N線

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N線(エヌ線、英語: N rays)は、1903年に、フランスの物理学者ルネ・ブロンロProsper-Rene Blondlot)が「発見した」とする「新種の放射線」のこと。 自らが在職する「ナンシー大学」にちなみ、「N線」と命名した。

しかし、「追試(再現実験)の失敗」により、その存在は否定され、結局は、ブロンロらによる「思い込み」による錯誤であったことが判明。現在では、科学史上の「スキャンダル」として記憶されている。

「N線発見」の報を受けた当時は、他の多くの科学者によってもN線は「観察」され、その存在が信じられた。

ところが、ほどなく「追試(再現実験)の失敗」も報告され、この「発見」に疑問を抱いた米国のロバート・ウッドが、実際に、ナンシー大学のブロンロの研究室を訪問、「観察」の錯誤を暴き、その顛末を科学誌に公開したことで、「N線(N線ブーム)」は、短命のうちに、その終焉を迎えることとなった。

今日では、科学者・実験者・観察者の持つ先入観、各種のバイアス(Experimenter's biasなど)への警鐘・「教訓話」として語られるほか、およそ半世紀後に起きた「ポリウォーター事件」と並び、病的科学の代表例として挙げられる。

科学史的な背景[編集]

「N線発見(1903年)」騒動が起きた時代は、わずか数年の間に、物理学の歴史上、極めて重要な発見が相次いでなされた時代であり、当時の雰囲気として、「さらに『新しい放射線』が発見されても、おかしくない」、「『新しい放射線の発見』によって、『ノーベル賞級の業績』があげられる」といった「時代の空気」、ある種の「誘惑」の存在が指摘される。[1] 

1895年に、後に「第1回(1901年)のノーベル物理学賞」が授与されることになる、ドイツの物理学者レントゲンが、X線を発見した。 これを発端に、翌1896年フランスアンリ・ベクレルが、ウラン化合物から新種の放射線が出ていることを発見。 キュリー夫妻が放射能の研究を発展させ、1898年、ウランよりもはるかに強い放射能をもつラジウムを発見した(1903年には、ベクレルとキュリー夫妻がノーベル物理学賞を受賞)。 さらに、1899年ラザフォード後に、キャベンディッシュ研究所所長となる)が、放射線が透過性によって二種類(アルファ線とベータ線)に分けられることを明らかにした。 さらに、翌1900年、フランスのポール・ヴィラールが、ガンマ線を発見した。

以下で述べられる「N線狂騒曲」は、この様に古典物理学から現代物理学への過渡期に起きた出来事であり、「従来の物理学の常識」を破壊しかねないような勢いで、次々に、新発見が報告された熱気に満ちた時代の出来事であった。

「発見」と、反響[編集]

1895年(19世紀末)のレントゲンによる、X線の発見は、物理学の歴史にとって分水嶺となる出来事ではあったが、当時は、X線の正体、その本性については、まだ解明がなされておらず、 ブロンロは、X線の性質の解明に取り組む、この時代の科学者のひとりであった。

ブロンロは、あらたな放射線「N 線」が、X線とは別に放電管から出ていることを「発見」してしまった。この現象は初め肉眼で観測されたが、N線が作用した場合と、しない場合の火花の写真を比較し、両者の明るさの違いから、「N線の存在」を主張した。

1903年ブロンロによる「N線の発見」が伝えられると、フランスを中心に、「存在しないはずのN線」を、「自分も観測した」と名乗り出る科学者が続出、「N線の発見」の報から、わずか数年で、100人を超える科学者による300程の論文が発表された。

「N線発見」の報を受け、オーギュスタン・シャルパンティエ英語版アルセーヌ・ダルソンヴァル英語版などの追試でも確認され、加えて、物理学者のギュスターヴ・ル・ボンP・オドレー、さらには骨相学者のカール・フータードイツ語版に至るまでわれこそがN線の発見者であると申し立てたため、フランス科学アカデミーが優先権を裁定する事態となった。

当初、放電管を線源として発見されたはずのN線は、その後、ガス・バーナーや、加熱した金属からも放射されるのみならず、太陽や植物(花や葉など)までもがN線を出すとの発表が行われ、加えて、「存在しないはずのN線」の諸性質(透過性、屈折率、スペクトルなど)までもが、詳しく調べられるようになった。 1904年、ブロンロと同じナンシー大学で、医学部教授を務める、生理学者のシャルパンティエ(Augustin Charpentier)が、ウサギカエルから放射線が出ていることを「発見」したとし、 N線が人間の視覚・嗅覚・味覚などを強化する働きがあるとする(その後、N線とはやや異なるとして「生理学線」と呼んだ)研究を行うなど、「存在しないN線」の「実在」が確立されたことが「前提」となり、その先の性質や物質との相互作用といった応用研究が精力的に進められた。[2] [1]  

追試の失敗、再現性への疑念[編集]

一方で、N線の検出が出来ない、との実験結果も報告されつつあった。

フランス国内で大きな関心を呼んだN線は、国際的にも注目を集め、多くの物理学者がこの「発見」の追試(再現実験)を試みた。フランス国内では多くの追試に成功していたものの、フランス以外のドイツイギリスでは、著名な物理学者をもってしても、追試(再現実験)に成功できない事態が起きた。英国のケルビンや、同じく英国のクルックス(この人物は、著名な物理学者であると同時に、「心霊研究」にも傾倒した人物。)、ドイツのオットー・ルンマー英語版ハインリヒ・ルーベンス英語版もN線の実在を証明できなかった。

こうした「追試(再現実験)の失敗」の報告、再現性への疑問などの批判的見解が、次第に学術誌に登場し始める。そのひとつのが以下の、『ネイチャー』(1904年3月24日号)の記事である。

「ブロンローの数多くの論文に記載されている方法と装置に従って、ここ数ヶ月間念入りにブロンローのn線実験を繰り返し試みた。……しかし、さまざまな条件下で何回実験をやり直しても、スクリーンの明るさの変化が、n線の存在によるものであることを証明することはどうしてもできなかった。」

原典:C.C. Schenck, "Blondlot's n-Rays" Nature 24 March 1904 出所:『科学と妄想 ― N線とポリウォーター ―』 小山慶太 早稻田人文自然科學研究 28号 1985年10月


やがて、ブロンロが発見したと称する「N線」に引導を渡すことになる人物が登場する。米国・ジョンズ・ホプキンス大学教授のロバート・ウッドである(当初、カトリックの聖職者になるための勉強をしていたが、その後、「自然科学」の道に進んだ。専門は光学)。

この、ロバート・ウッドRobert W. Wood)も、いくら実験を繰り返しても「N線」を見ることができなかった一人であった。そんなウッドは、意を決し、1904年夏、ナンシー大学のブロンロの実験室を訪ね、そこで「本家本元ブロンロの行う『N線実験』」を、この目で見せてもらうことにした。

ブロンロの研究室への訪問を終えたウッドは、その顛末記を「ネイチャー」に投稿(1904年9月29日号に掲載)。「N線騒動」は終焉を迎えることとなった。 ウッドは、ブロンロの研究室を訪問するに至った経緯について、以下の様に記している。

「実験に習熟した多くの物理学者が N線の存在を示す何の証拠も得られない一方、N線の注目に値する性質を報告する論文が次々と発表されている状況の中で、私は、このきわめて不思議な放射線が現われるのに必要な特殊な条件が存在するように思える研究室のひとつを訪ねてみようという気になった。」

原典:『ネイチャー』 1904年9月29日号 http://www.nature.com/nature/journal/v70/n1822/abs/070530a0.html

出所:『科学と妄想 ― N線とポリウォーター ―』 小山慶太 早稻田人文自然科學研究 28号 1985年10月

ここで、ウッドは、いくつかの知略(たくらみ)を講じ、ブロンロの「N線実験」の矛盾を衝こうと試みた。ひとつを挙げると、ブロンロが、実験室を薄暗くして実験・観察を行っていたことを逆手に取り、ブロンロらに気付かれないように、「『アルミニウムのプリズム』を、こっそりと、取り去ってしまう」という手段であった(当時、「N線」にはアルミニウムを透過する性質があると、されていた)。 当然のことながら、「プリズム」が無ければ、N線がスペクトルに分かれるはずはない。にもかかわらず、ウッドによって「プリズム」が、こっそり隠されたのも知らずに、いつもの様に実験を続けたブロンロらは、これまでと同様「『スペクトル線』を見ていた」という。 こうした顛末記が公表されたことで、「ブロンロの研究(N線の観察)」が、ある種の「幻想」を観ていたに過ぎなかったことが示された。

ブロンロの実験を見終わったロバート・ウッドは、その時の気持ちを次のように吐露している。

「実を言うと、私はかなり憂うつな気分で研究室を後にした。それは、納得の行く実験をひとつも見ることができなかっただけでなく、火花や燐光スクリーンの明るさの変化(これだけがN線の存在を示す唯一の証拠であるが)はすべて、純然たる想像の産物にすぎないと確信せざるを得なかったからである。」

原典:『ネイチャー』(1904年9月29日号) 出所:『科学と妄想 ― N線とポリウォーター ―』 小山慶太 早稻田人文自然科學研究 28号 1985年10月

ウッドは、訪問先(N線の「発見者」を称するルネ・ブロンロ)の研究室への名指し(名前を挙げての個人攻撃)を避ける配慮をしつつ、N線の証拠として提示されるものが、「純然たる想像の産物(purely imaginary)」であったと指摘し、「N線騒動」は終止符を打たれることとなった。

しかし、当のブロンロは、問題が指摘された後もN線の存在を信じ、その存在を撤回せず、しばらくは教授職に留まったものの、その後、定年を待たずにナンシー大学を退職(61歳)、以後20年にわたり隠遁生活を送り、81歳で生誕地ナンシーでその生涯を終えている。    

騒動の背景と、検証[編集]

「N線騒動」が一段落すると、この騒動の原因について多角的な検討が行われた。物理学的要因はもちろん、観察者の視覚的要素など生理学的、心理学的要因の指摘、「愛国心」という動機の存在、さらには「賞金の分け前」といった問題まで、N線狂騒曲はその原因分析においても大変な賑やかさを示したという。[1]

原因として、「N線の『存在』に対する期待感」や「暗示」といった観察者・実験者の心理的バイアスの存在以外に、ブロンロの生きたフランスが置かれていた時代状況・社会的文脈から自然科学者とて自由ではあり得ず、「時代に流される科学者の姿」も浮き彫りとなる。

当時、フランスを席巻していた愛国心、特にドイツへの対抗心がN線の"発見"を生んだ側面も否定できない。普仏戦争に敗れた上に、N線の"発見"に先立つ1895年にドイツの物理学者レントゲンX線を発見したことが(ウッドによる暴露の後でも)フランス国内でのN線の支持につながったという指摘もある[3]。科学アカデミーがル・コント賞を(前年にノーベル物理学賞を受賞したピエール・キュリーを差し置いて)ブロンロに授賞した際にも、賞の選考にあたったアンリ・ポワンカレの強い後押しがあったとも言われている。

この「愛国心」の影響については、「N線発見」から、およそ70年を経過した1970年代後半に、Josef Bolfa教授(鉱物学・結晶学の教授で、大学の歴史にも関心を寄せる人物)が述べた、以下の指摘を、米国・ヴァンダービルト大学Vanderbilt University)のラーゲマン(Robert T. Lagemann) が『アメリカン・ジャーナル・オブ・フィジックス(American Journal of Physics)』に載せている。[2]

「当時、他国において、自分たちと同じ分野の研究者達によって、陰極線、X線、カナル線の発見がなされたことを意識していたブロンロをはじめナンシー大学の教授達は、愛国心・愛郷心から、フランスに名誉をもたらそうと、確たるエビデンスを欠いた、観察実験を遂行してしまったのではないか。」

New light on old rays: N rays Robert T. Lagemann American Journal of Physics 45 (3): 281-284 (March 1977)


「発見者」ブロンロ[編集]

では、N線の「発見」を主張したブロンロとは、一体どの様な人物であったのだろうか。

ブロンロは1849年、フランス北東部のナンシーに産まれた。父は、1572年に創立されたナンシー大学の医学部(毒物学)教授であった。(ナンシー大学は、現在5万人ほどの学生が学ぶフランスでも規模の大きな大学である。)

1881年ソルボンヌから物理学の学位を取得したブロンロは、翌年、ナンシー大学教授となる。1894年には高名なヘルムホルツの後釜として、フランス科学アカデミーfr:Académie des sciences (France))の通信会員に選出される(わずかな数の科学者にしか許されない名誉ある立場に選ばれる)など、「胡散臭い人物」などではなく、当時は、まぎれもない「名声を得た一流の実験物理学者」であり (半世紀後に起きた「ポリウォーター事件」のソ連の科学者・ボリス・デリャーギン(1902~1994年没)も、当時、「一流とされる科学者」であった、という) [1] 、家系・学歴・社会的立場など、「地位」や「経歴」自体は、全く申し分のない人物であった。

科学と妄想[編集]

科学史をひも解くと、偉大な足跡を残した科学者たちの中に、「変わったパーソナリティの持ち主」とでも言うべき人物が少なからず存在することに気づかされる。 (一例を挙げると、29人ものノーベル賞受賞者を輩出する「ケンブリッジ・キャヴェンディッシュ研究所[4]  にその名を残す、物理学者・化学者ヘンリー・キャヴェンディッシュ(Henry Cavendish)は、極度に人付き合いを苦手とし、その生涯を、出来る限り「人と遭わない」ように過ごした、偉大な(引き籠もり)科学者であった。)

天文家・パーシヴァル・ローウェルの「火星の運河(Martian canal)」などの例を示すまでもなく、自然科学もまた、人文学・社会科学と同様に、「人間の営み」である以上、当人の置かれた境遇・パーソナリティ、当時の社会状況、実験者・観察者のバイアスなど、様々な要因がその研究に影響を与えることがある。

さらに、「思い違い」や、「単なる実験の失敗」等では片付けられない「何か」、いわば「人間の妄想」とでもいうべぎ「思い込み」などといったものが、時として、自然科学の世界に混入し、それらが大きな「役割」を果たすことがある(「瓢箪から駒」とでも言うべき、「思い込み」が大きな成果に繋がる場合もある」)。 天文学者・ヨハネス・ケプラー、物理学者・アイザック・ニュートン(錬金術という「オカルト研究」に傾倒した)など、「科学史上の偉大な人物」でさえ、「思い込み」に衝き動かされていた側面が確認される。[1]

但し、上述の例は、自然科学の黎明期、あるいは、観測技術が未発達な時代の出来事であり、現代から見れば、いずれもが、ケプラーなりニュートンなりローウェルなりの「特定個人の頭の中の『妄想』」で、おおむね「『自己完結』していた事象」であるとも言えよう。

自然科学では、他の要因が実験結果に影響していないかをチェックするのは 当然であるはずだが、にもかかわらず、実験物理学が科学として確立していたと言える時代において、実験条件、実験結果に対し十分な検討・考察・検証を行おうとせず、注意を欠いた実験を遂行し、「N線を見た」とする科学者が、ブロンロだけにとどまらず、少なからぬ科学者たちが「N線の存在」を前提としてしまった、という事実は重い。

「N線の発見」や、20世紀後半に起きた「ポリウォーター事件」などは、自然科学が客観性と厳密性を備えた学問として確立したはずの「時代」と、「分野」において、一時的とはいえ、少なからぬ研究者を巻き込んで展開された、いわば「集団的な妄想」による事象であるとして、「それだけに話は複雑であり、また興味深かいとも言えるわけだが」と、一個人の錯誤には帰せない「問題の根深さ」を、科学史上のこうした出来事にも詳しい物理学者の小山慶太早大教授は、指摘している。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e 『科学と妄想 ― N線とポリウォーター ―』 小山慶太 早稻田人文自然科學研究 28号 1985年10月
  2. ^ a b New light on old rays: N rays Robert T. Lagemann American Journal of Physics 45 (3): 281-284 (March 1977)
  3. ^ ウェード『背信の科学者たち』
  4. ^ 『若き物理学徒たちのケンブリッジ ― ノーベル賞29人 奇跡の研究所の物語 ―』 小山慶太 新潮文庫 2013年  『ケンブリッジの天才科学者たち』 (新潮選書) 1995年 の改題。

外部リンク[編集]

参考文献[編集]

  • New light on old rays: N rays Robert T. Lagemann American Journal of Physics 45 (3): 281-284 (March 1977)
  • 『科学と妄想 ― N線とポリウォーター ―』 小山慶太 早稻田人文自然科學研究 28号 (1985年10月)