日本とイスラエルの関係

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日本とイスラエルの関係
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イスラエル

日本

日イスラエル関係(にちイスラエルかんけい)は、1952年5月15日に、日本イスラエル東京に開設されたイスラエルの公使館を承認して開始した。1954年に、日本の在トルコ大使が在イスラエル公使を兼任した。1955年には、日本の公使館がテルアビブに開設。1963年に、両国関係は公使レベルから大使レベルに昇格され、それ以来その水準を維持[1]。なお、日本のアラブ諸国及びイランとの貿易は、イスラエルとの貿易よりも上回っている[2]

1920年代[編集]

1922年に、陸軍大佐安江仙弘と海軍大佐犬塚惟重シベリアでの軍務から帰国し、赤軍に対抗するため白軍に援助を提供した。両大佐は、『シオン賢者の議定書』について学んだ後、イスラエル関係に特に関心を抱いた。後に偽書とされる『議定書』は、ユダヤ人による世界征服計画について記述・主張していた。1920年代に渡って、両大佐はユダヤに関する多くの報告を書き、イギリス委任統治領パレスチナに赴いて研究を積み、シオニストの指導者であるハイム・ヴァイツマン及びダヴィド・ベン=グリオンと面会した。安江大佐は『議定書』の日本語訳を作成(その増訂版は日本で幾度となくベストセラーになった。)。両大佐によって、日本の外務省ユダヤ人主義に関心を抱き、日本の各大使館及び領事館は、各々の赴任国でのユダヤ人コミュニティーの活動や動きについて、本国に報告するよう指示を受けていたとされる。

河豚計画[編集]

河豚計画とは、1934年大日本帝国において最初に議論された考えで、ナチスに占領された欧州から避難している数千、或いは数万人のユダヤ人難民を満州及び大日本帝国統治下の上海に移住させるという考えが根幹にあった。大日本帝国はユダヤ人の持つ経済的強さを得ようとする一方で、アメリカ合衆国、特にユダヤ系アメリカ人に対し、自らの考えを受け入れ、投資するように説得した。この計画は、1934年に最初に議論され、1938年に五相会議で決議されたが、1940年の日独伊三国同盟の締結やその他の諸事情により、実施されずに終わった。

この計画は、もともと大日本帝国の政府及び軍部内の一派閥による考えであった。軍部からは陸軍大佐安江仙弘及び海軍大佐犬塚惟重、その他には実業家の鮎川義介や満州一派といわれる関東軍内の数名の高官らが構成していた。計画は日本の美味とされ、また正確に調理されないと人を死に至らしめる程の毒を持つ河豚から命名された。しかしながら、『シオン賢者の議定書』の日本語訳にみられるように、この計画は欧州の反ユダヤ主義についての誤った偏見に基づいているとされる。大日本帝国のユダヤ人の力と富に関する誤解は、一つには約30年前の日露戦争に勝利する要因となった、アメリカ系ユダヤ人銀行家のジェイコブ・シフによる日本政府への資金提供の経験によるものと考えられる。

ユダヤを専門とする両大佐が満州一派に関与するようになる中、大日本帝国の軍部高官は満州における領土拡大を推し進めようとした。その一派は、板垣征四郎大将及び石原莞爾中将によって率いられたが、満州への日本人移住者や投資を増やすことに苦慮していた。1938年の五相会議では、政府の上級官僚らがユダヤ専門の両大佐が提起した考えと計画案を議論した。しかしながら、計画は一度も軌道に乗ることはなかった。1939年には、上海のユダヤ人コミュニティーが、上海へのユダヤ人難民の移住は、受け入れる余地が著しく少なく受け入れ困難であるとして、移住を退ける要求をしている。

第二次世界大戦中[編集]

杉原千畝、 日本の外交官、 占領下の欧州から6000人以上のユダヤ人難民の国外逃亡を援助[3]

1939年に、ソビエト連邦は独ソ不可侵条約ナチス・ドイツと結び、これによりユダヤ人の欧州から日本への移動は一層困難なものとなった。日本政府はドイツ・イタリアと軍事同盟を結び、これにより河豚計画の実行のための公的な支援は完全に不可能なものとなった。

しかしながら、リトアニアカウナスの日本領事館の杉原千畝領事代理は本国からの訓令に反し、ユダヤ人避難民への通過査証の発行を開始し、これにより日本に一時滞在し、その後入国ビザの不要なオランダ植民地のキュラソー島を最終目的地とする、形式的な旅程が可能となった。数千人のユダヤ人が同領事代理或いは同等の手段を通じて通過査証を取得し、中には同領事代理の書いたビザを手書きでコピーする者らもいたとされる。ソビエト政府による執拗な出国手続きの後、多くのユダヤ人がシベリア鉄道を利用してソビエト連邦を通過し、その後ウラジオストクから敦賀へ船で移動し、最終的に日本の神戸に滞在することが可能となった。

移住計画[編集]

この計画によって、移住人口はおよそ18000人からおよそ600000人にまで増え、世界のユダヤ人コミュニティーから資金や一層の避難民が送られるようになった。計画に携わった人たちにより、ユダヤ人移住者には完全な宗教の自由及び文化・教育の自律が付与されることが同意された。日本側は多くの自由を与え過ぎることに慎重であった一方で、ある程度の自由はユダヤ人移住者の要望及び経済的な能力を維持するには必要であるとされた。高官らによって、居住区は自律的に見えはするものの、管理がなされる必要があり、水面下においてユダヤ人らを注意深く監視し、管理下に置くようにする計画が承認されたとされる。高官らは、ユダヤ人らが、『シオン賢者の議定書』で他国で実際に生じたと書かれているように、日本の政府及び経済を牛耳り、自らの支配下に置くようにする可能性を恐れたと考えられる。

影響[編集]

数千人のユダヤ人らが、日本の一時的な親ユダヤ政策により、ナチス・ドイツ占領下の欧州において、殺戮から免れることとなり、1985年には杉原千畝イスラエル政府から諸国民の中の正義の人の称号を授与されることとなった。加えて、今日のラビ研究の元となった、現在のベラルーシに位置していたイェシーバー学塾及び欧州においてホロコーストを生き延びた唯一人のイェシーバーは、この影響の結果、難を逃れることとなったとされる。

1950年代以降の関係[編集]

The 1960年にティコティン日本美術館がイスラエルのハイファに最初に開設された

1993年に、両国は租税条約に調印[1]。2000年に、両国は航空協定に調印[1]。 2011年9月時点で在留邦人数は870名、2010年時点で在日イスラエル人648名である[1]

2006年8月1日に、日本政府は鹿取克章報道官をイスラエル大使に任命。同氏は、2005年8月に現在のポストに就く以前には大韓民国における公使及び領事局長を歴任。2008年9月、同氏はイスラエルへの任を終え、2008年10月1日に竹内春久が大使となった。2011年9月、同氏は任を終え、現在は、佐藤秀夫が大使に就いている。

2006年7月に、日本は平和への取組として、「平和と繁栄の回廊」創設構想を発表し、これをイスラエルとパレスチナ自治政府との土地を巡る争いではなく、双方の経済成長とその取組に基づくものとした[4]シモン・ペレス副首相(当時)は、2006年9月に前アメリカ大統領のビル・クリントン氏がニューヨークで開いた国際会議に出席した際、この構想に非常な関心を寄せた[5]

2008年9月に、日本政府はイスラエル及びパレスチナ自治政府との会談で、本構想の主張を繰り返し、本構想を完成させるための取組を続けるよう双方に呼び掛けた。日本はまた、エリコ近くに農産業施設を建設する特別な準備があることに言及し、2009年までに建設を開始したい旨述べた[6][7]

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d [1] イスラエル国(外務省)
  2. ^ [2] 中東(外務省)
  3. ^ Sakamoto, Pamela Rotner (1998). Japanese diplomats and Jewish refugees: a World War II dilemma. New York: Praeger. ISBN 0-275-96199-0. 
  4. ^ イスラエルとパレスチナの共存共栄に向けた日本の中長期的な取組:「平和と繁栄の回廊」創設構想 外務省
  5. ^ Peres to meet Musharraf and kings of Jordan, Morocco, Israel Today, 9/18/06.
  6. ^ Japanese still solid on PA industry project ASSOCIATED PRESS, Jul 3, 2008, at jpost.com.
  7. ^ Press statement: The Third Ministerial-Level Meeting of the Four-Party Consultative Unit for the "Corridor for Peace and Prosperity" Japan Min of Foreign Affairs, 2 July 2008, Tokyo. In 2011 Japanese Earthquake, Israel was among first to respond with humanitarian aid.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]