N線

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N線(エヌ線、英語: N rays)は、 フランスの物理学者ルネ・ブロンロ1903年に発見したとされる新種の放射線。ブロンロが在職するナンシー大学にちなんでN線と命名されたが、追試(再現実験)の失敗により存在が否定された。N線の「発見」自体がブロンロらの思い込みによる錯誤であったと考えられるようになり、科学史上のスキャンダルとして名前を残した。

今日では、科学者・実験者・観察者の持つ先入観、各種のバイアス(Experimenter's biasなど)への警鐘・教訓話として語られるほか、およそ半世紀後に起きた「ポリウォーター事件」と並び、病的科学の代表例にも挙げられている。

科学史的な背景[編集]

1895年ドイツの物理学者レントゲンX線を発見した。 翌1896年にはフランスベクレルが、ウラン化合物から新種の放射線が出ていることを発見した。キュリー夫妻は放射能の研究を発展させ、1898年にはウランよりもはるかに強い放射能をもつラジウムを発見している。これらの業績により、1901年には第1回のノーベル物理学賞をレントゲンが受賞し、1903年にはベクレルとキュリー夫妻がノーベル物理学賞を受賞した。

1899年にはイギリスラザフォードが、透過性によって放射線が2種類(α線β線)に分けられることを明らかにした。翌1900年、フランスのヴィラールガンマ線を発見した。

このようにN線の発見が報告された1903年頃は、物理学の歴史上重要な発見が相次いでなされた時期であった。当時の物理学者の間には、「さらに新しい放射線が発見されてもおかしくない」、「新しい放射線の発見によってノーベル賞級の大きな業績が挙げられる」という空気や誘惑が存在したとも指摘されている。[1] 

N線発見と反響[編集]

1895年(19世紀末)のレントゲンによるX線の発見は、物理学の歴史にとって分水嶺となる出来事ではあったが、当時はX線の正体については解明されていなかった。

X線の性質の解明に取り組んでいた科学者の一人であるブロンロは、放電管からX線とは別の新しい放射線が出ていることに「気が付いた」。ブロンロはその新しい放射線を「N線」と命名した。彼は当初この現象を肉眼で観測していたが、やがてN線が作用した場合としない場合の火花の写真を比較するという方法を取るようになり、両者の写真の明るさの違いを根拠に「N線が存在する」と主張した。

1903年、ブロンロがN線の発見を公表すると、フランスを中心に「自分もN線を観測した」と名乗り出る科学者が続出した。オーギュスタン・シャルパンティエ英語版アルセーヌ・ダルソンヴァル英語版などの追試でも確認され、加えて、物理学者のギュスターヴ・ル・ボンP・オドレー、さらには骨相学者のカール・フータードイツ語版に至るまでわれこそがN線の発見者であると申し立てたため、フランス科学アカデミーが優先権を裁定する事態となった。N線の発見からわずか数年で、100人を超える科学者により、N線に関する論文がおよそ300本も発表された。

当初、放電管を線源として「発見」されたN線は、その後、ガスバーナーや加熱した金属からも放射されるのみならず、太陽や植物(花や葉など)までもがN線を出すとの発表が行われ、N線の諸性質(透過性、屈折率、スペクトルなど)が詳しく調べられるようになった。

N線の存在を前提とした応用研究(性質や物質との相互作用など)も精力的に進められた。例えば1904年、ブロンロと同じナンシー大学で医学部教授を務めていた生理学者のシャルパンティエは、ウサギカエルから放射線が出ていることを「発見」したとし、N線には人間の視覚・嗅覚・味覚などを強化する働きがあるとする(その後、N線とはやや異なるとして「生理学線」と呼んだ)研究を行った。[2] [1]

追試の失敗と再現性への疑念[編集]

一方でN線が検出できないとする実験結果も報告されつつあった。

フランス国内で大きな関心を呼んだN線は、国際的にも注目を集め、多くの物理学者がこの「発見」の追試(再現実験)を試みた。フランス国内では多くの追試に成功していたものの、フランス国外では追試(再現実験)に成功できなかった。追試に失敗したフランス国外の研究者には、英国のケルビンや、同じく英国のクルックス、ドイツのオットー・ルンマー英語版ハインリヒ・ルーベンス英語版などがいる。

こうした追試失敗の報告、再現性への疑問などの批判的見解が、次第に学術誌に登場し始める。そのひとつのが以下の、ネイチャー誌(1904年3月24日号)の記事である。

「ブロンローの数多くの論文に記載されている方法と装置に従って、ここ数ヶ月間念入りにブロンローのn線実験を繰り返し試みた。……しかし、さまざまな条件下で何回実験をやり直しても、スクリーンの明るさの変化が、n線の存在によるものであることを証明することはどうしてもできなかった。」

原典:C.C. Schenck, "Blondlot's n-Rays" Nature 24 March 1904、日本語訳出典:『科学と妄想 ― N線とポリウォーター ―』 小山慶太 早稻田人文自然科學研究 28号、1985年10月。

追試に失敗した研究者の一人、米国・ジョンズ・ホプキンス大学教授のロバート・ウッドは、1904年の夏にナンシー大学のブロンロの実験室を訪れ、第一発見者であるブロンロ自身の行う実験を見せてもらうことにした。ウッドは訪問の動機について、後にネイチャー誌に発表した顛末記で、以下のように述べている。

「実験に習熟した多くの物理学者が N線の存在を示す何の証拠も得られない一方、N線の注目に値する性質を報告する論文が次々と発表されている状況の中で、私は、このきわめて不思議な放射線が現われるのに必要な特殊な条件が存在するように思える研究室のひとつを訪ねてみようという気になった。」

原典:『ネイチャー』 1904年9月29日号(http://www.nature.com/nature/journal/v70/n1822/abs/070530a0.html)、

日本語訳出典:『科学と妄想 ― N線とポリウォーター ―』 小山慶太 早稻田人文自然科學研究 28号、1985年10月。

ウッドはいくつかの計を案じ、ブロンロの「N線実験」の矛盾を衝こうと試みた。一例を挙げると、ウッドはブロンロが実験室を薄暗くして実験・観察を行っていたことを逆手に取り、ブロンロらに気付かれないように、アルミニウムのプリズムを実験装置から密かに取り去ってしまった。当時の知見では、N線にはアルミニウムを透過する性質があるとされており、アルミニウムのプリズムがなければN線がスペクトルに分かれるはずはない。しかしプリズムが取り外されたことを知らないブロンロらは、異変に気が付かず、見えるはずのないスペクトルを「観察していた」。

ブロンロの実験を見終わったロバート・ウッドは、その時の気持ちを次のように記している。

「実を言うと、私はかなり憂うつな気分で研究室を後にした。それは、納得の行く実験をひとつも見ることができなかっただけでなく、火花や燐光スクリーンの明るさの変化(これだけがN線の存在を示す唯一の証拠であるが)はすべて、純然たる想像の産物にすぎないと確信せざるを得なかったからである。」

原典:『ネイチャー』(1904年9月29日号)日本語訳出典:『科学と妄想 ― N線とポリウォーター ―』 小山慶太 早稻田人文自然科學研究 28号、1985年10月。

ウッドは、訪問先(ブロンロの研究室)への名指しの攻撃を避ける配慮をしつつ、N線の証拠として提示されたものは「純然たる想像の産物(purely imaginary)」であったと指摘した。これによりN線騒動は終止符を打たれることとなった。

ブロンロは、問題が指摘された後もN線の存在を信じ、その存在を撤回しなかった。しばらくは教授職に留まったものの、定年を待たずに61歳でナンシー大学を退職し、20年にわたり隠遁生活を送り、81歳でナンシーで没した。

騒動の背景と検証[編集]

「N線騒動」が一段落すると、この騒動の原因について多角的な検討が行われた。物理学的要因はもちろん、観察者の視覚的要素など生理学的、心理学的要因の指摘、「愛国心」という動機の存在、さらには「賞金の分け前」といった問題まで、N線狂騒曲はその原因分析においても大変な賑やかさを示したという。[1]

原因として、「N線の『存在』に対する期待感」や「暗示」といった観察者・実験者の心理的バイアスの存在以外に、ブロンロの生きたフランスが置かれていた時代状況・社会的文脈から自然科学者とて自由ではあり得ず、「時代に流される科学者の姿」も浮き彫りとなる。

当時、フランスを席巻していた愛国心、特にドイツへの対抗心がN線の"発見"を生んだ側面も否定できない。普仏戦争に敗れた上に、N線の"発見"に先立つ1895年にドイツの物理学者レントゲンX線を発見したことが(ウッドによる暴露の後でも)フランス国内でのN線の支持につながったという指摘もある[3]。科学アカデミーがル・コント賞を(前年にノーベル物理学賞を受賞したピエール・キュリーを差し置いて)ブロンロに授賞した際にも、賞の選考にあたったアンリ・ポワンカレの強い後押しがあったとも言われている。

この「愛国心」の影響については、「N線発見」から、およそ70年を経過した1970年代後半に、Josef Bolfa教授(鉱物学・結晶学の教授で、大学の歴史にも関心を寄せる人物)が述べた、以下の指摘を、米国・ヴァンダービルト大学Vanderbilt University)のラーゲマン(Robert T. Lagemann) が『アメリカン・ジャーナル・オブ・フィジックス(American Journal of Physics)』に載せている。[2]

「当時、他国において、自分たちと同じ分野の研究者達によって、陰極線、X線、カナル線の発見がなされたことを意識していたブロンロをはじめナンシー大学の教授達は、愛国心・愛郷心から、フランスに名誉をもたらそうと、確たるエビデンスを欠いた、観察実験を遂行してしまったのではないか。」

New light on old rays: N rays Robert T. Lagemann American Journal of Physics 45 (3): 281-284 (March 1977)


「発見者」ブロンロ[編集]

ブロンロは1849年、フランス北東部のナンシーに産まれた。父は、1572年に創立されたナンシー大学の医学部(毒物学)教授であった。(ナンシー大学は、現在5万人ほどの学生が学ぶフランスでも規模の大きな大学である。)

1881年ソルボンヌから物理学の学位を取得したブロンロは、翌年、ナンシー大学教授となる。1894年には高名なヘルムホルツの後釜として、フランス科学アカデミーfr:Académie des sciences (France))の通信会員に選出される(わずかな数の科学者にしか許されない名誉ある立場に選ばれる)など、「胡散臭い人物」などではなく、当時は、まぎれもない「名声を得た一流の実験物理学者」であり (半世紀後に起きた「ポリウォーター事件」のソ連の科学者・ボリス・デリャーギン(1902~1994年没)も、当時、「一流とされる科学者」であった、という) [1] 、家系・学歴・社会的立場など、「地位」や「経歴」自体は、全く申し分のない人物であった。

科学と妄想[編集]

科学史をひも解くと、偉大な足跡を残した科学者たちの中に、「変わったパーソナリティの持ち主」とでも言うべき人物が少なからず存在することに気づかされる。 (一例を挙げると、29人ものノーベル賞受賞者を輩出する「ケンブリッジ・キャヴェンディッシュ研究所[4]  にその名を残す、物理学者・化学者ヘンリー・キャヴェンディッシュ(Henry Cavendish)は、極度に人付き合いを苦手とし、その生涯を、出来る限り「人と遭わない」ように過ごした、偉大な(引き籠もり)科学者であった。)

天文家・パーシヴァル・ローウェルの「火星の運河(Martian canal)」などの例を示すまでもなく、自然科学もまた、人文学・社会科学と同様に、「人間の営み」である以上、当人の置かれた境遇・パーソナリティ、当時の社会状況、実験者・観察者のバイアスなど、様々な要因がその研究に影響を与えることがある。

さらに、「思い違い」や、「単なる実験の失敗」等では片付けられない「何か」、いわば「人間の妄想」とでもいうべぎ「思い込み」などといったものが、時として、自然科学の世界に混入し、それらが大きな「役割」を果たすことがある(「瓢箪から駒」とでも言うべき、「思い込み」が大きな成果に繋がる場合もある」)。 天文学者・ヨハネス・ケプラー、物理学者・アイザック・ニュートン(錬金術という「オカルト研究」に傾倒した)など、「科学史上の偉大な人物」でさえ、「思い込み」に衝き動かされていた側面が確認される。[1]

但し、上述の例は、自然科学の黎明期、あるいは、観測技術が未発達な時代の出来事であり、現代から見れば、いずれもが、ケプラーなりニュートンなりローウェルなりの「特定個人の頭の中の『妄想』」で、おおむね「『自己完結』していた事象」であるとも言えよう。

自然科学では、他の要因が実験結果に影響していないかをチェックするのは 当然であるはずだが、にもかかわらず、実験物理学が科学として確立していたと言える時代において、実験条件、実験結果に対し十分な検討・考察・検証を行おうとせず、注意を欠いた実験を遂行し、「N線を見た」とする科学者が、ブロンロだけにとどまらず、少なからぬ科学者たちが「N線の存在」を前提としてしまった、という事実は重い。

「N線の発見」や、20世紀後半に起きた「ポリウォーター事件」などは、自然科学が客観性と厳密性を備えた学問として確立したはずの「時代」と、「分野」において、一時的とはいえ、少なからぬ研究者を巻き込んで展開された、いわば「集団的な妄想」による事象であるとして、「それだけに話は複雑であり、また興味深かいとも言えるわけだが」と、一個人の錯誤には帰せない「問題の根深さ」を、科学史上のこうした出来事にも詳しい物理学者の小山慶太早大教授は、指摘している。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e 『科学と妄想 ― N線とポリウォーター ―』 小山慶太 早稻田人文自然科學研究 28号、1985年10月。
  2. ^ a b New light on old rays: N rays Robert T. Lagemann American Journal of Physics 45 (3): 281-284 (March 1977)
  3. ^ ウェード『背信の科学者たち』
  4. ^ 『若き物理学徒たちのケンブリッジ ― ノーベル賞29人 奇跡の研究所の物語 ―』 小山慶太 新潮文庫 2013年  『ケンブリッジの天才科学者たち』 (新潮選書) 1995年 の改題。

外部リンク[編集]

参考文献[編集]

  • New light on old rays: N rays Robert T. Lagemann American Journal of Physics 45 (3): 281-284 (March 1977)
  • 『科学と妄想 ― N線とポリウォーター ―』 小山慶太 早稻田人文自然科學研究 28号 (1985年10月)