メタリカ

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Metallica
2008年9月15日ロンドンのThe O2で
2008年9月15日ロンドンThe O2
基本情報
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ロサンゼルス
ジャンル スラッシュメタル
ヘヴィメタル
ハードロック
ラウドロック
活動期間 1981年 -
レーベル メガフォース
エレクトラ・レコード
ワーナー・ブラザーズ・レコード
ソニー・ミュージックエンタテインメント
ユニバーサルミュージック
メンバー
ジェイムズ・ヘットフィールド
ラーズ・ウルリッヒ
カーク・ハメット
ロバート・トゥルージロ
旧メンバー
ロン・マクガヴニー
デイヴ・ムステイン
クリフ・バートン
ジェイソン・ニューステッド

メタリカ (Metallica) は、1981年アメリカロサンゼルスで結成されたヘヴィメタル・バンド(後に本拠地をサンフランシスコに移した)。初期はスレイヤーアンスラックスメガデスと共に「スラッシュメタル四天王」の一角と言われており、1990年代の全米アルバム総売り上げ4位のビッグ・バンドである。ジェイムズ・ヘットフィールド (Vo/G) とラーズ・ウルリッヒ (Dr) らが中心になって結成された。

シングル、アルバム総売り上げは1億枚を超える。

目次

[編集] バンド名の由来

ラーズの友人であるサンフランシスコ地区メタル・プロモーターのロン・クインターナが新しいメタル雑誌の名前を、ラテン語で「金属」を意味する『Metallica』にしようとした際、ラーズがすぐに別の名前『Metal Mania』を提案し、『Metallica』という名前は自分とジェイムズが始めたバンド名にすることを決めた。

[編集] 音楽的特徴とその影響力

スラッシュメタルの先駆者としても知られ、1stアルバムではNWOBHMの影響を存分に受けたスラッシュメタルであったが、2nd~4thアルバムでは叙情的なフレージングと冷徹なヘヴィリフのコントラストを融合させたヘヴィメタルへと変化した。

古典的なヘヴィメタルの様式とは若干異なり、冷ややかさのある耽美的な旋律が特徴である。

5thアルバムでは、スピードよりもグルーヴを重視した作風に変化し、当時のヘヴィメタルに留まらず、後のニューメタルラウドロック等のロックミュージック・シーンに多大な影響を与えた。

他アーティストの楽曲のカヴァー・ヴァージョンもレパートリーにしており、ディープ・パープル(『スモーク・オン・ザ・ウォーター』)(『バーン』)・シン・リジィ(『ウィスキー・イン・ザ・ジャー』)・バッジー(『ブレッドファン』など)・モーターヘッド(『オーヴァーキル』)レインボー(『オールナイト・ロング』)の70年代ブリティッシュ・ハードロックや、ダイアモンド・ヘッド(『ヘルプレス』など)をはじめとするNWOBHM勢の曲、ハードコア・パンクバンドのアンチ・ノーウェア・リーグの曲(『ソー・ホワット』)も含まれており、ここからメタリカのルーツを知ることができる。

[編集] 他ジャンルへの影響

ロックに限らず幅広いジャンルのアーティストによって、楽曲がカヴァーされている事でも知られている。その中でも珍しいものについて、メンバーがBURRN!2006年6月号に掲載されたインタビューの中で言及した処によると、ゴスペルシンガーとして知られ、砂に書いたラブレター等のヒット曲を持つ、ハードロックやヘヴィメタルをカヴァーした事で物議を醸したパット・ブーンにカバーされている(アルバム"In A Metal Mood"収録、邦題は"メタルバカ一代!")。また、ウィーン少年合唱団の少年たちは、メタリカの楽曲『ナッシング・エルス・マターズ』を、ザ・ビートルズセリーヌ・ディオンエンヤマドンナバックストリート・ボーイズらの楽曲と共に、12曲のポップ・ミュージックの中に選び、アルバム『ゴーズ・ポップ』を収録した。このカヴァー曲について、カーク・ハメットは「かなり壮大な仕上がりだった」と評価した。エニグマを手掛けたプロデューサーであるフランク・ピーターソンのプロジェクト"グレゴリアン"でも、 同曲をグレゴリア聖歌によってカバーしている。また、ブルーグラスアコースティック楽器による北米大陸の民謡スタイルのカントリー・ミュージック)風にカヴァーされたコンピレーションアルバム『Fade to Bluegrass』(メタリカの楽曲『Fade to Black』をもじったもの)までもが存在する。フィンランドの「メタル・チェロ四重奏」のグループアポカリプティカは、メタリカの曲を多数カバーしている。この様に幅広いアーティストによってカヴァーされている事について、メンバーたちは歓迎の意を表している。

[編集] バイオグラフィ

  • 1981年10月、ラーズ・ウルリッヒジェイムズ・ヘットフィールドを誘う形でメタリカが結成される。
  • 1982年、アメリカのインディーズ・ヘヴィメタル・レーベル「メタル・ブレイド・レコーズ」で製作されていたコンピレーションアルバムの第一弾『メタル・マサカー - Metal Massacre - 』に提供するために「ヒット・ザ・ライツ - Hit The Lights - 」をレコーディング、その直後にデイヴ・ムステインが加入する。
    • 6月、『メタル・マサカー1 - Metal Massacre 1 - 』がリリースされる。
    • 数ヶ月後、オリジナル7曲入りのデモテープ『ノー・ライフ・ティル・レザー - No Life 'Till Leather - 』を制作する。
    • デイヴと他メンバー間の衝突は、ロン・マクガヴニーの脱退を引き起こし、バンドは新たなベーシストを探すこととなる。
    • 12月、新ベーシストとしてクリフ・バートンが加入。
  • 1983年2月にサンフランシスコに拠点を移す。
    • 4月にデイヴ・ムステインが解雇され、エクソダスのギタリストであったカーク・ハメットが加入する。この際、既に日本でデビューしていたLOUDNESSのギター、高崎晃へ加入のオファーがあったことが後に明らかになった。実際はメタリカのメンバーからの誘いではなくメタリカ側のスタッフからのオファーであったとされている。
    • 7月にインディーズ・レーベルメガフォースより1stアルバム『血染めの鉄槌(キル・エム・オール) - Kill 'em All - 』でデビュー。
  • 1984年初頭、ヴェノムのサポートとしてヨーロッパツアーを行う。
    • 6月に2ndアルバム『ライド・ザ・ライトニング - Ride The Lightning - 』発表、年末より大規模な欧米ツアーを敢行。メジャー・レーベルエレクトラとの契約を獲得し、Qプライムとマネージメント契約を締結。
  • 1985年8月、イギリスドニントンパークで開催されたモンスターズ・オブ・ロックに出演。
  • 1986年3月、3rdアルバム『メタル・マスター - Master Of Puppets - 』発表(メジャーデビュー)、ビルボード29位にランクイン。50万枚以上の売り上げを記録し、メタリカ初のゴールド・ディスクを獲得する。
  • 1987年8月、初期のカヴァー曲をレコーディングした『メタル・ガレージ - The $5.98 E.P. Garage Days Re-Revisited - 』(EP)を発表。一時期は入手困難のため、かなりの高額で取引されていた。
  • 1988年9月、4thアルバム『メタル・ジャスティス - ...And Justice For All - 』発表。ベースの音が聞こえない、ドラムの音が電子音の様に聞こえることで物議を醸したが、「ワン - One - 」を収録し、初のプロモーション・ビデオも発売されビッグ・バンドの地位を築き始めた事も事実である。プロモーションビデオは名作映画『ジョニーは戦場へ行った』(1971年発表)の映像がコラボレートされ、ジャスティスツアーのライブセットではCDジャケットの石像が崩れ落ちる大仕掛けなものであった。
  • 1989年2月、グラミー賞ヘヴィメタル部門に「ワン - One - 」がノミネートされたものの、受賞は逃す。(受賞したのはジェスロ・タル)
  • 1990年2月、グラミー賞ヘヴィメタル部門で「ワン - One - 」が受賞。グラミー賞会場はタキシードあるいはフォーマルスーツが恒例で、そんな中メタリカは例のいつものブラックジーンズ姿といういでたちで登場。これはグラミー賞において、異例のことであった。
    • 10月より、アルバム制作にとりかかる。
  • 1991年8月、5thアルバム『メタリカ - Metallica - 』(通称ブラック・アルバム)を発表、全米初登場1位を獲得する(以後4週連続1位)。全世界で2000万枚を超える大ヒットを飛ばす。3年に亘る長期間のワールドツアーを終えた後、暫く休養期間に入る。
  • 1996年6月、6thアルバム『ロード - Load - 』を発売し、全英・全米1位を記録。
  • 1997年11月、7thアルバム『リロード - Reload - 』発表、全米1位を獲得するものの、2作続けて同等の路線にスレイヤーは「メタリカは死んだ」と発言。ただし収録曲のほとんどが『Load』製作時の楽曲であり、『Load』に収録しきれなかった楽曲である。(2枚組で発売する案もあったが見送られた。)
  • 1998年11月、カヴァー曲を集めたアルバム『ガレージ・インク - Garage Inc. - 』発表。
  • 1999年11月、メタリカ本拠地のオーケストラサンフランシスコ交響楽団との競演ライヴアルバム『シンフォニー&メタリカ - S&M - 』発表。
  • 2000年4月、ナップスターを相手取り、著作権侵害、デジタル音楽ソフトの違法使用及び不正組織防止条例の違反で訴えを起こす。
  • 2001年1月、ジェイソン・Ballsニューステッドが脱退。
  • 2003年2月、新ベーシストとして元スイサイダル・テンデンシーズオジー・オズボーンバンドのロバート・トゥルージロが加入(ちなみに同年、元ベーシストのジェイソン・ニューステッドがオジー・オズボーンバンドに参加)。
    • 6月、8thアルバム『セイント・アンガー - St. Anger - 』発表。来日公演ではツアー前にキャンセル誤報があったものの、大成功を収めた。ロバートがオーディションにより加入したのは、このアルバムがほぼ完成した後(アルバムは発売前)であり、MTVアイコン・アウォードを受賞する際にある意味サプライズ的に加入が公表された。このアルバムでベースを弾いているのは、プロデューサーのボブ・ロックである。ボブは、『ブラック・アルバム』から4作品連続でプロデュースしている。
  • 2004年、8thアルバム『セイント・アンガー』が完成するまでの3年間に密着した(1600時間もの膨大なテープを編集した)映画『メタリカ:真実の瞬間- Some Kind Of Monster -』が製作され、日本では2005年7月より限られた劇場でのみ上映された。
  • 2006年8月、千葉と大阪で行なわれたサマー・ソニック'06へ参加。アルバム『メタル・マスター - Master Of Puppets - 』の発表から20周年を迎えるこの年を記念して、アルバム全曲を曲順通りに演奏した。演奏終了時にヴォーカルのジェイムズ・ヘットフィールドは「Master Of Puppets! Happy 20years anniversary!」と咆哮、モニタ画面には故クリフ・バートンの遺影が映しだされた。
  • 2006年12月、1989年から2004年までの間にリリースされた21曲のPVを収録したDVD、「ザ・ビデオズ 1989-2004」を発表。ビルボードビデオチャート3位を獲得。
  • 2008年9月、9thアルバム 「デス・マグネティック - Death Magnetic - 」発表。前作まで担当したボブ・ロックに変えてリック・ルービンを新たにプロデューサーに起用して制作された。世界25ヶ国でアルバムチャート1位、オリコン初登場3位を獲得。
  • 2009年4月4日、オハイオ州クリーブランドでの授賞式にてロックの殿堂入りを果たした。セレモニーでのライブでは、2001年に脱退したジェイソン・ニューステッドも参加して「Master Of Puppets」、「Enter Sandman」の2曲が演奏された。さらに初代ベーシストであるロン・マクガヴニーと、1986年にツアー中の事故で亡くなった2代目ベーシスト、クリフ・バートンの父親も授賞式に招待された。元リードギタリストであり現在はメガデスで活動するデイヴ・ムステインはジューダス・プリーストとのヨーロッパツアーに帯同しており参加できなかったが、受賞を祝福する声明が発表された。
  • 2010年9月25日(土)と9月26日(日)に4年ぶりの来日公演を行う。

[編集] 成功の軌跡

元々はアンダーグラウンドが主戦場であり、後にスラッシュメタルと呼ばれる新しいタイプのヘヴィメタルの先駆者である。1980年代のMTV黎明期にあって4thアルバムまでビデオクリップ制作をしなかった事で有名である。また過激な音楽性、歌詞であったため大手ラジオ局でもエアプレイされることがほとんど無かった。 しかしバンドを『ファンとの共同体』と位置づけ、ひたすらツアーを重ねることでファンのクチコミにより人気を獲得していった。 全世界でのアルバム・セールス1億枚以上を誇り商業面での成功もさることながら、グラミー賞を8回受賞するなど社会的な認知度も高い。コンサートの動員力も高く、1990年代の北米でのコンサート動員数で1位を記録する。また大手マネージメントQプライムに10年以上マネージメントを任せてきたことも彼らの成功に寄与しているといわれている。

[編集] ナップスター論争

2000年4月に、メタリカがナップスターおよび大学3校を相手取り、著作権侵害、デジタル音楽ソフトの違法使用及び不正組織防止条例の違反で訴えを起こしたのが発端。一部のユーザーから「メタリカはBIGになって金の亡者となった」と非難を受ける一方、ミュージシャン側からは「メタリカの主張に賛同する」という動きが出るなど、一連の社会問題に発展。

2000年7月にナップスターの運営するウェブサイトに対して北カリフォルニア連邦地裁が閉鎖命令を下すものの、2001年2月にサンフランシスコ第9巡回区連邦控訴裁判所が北カリフォルニア連邦地裁の判決を覆し、サイトの継続を認める判決を下す。

2001年7月に、メタリカとナップスターが双方歩み寄る形で決着(詳細は公表されず)。

直接の関連はないが、アル・ヤンコビックが2006年に『Don't Download This Song』という楽曲でこの論争に触れている。

[編集] 日本公演

11月15日 渋谷公会堂、17日 愛知県勤労会館、18日 フェスティバルホール、19日,20日 中野サンプラザ
5月11日 川崎市産業文化会館、13日,14日 国立代々木競技場第一体育館、16日,17日 大阪厚生年金会館、18日 名古屋市公会堂
12月31日 東京ドーム
3月16日,17日 国立代々木競技場第一体育館、18日 横浜アリーナ、21日 福岡サンパレス、22日 大阪城ホール、23日 名古屋センチュリーホール
4月27日 横浜アリーナ、29日 名古屋レインボーホール、30日 大阪城ホール、5月2日 広島サンプラザ、3日 福岡国際センター、6日,7日 日本武道館、8日 国立代々木競技場第一体育館
11月6日,7日 国立代々木競技場第一体育館、9日 真駒内アイスアリーナ、11日 さいたまスーパーアリーナ、13日 大阪城ホール、14日 名古屋レインボーホール
8月12日 千葉マリンスタジアム、13日 大阪WTCオープンエアスタジアム
  • 2010年 9月25日、26日 さいたまスーパーアリーナ

[編集] メンバー

[編集] 現在のメンバー

アメリカカリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。メタリカのメイン・ソングライターであり、おもにリズムギター担当。
デンマーク生まれ。1980年に一家でロサンゼルスに移住。
アメリカカリフォルニア州サンフランシスコ生まれ。おもにリードギター担当。ジョー・サトリアーニの生徒である。
アメリカカリフォルニア州サンタモニカ生まれ。ベース担当。

[編集] 元メンバー

ジェイムズの幼なじみであり、メタリカの初代ベーシスト。デイブの素行の悪さに耐え切れなくなり脱退する。
メガデスのデイヴ・ムステインも初期メンバーの一人でありデビュー前まで所属していたが、ラーズらとの確執により、1stアルバムのレコーディング直前に解雇された。
バンドと並行してドラッグの売人をしていたデイヴは犬にドラッグの番をさせていた。その犬がロンの車を引っかいたためジェイムズがそれを止めさせようと怒鳴った(デイヴ曰くジェイムズが犬を蹴った)ことからメンバー達とデイヴの確執が始まる。酒癖が悪いデイヴはあるとき酔っ払ってロンのベースにビールを流し込み、それを知らないロンが電源を入れ感電するという事件があった。それがきっかけでロンは脱退する。それ以降も酒癖が悪くなる一方のデイヴはレストランで人にからみ乱闘騒ぎを起こすなど問題が多かった。このようなことから自分達の身にも危険が及ぶのではないかと感じたメンバーにより解雇される。
しかし別れの際ジェイムズは涙を流し、デイヴはバンドをクビになったことを親の死よりも辛い体験だったと語るなどから、お互いに辛い別れで生活態度と人間性により止むを得ず解雇されたことが分かる。(メガデス ドキュメンタリー 狂気の旋律より)
この解雇により長年確執を抱いていた両者だったが、近年公開されたメタリカのドキュメンタリー映画「Some Kind OF Monster」内で過去の出来事を真摯に受け止め和解に至る様子を見る事が出来る。
1st~3rdアルバムのベーシストであるが、1986年の事故死以来『伝説のベーシスト』としてカリスマ視されている。ベルボトムジーンズは彼のトレードマークでもあった。メタリカ以前にはトゥラウマというバンドに在籍していた。
初期メタリカの音楽性に大きな影響を与えたコンポーザーであり、その影響はクリフの手が入る前の1stアルバムと2nd~3rdアルバムを聴けば判るとおり、無機質だったサウンドに叙情的なニュアンスやプログレッシブな構成美を導入させた。
また、ベースのジミヘンとも呼ばれる程、奇妙奇天烈且つアグレッシヴなプレイをする個性的なベーシストでもあった。
1986年9月27日(現地時間)、スウェーデンをツアー中のバスが交通事故を起こし、クリフは不運にもバスの下敷きになり、帰らぬ人になってしまった。そのときのエピソードとして、その日たまたまカークがクリフとベッドの位置をかけてカードをやり、クリフが勝ってベッドを交換、そして帰らぬ人となったのだと言う。後に初期メタリカアイテム、クリフ追悼ビデオ、「クリフに捧ぐ」(素材はライブをファンがカメラで盗み撮りしたものなどが採用され編集されている)が発売されている。
フロットサム・アンド・ジェットサムの元リーダー兼ベーシスト。クリフの死後にその穴を埋めるべく加入したが、加入が決まった際にメタリカの一員になれることに大変喜んだという。このことでクリフの死の悲しみを拭えないメンバーから反感を買い、加入直後に制作されたアルバム「メタル・ジャスティス」に自身の演奏するベース・ギターパートを収録されない(実際のベース・パートはジェームスが演奏)などの陰湿なイジメにあった。しかし後にメンバーがそのことについて認め謝罪し和解している。「自身のサイド・プロジェクトが認められなかった」ことを理由にメタリカ脱退。脱退後はエコーブレインオジー・オズボーンヴォイヴォドで活躍した。

[編集] ディスコグラフィ

[編集] オリジナル・アルバム

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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