com/watch?v=E2SL6zNQ8vY
- ^ «Хочу стать легендой фигурного катания»
- ^ ロシア版『HELLO!』2009年12月22日号20~26ページ
- ^ Алексей Мишин: «Плющенко будет прыгать через боль, а потом — сразу на операцию»
- ^ Плющенко: Сочи для меня — последний старт
- ^ http://life.ru/news/pr/51281/
外部リンク
- 国際スケート連盟によるエフゲニー・プルシェンコのバイオグラフィー
- オフィシャルサイト(ロシア語・英語)
- 旧オフィシャルサイト(英語)
- 旧オフィシャルサイト(ロシア語)
- サンクトペテルブルク立法会議議員名簿(ロシア語)
- Link Collection of Evgeni
- 国際オリンピック委員会
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