S行列

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S行列(Sぎょうれつ)または散乱行列(さんらんぎょうれつ)とは、散乱過程の始状態と終状態に関係する行列である。量子力学散乱理論場の量子論マイクロ波工学などで用いられる。

物理学において 散乱演算子 とは、ヒルベルト空間上の粒子の漸近的な状態をつなぐユニタリ演算子として定義される。

\hat{S}|\psi(-\infty)\rangle=|\psi(\infty)\rangle
\hat{S}^\dagger =\hat{S}^{-1}

つまり、始状態 t=-\infty \ の後に散乱過程が起こり、終状態 t=\infty \ に到達したときの、時間発展演算子 \hat{U}(-\infty,\infty)散乱演算子 である。この散乱演算子を行列表示したものが S行列 である。S行列 は任意の背景(時空)で定義し、漸近的に可解であいり、地平線を持たないこともあるが、ミンコフスキー空間の場合には単純な形を取る。この特別な場合は、ビルベルト空間はローレンツ群の既約ユニタリ表現の空間であり、S行列は時間 -∞ から 時間 ∞ の間の時間発展演算子である。S行列はエネルギー密度がゼロ(もしくは無限に粒子が離れている)である極限で定義される。ミンコフスキー空間の場の量子論が質量ギャップ英語版を持つとすると、漸近的な過去と漸近的な未来での状態は、フォック空間により記述されることを示すことができる。

歴史[編集]

S-行列は、ジョン・ホィーラー(John Archibald Wheeler)により、1937年の論文「On the Mathematical Description of Light Nuclei by the Method of Resonating Group Structure」で、最初に導入された.[1]この論文でホィーラーは、「散乱行列(scattering matrix)」として導入した.--- この行列はユニタリ行列であり、係数は標準的な形の解を持つ(積分方程式の)任意の粒子の解への漸近的な振る舞いと繋がっている.[2]

1940年ワーナー・ハイゼンベルクは、これとは独立に、S-行列の考え方を開発した.当時、場の量子論で問題なっていた発散問題のため、ハイゼンベルグは理論を考案するとき未来から影響を受けないように理論の本質的な姿を考案することに動機があった.そのようにする際に、彼はユニタリな「特徴的な」S-行列を導入した.[2]

第二次世界大戦の後、少なくともヨーロッパでは、彼の仕事とS-行列アプローチへの執着は、10年もしくはそれ以上にわたり、ハドロンよりも小さな世界の物理の研究と代わるべきアプローチの発展に遅れが生じたかもしれない.

設定・定義[編集]

散乱過程を始状態から終状態への転移としてとらえる散乱理論では、その転移確率を時間依存シュレディンガー方程式を用いて求める(時間発展についてはシュレディンガー描像から相互作用描像に書き換えてから計算することもある)。この方法は量子力学の考え方に沿った方法であり、非弾性散乱なども扱えるため一般性がある。

  • 衝突前の始状態の時刻としては、事実上無限の過去の時刻t'=-\inftyをとることができる。
  • t'=-\inftyには、2個の入射粒子は十分遠くに離れていて、その間に相互作用はないと考えられる。
  • ただし粒子間の相互作用は、粒子間距離rの逆数1/rよりもはやく消えるものとする(したがって粒子間にクーロン力が作用する場合には、以下の理論はそのままでは適用できない)。この条件をみたす限り、t'=-\inftyにおける状態として、自由ハミルトニアン\hat{H_0}固有状態を選ぶことができる。すなわちt'=-\inftyにおいて系の状態ベクトル|\psi_I(t'=-\infty)を以下のように設定しておく。
|\psi_I(t'=-\infty)\rangle=|\Phi_i\rangle
\hat{H_o} |\Phi_i\rangle=E_i |\Phi_i\rangle
\langle\Phi_i|\Phi_j\rangle=\delta_{i,j}

このとき状態の時間変化は時間発展演算子を用いて以下のように表せる。

|\psi_I(t)\rangle=\hat{U}(t,-\infty)|\psi_I(-\infty)\rangle=\hat{U}(t,-\infty)|\Phi_i\rangle

この表式は、はじめ時刻t'=-\inftyにおいて状態|\Phi_i\rangleにあった系が、時刻tにおいては相互作用の影響によって状態|\psi_I(t)\rangleに変わっていることを表すものである。

2粒子の衝突が終わり、それらの粒子がたがいに遠くに離れた時刻をt=+\inftyとすると、その状態は

|\psi_I(t'=+\infty)\rangle=\hat{U}(+\infty,-\infty ) | \Phi_i \rangle

で与えられる。この式によって形成された状態ベクトル|\psi_I(t'=+\infty)\rangleを、\hat{H_0}の固有ベクトルの完全系 | \Phi_i \rangle で展開し、その展開係数をS_{j,i}と書くと、

\langle \Phi_f|\psi_I(+\infty)\rangle = \langle \Phi_f|\hat{U}(+\infty,-\infty )| \Phi_i \rangle = \sum_j \langle \Phi_f| \Phi_i \rangle S_{j,i} = \sum_j \delta_{f,j}S_{j,i}=S_{f,i}

である。すなわち

S_{f,i} = \langle \Phi_f|\hat{U}(+\infty,-\infty )| \Phi_i \rangle

は、時刻t'=-\infty\hat{H_0}の固有状態 | \Phi_i \rangle にあった系が、相互作用\hat{V}_Iによって、時刻時刻t'=+\inftyにおいて\hat{H_0}の固有状態 | \Phi_f \rangle に転移する確率振幅を与える。このS_{f,i}S行列と呼び、\hat{S}=\hat{U}(+\infty,-\infty )S演算子と呼ぶ。

散乱現象に関するすべての知識はS行列によって記述される。つまり、S行列が求められれば散乱問題は解けたことになる。S行列が求まれば、その絶対値の2乗をとることにより、始状態\psi_i\rangleから終状態\psi_f\rangleへの転移確率W_{f,i}が求まる。

W_{f,i}=|S_{f,i}|^2

これより散乱断面積が計算できる。したがって、散乱現象を状態の転移として考える立場において、S行列はその中心的な役割をになう重要な物理量となる。

T行列・リアクタンス行列[編集]

散乱問題を解くときにS行列の代わりに

\hat{S}=\hat{1}+2i\hat{T}

で定義されるT行列を使うこともある。T行列は散乱振幅に直結していて便利である。

さらにケイリー変換

\hat{S}=\frac{1+i\hat{R}}{1-i\hat{R}}

によってエルミート演算子\hat{R}を導入することがあるが、これをR行列またはリアクタンス行列という。

脚注[編集]

  1. ^ John Archibald Wheeler, 'On the Mathematical Description of Light Nuclei by the Method. of Resonating Group Structure' Phys. Rev. 52, 1107 - 1122 (1937)
  2. ^ a b Jagdish Mehra, Helmut Rechenberg, The Historical Development of Quantum Theory (Pages 990 and 1031) Springer, 2001 ISBN 0-387-95086-9, ISBN 978-0-387-95086-0

参考文献[編集]

関連項目[編集]