Mini

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Mini
サルーン
1967年モーリス・ミニ マイナー
エステート
1966年モーリス・ミニ マイナー トラベラー
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メーカー {{{メーカー}}}
親会社 {{{親会社}}}
製造国 {{{製造国}}}
製造期間 1959年-2000年
設計統括 {{{設計統括}}}
デザイナー {{{デザイナー}}}
乗車定員 4名
ボディタイプ 2ドア セダン
2ドア ステーションワゴン
2ドア ライトバン
ピックアップ
ハイブリッド
エンジン 直列4気筒OHV
モーター
最高出力/トルク {{{最高出力/トルク}}}
最高出力 {{{最高出力}}}
最大トルク {{{最大トルク}}}
変速機 4速MT / 4速AT
駆動方式 FF
サスペンション 前:ウィッシュボーン+ラバーコーン
後:トレーリングアーム+ラバーコーン
全長x全幅x全高 3051mm x 1410mm x 1346mm
全長
全幅
全高
最低地上高 {{{最低地上高}}}
ホイールベース 2036mm
車両重量 638kg
乾燥重量 {{{乾燥重量}}}
総重量 {{{総重量}}}
最大積載量 {{{最大積載量}}}
燃料タンク容量 {{{燃料タンク容量}}}
燃費 {{{燃費}}}
別名 {{{別名}}}
先代
後継 MINI (BMW)
姉妹車/OEM
車台共有車
同クラスの車 {{{同クラス}}}
-自動車のスペック表-

Mini(ミニ)は、イギリスブリティッシュ・モーター・コーポレーションが生んだ大衆車。自動車としての必要最小限を形にした設計は、登場当時、革命的とまでいわれた。

目次

[編集] 概要

長く低迷したイギリスの自動車工業界の状況を反映し、生産、販売会社の名前は幾度も変わったが、 Mini自体は2000年まで40年以上に渡り生産、販売が継続された。1990年頃には日本の企業がMiniの製造、販売権を取得する計画(その場合,国内向けに軽自動車版も予定されていた)もあったが実現せず、1994年以降はドイツBMWが、ランドローバーと同時にローバーを傘下とし、Miniにまつわる権利も手中にした。

BMWは新規に投入する同社初となるFF車をニューMiniと位置づけ、それまでの資産を生かしたビジネスをすべく、傘下となった旧ローバーの技術者による車両開発を行なった。2001年から英国のオックスフォード工場(旧ローバー社カウリー工場)で生産開始され、車名を全て大文字のMINIに変更し、販売されている。

BMW・MINIが登場したことで、初代「Mini」は、「クラシックミニ」、「BMCミニ」、「ローバーミニ」とも呼ばれる。

なおイギリスは日本と同じ左側通行でMiniも元来右ハンドル車であるが、日本に輸入されたMiniには左ハンドル車も多い。これは排気ガス規制が日本に近いカリフォルニア州に合わせた対米輸出車を並行輸入していたためである。

[編集] 歴史

オリジナルのMiniはイギリスブリティッシュ・モーター・コーポレーションの技術者であるアレック・イシゴニスの指揮するチームによって設計された。

開発は1956年初頭から新コンセプトの小型車として着手されたものであったが、同年9月スエズ動乱が中東で勃発し、石油価格が高騰したことが大きな転機となった。

石油難で大衆が3輪・4輪の粗末なバブルカー購入に走るのを憂いたBMCの経営責任者サー・レオナード・ロードは、対抗のため、開発陣に「極めて経済的な4人乗り小型車を早急に開発すること」を命じた。この際、条件として当時のBMCが生産していたエンジンを流用する(つまり、当時のBMCで小排気量クラス用エンジンだったAシリーズ4気筒エンジンを使用する)こと以外は、設計陣にあらゆる手段を用いることが許容されたのである。こうしてMiniは、現在の小型車の定番になっている横置きエンジン前輪駆動、2ボックススタイル(ハッチバックではなく、独立したトランクを持っていた)という、1950年代後半としては画期的な成り立ちの自動車として設計されることになる。

Miniは全車種で一般的な水冷4気筒エンジンを採用していた。それまでの車のパッケージとは異なり、エンジンを横置きにして、トランスミッションオートバイと同様に、エンジン下部のオイルパン内部に置き、エンジンオイルで共通潤滑する構造とした。これらの工夫によって前輪駆動が可能となった。コンパクトなパワートレイン設計によって、小さな車体にもかかわらず、必要十分な室内空間を確保することに成功している。

横置きエンジンによる前輪駆動自体は、2気筒の軽便な車両では第二次世界大戦以前から見られたが、サイズの大きな4気筒エンジンでは実用車として世界でほぼ最初であった。イシゴニスはこのレイアウトの着想を1946年頃から抱いていたというが、前輪駆動に適した「バーフィールド・ツェッパ等速ジョイント」が1950年代後半に実用化されたことが、当時イギリスでほとんど例のなかった前輪駆動を採用するブレイクスルーの決め手となった。

FF車のエンジンとトランスミッションの配置はメーカーごとにさまざまであったが、現在では、4輪駆動を主力商品とするメーカーであるアウディスバルの上級モデルに縦置きエンジンのFFが見られるのみで、ほとんどのFF車は横置きエンジンとなっている。

横置きエンジン方式自体は時代に先んじた、エレガントな技術革新だったが、Miniと同じ二階建てパワートレインの「イシゴニス・レイアウト」を採用した車種は非常に少なく、イシゴニスの手になる、Miniの拡大版ともいえるBMCのADO141617、ポストイシゴニスのADO2767以外では、フランスのプジョー204・304やプリンス自動車時代に設計が始まった日産・チェリーと、ミッドシップランボルギーニ・ミウラ程度しかなく、より広く普及して一般化したのは、イタリアで1960年代に開発され、トランスミッションをエンジンと並列に配置した、ジアコーサレイアウトであった。

全長3mほどに過ぎないコンパクトなボディは、設計者のイシゴニスが自らのスケッチでデザインするという異例の過程でスタイリングされた。だがコンセプトと内部構造を熟知した設計者自身のデザインは、機能に直結した合理性に富むもので完成度が高く、そのまま生産されることになった。組み立て時の手間を節約するために、ボディには風変わりな外板の継ぎ目が見られる。生産はバーミンガムロングブリッジ工場で行われた。

[編集] MK I 1959年-1967年

モーリス・ミニ・マイナーこの1959年製のシャシナンバー 621 AOK は、ライン生産第1号の記念車として一度も販売されることなく BMC や BL で保管され、現在はゲイドンのヘリテイジモーターセンターに収蔵されている。
モーリス・ミニ・マイナー
この1959年製のシャシナンバー 621 AOK は、ライン生産第1号の記念車として一度も販売されることなく BMC や BL で保管され、現在はゲイドンのヘリテイジモーターセンターに収蔵されている。
ピックアップ干草を満載したオースチン・ミニ ピックアップ商用車のグリルはプレス抜きの一枚もので塗装仕上げと簡素
ピックアップ
干草を満載したオースチン・ミニ ピックアップ
商用車のグリルはプレス抜きの一枚もので塗装仕上げと簡素

Miniは最初 ADO15(ADO はAustin Drawing/Design Officeを表す)というプロジェクト名で呼ばれ、最初のモデルはオースチン・セブン(しばしばSE7ENと表記される)及びモーリス・ミニ・マイナーの名でイギリス国内向けに発売された。「セブン」とは、第二次世界大戦前、大成功を収めたオースチンの大衆車にあやかったもので、「マイナー」は、「ミニ」とかけた「洒落」であるという。1962年までには北米フランスでもオースチン850、モーリス850の名前で発売された。

Miniのサスペンションスプリングには、一般的な金属ばねではなく、当時、ばねの先端素材として注目されていた、ゴムを使っている。ゴムメーカーであるダンロップの技術者、アレックス・モールトンの設計による、円錐状に成型されたゴムばねを用いたラバーコーンサスペンションである。このばねは強いプログレッシブレートを持ち、最小のストロークで最大のエネルギー吸収量を得る様に設計されている。この強いプログレッシブ・レートを持つばねや、フロントが高くリヤが路面上にあるという特異なロールセンター設定のサスペンション、量産車としては今日の基準でも驚異的に速いステアリングギアレシオや、回転慣性モーメントが小さく、ジャイロ効果の小さい10インチのタイヤなどによって、Miniのゴーカートのようなハンドリングが生まれた。

設計者イシゴニスの友人で、1959年1960年F1のコンストラクターズ・チャンピオンに輝いたクーパー・カー・カンパニーの経営者ジョン・クーパーは、当時英国内のサルーンカーレースにトライアンフで参加していたが、ライバルであるロータス車の次元の違うハンドリングに太刀打ち出来ずにいた。この時イシゴニスにMiniの試作車を見せられ、その驚異的なハンドリングに注目、何回かの実験とテスト走行の後、イシゴニスと共同で、機敏で経済的で、しかも安価な車を作ることを決意した。その成果として、1962年ADO50、「オースチン・ミニ・クーパー」と、「モーリス・ミニ・クーパー」が誕生した。

1964年にハイエンドモデルのサスペンションは、内部にオリフィスと空洞を持つゴムばねを、前後輪でパイプで連通し不凍液を満たしたハイドロラスティック(Hydro=水とErastic=ゴムの合成語)システムに変更された。この新しいサスペンションは柔らかな乗り心地で「魔法の絨毯」とも喩えられていたが、重量と生産コストが余計にかかり、またピッチングの制御が難しくセッティングの幅も狭いなど問題もあり、Mk III前期を最後に元のラバー・コーンサスペンションに戻された。

Miniは映画ミュージシャンなどを通じて、1960年代の大衆文化の中にその存在を焼き付けた。ビートルズのメンバーや、イギリス女王、エリザベス2世もMiniのオーナーだった。

ミニ・クーパーは1964年1965年1967年モンテカルロ・ラリーで総合優勝している(なお、1966年に関しては、ゴール時の成績は優勝相当であったが、補助灯のレギュレーション違反ということで失格となっている。)。

1960年代のMiniの売り上げは全モデルで好調であったが、生産メーカーにはほとんど利益をもたらさなかった。競合他社との競争に勝つために、製造原価を割り込む価格で販売することを余儀なくされたためである。

1964年モーリス・ミニ クーパーS1965年モンテカルロ・ラリー優勝車AJB 44B
1964年モーリス・ミニ クーパーS
1965年モンテカルロ・ラリー優勝車
AJB 44B
AJB 44B リア
AJB 44B リア

[編集] クーパー / クーパーS

オリジナルのモーリス・ミニ・マイナーに搭載されていた848ccのエンジンは、997ccまで排気量が増やされ、馬力も34馬力から55馬力に高められた。このエンジンにはレース向けのチューニングが施され、当時小型車には馴染みのなかったSU ツイン・キャブレターディスクブレーキが装備された。経営陣はこのモデルの生産を決め、1,000台を発注した。これは、経営陣が参加を目指していた、世界ラリー選手権 (WRC) の、当時のグループ2規定の生産義務台数をクリアするためであった。1964年、997ccのエンジンが、よりストロークの短い998ccのモデルに変更された。これ以降、1967年にクーパーモデルの生産が終了するまでに計12,274台の「クーパー」が販売された。1963年にはよりパワフルな「クーパーS」モデルが相前後して開発、生産された。

「クーパーS」は1071ccのエンジンと、より大型のディスクブレーキを特徴とし、1964年8月のモデルチェンジまでに計4,030台が生産、販売された。当初A型エンジンの排気量UPは1071ccが限界と見られていたが、ダウントン社のダニエル・リッチモンドボア・ピッチをずらして1275ccまで拡大する手法を考案、イシゴニス、クーパー、リッチモンドの歴史的な3者会談により、量産型の1275クーパーSの計画がスタートした。量産に際して、サーキット・レースのクラス分けに合致した970ccと1275ccの2つのモデルを新たに追加、970ccモデルはあまり売れず、963台が生産された後1965年に生産終了となったが、1275ccの「クーパーS」は40,000台以上が生産され、1971年に生産終了となった。

[編集] MK II 1967年 - 1969年

right

1967年から1970年までの間、イシゴニスは実験モデルとして9Xと呼ばれる Mini の代替モデルを設計していた。この車はMiniよりも高出力であったが、当時 BMC とスタンダード・トライアンフ社の合併で設立されたブリティッシュ・レイランド社の「政治力」によって、結局、生産されることはなかった。しかしこのモデルは技術的にも先進的であったため、もし現実に生産されていれば、他社に対し、1980年代まで競争力を保てたかも知れない、と多くの人々が考えている。

1967年、ボディがMk IIと呼ばれるタイプに変更された。フロントグリルはデザインし直され、リアウインドウも左右に拡大された。ドア上の水切りが廃止され、雨樋も工数を減らしたものに変わった。リアコンビランプは、大きな角型のものへと変更された。

エンジンは、998ccと1275ccの二種類が用意された。998ccモデルは55.000台以上が販売され、1969年に生産終了となった。

1275ccモデルは1969年から1970年にかけて、わずかに改良を施したMk IIIボディを採用した後、1972年1月まで販売された。クーパー社は輸出モデル向けの改造キットの開発と販売に事業を切り替え、1975年まで販売を続けた。

コストと重量がネックとなり、ハイドロラスティックシステムは廃止された。

この頃、Miniは1969年の映画 The Italian Job(『ミニミニ大作戦』)にも出演しており、その小ささや、走りの良さをクローズアップした小気味良いカーチェイスの演出は、2003年のリメイク版には見られない美点となっている。

[編集] クラブマン&MK III 1969年 - 1977年

1275 GT
1275 GT
1983年式 クラブマン エステート
1983年式 クラブマン エステート
レザートップもそのままにクラブマンをベースとした安全実験車 SRV4(1974年)
レザートップもそのままにクラブマンをベースとした安全実験車 SRV4(1974年)
イノチェンティ90/120

設計変更に伴い、開発コードがADO20となる。9Xと12Xが前期型、99Xが後期型と区別されている。

1970年代初め、ブリティッシュ・レイランド社の所有ブランドとなっていた頃、Miniはその「顔」を変更している。フロントデザインを変更したバージョンはミニ・クラブマンと呼ばれ、現代的な角ばったルックスを誇っていた。同時に 1275 GT と呼ばれる新モデルが旧ミニ・クーパーSの後継として計画された。また、カントリーマンとトラベラーの後継としてクラブマン・エステートが発売されることとなった。しかしブリティッシュ・レイランドは旧型の1960年代デザインのMiniも引き続き生産し続けた。これは賢明な判断であった。なぜなら新型モデルはほぼあらゆる方面で酷評され、早々に消えていったからである。

1971年、ミニ・クーパーのデザインがイタリアイノチェンティ社とスペインの Authi 社にライセンスされ、それぞれイノチェンティ・ミニ・クーパー 1300 及び Authi ミニ・クーパー 1300 として生産された。

1974年、イノチェンティはMiniのプラットフォームを元にベルトーネ社が設計したハッチバックモデルであるイノチェンティ90120を導入した。ベルトーネ社はミニ・クーパーの同型車で1275ccターボエンジンを搭載したイノチェンティ・デ・トマソも開発した(後にダイハツ製エンジンに変更)。


[編集] 1978年 - 1980年

(通称MK 4)

初期の特徴でもあったセンターメーターは、この時期をもって廃止される。


[編集] 1981年 - 1984年

(通称MK 5)

通常の Mini を「Mini H/L」に名称変更。クラブマンシリーズのダッシュボードとメーター周りが流用される。

10インチホイール+フロントドラムブレーキはこの時期までとなる。

1983年、日英自動車が正規輸入元となり、いわゆるディーラー車の販売を開始する。

1980年オースチン・ミニ・メトロ(この車のエンブレムでは 'Mini' は全て小文字表記になっている)の発売が失敗に終わるとともに、Miniの生産終了が迫っているといううわさが再び持ち上がった。

1981年にはニュージーランドで、ジェフ・マーフィー監督の Goodbye Pork Pie というロードムービーにMiniが出演した。しかしこの頃には多くの国への輸出市場でMiniの人気は低下し始めていた。南アフリカオーストラリア、ニュージーランドでの生産はこの頃までに全て中止となった。ニュージーランドでは組み立てラインを当時新たに人気が出ていたホンダ・シティの生産に切り替えた。

1980年代を通じて、英国の市場では数多くのMiniのスペシャル・エディションが発売され、これによってMiniは大衆市場向けの製品からファッショナブルなアイコンへと役割を変えていった。現在 Mini が BMW の所有となっており、それに対して BMC の残りの部門がローバー・グループとしてまとめて売却されたのは、Miniが持つこのイメージのためであるとも言える。

人気が高い Mini は、一方ではレトロスタイルのモチーフとしても捉えられており、日本の自動車メーカーによって、Mini を模倣した多くの車が生み出される元となっている。


[編集] 1985年 - 1988年

(通称MK 6)

エンジンがメトロと同じ、A+(エープラス)に変更される。

フロントディスクブレーキが採用され、それに伴い、ホイール径が12インチとなる。


[編集] 1989年 - 1991年

(通称MK 7)

ブレーキマスターバックを標準装備。

1989年10月、誕生30周年を記念した「サーティー」(4MT 税別179万円)を発表。

1.0LモデルのMini1000生産終了。


[編集] 1991年 - 1992年

1991年式 復活クーパー

(通称MK 8)

メトロのエンジンを流用し、全車種1.3Lとなる。

1991年、待望の「クーパー」モデルが復活する。新しいクーパーは、1960年代のクーパーよりも性能的には若干劣るスペックで一時的に再発売された。この車種は非常に人気を博し、新しい Cooper マークを付けた Mini は、1991年終わりにはフル生産体勢に入った。

1990年10月に登場したERA社チューニングの「ERAターボ」は、大きく出張ったエアロパーツに太いタイヤが威圧感を放った限定車だった。

1991年6月、「ERAターボ」、「クーパー1.3」、カスタムや競技用ベースとしての需要を見込んだ、最廉価版の「スプライト」を日本導入(ERAターボ359万円、クーパー1.3 194万円、スプライト144万円 すべて4MT、税別)。次いで7月、キャンバストップ(4MT 税別175万円)を日本導入。


[編集] 1992年 - 1996年

(通称MK 9)

1992年、全車インジェクション化される。これはメインマーケットである日本市場の要望(クーラー装着が必須のため)からといわれている。ただし、インジェクター化と言ってもシングルポイントインジェクションであり、日本車で主流となっている各シリンダーの吸気ポートに噴射する方式ではない。同年6月、インジェクションモデルを日本導入。クーパー1.3iの4MTのみが62馬力、その他のグレードは53馬力となった。

1994年にはイシゴニスの甥である ベルント・ピシェッツリーダー(当時のBMW社長)の下、BMW がローバーグループを統括することとなり、MiniブランドもBMWに買収される。

また、同時にBMWは、全く新しいMINIの開発を始める事を決め、膨大な開発予算を計上している。この頃からコストダウンが目立ち始め、特別仕様車の頻繁な発表が相次ぐようになる。

1996年6月、モンテカルロラリー出場車を彷彿とさせる4連フォグランプを装備し、Mk I当時のアーモンドグリーンのボディーカラーをまとった誕生35周年記念モデル、「35thアニバーサリー」(4MT 税別189万円)を日本導入。塗色は他にフレームレッドも用意。


[編集] 1997年 - 2000年

ポールスミスのエンジン
ポールスミスのエンジン
2000年モデルのクーパー13インチホイール装着車
2000年モデルのクーパー
13インチホイール装着車

(通称MK 10)

各国の衝突安全基準に対応するため、MiniにSRSエアバッグと、サイドインパクトバーを初採用。この延命策により、Miniの生産打ち切りまで猶予のあることが予想された。

1997年、エンジンを改良。マルチポイントインジェクションエンジンが導入され、点火系が同時点火方式となる。

マルチポイントインジェクション仕様は発表されてから生産終了の2000年までの間、日本には導入されなかった。

1998年1月、13インチホイールと大型フェンダーを装備した「クーパー スポーツパック・リミテッド」(4MT 税別224.9万円)を日本導入。

4月、ポールスミスとのコラボレーションモデル、「ポールスミス」(4MT 税別200.9万円)を日本導入。車内、エンジンタペットカバー、プラグコード、工具入れ、トランク用クッションなどにアクセントカラーのライムグリーンを配した。

8月、1968年のBSCC(ブリティッシュ・サルーン・カー・チャンピオンシップ)のクラス優勝と、総合優勝の30周年記念モデルとして、「クーパーBSCCリミテッド」(4MT 税別229万円)を日本導入。 「クーパー スポーツパック・リミテッド」がベースとなる。

1999年6月、誕生40周年記念の「クーパー 40th アニバーサリー・リミテッド」を日本導入。

同年9月、再び「クーパー 40th アニバーサリー・リミテッド」を日本導入。

2000年当時、ローバーは依然として莫大な赤字を抱えており、BMW はMGローバーのほとんどの部門を整理することを決定した。

MG とローバーは新たに設立されたイギリスの合弁企業であるフェニックス社に売却され、ランドローバーフォードに売却された。

BMW は ローバーグループにより開発継続中であったMINI、およびブランド名を自社に残し、現在では完全に新しいMINIを生産販売している。

詳細は「MINI (BMW)」を参照

オリジナルのMiniは、少なくともヨーロッパでは、主な競合車種であるフォルクスワーゲン・ビートルシトロエン・2CV、そして跡継ぎのメトロなどの大衆車達より、長く生き抜いた。最後の Mini は2000年10月に組み立てラインを離れた。この年までに合計で530万台の Mini が生産された。生産終了となる経緯については、各国における衝突安全性や排出ガスの基準見直しによるところが大きいと言われている。末期は生産数のかなりの割合が日本向けとなっていたが、もはや新基準にMiniは合致しなかったのである。

1999年12月、1900年代の カー・オブ・ザ・センチュリー を選ぶ投票がアメリカ・ラスベガスで行われ、 Mini は第2位となり、ヨーロッパ車で最高の得票を得た(Car Of The Century はフォードT型が受賞した)[1]

生産終了後も日本国内のMiniへの人気は根強いものがあり、ミニ・ミニクーパー専門店が全国に数多くある。

[編集] バリエーションモデル

ウーズレー・ホーネット Mk II
ウーズレー・ホーネット Mk II
1968年式 ライレー・エルフ Mk III
1968年式 ライレー・エルフ Mk III
ライレー・エルフ
ライレー・エルフ

異なる市場に向けた様々な派生モデルが生まれた。

  • 1961年、バッジエンジニアリングによるウーズレー・ホーネット(1930年代のスポーツカーの名前の復刻)とライレー・エルフ(ラグジュアリーカーの名門ブランド)を投入する。1952年以降のBMC時代、両ブランドは外観が同じで中身(仕様)で差別化されていたが、ADO15では仕様が同じで外観がわずかに異なっている。ホーネットがスポーティー、エルフがより上級な位置付けであったが、そのイメージは主に宣伝によって作られた。

両車とも、リアオーバーハングを延長して車体を3BOXとし、トランク容積を稼いでいる。小ぶりなテールフィンを持ち、リアコンビランプを収めている。フロントデザインも変更され、ミニマムサイズながら上級サルーンとして仕立てられた。プレーンなグリル枠で、縦枠上部に楕円形のウーズレーのイルミネーションエンブレム(行灯式)がついているのがホーネット、形のフロントグリルの上枠にひし形のライレーのブルーダイヤモンドエンブレムがついているのがエルフである。


オースチン・ミニ・カントリーマン850
  • モーリス・ミニ・トラベラー / オースチン・ミニ・カントリーマン
1961年 - 1969年(英国のみ)
大衆車として標準的な2ドアのエステートで、上下開き、または観音開きのバックドアを装備している。高級モデルでは、荷室部分とバックドアに木製の飾りフレームがあしらわれている。


バンオースチン・ミニ バン塗色はオートモービルアソシエーション(THE AA)のサービスカーを再現したもの
バン
オースチン・ミニ バン
塗色はオートモービルアソシエーション(THE AA)のサービスカーを再現したもの
ピックアップ2トンカラーはウーズレー・ホーネットを模したもの
ピックアップ
2トンカラーはウーズレー・ホーネットを模したもの

* バン / ピックアップ

業務用のライトバンピックアップトラックモデルである。どちらもエステートモデル同様のロングホイールベースシャーシを使用している。バンのリアクォーターウインドウを省略することにより、イギリスでは税金が安くなることから、若者達にも人気が出た。バックドアは観音開きで、ルーフベンチレーターの設定もある。ピックアップはキャブと荷箱が分かれていないワンピースボディとなっている。


  • ミニ・モーク

ミニ・モーク」を参照

[編集] Miniのパワートレインを使ったクルマ

サブフレームの上に走るための仕組みが全て詰まったMiniのパワートレインは、バックヤードビルダーと呼ばれる小規模な自動車メーカーや、安価なレーシングカーを望むプライベーターには打ってつけで、たちまちのうちに引っ張りだことなった。これらは、資料が残っているものだけでも、120種以上ある。

ウィキメディア・コモンズ