Wikipedia:井戸端/subj/定義文の体言止め

定義文の体言止め[編集]

定義文を体言止めにするおかしな現象が非常に目につくのですが、このようなことが起きているのはなぜでしょうか? 定義文を、キチンと述語を書かずに体言止めにしましょうというようなことが推奨されているのですか? 気持ち悪いですね。なぜ「~は××である。」と書けないのでしょうか?--PeachLover- ももがすき。 2007年8月10日 (金) 14:36 (UTC)[返信]

どうも「冒頭定義は簡潔に」という部分が一人歩きして、単に短く書ければ(=文字数さえ少なければ)良いと思っている人もいるみたいですね。小生は個人的に焼いたシシャモの頭と尾を取り除いて盛り付けられているみたいで落ち着かない部分ではありますが。
それらの記述では、作成時にWikipedia:素晴らしい記事を書くには#冒頭の段落は明確で簡潔に辺りをやや誤解しているのかもしれません。文法上であからさまな誤りもなく意味が通れば別に構わないとは思いますが、冒頭文は概要やその他の節に橋渡しをするための食前酒みたいなものなので、多過ぎても駄目だし、変に自己主張(文章の癖が強いなど)されても困るという面もあるかも。やはり冒頭部分は洗練された簡潔な文章を心掛けたい…と思っているけど、小生自身もどーもうまくいきません(自爆)。気になったら修飾と過剰な説明の記述は概要の節に分離して、コンパクトにまとめると美しいかも?とか個人的に思っています。--夜飛/ 2007年8月10日 (金) 15:03 (UTC)[返信]
体言止めしたから述語がないということはいえません。というか述語と体言止は関係ありません。といっておきます。さて、「~は××である。」という書き方が推奨されているのでしょうか。百科辞典的であればなんら問題はないと思いますがいかがでしょうか。ところで、「気持ち悪い」という個人の主観で井戸端に苦言を呈するのはなんか間違っているような気がしてなりません。--あなん 2007年8月10日 (金) 15:16 (UTC)[返信]
感覚の問題だけではなく、PeachLoverさんが指摘する体言止めではない記述のほうが、他の部分の文章の記述との整合性を考えても、内容の適切さからみて妥当だと思います。ただ、「である」などを省略が不可だ、というほど、大きな意味がある話ではないように思います。新聞などの日常的に目に触れる「記事」だと省略したがる傾向が影響しているように思います。直せる際には適宜直すべきかと思いますし、特にその点で編集合戦等になるような話ではないように思いますが。--磯多申紋 2007年8月10日 (金) 15:28 (UTC)[返信]
体言止を推奨はしませんが、あったらおかしいとも思いません。それよりは、冒頭の導入文を「定義文」と呼び、「A は B である」式の文しか認めないあるいはそれに準じて近い形にしなければならない、というような風潮が当たり前であるかのように言われていることのほうが違和感を禁じ得ません。既に引用されている「すばらしい記事を書くには」に統合されてしまった元ネタであるwikipedia:コンテクストを確立するが示唆している内容は、記事の主題に対する導入として、主題を含むさらに広い文脈や主題の簡単な説明をすることによって、記事の主題が置かれているコンテクストを明らかにするように求めています。記事の主題になんらかの定義がある場合にそれを記述することは、コンテクストを確立するいい考えのひとつである、ということが示唆されているだけであって、記事冒頭が定義文であるべきだと言われているわけではないと考えます。記事の主題に関する定義が含まれない冒頭文はありえますし、認められるべきではないですか。--Wailerleaf 2007年8月10日 (金) 15:37 (UTC)[返信]
段落末尾が体言止めになっていると違和感がありますが、そうでなければ使用を問題視するほどのことではないように思います。特に末尾が似たような表現の文が続くと流れが悪いので、その回避を目的に用いるのは一理あるかと。--こまくさ 2007年8月10日 (金) 16:04 (UTC)[返信]
好みの問題ではないでしょうか。どちらでもあまり気にしない人もいれば、どちらかでないと気になるといった方もいると思います。個人的には「である」がついていないためか、定義なしと即時削除に出される記事を見つけるとなんだかなと思います。明仁は、・・・(中略)・・・今上天皇。といった定義文に「である」がついてもつかなくても、文章を理解することはできますし。--Tiyoringo 2007年8月10日 (金) 15:59 (UTC)[返信]
こんなところに議論があるとは思いませんでした。いささかいまさらながらのコメントですが、私としては「〜である」で終わるほうがキモチワルイです。おおむねの日本語の百科事典は「〜をいう」などの場合以外、「〜である」のときは「〜。」で体言止めするのがほぼ慣習であるように思っていました。実際手近の平凡社や小学館をみて、やはりそのように読み取れるのですが、そうでもないのでしょうか。--Kotoito 2008年2月11日 (月) 08:19 (UTC)[返信]
今日ちょこっと図書館で眺めた百科事典では、(例文は天文台からとってますが)
天文台 天文学の研究を行なうための施設。」
というふうになっているのに対して、ウィキペディアでは
天文台は、天文学の研究を行なうための施設。」
というふうになっていて、わずかな違いのようですが私には後者は気持ちわるく感じます。--Kestrel 2008年3月23日 (日) 13:04 (UTC)[返信]
どちらかでなければならない理由があることについては議論を経て結論を出すことを試みる価値があるわけですが、どちらでも良いことについて議論をしてもどうせ結論は出ませんし、あまり意味がないように思う。「必ず『~である』とすべきである」なんていう結論を出してまたひとつ新たなルールを作ろうということならば、猛反対させてもらおうと思う。どっちでもいいじゃん、説明としてクォリティが下がるとかってことじゃないんだし。
ひとつ付け加えておくと、冒頭部に「A=B」形式の一文がないというだけの理由で「定義なし」とか言って即時削除を貼り付けるやつとかにはたびたび殺意を覚えているということを書いておきたい。定義ってのは、何について説明をする項目なのかの宣言なんかなわけで、それにはいろいろな様式があるんだ。定義文がない=定義なし、みたいな短絡思考をする程度のひとは百科事典作りという趣味に向いてないよ。--Nekosuki600 2008年3月23日 (日) 13:23 (UTC)[返信]