黒部の太陽

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黒部の太陽』(くろべのたいよう)は、木本正次による1964年発表の小説、ならびにこれを原作とする1968年公開の日本映画である。

当時、世紀の難工事と言われた黒部ダム建設の苦闘、特にトンネル工事を描いている。

1969年2009年に制作されたテレビドラマ版については、「黒部の太陽 (テレビドラマ)」を参照。

小説[編集]

黒部の太陽』は毎日新聞編集委員であった木本正次の1964年の毎日新聞への連載小説であり、挿絵土井栄が担当した[1]。同年、毎日新聞社より書籍化される[2]。書籍化の際に数十枚の加筆が行われている[3]。映画の公開に合わせて1967年に講談社より再刊された[4]

映画[編集]

黒部の太陽
監督 熊井啓
脚本 井手雅人
熊井啓
原作 木本正次
ナレーター 平光淳之助
出演者 三船敏郎
石原裕次郎
音楽 黛敏郎
撮影 金宇満司
編集 丹治睦夫
製作会社 三船プロダクション
石原プロモーション
配給 日本の旗 日活
アメリカ合衆国の旗東宝国際
公開 1968年2月17日東宝洋画系ロードショー)
1968年3月1日(日活系全国封切)
上映時間 196分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
興行収入 16億円[5]20億円以上[6]
配給収入 7億9616万円[7]
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劇団民藝の全面協力による、三船プロダクション石原プロモーション関西電力と組んで共同制作した[5][6]。関西電力と熊谷組[5]下請け・関連企業が[5]大量の前売り券を購入し[5]、巨額の興収をあげた[5][6][8]。企業タイアップ映画の先駆けとなった作品である[5][6][8]

出演者[編集]

関西電力
  • 太田垣(社長) - 滝沢修
  • 芦原(常務取締役) - 志村喬
  • 平田(黒四建設事務所所長) - 佐野周二
  • 北川覚(黒四建設事務所次長) - 三船敏郎
  • 黒崎(建設部部長) - 芦田伸介
  • 吉野(建設部次長) - 岡田英次
  • 武本(黒四建設事務所次長) - 信欣三
  • 山口(黒四建設事務所土木課長) - 英原穣二
  • 大橋(太田垣社長秘書) - 庄司永建
  • 千田(黒四建設事務所技師) - 鈴木瑞穂
  • 谷村(黒四建設事務所技師) - 水谷貞雄
  • 伊藤(黒四建設事務所技師) - 伊藤浩
  • 芝田(黒四建設事務所所員) - 小柴隆
  • 筈見(黒四建設事務所事務員) - 岸野早百合
  • 木村(関西電力社員) - 山本勝
  • 瀬山(関西電力第三工区工区長) - 雪岡恵介
  • 倉沢(関西電力第三工区工区長代理) - 長尾敏之助
第三工区 熊谷組
  • 藤村(熊谷組専務) - 柳永二郎
  • 岩岡剛(熊谷組岩岡班) - 石原裕次郎
  • 岩岡源三(岩岡の父、岩岡土木社長) - 辰巳柳太郎
  • 佐山(岩岡班、岩岡土木幹部) - 玉川伊佐男
  • 塚本(熊谷組工事課長) - 山内明
  • 安部(岩岡班、岩岡土木幹部) - 下川辰平
  • 与一郎(源三の長男、岩岡の兄) - 寺田誠
  • 上手(岩岡班労務者) - 草薙幸二郎
  • 神田(岩岡班労務者) - 下條正巳
  • テツ(岩岡班労務者) - 稲垣隆史
  • 川村(岩岡班労務者) - 佐野浅夫
  • 田中(岩岡班労務者) - 日野道夫
  • ピン(岩岡班労務者) - 岡倉俊彦
  • 安部重夫(岩岡班労務者) - 平田重四郎
  • 源三にたたかれる労務者 - 田口精一
  • 第三工区区長 - 雪丘恵介
  • 岩岡班労務者 - 榎木兵衛武藤章生大浜詩郎、有村道宏、伊豆見英輔、岩手征四郎、田畑善彦、千代田弘、中平哲仟、晴海勇三
第一工区 間組
  • 国木田(間組所長代理) - 加藤武
  • 大野(間組工事課長) - 高津住男
  • 高橋(間組班労務者) - 牧野義介
  • 上條(上條班班長) - 大滝秀治
  • 上條班労務者 - 嶺田則夫、熱海弘到、小林亘、島村謙次、二木草之助、根本義幸
第四工区 佐藤工業
  • 森(佐藤工業社員) - 宇野重吉
  • 賢一(森の息子、佐藤工業作業員) - 寺尾聰
  • 小田切(佐藤工業工事課長) - 二谷英明
  • 木内(佐藤工業黒四出張所技師) - 長弘
  • 高木(佐藤工業黒四出張所技師) - 斉藤雄一
  • 竹山(佐藤工業測量技師) - 野村隆
  • 徳田(徳田班班長) - 宮崎準
  • 徳田班労務者 - 近江大介、小川吉信、肉倉正男、山吉克昌
第五工区 大成建設
  • 木原(大成建設大阪支店長) - 宮坂将嘉
  • 熊田(大成建設工務部長) - 成瀬昌彦
  • 大成建設労務者 - 紀原土耕、露木譲、桝谷一政
北川家
その他
  • きく(森の妻) - 北林谷栄
  • 医師 - 内藤武敏
  • 田山(地質学者) - 清水将夫
  • 記者 - 岡部政明
  • 京都の建設事務所の部長 - 伊藤寿章(澤村昌之助)
  • 京都の建設事務所の事務員 - 山口仁奈子
  • ポッカ頭(荷運びの男) - 山口博義
  • ナレーター - 平光淳之助

データ[編集]

1968年2月17日公開

  • 興行収入 - 16億円[5]
  • 配給収入 - 約7.9億円(1968年の配給収入第1位)[要出典]
  • 観客動員数 - 800万人[6]

スタッフ[編集]

使用されたクラシックの楽曲[編集]

製作発表から製作開始まで[編集]

1962年日活から独立し制作プロダクションを設立した石原裕次郎は、五社協定の枠に苦しめられ、「自分で映画を作る」という当初の目標が揺らいでいた。1963年には独立後の第1弾として、映画監督の市川崑とタッグを組み海洋冒険家の堀江謙一をモデルとした映画『太平洋ひとりぼっち』を公開し第14回ブルーリボン賞企画賞、芸術祭賞等を獲得し高く評価されたものの、興行面では失敗に終わった。

1964年、同じく東宝から独立し自身を社長とする制作プロダクションを設立していた三船敏郎と石原裕次郎の2人が会見し、三船プロ・石原プロの共作で映画化すると発表した。しかし実現までには間隔が空いた。

日活との問題に加え、当時、石原プロの元にはスタッフ・キャスティングに必要な人件費が500万円しか無かった。石原裕次郎はこの500万円を手に、劇団民藝の主宰者であり、俳優界の大御所である宇野重吉を訪ね、協力を依頼した。宇野は民藝として全面協力することを約束し、宇野を含めた民藝の所属俳優、スタッフ、必要な装置などを提供。以降、裕次郎は宇野を恩人として慕うようになった。

また、制作に当たって映画会社から関西電力に対して圧力が掛かっていたが、これについては石原裕次郎と直接会った当時の社長が、石原裕次郎の映画制作への気持ちを汲み、圧力に屈するどころか、全面協力をしたとされている[注 1]。そして、三船敏郎は製作にもっとも強く反対していた日活の堀久作社長に直々に交渉し、「関西電力が映画の前売り券100万枚の販売を保証しているが、配給は日活でどうか」ともちかけたことで、堀社長は裕次郎出演を認める方向へ方針を変えた。

1966年、再び三船と裕次郎が会見を開き、毎日新聞で連載されていた『黒部の太陽』を映画化すると発表した。

製作から公開まで[編集]

映画製作には莫大な資金が必要で、大掛かりな撮影となった。

トンネル工事のシーンが多く、再現セットは愛知県豊川市熊谷組の工場内に作成された。切羽(トンネル掘削の最先端箇所)の奥から多量の水が噴出する様を再現する420トンの水タンクもあり、見せ場であったが、出水事故があり石原裕次郎他数人が負傷した[9]。出水事故の原因は、撮影が1日遅れたことにより、水タンクから出た水を一旦溜め置く切羽のコンクリートの硬度が増したために、切羽が想定以上の大量の水を溜めてしまい、その後壊れて一気に水が流れ出たことである[注 2]。水槽のゲートが開かれると10秒で420トンの水が流れ出し、役者もスタッフも本気で逃げた。水が噴出する直前に三船は大声で「でかいぞ」と叫び、裕次郎らと走る必死の姿をカメラが捕らえており、撮影は成功した。監督の熊井は、もし三船が恐怖のあまり立ちすくんでいたら撮影も失敗して死傷者も出たかもしれないと回想している[要出典]。大洪水の中でも仁王立ちとなって演技をした三船の姿が、30年以上たった今も瞼に焼き付いていると語った[10]

オープンセットがトタン張りであったため、照明機材の熱も入りセット内は蒸し風呂のように暑く、岩岡班労務者を演じた大浜詩郎は撮影期間中は連日点滴を打ちながら撮影に臨んでいた。大浜は後年のインタビューで「まだ若かったから乗り切ることが出来た。本作の苦労を思えばどんな撮影も辛くない」と述べている[11]。1年以上の撮影期間を経て、1968年2月に公開された。

影響[編集]

企業タイアップである本作の大成功により[5][6][8]、"ヤナギの下にはドジョウが何匹もいる"と信じて疑わない日本の映画会社[5]、大会社や会員組織を持った化粧品会社等に話を持ち掛けた[5]。当時不振が続いていた東宝は、当時で従業員30数万人、関連企業を合わせればその倍といわれ、"組織の三菱"と結束のかたさで鳴る大三菱にタイアップを働きかけ[5]、東宝の田中友幸プロデューサーが、万博三菱未来館の総合プロデュースを担当したのが縁で[5]三菱の創始者・岩崎弥太郎の一代記を描く『土佐の暴れん坊』(『商魂一代 天下の暴れん坊』)の製作を決めた[5][12][13]。三菱サイドとしても当時は一般には全くの無名で[5]、三菱社員でも昭和生まれはほとんど知らない創始者を知ってもらい[5][12]消費者に親近感を持たせたいと利が一致した[5]。製作費1億2,000万円のうち、三菱が7,000万円を出資した[12]前売り券の窓口を田実渉三菱銀行頭取に依頼し万全の体制を敷いた[5]東映は当時、映画製作興行が絶好調で[14]、あえて企業タイアップ映画を作る必要はなかったが、鹿島守之助鹿島建設会長が本作製作にもかんでいたことに刺激を受け[15]、企業タイアップ映画に意欲を燃やし[15]、劇場建設で付き合いのあった東映に話を持ちかけ[16]、『超高層のあけぼの』を製作した[15]前売り券は[要校閲][17]。『超高層のあけぼの』は、鹿島建設が前売り券150万枚を全て引き取り[17]、売上上は大ヒットを記録したが[17]、劇場はガラガラだったといわれる[5]。他の映画会社の企業タイアップ映画としては、現代映画社と日本航空の『さらば夏の光よ』[5][6]日活(真珠舎プロ)と日本水産の『荒い海[5][6]、東宝と東芝商事の『若者よ挑戦せよ[6]、石原プロと日産自動車の『栄光への5000キロ』が製作された[5][6]。映画会社としては製作費が安上がりで済む上に大ヒットとなれば申し分なく、何とか不況を打開しようという映画界にとっては恵の雨で、一時的に流行した[5][6][12]

テレビ放映・ソフト状況[編集]

1968年キネマ旬報ベストテン4位。後に文部省の推薦映画に選ばれており、当時小学生だった人の中には、この映画を学校の校外学習で見たという人も多い。

テレビでは、1979年10月8日月曜日)にテレビ朝日系で『秋の特別ロードショー』(20:02 - 22:48[注 3][注 4])として放送された。ただし、これは短縮バージョンであった。予告編が2007年に『NHKスペシャル・石原裕次郎、没後20年〜裕さんへのラブレター〜』にて初めてテレビ公開された。また、予告編は『サライ』(小学館)の2007年8月16日号の特別付録DVDに『狂った果実』『太平洋ひとりぼっち』の予告編とともに収録されている。

生前の石原裕次郎自身が「こういった作品は映画館の大迫力の画面・音声で見て欲しい」と言い残したという理由から、長年ビデオソフト化されていなかった。しかし、2012年ごろまでは、当初は石原裕次郎が主張していた映画館などでのスクリーン上映もほとんど行われておらず、裕次郎13回忌など、石原プロが関係するイベントで散発的な上映に留まっており[注 5]、事実上封印作品のようになっていた。2013年1月頃から、ノーカット版の上映を行う映画館がいくつか現れている[18][19]。原作者の木本の地元である徳島県では、最後まで残った単独映画館の徳島ホールにおける最終演目に本作のノーカット完全版が選出され、当時のフィルムをそのまま用いて上映していた。

2012年1月の石原プロモーション新年会にて、石原プロモーション会長の石原まき子が、「東日本大震災復興支援を目的として、『黒部の太陽』を全国各所でスクリーン上映する」ことを発表した[20]。また、同年3月17日にはNHK BSプレミアムにて2時間20分の海外用短縮版がテレビ放送された。これは33年ぶりのテレビ放送であり、ハイビジョン放送は初のことである。石原プロモーション創立50周年を迎える2013年3月には、ポニーキャニオンよりBlu-rayDVDが発売された(詳しくは#ビデオグラムを参照)。

2014年3月8日、BS日テレにてテレビでは初めて「ノーカット完全版」が放送された[21]CMあり)。また同年12月20日にはCSチャンネルNECOにおいてもノーカット・CMなしで放送された。そして、石原プロの「解散式」[注 6]の約1か月半後の2021年3月1日には、NHK BSプレミアムでノーカット完全版が13:00 - 16:17にかけて放送されている。

スタッフロールで流れるキャスト一覧は、通常の主役脇役端役の順ではなく、五十音順に並んでいる。これは2009年のテレビドラマ版も同様である。

2018年4月8日には、朝日新聞出版から発売されているDVDマガジンシリーズ「DVDコレクション 石原裕次郎シアター」から本作が発売された。

なお、2021年時点で版権は石原プロモーションが所有している。

テレビドラマ版[編集]

1969年8月3日から10月12日(日曜21:30 - 22:26)に日本テレビ系列で放送された全11回の連続ドラマと、フジテレビ開局50周年記念ドラマとして2009年3月21日・22日の2夜連続放送のスペシャルドラマがある。

舞台劇・黒部の太陽[編集]

『黒部の太陽』の舞台となった関電トンネル開通50周年と映画上映40周年を記念して舞台化され、2008年10月6日から26日に梅田芸術劇場メインホールで公演された。

実際に関電トンネルの工事を担当した関西電力熊谷組が支援、映画を製作した石原プロモーション三船プロダクションが全面協力している。

主演は中村獅童神田正輝、出演は大地康雄勝野洋ベンガル月影瞳宮川一朗太石井智也妹尾和夫(特別出演)。

この舞台化には、梅田芸術劇場の岡田正行プロデューサーが石原プロ側を口説き落とし、ようやく実現させたという[25]。関連して、12月8日には梅田芸術劇場でオリジナル版映画がノーカットで上映された。完全ノーカットの劇場公開は40年ぶりと言われる。

舞台劇・龍の伝説[編集]

2003年5月19日から5月28日に、平成15年文学座3月公演として、『龍の伝説』が上演された。これは木本正次の『黒部の太陽』を原案として、文学座の座付き作家の得丸伸二が作・演出したものである[26]

漫画版[編集]

関連書籍[編集]

  • 木本正次『黒部の太陽 日本人の記録』毎日新聞社、1964年1月1日。ASIN B000JAEXIG 
    • 木本正次『黒部の太陽』信濃毎日新聞、1998年6月1日。ISBN 978-4-7840-9216-1  - 上記の文庫版。
    • 木本正次『黒部の太陽』(新装版)新潮社、2009年2月1日。ISBN 978-4103324027  - 上記の新装版。
  • 熊井啓『黒部の太陽 ミフネと裕次郎』新潮社、2005年2月19日。ISBN 978-4104746019 

ビデオグラム[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 石原慎太郎幻冬舎、1996年7月17日、216頁。ISBN 978-4877281199https://www.gentosha.co.jp/book/b116.html2021年3月1日閲覧。"慎太郎が映画会社に関西電力の影響力をちらつかして弟に「(関電の)連中は絶対に石原を見捨てはしないぞぐらいいわせるんだな」と激励してその通りの結果になったという。「となれば私は私でそこでのある責任を持たされ、うまくやれば日本のダリル・ザナックくらいにはなれたかも知れない」と自慢している。"。 
  2. ^ 2021年2月27日 18:00 - 21:00 NHK BSプレミアムにて放送された『ありがとう裕さん さらば石原軍団「日本人が最も愛した男 真実の物語」』より。同年1月の石原プロの「解散式」を受けた特集番組。2021年3月3日現在、再放送・NHK見逃し配信・NHKアーカイブス収録などの予定は一切未定。
  3. ^ 広島ホームテレビでは、プロ野球広島東洋カープ阪神タイガース中継を19:30 - 21:32に放送した関係で、21:38 - 翌0:52に繰り下げて放送した(途中『ANNニュースファイナル』『ANNスポーツニュース』を同時ネットで内包。直前の『一休さん』は後日に振り替え放送。出典:中国新聞、1979年10月8日、テレビ・ラジオ欄)。
  4. ^ ただし21:24 - 21:30は番組を一旦中断し、『ANNニュース』(20:54から繰り下げ)を放送した。なお開始時刻が20:02と半端なのは、通常は20時番組に内包され、同番組終了時に放送される番宣番組『ミニミニ招待席』(水曜は90分番組『水曜スペシャル』がある関係上、内包せず単独番組)を、この枠に独立して繰り上げたため。
  5. ^ 「その際も、海外公開用に2時間十数分程度に編集された1時間短縮バージョンを公開している」と監督した熊井などは話している[要出典]
  6. ^ 「2021年1月16日、石原プロ解散」と一般には報じられたが、この日は会社から商号看板を下ろして創業者・石原裕次郎の仏前に戻す「解散式」の行われた日で[22]、会社自体はまだ存続していた。俳優マネジメント業務は同年3月31日を以て終了[22]、その後は版権管理業務に専念し[23]、同年12月までに清算を行う予定である[24]。「石原プロモーション」参照。

出典[編集]

  1. ^ 土井栄回顧展へようこそ・著者・木本正次「黒部の太陽」「東京地底」”. 土井栄回顧展 公式ウェブサイト. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月1日閲覧。
  2. ^ 黒部の太陽 : 日本人の記録”. 国立国会図書館サーチ. 国立国会図書館 (2002年3月22日). 2021年3月1日閲覧。
  3. ^ 黒部の太陽”. 信毎の本 オンラインショップ(信濃毎日新聞社). 2021年3月1日閲覧。
  4. ^ 黒部の太陽”. 国立国会図書館サーチ. 国立国会図書館. 2021年3月1日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 「スクリーン ステージ 『企業タイアップ映画は起死回生薬?" ヤナギの下"狙う各社』」『週刊サンケイ』1968年8月26日号、産業経済新聞社、104頁。 
  6. ^ a b c d e f g h i j k 「テレビ・スクリーン・ステージ 裕次郎が『栄光への五千キロ』を準備中」『週刊朝日』1968年10月4日号、朝日新聞社、112頁。 
  7. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』キネマ旬報社〈キネマ旬報ムック〉、2012年5月17日、240頁。ISBN 978-4873767550 
  8. ^ a b c 「テレビ・スクリーン・ステージ 五社協定のワク外で盛んな"大物"の共演」『週刊朝日』1968年8月30日号、朝日新聞社、104頁。 
  9. ^ 吉原順平. “ショートフィルム再考-映画館の外の映像メディア史から・V(承前)”. 社団法人 映像文化製作者連盟. 2007年10月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年10月14日閲覧。
  10. ^ 松田美智子「三船敏郎の栄光とその破滅」『文藝春秋』2013年11月号、文藝春秋、2013年10月10日、ASIN B00FBKF8Y2 より。後に改訂され、松田美智子『サムライ 評伝 三船敏郎』文藝春秋、2014年1月9日。ISBN 978-4163900056 
  11. ^ 『レインボーマン ダイヤモンド・アイ コンドールマン大全』双葉社、2002年7月30日、157頁。ISBN 978-4575294422 
  12. ^ a b c d 「観客の目" 親方三菱"をきめこむ東宝の商魂」『週刊文春』1970年10月5日号、文藝春秋、24頁。 
  13. ^ 「スクリーン情報 愛人と一緒に本妻の墓参り」『週刊平凡』1970年7月9日号、平凡出版、53頁。 
  14. ^ 松岡功 (2016年6月21日). “松岡功(20)外部の力 百恵・友和コンビ誕生 ホリプロと組み「伊豆の踊子」”. 日本経済新聞 (日本経済新聞電子版). オリジナルの2019年2月17日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20190217201101/https://www.nikkei.com/article/DGKKZO03821270Q6A620C1BC8000/ 2022年10月29日閲覧。 
  15. ^ a b c “工藤監督が突如辞任 製作費で意見対立 宙に浮いた『超高層のあけぼの』”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 10. (1969年2月4日) 
  16. ^ 「〔ルックげいのう〕 映画製作に乗り出した鹿島建設」『週刊現代』1968年6月27日号、講談社、31頁。 
  17. ^ a b c 「〔タウン〕 前売百五十万と鹿島の組織票」『週刊新潮』1969年5月10日号、新潮社、15頁。 
  18. ^ 黒部の太陽 ノーカット完全版 2013年1月26日(土)〜2月28日(木)まで東劇にて特別公開”. 東劇 (2013年1月29日). 2014年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月3日閲覧。
  19. ^ シネマシティ|ニュース:石原裕次郎の“幻の名作”『黒部の太陽 完全版』を7月20日(土)より限定上映!”. シネマシティ (2017年7月24日). 2017年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月16日閲覧。
  20. ^ 映画「黒部の太陽」44年ぶり全国上映”. デイリースポーツオンライン (2012年1月6日). 2012年7月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月12日閲覧。
  21. ^ オンエア情報”. 石原プロモーション公式サイト. 石原プロモーション (2014年2月25日). 2021年3月1日閲覧。
  22. ^ a b サンスポ [1] 2021年1月16日「石原プロモーション 16日に解散 58年前に起業した日に看板下ろす」、2021年3月3日閲覧。
  23. ^ 東スポ 2020年7月17日「石原軍団が解散へ 石原プロは業務を縮小」、2021年3月3日閲覧。
  24. ^ サンスポ [2] 2021年1月17日「舘ひろし「寂しいな」裕次郎さんに看板送還…石原プロ58年の歴史に幕(2/2ページ)」、2021年3月3日閲覧。
  25. ^ 「黒部の太陽」舞台で復活…主演・獅童「情熱全開だ」:芸能:スポーツ報知”. スポーツ報知 (2008年2月18日). 2009年2月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年2月2日閲覧。
  26. ^ 2003年文学座公演『龍の伝説』”. 文学座 公式ウェブサイト. 株式会社文学座. 2021年3月1日閲覧。
  27. ^ 弓一人『黒部秘境物語破砕帯をぬけ』集英社〈集英社漫画文庫〉、1984年2月1日。ISBN 978-4086127325 

外部リンク[編集]