カリアスの和約

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カリアスの和約(カリアスのわやく、希:Ειρήνη του Καλλία、英:Peace of Callias)は、紀元前449年デロス同盟アケメネス朝ペルシアとの間でペルシア戦争終結を目的として批准された条約である[1]。しかし、後述するように史実性に疑義が呈されてもいる。

概要[編集]

紀元前480年のペルシア王クセルクセス1世によるギリシア侵攻の失敗の後、アテナイ率いるデロス同盟は紀元前450年キュプロス遠征を行い、そこでの優勢を受け当時のペルシア王アルタクセルクセス1世はデロス同盟との講和を決定したため和平が成りデロス同盟の遠征軍はキュプロスから撤退、和約は交渉に当ったアテナイの全権大使カリアス[要曖昧さ回避]の名を取ってカリアスの和約と呼ばれた、とディオドロスは述べている。

ディオドロスはこの和平の条件を次のように伝えている[2]

全ギリシア都市は彼ら自身の定める法によって暮らし、ペルシア人の太守は三日の旅程以上にはそれらへは近づかず、いかなペルシアの戦艦もファセリスないしキュクラデス諸島より内側を航行しない。そしてもしこれらの条項が〔ペルシア〕王とその将軍によって守られるなら、アテナイ人は王が支配している領内へと兵を送らない。

ディオドロスの伝えるところによれば、この条約によってアテナイはエーゲ海からペルシアを締め出し、小アジアのギリシア人ポリスの自治をもぎ取った代わりに、キュプロス、エジプト(その時ペルシアに反乱を起こしていた)への不干渉を認めた。

カリアスの和約は実在したのか[編集]

カリアスの和約についての記述は前述のディオドロス、紀元前4世紀の弁論家のデモステネス[3]プルタルコス[4]などに見られる。しかし、歴史家のテオポンポスが条約の存在を否定し、トゥキュディデスも第二次ペルシア戦争後からペロポネソス戦争までの記録で条約について全く言及しておらず、ペロポネソス戦争時及びその後にペルシア帝国とアテナイ、ペルシア帝国とスパルタの間で結ばれた条約には「カリアスの和約」を踏まえた条件が何一つ存在しないため実在を疑う研究者が絶えない[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b 真下英信. “カリアスの和約”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク). 2019年5月26日閲覧。
  2. ^ ディオドロス, XII. 4
  3. ^ デモステネス (2010), 『使節職務不履行について』, 273
  4. ^ 「キモン伝」, 13

参考文献[編集]

  • デモステネス弁論集2木曽明子訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書G062〉、2010年1月。ISBN 978-4-87698-184-7http://www.kyoto-up.or.jp/book.php?id=1646&lang=jp 
  • プルタルコスプルターク英雄伝』 全12冊組、河野与一訳、岩波書店岩波文庫〉、1952年-1956年。ISBN 4-00-200235-7http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/32/8/321161+.html#SERIES 

外部リンク[編集]