FCバルセロナ

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FCバルセロナ
原語表記 Futbol Club Barcelona
愛称 Barça or Blaugrana (team)
Culés or Barcelonistas (supporters)
Blaugranes or Azulgranas (supporters)
クラブカラー   青、  臙脂
創設年 1899年
所属リーグ リーガ・エスパニョーラ
所属ディビジョン プリメーラ・ディビシオン
ホームタウン バルセロナ
ホームスタジアム
カンプ・ノウ
収容人数 99,354[1]
代表者 スペインの旗 ジョゼップ・マリア・バルトメウ
監督 スペインの旗 ルイス・エンリケ
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
サードカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

FCバルセロナカタルーニャ語: Futbol Club Barcelona)は、スペインカタルーニャ州バルセロナを本拠地とするサッカークラブである。

概要

FCバルセロナのユニフォーム。首に「クラブ以上の存在(MÉS QUE UN CLUB)」とある。またエンブレムはバルセロナ市の旗を基にしている。

1899年に創立。ホームスタジアムはカンプ・ノウ。愛称は「バルサカタルーニャ語: Barça)」、またはクラブカラーから「ブラウ・グラナカタルーニャ語: Blau Grana、青と臙脂)」と呼ばれる。現在はリーガ・エスパニョーラプリメーラ・ディビシオンに所属しており、同リーグにおいて23回の優勝を記録しているほか、レアル・マドリードアスレティック・ビルバオと並んでリーガ・エスパニョーラの創立以来、一度もプリメーラ・ディビシオンから降格したことがないクラブである。また、スペインの国内カップ戦コパ・デル・レイにおいては27回の最多優勝記録を持ち、スペイン国内で最多記録となる6回のリーガ・エスパニョーラとコパ・デル・レイの2冠を達成している。さらに、2015年の時点で6クラブのみであるビッグイヤーの永久保持が認められているクラブの1つであるほか、スペイン国内で主要タイトル3冠を達成した史上初めてかつ唯一のクラブであり、ヨーロッパのクラブとしてはそれを2回に渡り達成した史上初めてかつ唯一のクラブである。

「クラブ以上の存在(カタルーニャ語: MÉS QUE UN CLUB)」がクラブのスローガンでありユニフォームの後襟にもこの言葉がプリントされているほかカンプ・ノウの客席にも椅子の色を変えて示されている。これは1919年のカタールニャ自治憲章制定運動で登場したのがはじめであり、カタルーニャ民族主義の精神の現れだと言われる[2]。またスペイン屈指の商業都市バルセロナの市民社会の拠り所という意味も含まれる。

「攻撃的でスペクタクルなフットボール」をクラブのアイデンティティとしており、試合に勝ったとしても内容が伴わなければサポーターから容赦ないブーイングが浴びせられる。このような習慣はスペイン国内の多くのクラブチームに存在するものではあるが、FCバルセロナは特にこの傾向が顕著であり、結果よりも内容で遥かに大きいものを求められる面が強い。

UEFAチャンピオンズリーグ 2005-06優勝パレードの様子。

運営について

クラブ運営上の特徴として一般市民などからの会員を募り、その会費でチームを運営している点が挙げられる。会員は現在世界中で18万に達しており[3]、日本でも2004年6月より会員の募集が行われている。「カンテラ」と呼ばれる下部組織が非常に発達しており、現チームの選手も含め幾多の名選手を輩出してきた(詳細はカタルーニャ語版参照)。このカンテラ出身選手は生え抜きとしてサポーターから特に絶大な声援を受けることが多い。

2014年1月、世界最大の会計事務所である『デロイト』が公表したデロイト・フットボール・マネー・リーグでは、2012-2013シーズンのクラブ収入は4億8260万ユーロであり、レアル・マドリードに次ぐ世界第2位である[4]。また、イギリスメディアが2012年に公表した調査によると、FCバルセロナの平均年俸は約868万ドルと推定されており、世界で最も平均年俸が高いクラブであることが判明し、ニューヨーク・ヤンキースロサンゼルス・レイカーズなどアメリカのスポーツチームを含めて世界一である。[5]

他クラブとの関係について

サッカーのみならず政治的、地域的に長年の対立関係にある首都マドリードのレアル・マドリードとは長年のライバルである。

このレアル・マドリードとの試合は『エル・クラシコ』(El Clásico)と呼ばれ、1902年の第1回コパ・デルレイ(スペイン国王杯)から因縁の対決を続けている。その背景には、1923年-1930年プリモ・デ・リベーラ将軍による独裁政権時代、さらに1939年-1975年におけるフランコ独裁政権時代のカタルーニャに対する弾圧がある。当時、カタルーニャの人々は自分たちの言語であるカタルーニャ語を公の場で話すことが許されなかったが、スタジアムの中でのみそれが許された。

なお、バルセロナとレアル・マドリード間の移籍は「禁断の移籍」とされ、「裏切り」と呼ばれることも多い。また、第三者のクラブ選手の移籍においても競合することが多く、これまで幾多の選手をめぐって争奪戦を繰り広げている。

同じくバルセロナを本拠地とするRCDエスパニョールとの試合はバルセロナ・ダービーと呼ばれる。

政治性について

2012年9月11日、会長のサンドロ・ロセイは個人としてカタルーニャ独立を支持するデモに参加した。9月11日は、スペイン継承戦争の最後の戦いであるバルセロナ包囲戦で、カタルーニャがスペイン・フランス連合軍に敗北した日であり、カタルーニャではカタルーニャの日として特別な記念日となっている。カタルーニャの独立運動が勢いを増す中[6]、FCバルセロナは独立派勢力から距離を置くなど中立性を維持してきた。しかし、ロセイは今後、FCバルセロナが政治的中立性を保つことは出来ないだろうと語った[7]

歴史

カタルーニャ民族主義の中の草創期

創始者のジョアン・ガンペール

1899年スイス人実業家ジョアン・ガンペールら11名により創立された。この時、上記の「えんじと青」のチームカラーが決められたが、このチームカラーとなったのは、ガンペールの縁深かったFCバーゼルのチームカラーを真似た物と一般的には信じられている[8]。初代会長はイギリス人のウォルター・ワイルド英語版。設立から10年後の1909-10シーズンにはコパ・デル・レイで優勝した。1919年の『カタルーニャ自治憲章』制定運動がバルセロナを中心をするカタルーニャで起きたが、マドリードの中央政府が難色を見せるこの地方自治運動にFCバルセロナも参加した時に「クラブ以上の存在」というスローガンが初めて使用された。

FCバルセロナのエンブレムの基本。上半分を占める白地に赤の十字架はカタルーニャの守護聖人サン・ジョルディの十字(イングランドの国旗と同じ)、黄色(黄金)に4本の赤の縞はカタルーニャの国旗で、バルセロナの市の旗と同じである。

スペイン内戦と独裁政権期

設立から30年目を迎えようとする1928-29シーズンにはリーガ・エスパニョーラで初めて優勝したが、その後勃発するスペイン内戦がチームの運命を暗転させた。スペイン内戦時にはカタルーニャはフランシスコ・フランコ独裁政権に強く抵抗した。1935年には会長J・スニョルは暗殺され、ソシオの会員数は250人までに減少した。内戦後にはカタルーニャはフランコ政権の目の敵にされ、カタルーニャ語の使用の禁止など政治経済のみならず文化面でも抑圧された。しかしバルセロナのブルジョワの独裁政権への運動もありFCバルセロナは「クラブ以上の存在」すなわちカタルーニャ民族主義の象徴として維持された。とはいえ1940年代にはフランコ政権の支援を受けたレアル・マドリードが力を伸ばしてきた時期であり、1943年の総統杯ではレアル・マドリードに11対0で敗北している。これはレアル・マドリードが中央政府の支援を受けており、戦力の差が広がった結果である。FCバルセロナとレアル・マドリードの「因縁」はこのころに形成された。またFCバルセロナのエンブレムにあるカタルーニャ国旗の部分はスペイン国旗に変更された。

しかしながら1960年代の本格化するバルセロナの経済発展と人口増は住宅需要をもたらし、FCバルセロナは「レス・コルツ」スタジアムを売却して、郊外に新しいスタジアムを建設した。1957年に落成した新スタジアムが現在の本拠地「カンプ・ノウ」である。カンプ・ノウの建設には当初予算を3倍も上回るものとなったが、周辺の土地にスポーツ関連施設を建設するなどの不動産経営で得た利益はクラブ経営の経済的基盤となった。1955-56シーズンはインターシティーズ・フェアーズカップにてそれぞれ初優勝を果たした。

ホセ・ルイス・ヌニェス会長時代

1978年ホセ・ルイス・ヌニェスが会長職に就任。1980年にはキニベルント・シュスターを獲得し、1980-81シーズンはコパ・デル・レイ優勝を達成。1982年にはディエゴ・マラドーナを獲得し、1982-83シーズンはコパ・デル・レイ優勝、1983-84シーズンにはスーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝、1984-85シーズンにはリーガ・エスパニョーラ優勝を果たした。1986年夏の移籍市場ではアンドニ・スビサレッタらを獲得。1987-88シーズンはコパ・デル・レイ優勝を達成したほか、シーズン終盤にヨハン・クライフが監督に就任。1988年夏の移籍市場ではフリオ・サリナスホセ・マリア・バケーロアイトール・ベギリスタインエウセビオ・サクリスタン・メナアンドニ・ゴイコエチェアを獲得し、1988-89シーズンはFCバルセロナBからギジェルモ・アモールを昇格させた。1989年夏の移籍市場ではロナルド・クーマンミカエル・ラウドルップを獲得し、1989-90シーズンはコパ・デル・レイ優勝を達成する。

1992年5月20日に行われたUEFAチャンピオンズカップ 1991-92決勝、UCサンプドリア戦のスターティングメンバー

1990年夏の移籍市場ではフリスト・ストイチコフを獲得し、1990-91シーズンはFCバルセロナBからアルベルト・フェレールジョゼップ・グアルディオラらを昇格させ、リーガ・エスパニョーラ優勝を達成。1991年夏の移籍市場ではミゲル・アンヘル・ナダルを獲得し、1991-92シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ、リーガ・エスパニョーラUEFAチャンピオンズカップにて優勝を達成した。1992-93シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャとリーガ・エスパニョーラにて優勝を果たす。1993年夏の移籍市場ではロマーリオを獲得し、1993-94シーズンはFCバルセロナBからセルジ・バルフアンを昇格させ、リーガ・エスパニョーラ4連覇を達成した。これらの実績を残した当時のチームはエル・ドリーム・チームと称された。

1994年夏の移籍市場ではアベラルドらを獲得し、スーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝を達成。1995年夏の移籍市場ではルイス・フィーゴイバン・デ・ラ・ペーニャらを獲得するも、1995-96シーズンは無冠に終わり、シーズン終了後にクライフは解任された。1996-97シーズンはボビー・ロブソンが監督に就任し、1996年夏の移籍市場ではロナウドルイス・エンリケらを獲得。同シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ、コパ・デル・レイにて優勝を果たす。

1997-98シーズンからはルイ・ファン・ハールが監督に就任し、1997年夏の移籍市場ではリバウドミハエル・ライツィハーらを獲得。同シーズンはリーガ・エスパニョーラ優勝とコパ・デル・レイ2連覇の2冠を達成。1998年夏の移籍市場ではパトリック・クライファートフィリップ・コクーらを獲得し、1999年冬の移籍市場ではフランク・デ・ブールロナルド・デ・ブールを獲得。1998-99シーズンはFCバルセロナBからシャビを昇格させ、リーガ・エスパニョーラ2連覇を達成する。1999-2000シーズンはFCバルセロナBからカルレス・プジョルを昇格させるも、同シーズンは無冠に終わり、シーズン終了後にファン・ハールは監督を退任したほか、ヌニェスも会長職を辞任した。

ジョアン・ガスパール会長時代

2000年夏の移籍市場ではジェラール・ロペスマルク・オーフェルマルスらを獲得するも、2000-01シーズンは無冠に終わる。2001年夏の移籍市場ではハビエル・サビオラらを獲得するも、2001-02シーズンも無冠に終わる。2002-03シーズンはFCバルセロナBからアンドレス・イニエスタビクトル・バルデスオレゲール・プレサスを昇格させるも、4季連続の無冠に終わった。

ジョアン・ラポルタ会長時代

2006年5月17日に行われたUEFAチャンピオンズリーグ 2005-06 決勝アーセナルFC戦のスターティングメンバー

2003-04シーズンはフランク・ライカールトが監督に就任。2003年夏の移籍市場ではロナウジーニョルイス・ガルシアラファエル・マルケスジョバンニ・ファン・ブロンクホルストらを獲得し、2004年冬の移籍市場ではエドガー・ダービッツを獲得。同シーズンは無冠に終わるも、2004年夏の移籍市場ではサミュエル・エトオヘンリク・ラーションリュドヴィク・ジュリデコエジミウソンらを獲得し、2004-05シーズンはFCバルセロナBからリオネル・メッシを昇格させ、リーガ・エスパニョーラ優勝を果たした。2005-06シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャリーガ・エスパニョーラUEFAチャンピオンズリーグにて優勝を達成する。

2006年夏の移籍市場ではジャンルカ・ザンブロッタリリアン・テュラムエイドゥル・グジョンセンらを獲得。2006-07シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ2連覇を達成する。リーガ・エスパニョーラでは前年の得点王だったエトオが、UEFAチャンピオンズリーグのブレーメン戦で半月板を断裂し、5節から20節まで欠場し、メッシも10月12日のレアル・サラゴサ戦で足を踏まれ、左足第五中足骨を骨折し11節から21節まで離脱。この2人を欠いて臨んだ試合で5勝4分け1敗と失速し[9]、優勝した前年と同じ勝ち数ながらレアル・マドリードに勝ち点で並ばれ、クラシコで1分け1敗と負け越した関係で2位に終わった。コパ・デル・レイでは準決勝のヘタフェ戦においてホームでの第1戦を5-2で終えながらアウェーでの第2戦を0-4で落としてしまい逆転負けでベスト4敗退、UEFAチャンピオンズリーグではリバプールと対戦し、第1戦でデコのゴールで先制しながら逆転負けし、2戦合計2-2ながらアウェーゴール数で劣りベスト16に終わる。UEFAスーパーカップではセビージャFCに敗れて準優勝に終わり、エトーとメッシが2人共欠場した状態で臨まなければならなかったFIFAクラブワールドカップ2006でも決勝でブラジルのインテルナシオナルに敗れ準優勝に終わる。2007年夏の移籍市場ではティエリ・アンリガブリエル・ミリートトゥーレ・ヤヤエリック・アビダルを獲得するも、2007-08シーズンは4季ぶりの無冠に終わり、シーズン終了後にライカールトは監督を退任した。

2009年5月27日に行われたUEFAチャンピオンズリーグ 2008-09決勝、マンチェスター・ユナイテッドFC戦のスターティングメンバー
2008-09シーズンのバルセロナの選手たち。

2008-09シーズンはFCバルセロナBの監督を務めていたジョゼップ・グアルディオラがトップチームの監督に就任。2008年夏の移籍市場ではダニエウ・アウヴェスセイドゥ・ケイタジェラール・ピケらを獲得し、FCバルセロナBからペドロ・ロドリゲス・レデスマセルヒオ・ブスケツ・ブルゴスらを昇格させた。同シーズンはリーガ・エスパニョーラ、コパ・デル・レイ、UEFAチャンピオンズリーグにて優勝を達成し、スペイン史上初めての主要タイトル3冠を達成した。

2009年夏の移籍市場ではエトオとのトレードでズラタン・イブラヒモビッチを獲得したほか、マクスウェルドミトロ・チグリンスキーを獲得。2009-10シーズンはUEFAスーパーカップ優勝、スーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝、FIFAクラブワールドカップ2009優勝を果たして史上初の年間6冠を達成したほか、リーガ・エスパニョーラ2連覇を達成した[10]2010年夏の移籍市場ではダビド・ビジャを獲得するも、同年6月30日をもってラポルタは任期満了に伴い会長職を退任した。

サンドロ・ロセイ会長時代

2011年5月28日に行われたUEFAチャンピオンズリーグ 2010-11 決勝マンチェスター・ユナイテッドFC戦のスターティングメンバー。

2010年夏の移籍市場ではアドリアーノハビエル・マスチェラーノを獲得。2010-11シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ2連覇、リーガ・エスパニョーラ3連覇、UEFAチャンピオンズリーグ優勝を達成した[11][12][13][14][15]2011年夏の移籍市場ではアレクシス・サンチェスフランセスク・ファブレガスを獲得。2011-12シーズンは2008-09年以来3年ぶりのコパ・デル・レイ優勝、スーペルコパ・デ・エスパーニャ[16]、UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップ2011においてはここ3年で2度目の優勝を達成するが、リーガ・エスパニョーラではアビダルが病気を患い、ビジャが2度目の世界一となったクラブワールドカップで左足の脛骨を骨折し5ヶ月の離脱。ペドロ、アレクシス、アドリアーノ、イニエスタが度重なる筋肉系の故障に悩み、その前まで11連勝で迎えたカンプ・ノウでのクラシコにグアルディオラ就任後初めて敗れるなど2位に終わり、そのクラシコを挟んで行われたUEFAチャンピオンズリーグでは、準決勝にて、2006-07シーズン以降勝利のないチェルシー相手に2戦合計3-2で敗れ、シーズン終了後にジョゼップ・グアルディオラは監督を退任した。

2012-13シーズンはアシスタントコーチをつとめていたフランセスク・ビラノバが監督に就任。2012年夏の移籍市場ではジョルディ・アルバアレクサンドル・ソングを獲得。2012年12月にビラノバが病気を理由にチームを暫く離れることになり[17][18]、3月の下旬まで助監督のジョルディ・ロウラがチームを率いることとなった。監督復帰後のUEFAチャンピオンズリーグ 2012-13の準決勝では、バイエルン・ミュンヘンに2戦合計0-7で惨敗。リーガ・エスパニョーラはリーグ史上最多記録に並ぶ勝ち点100を達成して優勝するも、シーズン終了後にビラノバは健康上の理由から監督を退任した。

2013-14シーズンはヘラルド・マルティーノが就任し、2013年夏の移籍市場ではネイマールデニス・スアレス・フェルナンデスを獲得。2013-14シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝を果たすも、シーズン途中の2014年1月24日にロセイは会長職を辞任した。

ジョゼップ・マリア・バルトメウ会長時代

2013-14シーズンはリーガ・エスパニョーラでリーグ史上最多記録となる59週連続首位を達成するも、リーガ・エスパニョーラではアトレティコ・マドリードの後塵を拝する2位、UEFAチャンピオンズリーグでも準々決勝のスペイン対決でそのアトレティコに敗れてベスト8、コパ・デル・レイでは決勝戦でリーグ戦では2連勝した筈のレアルに敗れて準優勝、6シーズンぶりに主要タイトル無冠となり、シーズン終了後にマルティーノは解任された。

2015年6月6日に行われたUEFAチャンピオンズリーグ 2014-15決勝、ユヴェントス戦のスターティングメンバー

2014-15シーズンはルイス・エンリケが監督に就任。2014年夏の移籍市場ではリバプールからクラブ史上最高額の移籍金でルイス・スアレスを獲得したほか、クラウディオ・ブラーボマルク=アンドレ・テア・シュテーゲンジェレミー・マテューイヴァン・ラキティッチトーマス・フェルメーレンらを獲得し、下部組織からジョルディ・マシップを昇格させた。同シーズンは2季ぶりのリーガ・エスパニョーラ優勝、3季ぶりとなるコパ・デル・レイ優勝[19]を果たし、スペイン史上最多となる6度目のリーガ・エスパニョーラとコパ・デル・レイの国内タイトル2冠を達成した。さらにUEFAチャンピオンズリーグではグループリーグオランダ王者アヤックスフランス王者パリ・サンジェルマンキプロス王者APOELと対戦し、決勝トーナメントではイングランド王者マンチェスター・シティフランス王者パリ・サンジェルマンドイツ王者バイエルン・ミュンヘンイタリア王者ユヴェントスと、全ての対戦で各国前年度リーグ王者を撃破して優勝を達成した史上初のクラブに。ヨーロッパのクラブとしては史上初となる2度目の主要タイトル3冠を達成した。メッシスアレスネイマールの3選手により構成された前線は3人の頭文字を取ってMSNと呼ばれ、3人で公式戦122ゴールを決め、スペインサッカー史上最も多くのゴールを奪った3トップとなった。

5月21日、シャビが今季限りで退団することを発表し、カタールのアル・サッドへの移籍も発表された。また、シーズン終了後会長選挙が行われ、バルトメウが再選を果たした。

FIFAから2015年夏の移籍市場での補強禁止処分を下されているため、他チームからの補強が出来なくなっていたが、来冬まで出場出来ないという条件付きでアレイクス・ビダルアルダ・トゥランを獲得した。2015-16シーズンはUEFAスーパーカップ優勝を果たし、これによってACミランを抜いて欧州最多の19回の国際タイトル獲得記録[20]を樹立した。さらにFIFAクラブワールドカップ2015で大会最多の3度目の優勝を果たして2015年を5冠で締めくくった。ちなみにこれが過去10年間で24タイトル目となり、1クラブの10年間でのタイトル獲得数としては史上最多のペースである[21] 。12月30日のベティス戦では年間180ゴールを達成して1クラブとしての年間最多得点記録を樹立した。 2016年の3月3日のラーヨ・バジェカーノ戦の勝利でスペインのクラブとしては史上最多となる公式戦35戦連続無敗記録を達成し,その後エル・クラシコで1-2で敗れ最終的には39まで無敗記録を伸ばした。

下部組織

概要

FCバルセロナも他のスペイン国内クラブ同様、カンテラと呼ばれるユースチームを所有している。FCバルセロナの下部組織はヨーロッパのクラブチームの中でも予算面などで充実している。ラ・マシアと呼ばれる選手寮には、カタルーニャ出身の子弟か、家族とともにカタルーニャに移住した外国人しか入れない。そのため生え抜きの選手は自然とカタルーニャ人が多数派となる。このようなカタルーニャ人選手が優勢な状況もまた、このチームをバルセロナ市民、カタルーニャ人をして「クラブ以上の存在」言わしめるものである。

スペインでは法律により18歳になるまではプロ契約ができないため、近年では育成した選手がトップチームに昇格する直前にプレミアリーグのクラブに引き抜かれる事件がしばしば起きている。アーセナルにはセスクとフラン・メリダリヴァプールにはパチェコマンチェスター・ユナイテッドにはジェラール・ピケが引き抜かれ批判を起こしている。しかしFCバルセロナ自身、当時12歳だったアルゼンチンCAリーベル・プレートエリク・ラメラを家族ごとスペインに連れてこようとし、アルゼンチン国内で批判の声が上がるなど、特に安価で選手を揃えられる南米などの貧困地域で類似の問題を引き起こしている。

組織形態

ユースチームは能力や年齢によって、以下の11チームに分けられている。

名称 対象年齢 責任者
FCバルセロナB[22] 全年齢 エウセビオ・サクリスタン・メナ
フベニルA 17歳〜20歳 オスカル・ガルシア
フベニルB 17歳〜18歳 ガルシア・ピミエンタ
カデーテA 15歳〜16歳 キケ・アルバレス
カデーテB
インファンティルA 13歳〜14歳
インファンティルB
アレビンA 12歳
アレビンB 11歳
ベンジャミンA 10歳
ベンジャミンB 9歳〜10歳

ユニフォーム

  • 1999-2000シーズン後半は、クラブ創立100周年ユニフォームが使用された。
  • 2015-16シーズンの1stユニフォームにはクラブ初となるボーダー柄のユニフォームが採用された。
  • 2005-06、2010-11、2015-16シーズンの1stユニフォームのパンツはえんじ色だった。
  • 2ndユニフォームの配色は毎年異なる。2007-08シーズンはシャツ、パンツ共に水色、2006-07シーズンはシャツ、パンツ共にオレンジ色だった。2013-14、2015-16にはカタルーニャ旗の「セニェーラ」をイメージした2ndユニフォームを使用している。
  • 例年、前年の2ndユニフォームはサードユニフォームとして使用されていたが、ここ数年は使用されていない(しかし、2013-14シーズンの2ndユニフォームを2014-15シーズンのアスレティック戦で1度きりだが使用した)。
  • バスケットボールなど、サッカー以外のチームでも青色とえんじ色の縦ストライプのユニフォームを用いている。こちらはフットボール部門とは違い、商業的な胸スポンサーロゴ契約が結ばれている。

歴代ユニフォーム

1899
1910
1913
1920
1992
1995
1998
1999
2004-2005
2005-2006
2006-2007
2007-2008
2008-2009
2009-2010
2010-2011
2011-2012
2012-2013
2013-2014
2014-2015
2015-2016


スポンサー

一般に多くのサッカークラブではユニフォームにスポンサーのロゴを入れているが、FCバルセロナはソシオにより運営していることから、スポンサーのロゴを入れないことがクラブの伝統となっていた。歴史的な背景もあり、ソシオの会員はクラブに非常に誇りを持っている。上記のような伝統があるが、2006年に児童福祉活動への支援という観点から、ユニセフに対して5年契約で毎年190万ドルの寄付、総額950万ドルの寄付をすることで合意した[23]。これにより、2006年9月12日から史上初めて胸にロゴを入れたユニフォームを着用している。ロゴ本来の色は白であるが、白は宿敵であるレアル・マドリードのチームカラーでもあるため、ホームは黄色、アウェイは水色のロゴになった。2011-12シーズンから5年間の契約でカタール財団とスポンサー契約を結び、1899年のクラブ創設以来初の商用ロゴ入りユニホームを着用している。「カタール財団」が胸スポンサーになったことにより、2011-12シーズンからユニセフのロゴは背番号下に入る。カタール財団のロゴの導入に当たっては、ソシオやクラブOBなどの反対も強く、元選手であり名監督であったヨハン・クライフは「シャツにしみをつけるなんてまっぴらだ。クラブ収益の一割にも満たない金のためにクラブの独立性を捨てるのか!」と反対した。また、スタジアムには「カタールにNO!」と抗議のポスターを掲げるサポーターも現れた。しかし、前会長の就任後にはクラブは4億ユーロの負債を抱えており、その前の4年間はタイトルから離れていた上にライバルのレアル・マドリードの後塵を拝していた。最終的には、現会長の尽力もあって2011年、秋のソシオの総会で承認を得た。現会長のサンドロ・ロセイは「皆さんが反対なら契約は結ばない。しかし、クラブには前会長の残した多大な負債がある」と語った[3]。2013-14シーズンからはカタール財団とともにスポンサーとなっていたカタール航空のロゴが胸に掲示される。また2013年12月には半導体メーカーのインテルともスポンサー契約を結んだが、スポンサーロゴはユニホームの内側にプリントされており、選手がシャツをたくし上げると見えるようになっている。

年度 メーカー 胸スポンサー
1982–1992 Meyda なし
1992–1998 Kappa
1998–2006 Nike
2006–2011 UNICEF
2011–2013 Qatar Foundation
2013– Qatar Airways

現所属メンバー

2015-16シーズン 基本フォーメーション
2015年8月31日現在

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
1 GK ドイツ マルク=アンドレ・テア・シュテーゲン
2 DF ブラジル ドウグラス
3 DF スペイン ジェラール・ピケ
4 MF クロアチア イヴァン・ラキティッチ ()
5 MF スペイン セルヒオ・ブスケツ (第3主将)
6 DF ブラジル ダニエウ・アウヴェス ()
7 MF トルコ アルダ・トゥラン
8 MF スペイン アンドレス・イニエスタ ()
9 FW ウルグアイ ルイス・スアレス
10 FW アルゼンチン リオネル・メッシ (副主将) ()
11 FW ブラジル ネイマール
12 MF ブラジル ラフィーニャ ()
No. Pos. 選手名
13 GK チリ クラウディオ・ブラーボ ()
14 MF アルゼンチン ハビエル・マスチェラーノ (第4主将) ()
15 DF スペイン マルク・バルトラ
17 FW スペイン ムニル・エル・ハダディ ()
18 DF スペイン ジョルディ・アルバ
19 FW スペイン サンドロ・ラミレス
20 MF スペイン セルジ・ロベルト
21 DF ブラジル アドリアーノ ()
22 MF スペイン アレイクス・ビダル
23 DF ベルギー トーマス・フェルメーレン
24 DF フランス ジェレミー・マテュー
25 GK スペイン ジョルディ・マシップ

※括弧内の国旗はその他保有国籍、もしくは市民権、星印はEU圏外選手を示す。

監督

ローン移籍

out

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
-- DF スペイン マルティン・モントヤ (ベティス)
-- MF クロアチア アレン・ハリロヴィッチ (ヒホン)
No. Pos. 選手名
-- MF カメルーン アレックス・ソング (ウェストハム)
-- FW スペイン クリスティアン・テージョ (フィオレンティーナ)

クラブ成績

シーズン 国内 UEFA 監督 会長
順位 試合 カップ スーパーカップ CL カップ[24]
1899-1900 リーグ存在せず 存在せず 存在せず 存在せず 不明 ウォルター・ワイルド
1900-1901
1901-1902 準優勝 バルトミュー・テラデス
1902-1903 ポール・ハース
1903-1904 アルサー・ウィティー
1904-1905
1905-1906 ジョセップ・ソラー
1906-1907 ジュリ・マリアル
1907-1908
1908-1909 ヴィセン・レイグ
ハンス・カンパー
1909-1910 優勝[25] ハンス・カンパー
1910-1911 オット・グメリン
1911-1912 優勝 ハンス・カンパー
1912-1913 優勝[25]
1913-1914 フランシス・デ・モホ
1914-1915 フランシス・デ・モホ
アルバー・プレスタ
ホアキン・ペリス・デ・バーガス
1915-1916 ラファエル・ロパート
1916-1917 ジョン・バロー ガスパー・ロセス
1917-1918 ジャック・グリーンウェル ハンス・カンパー
1918-1919 準優勝
1919-1920 優勝 リカルド・グラエルス
1920-1921 ガスパー・ロセス
1921-1922 優勝 ハンス・カンパー
1922-1923
1923-1924 エリック・カルドナ
1924-1925 優勝 ポソニ・イェサ ハンス・カンパー
1925-1926 優勝 ラルフ・カービー アラディー・バラガー
1926-1927 ジャック・デムビー
1927-1928 優勝 ローマ・フォルンス
1928-1929 優勝 18 11 3 4
1929-1930 2位 18 11 1 6 ジェームス・ベラミー トーマス・ロセス
1930-1931 4位 18 7 7 4 ガスパー・ロセス
1931-1932 3位 18 10 4 4 準優勝 ジャック・グリーンウェル アントニ・オリバー
ジョアン・コマ
1932-1933 4位 18 7 5 6 ジョアン・コマ
1933-1934 9位 18 8 0 10 ジャック・デムビー
1934-1935 6位 22 9 6 7 フェレンツォ・プラトコ エステベ・サーラ
1935-1936 5位 22 11 2 9 準優勝 パトリック・オコーネル ジェセップ・スニョール・ガリーガ
1936-1937 スペイン内戦により
開催されず
開催されず 不明 不明
1937-1938
1938-1939 ジョセップ・プラナス
1939-1940 9位 22 8 3 11
1940-1941 4位 22 13 1 8 エンリケ・ピネイロ
1941-1942 12位 26 8 3 15 優勝 開催されず ラモン・グスマン
1942-1943 3位 26 14 4 8 ジョアン・ジョセップ・ノゲス ジョセフ・ヴィダル・リバス
⇒エンリケ・ピネイロ
1943-1944 6位 26 10 8 8 ジョセフ・アントニ・デ・アルベルト
ジョセフ・ヴェンドレル
1944-1945 優勝 26 17 5 4 アルゼンチンの旗 ホセ・サミティエール ジョセフ・ヴェンドレル
1945-1946 2位 26 14 7 5 優勝
1946-1947 4位 26 14 3 9 不明
1947-1948 優勝 26 15 7 4 エンリケ・フェルナンデス
1948-1949 優勝 26 16 5 5 優勝
1949-1950 5位 26 13 3 10 準優勝 エンリケ・フェルナンデス
ラモン・ローレンス
1950-1951 4位 30 16 3 11 優勝 フェルディナント・ダウチーク
1951-1952 優勝 30 19 5 6 優勝 準優勝
1952-1953 優勝 30 19 4 7 優勝 優勝 アグスティ・モンテリ・ガロバルト
1953-1954 2位 30 16 4 10 準優勝 優勝 エンリック・マルティ
1954-1955 2位 30 17 7 6 開催されず サンドロ・プッポ
1955-1956 2位 30 22 3 5 優勝 プラットコー・フェレンツ
1956-1957 3位 30 16 7 7 優勝 ドメネク・バルマナヤ
1957-1958 3位 30 17 4 9 ドメネク・バルマナヤ
アルゼンチンの旗 エレニオ・エレーラ
1958-1959 優勝 30 24 3 3 優勝 優勝 アルゼンチンの旗 エレニオ・エレーラ
1959-1960 優勝 30 22 2 6 ベスト4
1960-1961 4位 30 13 6 11 準優勝 リュビシャ・ブロチッチ
エンリケ・オリサオラ
1961-1962 2位 30 18 4 8 準優勝 ルイス・ミロ エンリック・ラウデ
1962-1963 6位 30 11 9 10 優勝 ラディスラオ・クバラ
ジョセップ・ゴンサルボ
1963-1964 2位 30 19 4 7 スペインの旗 セサル・ロドリゲス
1964-1965 6位 30 14 4 12 スペインの旗 セサル・ロドリゲス
ヴィセンツォ・サソ
1965-1966 3位 30 16 6 8 優勝 ロケ・オルセン
1966-1967 2位 30 20 2 8
1967-1968 2位 30 15 9 6 優勝 サルバドール・アルティガス
1968-1969 3位 30 13 10 7 ナルシス・デ・カレーラス
1969-1970 4位 30 13 9 8 ジョセップ・セゲール アグスティ・モンタル
1970-1971 2位 30 19 5 6 優勝 優勝 ビク・バッキンガム
1971-1972 3位 34 17 9 8 オランダの旗 リヌス・ミケルス
1972-1973 2位 34 18 10 6 初戦敗退
1973-1974 優勝 34 21 8 5 準優勝 初戦敗退
1974-1975 3位 34 15 7 12
1975-1976 2位 34 18 7 9 ベスト4 ドイツの旗 ヘネス・バイスバイラー
ラウレアノ・ルイス
1976-1977 2位 34 18 9 7 ベスト8 オランダの旗 リヌス・ミケルス
1977-1978 2位 34 16 9 9 優勝 ベスト4 レイモン・カラスコ
1978-1979 5位 34 16 6 12 フランスの旗 ルシアン・ミュラー ホセ・ルイス・ヌニェス
1979-1980 4位 34 13 12 9 ホアキム・リフェ
1980-1981 5位 34 18 5 11 優勝 2回戦敗退 エレニオ・エレーラ
1981-1982 2位 34 19 7 8 ドイツの旗 ウド・ラテック
1982-1983 4位 34 17 10 7 優勝 ドイツの旗 ウド・ラテック
ジョセップ・ルイス・ロメロ
1983-1984 3位 34 20 8 6 準優勝 優勝 アルゼンチンの旗 セサル・ルイス・メノッティ
1984-1985 優勝 34 21 11 2 イングランドの旗 テリー・ヴェナブルズ
1985-1986 2位 34 18 9 7 準優勝 準優勝 準優勝
1986-1987 2位 44 24 15 5 開催されず
1987-1988 6位 38 15 9 14 優勝 スペインの旗 ルイス・アラゴネス
1988-1989 2位 38 23 1 4 準優勝 オランダの旗 ヨハン・クライフ
1989-1990 3位 38 23 5 10 優勝
1990-1991 優勝 38 25 7 6 準優勝
1991-1992 優勝 38 23 9 6 優勝 優勝
1992-1993 優勝 38 25 8 5 優勝
1993-1994 優勝 38 25 6 7 準優勝 準優勝
1994-1995 4位 38 18 10 10 優勝 ベスト8
1995-1996 3位 42 22 14 6 準優勝
1996-1997 2位 42 28 6 8 優勝 優勝 イングランドの旗 ボビー・ロブソン
1997-1998 優勝 38 23 5 10 優勝 準優勝 グループステージ敗退 オランダの旗 ルイ・ファン・ハール
1998-1999 優勝 38 24 7 7 準優勝 グループステージ敗退
1999-2000 2位 38 19 7 12 準優勝 ベスト4 ジョアン・ガスパール
2000-2001 4位 38 17 12 9 1次グループリーグ敗退 ロレンソ・セラ・フェレール
スペインの旗 カルロス・レシャック
2001-2002 4位 38 18 10 10 初戦敗退 ベスト4 スペインの旗 カルロス・レシャック
2002-2003 6位 38 15 11 12 初戦敗退 ベスト8 オランダの旗 ルイ・ファン・ハール
セルビアの旗 ラドミル・アンティッチ
ジョアン・ガスパール
エンリック・レイナ
2003-2004 2位 38 21 9 8 ベスト8 ベスト16 オランダの旗/スリナムの旗 フランク・ライカールト ジョアン・ラポルタ
2004-2005 優勝 38 25 9 4 初戦敗退 ベスト16
2005-2006 優勝 38 25 7 6 ベスト8 優勝 優勝
2006-2007 2位 38 22 10 6 ベスト4 優勝 ベスト16
2007-2008 3位 38 19 10 9 ベスト4 ベスト4
2008-2009 優勝 38 27 6 5 優勝 優勝 スペインの旗 ジョゼップ・グアルディオラ
2009-2010 優勝 38 31 6 1 ベスト16 優勝 ベスト4
2010-2011 優勝 38 30 6 2 準優勝 優勝 優勝 サンドロ・ロセイ
2011-2012 2位 38 28 7 3 優勝 優勝 ベスト4
2012-2013 優勝 38 32 4 2 ベスト4 準優勝 ベスト4 スペインの旗 ティト・ビラノバ
2013-2014 2位 38 27 6 5 準優勝 優勝 ベスト8 アルゼンチンの旗 ヘラルド・マルティーノ サンドロ・ロセイ
ジョゼップ・マリア・バウトメウ
2014-2015 優勝 38 30 4 4 優勝 優勝 スペインの旗 ルイス・エンリケ ジョゼップ・マリア・バウトメウ
2015-2016 準優勝
合計 優勝23回 優勝27回[26] 優勝15回[27] 優勝5回 優勝4回[28]

タイトル

国内タイトル(カタルーニャ)

国内タイトル

  • プリメーラ・ディビシオン:23回
    • 1928-29, 1944-45, 1947-48, 1948-49, 1951-52, 1952-53, 1958-59, 1959-60, 1973-74, 1984-85, 1990-91, 1991-92, 1992-93, 1993-94, 1997-98, 1998-99, 2004-05, 2005-06, 2008-09, 2009-10, 2010-11, 2012-13, 2014-15
  • コパ・デル・レイ:27回
    • 1909-10, 1911-12, 1912-13, 1919-20, 1921-22, 1924-25, 1925-26, 1927-28, 1941-42, 1950-51, 1951-52, 1952-53, 1956-57, 1958-59, 1962-63, 1967-68, 1970-71, 1977-78, 1980-81, 1982-83, 1987-88, 1989-90, 1996-97, 1997-98, 2008-09, 2011-12, 2014-15

国内タイトル(非公式大会)

国際タイトル

国際タイトル(非公式大会)

歴代所属選手

歴代キャプテン


脚注

  1. ^ Camp Nou – FC バルセロナ オフィシャル ページ
  2. ^ FCバルセロナはカタルーニャ民族主義の象徴であるが、クラブ側はカタルーニャ独立運動には選手に自制を促すなど抑制的である。
  3. ^ a b 「転機のサッカービジネス」『朝日新聞グローブ』2012年4月1日発行通巻84号
  4. ^ Deloitte Football Money League 2014(2014年1月に国際監査法人『デロイト』が公表した2012-2013シーズンの欧州サッカーのクラブ収入ランキング)
  5. ^ 2012年にイギリスメディア『sportingintelligence.com』が調査した、世界のスポーツチームの平均年俸ランキング
  6. ^ “カタルーニャ独立運動 募る政府への不満”. NHK. (2012年11月1日). http://www.nhk.or.jp/worldwave/marugoto/2012/11/1101m.html 2013年9月14日閲覧。 
  7. ^ ジミー・バーンズ (2012年11月27日). “名門バルサにカタルーニャ独立運動の影”. ニューズウィーク. http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2012/11/post-2777.php 2013年9月14日閲覧。 
  8. ^ FCBarcelona.cat”. FCBarcelona.cat. 2009年1月21日閲覧。
  9. ^ 日本スポーツ企画出版社 2006-2007 EUROPE SOCCER TODAY 完結編10、11頁
  10. ^ 圧倒的な強さで連覇を達成しても、バルサの攻撃サッカーは発展途上。 -NumberWeb: 2010年5月19日
  11. ^ モウリーニョとレアルを完全凌駕した、グアルディオラとバルサの戦術と能力。 -NumberWeb: 2011年4月28日
  12. ^ レアルの敵はバルサ+疑惑の判定!?激闘のクラシコ最終戦を読み解く。 -NumberWeb: 2011年5月5日
  13. ^ 「熟成」のマンUと「進化」のバルサ。2年前とは似て非なるCL決勝の風景。 -NumberWeb: 2011年5月28日
  14. ^ バルサ4度目のCL制覇を陰で支えた、プジョルとアビダルの見えない功績。 -NumberWeb: 2011年5月30日
  15. ^ 最新トレンドは「ポジションレス」!? CL決勝にみる、バルサ究極の進化形。 -NumberWeb: 2011年6月12日
  16. ^ 同大会の3連覇はレアル・マドリードが1988-89シーズンから1990-91シーズンにかけて達成したが、1989年は当時の規定により1988-89シーズンのリーガ・エスパニョーラとコパ・デル・レイの双方を優勝したことで自動的に優勝を認定されたため、3年とも試合を行っての3連覇は史上初である。
  17. ^ ティト・ビラノバ、木曜日に手術(FCバルセロナ公式サイト 2012年12月19日)
  18. ^ バルサのビラノバ監督、がん再発で手術へ(UEFA.com 2012年12月19日)
  19. ^ トーナメント全勝を達成しての優勝は1953-54シーズン以来。
  20. ^ 現存するタイトルに限る
  21. ^ [1]バルサが10年間で最もタイトルを稼いだ欧州クラブに
  22. ^ 2007年までバルサCが存在していたが、バルサB(当時)のテルセーラ・ディビシオン降格にともない、消滅した。
  23. ^ "FCバルセロナ ユニセフとの歴史的パートナーシップを発表" (Press release). UNICEF. 7 September 2006. 2012年7月1日閲覧
  24. ^ 1955-1956シーズンから1970-1971シーズンまではインターシティーズ・フェアーズカップ、1971-1972シーズンから2008-2009シーズンまではUEFAカップ、2009-2010シーズン以降はUEFAヨーロッパリーグ
  25. ^ a b 1909-1910シーズン、1912-13シーズンはスペインサッカー連盟主催の大会とスペインサッカークラブ連合主催の大会が並存しており、FCバルセロナが優勝したのはスペインサッカークラブ連合の大会
  26. ^ うち2回はスペインサッカークラブ連合主催
  27. ^ うち4回はコパ・デ・オロ・アルヘンティーナとコパ・エバ・ドゥアルテ
  28. ^ ただし、全てUEFAカップの前身となったインターシティーズ・フェアーズカップ

参考文献

  • 岡崎明子『バルセロナ地中海都市の歴史と文化』(中央公論新社、2010年)
  • 田澤耕『カタルーニャを知る辞典』(平凡社、2013年)
  • 日本スポーツ企画出版社 2006-2007 EUROPE SOCCER TODAY 完結編
  • 日本スポーツ企画出版社 2007-2008 EUROPE SOCCER TODAY 完結編

関連項目

外部リンク

座標: 北緯41度22分51.2秒 東経2度7分22.1秒 / 北緯41.380889度 東経2.122806度 / 41.380889; 2.122806