B&B (漫才)

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 B&B
メンバー 島田洋七
島田洋八
結成年 1972年
活動時期 1972年-
芸種 漫才
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B&B(ビー アンド ビー)は、日本漫才コンビ。広島市出身の島田洋七(しまだ ようしち、1950年2月10日 - )と岡山県笠岡市出身の島田洋八(しまだ ようはち、1950年2月13日 - )の2人からなる。このコンビの東京進出が漫才ブームを誘発・点火させた[1]
コンビ名「B&B」は洋七が、昔アルバイトしていたディスコの店名を勝手に拝借したもので意味はない[2]

目次

[編集] 概要

1972年、島田洋一(洋七)と団順一でコンビ結成。当初は団がリーダーで、弟子上がりで素人然の洋一に対し、学生時代から横山やすしの添削を受け笑いのセンスを磨いた団が洋一に教え込む形でリードしていた。その後団が失踪したために、洋一は上方真一(現在の上方よしお)とコンビを組み直す。若手実力派の最右翼として評価も高く、島田紳助も素人時代に洋一に憧れて彼の師匠である島田洋介に入門した。紳助が見たときの洋一の相方は真一である。しかし、真一は東京進出に反対し、洋一に楽器を持つよう指示されたことに真一は反発するなど、2人の意見の相違から解散し、1975年花月劇場の進行役をしていた島田洋八とコンビを結成する。この時「七転び八起き」から、洋一は洋七に改名。「ヤングおー!おー!」(MBS制作)のチンチラチンコーナーにレギュラー出演がならなかった事で大阪での活動に限界を感じる[3][4]1979年、東京進出には消極的だった吉本興業を離れ、東京の漫才協団に加入。浅草松竹演芸場の他新宿末廣亭等の寄席に出演するようになった。

1980年1月「花王名人劇場」、4月「THE MANZAI」に出演。7月には「お笑いスター誕生!!」での10週連続勝ち抜き初代グランドチャンピオンとなった。これらの活躍により1980年代初頭の漫才ブームの火付け役となりツービートザ・ぼんちのりお・よしお紳助・竜介らが後に続いた[5]。当時既に星セント・ルイスが人気を得ていたが、この頃の漫才師の中ではB&Bが、アイドル的人気を得てブロマイドが売れるという現象まで引き起こし一気に追い抜いた。この年の秋からフジテレビ系列で放送された「笑ってる場合ですよ!」の総合司会を務めるなど一世を風靡した。

岡山県広島県の郷土性をあつかったギャグが多く、代表的なものに『モミジマンジュウ!』がある。他に当時アフロヘアだった洋八の頭に向かって『小野田さ~ん』、笑いながら『メチャメチャ陰気やで~』、『リンゴとみかん、どっちがバナナ』などが有名。こうした郷土ギャグ、オーバーアクションの一発芸、ボケだけによる機関銃のような一方的な喋りなど、多くがその草分けといえるものであり、島田紳助は、(漫才ブームを通じて)「新しいことをやったのは、B&Bとツービート、紳助・竜介だけ。ほかは前からあったもの」と述べている。

「お笑い」関係の多くの著書があり、漫才ブームにも係わった井上宏は、「B&Bが東京で大活躍しなければ、漫才ブームも起きなかったかもしれない」と述べている[6]。また「笑点」のチーフ作家・遠藤佳三も「B&Bの東京進出がなかったら、若手漫才ブームは、もっと小さなもので終わっていただろうと思う。B&Bは東京人に上方漫才の面白さをあらためて吹きこみ、関西弁に違和感をおぼえる人々にも、こと漫才だけは抵抗なく受け入れてもらえる素地を作ったのである。その素地がなければ、大阪のニューウェーブ漫才は、そう簡単に東京に進出できなかったはずだ」と述べている[7]関西弁近畿方言)の全国普及は、漫才ブーム以降の関西お笑いタレントの東京進出の活発化によってより広まったものだが、その嚆矢は非関西人のB&Bなのである。B&Bの漫才は、老若男女、誰にもわかりやすく、親しみやすかった。また非常に陽気で愛敬があり言葉の毒を中和して、若い視聴者を関西弁の笑いに馴染ませ素地作りに貢献したのである[8]放送作家西条昇も、「漫才ブームの最大の功労者を挙げるとすれば、人によって異論はあるだろうが、僕は「B&B」と「ザ・ぼんち」を挙げることにしたい。彼ら二組の存在が無ければ、漫才があれほど全国的な大ブームになることなどあり得なかったと思うからである。「B&B」はブームの実質的火つけ役であり、「ザ・ぼんち」はブーム中期から後期にかけての象徴的存在だった」と述べている[9]

漫才ブーム当時は漫才師で最も人気が有り、2007年の日本テレビメレンゲの気持ち』の放送で洋七は「月給が最高の月は8000万円、4年間で32億円稼いだ」と自称している。フジテレビ系列で放送された「オレたちひょうきん族」の企画で、洋八と松本竜介ビートきよしの3人で「うなずきトリオ」を結成し、大瀧詠一プロデュースによる「うなずきマーチ」というレコードも出した。ただし、この人気が原因で漫才のネタを考える時間が無くなり(移動時が唯一睡眠出来る時間だったと言われている)、同じネタを繰り返し使うようになり、徐々に観衆から飽きられるようになってしまう。

1983年B&Bは解散し、島田洋七は国分健二(元・浮世亭ケンジ)と新たにスティングを結成、抜群の面白さを見せたが、所属事務所の力も弱かったためか、テレビではそれほど出演することが出来なかった。テレビ朝日トゥナイト」のレギュラーになるも、すぐに吉本興業の新人タレントにその座を奪われた。のちにB&Bと改名するが、解散。間寛平とも漫才コンビを組むがうまくいかず、1991年1991真夏大阪漫才格闘技バトルロイヤルで8年ぶりに再結成、しかしまたも解散。親友のビートたけしの番組「北野ファンクラブ」で番組内限定の漫才コンビ“B&BEAT”でたけしとともに漫才のカンを維持、その後1996年に洋八と再々結成、吉本に復帰。復帰当時は駆け出しからの出直しを誓い、トップバッターを受け持ち、「もみじ饅頭」等のギャグを封印。正統派漫才で見せると公約した。現在も漫才を続け、なんばグランド花月他で月替わりのレギュラー出演、スピード感溢れる掛け合いは色あせていない。封印したギャグは現在は解禁している。

洋七は現在、佐賀県佐賀市に在住。2001年冬から毎年末恒例になっている「M-1グランプリ」で2年目から審査員を務める。また佐賀での極貧の少年時代を著した「佐賀のがばいばあちゃん」が現在ベストセラーとなっており、漫画化・映画化もされた。現在はピンで講演やテレビ出演が多い。

洋八は映画俳優活動も行い、近年女性歯科医と再婚し伊豆諸島に移住したことがテレビで紹介された。

[編集] 逸話

  • 当時着ていたトレーナーなどのロゴのデザインは当時流行っていたABBAのロゴを拝借していた。
  • お笑いスター誕生の10週勝ち抜きチャンピオンの座は実力からして獲得できて当然であるが、洋七自身「あの番組には出来レース的な演出があった」と後に述べている。

[編集] 受賞歴

[編集] レコード

[編集] シングル

  1. 恋のTake 3(1980年9月21日) 07SH846
    作詞:高田ひろお 作曲:鈴木邦彦 編曲:鈴木邦彦
    (c/w)ミツコ
    作詞:高田ひろお 作曲:鈴木邦彦 編曲:鈴木邦彦
  2. 潮風の香りの中で(1981年5月1日) 07SH972
    作詞:高木佳代 作曲:下園千晶 編曲:矢野立美
    (c/w)ひとり旅
    作詞:下園千晶 作曲:下園千晶 編曲:矢野立美
  3. 泣き虫ハイウェー(1981年10月) 07SH1056
    作詞:吉村優輝 作曲:鈴木邦彦 編曲:鈴木邦彦
    (c/w)TOKYO CAR BOYビリー・ザ・キッド
    作詞:松本一起 作曲:鈴木邦彦 編曲:鈴木邦彦
  4. 世の中わからない節(1981年11月) 07SH1095
    作詞:島田洋七 作曲:島田洋七
    (c/w)おんど笠岡
    作詞:吉村優輝 作曲:信楽順三

[編集] アルバム

  1. 人気もん!ふたり旅 (1981年) 28AH1281


※ 全てCBSソニーよりリリース

[編集] 書籍

  • 『B&Bの仁義なき戦い 広島ヤクザと岡山ギャングの巻』 KKベストセラーズ(1980年9月)
  • 『B&Bの愛しかた愛されかた』 KKベストセラーズ(1980年12月)
  • 『B&Bと遊ぶ本 いたずらハイスクール<爆笑編>』 KKベストセラーズ(1982年1月)

[編集] ドラマ出演

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 『昭和ヒーロー事典』講談社、1989年7月、p582-583
    西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年 460頁
    中田明成著『漫才ブームなのです』 作品社、1981年、18、19頁
    ツカサネット新聞
    紫峰祭特別講演会 2007年10月7日
    あっと九州/島田洋七インタビュー
    asahi.com(朝日新聞社):就職・転職ニュース
    .元吉本芸人の松稔が運営するSTART LINEのアメブロ
    もくめレポート 第1回 平川さんの話(WヤングとB&B)
  2. ^ 『転起力。 人間「島田洋七」から何を学ぶのか』 創英社 2009年 88頁
  3. ^ 西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 白泉社 2003年 460頁。
  4. ^ 洋七によると「折角大阪では売れ出したのに、故郷広島ではほとんど知名度が無かったことに落胆し、やはり東京に拠点を移して東京発の番組に多くでなければダメだと悟った。」といった別説が有る。
  5. ^ 『昭和ヒーロー事典』、p582-583
    ながいやんの「ファイト!」: 漫才ブームと甦る「やす・きよ漫才」
    ぴいぷる:ZAKZAK
  6. ^ 井上宏著『まんざいー大阪の笑いー』世界思想社、1981年、p19
  7. ^ 遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』青蛙房、2002年6月、p218-219、224
  8. ^ 遠藤佳三著『東京漫才うらばな史』、p220、224
  9. ^ 西条昇著 『ニッポンの爆笑王100―エノケンから爆笑問題までニッポンを笑いころがした面々』 460頁

[編集] 外部リンク

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